日本比較文学会中部支部  
第20回中部大会



【研究発表】


1) Ulysses にみるOrientalism
  南山大学大学院博士後期課程 山田幸代


 James Joyceの小説 Ulysses (1922)には、実に多くの Orient(The East、東洋)に関する表象が散在している。それらの特徴としては、まず書物などから引用された間接的なイメージが多いことが挙げられるだろう。西洋におけるこの東洋の間接性は、確かに Edward W. Said の提唱したオリエンタリズムの特徴の一つでもある。しかしこの小説に描かれているこれらの表象には、サイードが指摘したオリエンタリズムと趣を異にしているところがある。例えば第15挿話 "Circe" では、オリエントなイメージの過剰な産出/氾濫によって読者はオリエンタリズムという現象そのものを意識させられることになる。さらに最終挿話 "Penelope" では「女性化された東洋」というイメージが、意図的に利用されている様子を見ることができる。本発表では『ユリシーズ』における様々なオリエントの表象を見ながら、そこに Joyce 的観点によるモダニズム、およびコスモポリタニズムが反映されていることを論証していく予定である。



2) ウィリアム・モリスのヴィジョン形成と北フランスの旅
  名古屋工業大学 藤岡 伸子


 ウィリアム・モリスとはいったい何者なのか。この問いに、今もって誰も的確な答えをすることができないでいる。まず、その活動のあまりの多彩さから、彼を一つの定義で言い表すことの絶対的な困難さがあり、そこに「デザイナーとして」のモリスや、「詩人として」のモリスという限定付きのモリス評釈が始まる。そこから、様々なモリスの側面がつまびらかにされてきたことは事実である。しかし、そうした成果の集積は、今もって有機的なモリス像を彷彿させることに繋がってはいないように思われる。詩人であり、デザイナーであり、また社会変革家であること−−そのどれをも放棄することなく追い求め続けたモリスの根底にあったものの本質を明らかにする作業が必要なのである。今回の発表は、彼のヴィジョン形成の原点であるオックスフォード大学時代の北フランスへの旅を取り上げ、ラスキン崇拝を始めとするさまざまな影響の中から、ゴシック建築との対峙の中で自らの原点を発見する過程を見ながらモリスの核に近づこうとするものである。




【シンポジウム】

20世紀ポピュラー音楽の言葉―その文学的および社会的文脈の解明―

 20世紀に飛躍的な発展を遂げたポピュラー音楽は、社会的注目度はかなり高いものの、既存の文化的カノンに縛られて、一般には芸術としてよりも娯楽や産業の観点から語られることが多い。しかし、その歌詞は、一方で、「高級文化」に属する諸テクスト(文学・哲学・宗教など)と相互浸透し、他方、特定の時代や集団の記憶、政治的・社会的意識とネットワークを築いている。シンポジウムでは、アメリカ・イギリス・ドイツ・フランスの代表的なポピュラー歌手の歌を中心対象にして、ポピュラー音楽の言葉にかかるこのようなテクスト連関性を解明したい。



エンリコ・マシアス、あるいはアラブ=ユダヤ共生神話
名古屋大学 田所光男


 エンリコ・マシアスは、フランスの植民地下のアルジェリア・コンスタンチーヌに生まれ育ったユダヤ人であり、アルジェリアの独立に伴って本国フランスに「帰還」したピエ・ノワールと呼ばれる移住者の一人である。マシアスは、はじめそのピエ・ノワールに支持され、次第にファン層を広げ、フランスはもとより、日本を含め世界中で人気を博すに至ったが、その歌には、故国アルジェリアや、余儀なくされた移住を題材にしたものも少なくなく、ピエ・ノワールは一貫してマシアスを支えてきた。また一方で、マシアスはイラエル支援を積極的に行い、彼の周囲には、賞賛と拒否のかなり激しい衝突が見られる。
 アラブ・ムスリムとユダヤ人の対立が激化する中、マシアスは、最近のアルバム『橙』などでアラブ=ユダヤの幸福な共生を歌っている。その歌に込められたメッセージを、アラブ世界や西欧世界の一部に根強いアラブ=ユダヤ共生言説の中に位置づけて、検討してみたい。


