「もう一人の自分」を育ててみよう

長畑 明利 

1.

高校の頃から英語は私の好きな科目だった。授業も割合真面目にやった。元々文学志向が強く、英米の小説をもっと読みたいと思っていたことが英語への関心の根幹にはあったろうが、同時に、当時は、中学、高校生ぐらいになると英米のフォーク、ロック等(いわゆる「洋楽」ってヤツ)を聞いたり、演奏したりすることが一つの流行となっていて、そんな流行に刺激されたことも大きかったと思う。The Beatles、Simon & Garfunkel、Bob Dylan、The Band、CSN&Y、James Taylor、Joni Mitchell などをよく聞いた。ブリティッシュよりもアメリカン・ロックの方が好きで、革のブーツを履いて、上下をデニムで固め、アコースティック・ギターをかきならして声を張り上げるスタイルに、今となっては気恥ずかしいような憧れを覚えたものだった。もっとも、The Beatles も S & G も私が聞き出したときにはもう解散した後だったから、彼らのレコード(当時は当然CDなんてものはなかった)のほとんどをリアルタイムで聞いたわけではなかったが、そんなレコードをちょっと遅れて聞くことは、当時すでに伝説化していた60年代の興奮を、どこか醒めた熱狂とでも言うべきものとともに、疑似体験させてくれたのだろう。
 私の文学志向もこうした音楽上の趣味とどこかで結びついていたように思う。60年代のミュージシャンたちが歌う、学校にも社会にも背を向けて、髪を伸ばし、髭をはやし、擦り切れたジーンズを引きずるようにはいて、街から街へと旅を続けるヒッピーたちの世界同様、アメリカの小説家たちが描く、ヒッチハイク、流浪、無賃乗車の旅、文明世界から離れての自然との交歓といった世界は、地方都市の持つ狭く、味気ない(と当時は思われた)日常性の空間から自分を刹那的に解放してくれる貴重な時間を提供してくれた。おそらく手に入りやすかったためだろう、そんな私の感傷に答えるべく、Hemingway の Nick Adams 物語は私の青春の書として選ばれ、傷心のニックになりかわって、焼けこげたバッタの跳ねる荒野を一人旅することを夢想した。
 大学を卒業するまでには、そんな生き方そのものが時代遅れになってしまっていた。The Bee Gees のディスコへの転向とともに、時代は軽さとノリの良さを志向し始めていた。好きだった Neil Young も変わってしまった。私自身の心の中では、今でもかつてのアメリカンウェイに対する憧憬は生きているが、それでも次第に、そうした一人よがりの憧憬と、どうやら実在しているらしい本当の「自分」というものとの間の乖離に気づくようになった。髪を伸ばしたり、髭をはやしたりしてもどうせサマにはならないだろうし、また街から街への流浪人生というのも実際にやるのはシンドイだろうなと思い始めた。そして英語会話の授業中に、アメリカ人、イギリス人の先生としどろもどろで話さなければならない自分の姿は、それまでに自分に与えていた自己イメージを打ち砕くのに十分だった。人は成長の過程で、自分に何らかの理想化されたイメージをかぶせがちなものだが、長い時間をかけて、どのイメージが自分にふさわしいか、あるいはどんなイメージが自分には無理があるかを知るようになるのだろう。
 その後、ほんの1年ばかり実際にアメリカで暮らす機会があった。私は New York 州の州都 Albany (アルバニーではなくオールバニー)に住んだが、ここは治安も比較的よく、近くには美しい自然もまだ残っている住みやすいところだった。ここでの滞在生活でいろいろなことを学んだが、その一つは、自分が決定的に日本人であるということだった。アメリカ的な習慣というものはある程度勉強したつもりだったが、それでも、生まれてから身についた癖、思考経路といったものは変わるはずもなく、いろいろなことで、「ああ違うな」と感じざるを得なかった。
 もっとも、幸いにして私の知り合った人たちはいかにもアメリカ的な善男善女で、外国人であるからといって、変な差別意識を持つようなことはなかった。先住民であるインディアンと強制的に連れてこられた黒人奴隷の末裔を除いたらみな移民の子孫なのだから、アメリカ人は「違い」には慣れているはずだ。いわゆる白人、黒人、ユダヤ人、東洋人との間での互いに対する反感、軽蔑心が感じられることもなかったわけではないが、まともな人たちは、総じて「違い」を越えた、人間としての抽象的共通性とでもいうものに基づいて接してくれたように思う。
 しかし、今から考えてみると、アメリカでの私の存在には常に二重性がつきまとっていたように思う。すなわち、アメリカ人たちが接している「日本語訛のある英語を話し、習慣上の違いをさらけ出している一人の人間である私」と「おそらく表面には現れ出てこない日本人としての私」という2種類の「私」の存在である。私に接していたアメリカ人たちはこんなことを考えていたのかもしれない、「この男は、この国で、英語を話しつつ生活しているときには、時にぶざまなことをしでかしたり、言葉がつかえたりしているが、本国に帰れば、習慣から逸脱することもなく、言葉がつかえたりすることもなく、まっとうに生活しているに違いない」と。それは私たちが、日本で生活する外国人と日本語で話していて、突然彼らが同国人どうしで、母国語を使って話し出すときに感じるあの感じからも想像のつくことだ。私たちはそんなときに思うだろう、「ああ、母国語を話しているときのこの人たちは、日本語を話しているときのこの人たちとは全く違うのだ」と。

