UIROT研9月例会のお知らせ

UIROT研11月例会のお知らせ

 

日時:11月26日(木)午後5時から
場所:名大情報文化学部棟第1会議室
発表者:別所良美氏(名古屋市立大学)
題:「『日本人として』謝罪する論理」



《発表者レジュメ》

 一九九五年の『群像』一月号に加藤典洋が「敗戦後論」を発表し、それに対する批判を高橋哲哉が同紙三月号の「汚辱の記憶をめぐって」で展開するというかたちで、いわゆる「歴史主体論争」は始まった。加藤は、敗戦後の日本人が背負っている「ねじれ」を超えることなしには、アジアの二千万の死者に対して本当の謝罪や哀悼を行なうことはできないと言う。他方で高橋によれば、戦後の「ねじれ」を克服する方策というのが、「日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじてアジアの二千万の死者の哀悼、死者への謝罪にいたる道は可能か」という問題設定に帰着するのであれば、それは結局「自己中心主義」になってしまう、と言う。つまり、他国の死者より先に自国の死者の弔い方を見いだすべきだという言い回しは、結局のところ、自国の兵士を英霊として靖国神社に祀るべしという右派の主張と見分けがつかなくなるというのである。
 論争をこのように要約すると、加藤は右派ナショナリストで、高橋は左派インターナショナリストということになるが、問題はもっと複雑だと思われる。実は、両者の位置関係が逆転する解釈も不可能ではない。高橋自身が、抑圧された民族のナショナリズムを認め、さらには謝罪する主体としての日本人に言及することにもなる。この一種紛糾した論争がきっかけとなって明らかになってきたのは、戦後日本の中でタブー視されてきた「日本人」のナショナリズムや愛国心というものを問い直す時期に来ていると言うことではないだろうか。
 その点で、上野千鶴子の『ナショナリズムとジェンダー』の一見明快な議論は、〈ナショナリズムは差異を抑圧するカテゴリーだからいけません〉と言うに等しく、ナショナリズムという問題を簡単に乗り越え得ると思いこませる危険性をはらんでいると思われる。

《事務室より》



UIRTOT研及び例会に関する問い合わせは
e43479a@nucc.cc.nagoya-u.ac.jp