ボブ・ディランの歌詞に見る引用(または盗用)
名古屋大学 長畑明利


 2001年9月11日に発売されたボブ・ディランの43枚目のアルバム Love & Theft に、佐賀純一『浅草博徒一代記』の英訳 Confessions of a Yakuza (1995) からの無断引用がなされていたことは、ディランのファンと研究者にはよく知られている。このアルバムに限らず、ディランの歌には多くの引用と借用が見られるが、それは何を物語るのだろうか。本発表では、これをディランの境界侵犯の衝動と、その背後に隠れる変身願望に結びつけて考えてみたい。無名時代のディランが様々なジャンルの歌手を模倣したことはよく知られているし、1961年のレコード・デビュー以来、彼がその作風を二転三転させたことも有名な事実である。ブルースやカントリーなど、特定の人種・地域・社会階層と結びつけられるジャンルへの境界侵犯は、ディランにとって根元的な衝動であり、自由な引用(または盗用)はその衝動の表れなのではなかろうか。引用(または盗用)の諸相を紹介しつつ、そこに見え隠れする変身願望の意味について考察してみたい。


ユビキタス・ミュージックの行方
名古屋大学 布施哲


 ポピュラー音楽にとって、録音/複製装置は、何十万、何百万、あるいは何千万という人々に一挙に楽曲を提供するための重要な物質的基盤であった。しかし、そうした録音/複製装置をとりまく環境は、21世紀に入って劇的な変貌を遂げた。その最大の特徴は、複製技術そのものの複製可能性である。端的には、パーソナルコンピュータの普及が、デジタル音楽のきわめて精度の高い複製技術それ自体を大衆に手渡すことになったのだ。
 そのような状況のなか、歌詞カードとともに小奇麗な絵や写真で飾られたパッケージによって“質感”を与えられてきたかつてのレコード盤や現在のCD盤は、製品/モノとしてのリアリティを徐々に失い、抽象的な聴覚情報へと還元されつつある。こうした製品/モノの希薄化という現象は、ポピュラー音楽を“本来の”純粋な音楽サービスへと純化させたり、あるいは詩に込められたメッセージ性や思想を前景化・先鋭化させたりすることにつながるのだろうか。それとも、それはフェティッシュな対象性の喪失のゆえに、これまでのような華々しいポピュラリティを失わせる最初の兆候となるのか。デジタル音楽の技術的な特徴ならびに晩期資本主義社会の思想的背景を踏まえつつ、21世紀のポピュラー音楽のゆくえについて若干の考察をしたい。


「無-意味な」言葉の戯れ − ローレン・ニュートンとエルンスト・ヤンドルのコラボレーションをめぐって
名古屋大学 藤井たぎる


 複製技術の発展は、あらゆる音楽を等しく「製品化」することに成功したと言えるだろう。音楽はその出自に応じて、ポピュラーとクラシックという二つのジャンルに分けられるとしても、クラシック音楽に芸術的価値なるものがいまだに見出されるわけではない。音楽を「芸術」の名の下に序列化するにせよ、音楽を「製品」とみなすにせよ、いずれにおいてもそこには音楽のもつ質感(質量性)など語るに値しないものという暗黙の了解が、存在しているように思われる。つまり、重要なのは音楽の中身(コンテンツ)だというわけである。しかしこの「語るに値しないもの」こそ、じつは詩と音楽について唯一語るに値するものなのではないだろうか。ドイツ在住のジャズ歌手ローレン・ニュートン(オレゴン州出身)とオーストリアの詩人エルンスト・ヤンドルのコラボレーションを例に、いま音楽について語るべきこととはなにかを検討してみたい。

 

(2005.11.3)