 

2.

外国語を用いて外国人と接するとき、人はおそらく日本語を話しているときの自分とは別の自分が存在することに気づかされるだろう。文法はでたらめ、発音はムチャクチャの英語(あるいは別の外国語でもいいが)を話す人は、英語を母国語とする人たちの前では、そのような人としての自分をさらけ出していることになるだろうし、一方、英語を一生懸命練習して会話に自信がついた人でも、それが外国語としての英語である限り(ということは、母国語としての日本語を話す自分が存在する限り)、日本語を話す自分とは別の自分を見せていることになるのだろう。たとえば、びっくりしたときに、「なんてこった!」と言う自分と、 "Oh, my God!" と言う自分。食事の前に「いただきます」と言う自分と、何を言っていいかわからずどぎまぎする自分。
 だが「表面上の自分」と「本当の自分」という二つの自分、すなわち「外国語を話しているときの自分」と「母国語を話しているときの自分」という二つの自分のうち、「表面上の自分」、「外国語を話しているときの自分」は偽物なのだという考えを私はとらない。むしろ、「母国語としての日本語を話しているときの自分」も「カタコトで外国語を話しているときの自分」もどちらも「自分」の一面に過ぎない、と思う。英語を話しているときも、「私」は、「母国語として日本語を話すが、英語はカタコトで話す人」なのだ。もしかしたら、「私」は「日本語を母国語とし、英語は日本の小学校3年生が習うことぐらいまでは表現でき、フランス語は辞書をひきひき簡単な物語が読め、中国語は簡単な挨拶しかできず、ペルシャ語、スワヒリ語、ナヴァホ語等々は皆目分からない人」なのかもしれない。しかしいずれにしても、外国において、外国語を話すとき、私は相手に対し、「その外国語を話す、あるいは話さない自分」しか見せることができないのだし、その自分は「偽物」で、本当の自分は残念ながらお見せできないという言い訳を私はしたくない。(もちろん、日本にいるときには、日本語を話す自分を見せればいい。)
 二人の自分がいる。そのどちらもがやはり自分だ。一方は大学生で、もう一方は幼稚園児かもしれない。「母国語である日本語を話す自分」に対して「英語を話すときの自分」が幼稚園児並だったら、英語を話しているとき、自分は幼稚園児に見えるということだ。たしかに、言葉使いは幼稚園児であっても、数学の分かる幼稚園児、あるいは仏教美術がわかる幼稚園児であることは可能だ。また表面上は「幼稚園児のような人」の背後に隠されている「数学、あるいは仏教美術がわかる人」の存在に気づいてくれるアメリカ人(たとえば)もいるかもしれない。けれども「幼稚園児」の表現レベルから脱却することだってできるはずだ。私は諸君たちに、「幼稚園児のような自分」を、「もう一人の自分」を成長させてみてはどうかと言いたい。その「もう一人の自分」は、「本当の自分」を(ある程度までは)伝えてくれるのだし、またもしかしたら「本当の自分」に対する新たな視点を提供してくれるかもしれない。(二人の「自分」の葛藤は無駄ではない。)
 「もう一人の自分」を育ててみよう。だがそれは、例えばアメリカ人そっくりに行動する自分を育てよう、びっくりしたら必ず "Oh, my God!" と言おうということではない。「もう一人の自分」は所詮日本語訛のある「自分」なのだろうし、また育てる際に「Pat Morita 風の自分」を目指しても、「Hiroko Grace 風の自分」を目指しても構わない。「もう一人の自分」をどんな人に育てるかは自由だ。(国によっては「もう一人の自分」に John とか Jane といった新しい名前をつけて育てているところもある。もっとも、授業で出席をとっていて、たとえばヒロシ君が突然 "I'm Paul" と言ってきたらびっくりするだろうけれど。)

