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「文系」と「理系」

最近、名古屋の放射能汚染について講演する機会がありました。災害と食についての講演会で、私は自分が経験した福島原発事故について数字とデータを示して 喋りました。降下物の量は行政機関が調べてネットで公開しています。汚染地図も多種流布しており、ネットから簡単に取ってこれます。今この瞬間にも豊橋は 名古屋の10倍、東京はその10倍の降下物を積もらせています。青空原子炉は未だに進行中です。私の講演を聞いたある講演者は私を「理系」人だと思い込ん だと後で教えてくれました。スライドの殆どが数字とグラフだったのでそう感じたようです。これには私が驚いてしまいました。

シンポジウムの講演者の専門は、歴史、社会学、文化人類学系統でした。ひとり農学の専門家がいて、福島に置ける稲作について汚染の実態について話しまし た。社会学者などを含め、現在の福島について喋った人のすべてが、日本の政府が設定した規制値である1キロあたり100ベクレルという数値を受け入れ、何 の疑問も呈していませんでした。その農学者の話を聴いていると、南相馬でも米1キロあたり20ベクレルほどの汚染が稀ではないという事実を再確認させられ てちょっと憂鬱な気がしたのですが、講演者本人は何も疑問に感じていないようでした。私などは、大気圏内核実験が華やかなりし頃でも食事1キロあたりセシ ウムで1ベクレルほどだったというデータを知っているので100ベクレルどころか20ベクレルでも受け入れがたいのですが、いわゆる「専門家」は政府の国 策に合わせないと研究費ももらえないのでしょう。私はそのような仕組みを知っているので、あえて質問したり、論争したりはしませんでした。大体、福島事故 以前では1キロ100ベクレルをちょっとでも超えるとドラム缶に入れて厳重に管理しなければならなかったのです。そのレベルの汚染物が食料として出回って いるということです。

驚きはある社会学者の発表でした。彼の結論は、汚染地に生活する人々の意識調査をすると、食料汚染について積極的に情報を取って注意している人々と、全く 無関心の人々に二分されるという結果が出たということでした。私のような、社会学者ではない非専門家からすれば、「それでどうなんだ」という反応しか出て 来ません。そんな結論を出すために、汚染地に赴いたり、インタビュー調査に時間を使ったりしているとは恐れ入ります。もう一人の文化人類学者は、福島で農 民が汚染地で農業を続けているのを調査し、農村のエコシステムは農民と自然との相互作用から作り出されるとか何とか抽象的な話をしていました。御苦労なこ とですわ、というのが私の偽らざる感想でした。

我々の研究対象は、社会や文化なのでそれに限定するからね、別に放射線医学とか核物理学とか捨象しても我々の研究は成り立つからね、と言わんばかりでし た。実際、前者の社会学者と個人的に話してみると食料には注意していると言いつつも、放射能について語る場合、レントゲンなどを持ち出すところから分かる ように、あまり知識がないようでした。外部被曝と内部被曝の違いについても無知でした。といってもICRPのドグマに合わせて内部被曝が大したことがない と認識しているのではなく、そのドグマに対抗する別のモデルを提出しているECRRの存在すら知らないくらいの知識レベルでした。私のような素人(社会学 者でない非専門家)に言わせれば、知的好奇心が足りないから、容易に研究対象を「社会」に限定することが出来るのね、専門家というのは楽なのね、という感 想しか出て来ません。

まあ、基本的に大学とはそういうところです。専門家集団の中では、偉いと思われていても、非専門家が見ればトリビアの垂れ流しにしか思えない研究が山ほど あります。もちろん、大学教員は馬鹿ではないので、人文学系の学問におけるトリビアの垂れ流しに陥る傾向について一抹の不安を感じていて、「方法論」や 「理論」を打ち立てようとする人もいます。そのような人は、現実や事実から遊離した極端に抽象的な議論を延々とすることに巧みで、専門家でも一読して訳が わからない文章を書く傾向が強く、ちょっと有名になると解説本が出る始末です。解説本を書いてキャリアを作る「研究者」もいます。自然科学では理論的なモ デルは数学を使って構築しますが、人文学の理論は数学が使えません。理論家自身が数学が出来ないし、仮に出来ても研究対象が容易な数学化を許しません(無 理にやろうとしている人もいますが、そういう人は論外です。単にアホだと思います。)そのような「理論」は私が属している「文学」の領域でもあるし、今回 のシンポジウムに参加して、社会学や文化人類学においてもそのような「理論」があるのがわかって興味深く聴いていました。一人の参加者は、ある理論家の理 論を適用しようとしているのだが、難しくてよくわからないんだ、と自分の専門領域の本音をぶっちゃけていました。正直で好感が持てました。私などは、その ような極端に抽象的な理論モデルは何も言っていないに等しいのだから、無視して、自分の頭で考えたほうがいいんじゃないの、と思いましたが、黙っていまし た。

「文系」と「理系」の話に戻ると、私には冒頭で述べたある参加者の反応は理解不能です。理解・発見のプロセスに理系も文系もありません。数字化が可能で必 要なら数字化するし、必要なければ数字化せず事象を正しく記述して論理的に考えるのみです。たまたま、福島事故以降出現した状況を正しく理解しようとすれ ば、数字を理解しなければならないという事態になっただけです。中学校の数学のテストで赤点をもらった人でも、ベクレルを理解できないと話しになりませ ん。福島事故によって被曝した人々の意識を調査研究する社会学者が、汚染を気にする人と無関心な人に二分されると結論づけるなら、その原因を探らないと いけないし、ひょっとしたら、無関心な人々は、ベクレル数を理解できないのかも、という仮説を立てる必要も出てくるでしょう。健康被害を経験している人で 経済的に余裕がある人は、もうすでに汚染地から出ているし、そうでない人で、出ようとしている人は数字を理解している可能性が高いでしょう。数字など興味 もないし、理解できない人の中でも、動物的な直感で飛び出した人もいました。ICRPのドグマにどっぷり浸かっているお医者さんはデタラメの数学モデルを 理解しているつもりでいるので、安全だと信じているのでしょう。「文系」「理系」という分類は大雑把すぎて何の理解の助けになりません。

(March 2014)


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