 

3.

諸君にはこれから少なくとも4年間は、それぞれの「もう一人の自分」を育てる時間がある。けれども「もう一人の自分」の育成は結構大変だ。こんなことも覚えておいて欲しい。

(1) 「もう一人の自分」の育成には時間がかかる。集中的に訓練しても、その効果が出るのは2年後、3年後ということはざらだ。気長に、けれども継続的に育ててやろう。

(2) 「もう一人の自分」の育成にとって無駄なことはない。映画、テレビ、ラジオなどいろんなものを活用しよう。また「もう一人の自分」は、たんに話し、聞くだけのヒトではない。読んだり、書いたりもする。だから、ものを読むことをおろそかにしてはいけない。実際聞いたり、話したりするときには、読書経験が大きくものを言う。

(3) 「もう一人の自分」の育成のためには貪欲になりたい。受験勉強から解放されると、それまで頭の中に詰め込んできたことを皆忘れてしまうということがよく起こる。受験の年の2月、3月に「もう一人の自分」は一番成長していて、大学入学後早くも衰弱してしまうなどということがよくある。「もう一人の自分」にはつねに栄養を与えよう。衰弱したら栄養を普及してやろう。

(4) 「もう一人の自分」を早く中学校に入れよう。諸君の「もう一人の自分」は、今のところ幼稚園児、せいぜい小学校低学年程度なのかもしれない。(あるいはそれ以下?)小学生だってかなりのことを知っているものだ。かくれんぼ(いまどきしない?)だってできるし、おたまじゃくしが蛙になることだって言える。風邪をひいたときは、医者に頭が痛いかどうか、熱は何度あるかだって言うことができるはずだ。諸君の場合、その一方で、三角関数やら世界史やらの知識もあるのだからちょっと複雑だが、まずは「もう一人の自分」を立派な中学生にしてやろう。

(5) 「日本語を話すときの自分」の趣味を教えてやろう。「もう一人の自分」に、たとえばオートバイのこと、車のこと、コンピューター・ゲームのこと、音楽のこと、本のことなどを教えてやろう。「日本語を話すときの自分」が好きなことは、「もう一人の自分」も気に入るはずだ。

(6) 「もう一人の自分」を育てる際に、「日本語を話すときの自分」にも刺激を与えてやろう。「もう一人の自分」が読んだり、聞いたりすることから、「日本語を話すときの自分」もいろいろなことを学ぶことができるはずだ。こちらはもう大学生なのだから、相当高度な知識を蓄えることができるはずだ。

 

4.

大学生活なんて長く見えて短いものだ。君たちが卒業するまでに、世界ががらっと変わっているかもしれない。ある意味で「保護者」でもある君たちは、そのときまでに、一体どんな「もう一人の自分」を育てていることだろう?卒業の時、君たちが連れている「もう一人の自分」はどんな人だろう?

(1992年4月)