反復と両義性―― Mary 再考*

中田 晶子

Vladimir Nabokov (1899-1977) の Mary (1970, ロシア語版 Mashen'ka, 1926) は初めての長編小説でありながら、英語圏の読者にとっては Nabokov の 12 番目の小説として、後期の凝りに凝った Ada の翌年に現れることになった。当然予想されることであるが、地味な自伝的処女作という扱いを受け、60 年代に英語版の出た The GiftThe Defense ほどの反響もよばなかった (Boyd, The American Years 654-55) 。こうした状況はその後 20 年近く大きく変わるものではなかったが、メタフィクション作家としての Nabokov への興味が薄らいできた 80 年代の終わり頃から、この作品は本格的に読まれ始めた感がある。Brian Boyd によって Nabokov の伝記的事実が詳かにされたことや、80 年代の後半から Nabokov 作品の刊行が認められたロシアでの研究が盛んになったことが読み直しへの刺激になってのことと思われる1

欧米の批評では、主人公 Ganin の性格、特に他者との関わり方に批判的な分析が行われたのが大きな成果といえよう。たとえば Leona Toker は Ganin の周囲の人間に対する利己的な無関心を批判している (37-42) し、Julian Connolly は Ganin を他者との現実的な関係を持ち得ずに、理想化されたイメージを他者に投影する者と考えている (34-36) 。作中人物としての Mary に対しても批判的な見方がなされるようになった2。これらは主として登場人物としての彼らに焦点をおいた批評であるが、Ganin の回想の中心としての Mary の扱いにはさほど大きな違いが見られない。Mary が Ganin の満たされない憧憬の実体化、過去の再現という形をとっての憧憬の実現であり、彼を未来と新しい出発に旅立たせる (Hyde 39) とする伝統的な解釈は現在でも有効であろう。作中人物としての Mary にどのような欠点が見られようとも、彼女が Ganin の記憶の中心であり、Mary をめぐる回想の体験によって Ganin がある種の成熟をとげ、それによって新たな出発をする力を得たということは現在でもやはり否定しがたい。しかし回想の体験を経て成熟したはずの Ganin はやはり現実の他者を無視しているし、彼の新しい出発がどこに向かうものかを断定することは難しい。このような留保つきの Bildungsroman は一体何をめざしているのであろうか。

本稿で問題にしたいのは、登場人物としての彼らよりも、小説の現在時間のMary と回想の中の Mary の存在であり、Ganin の回想と覚醒の意味である。それらの検証をとおして小説の中で繰り返される反復とそこから生まれる両義性を明らかにしたいと考える。

 

Mary の存在証明

Mary は、実際には小説の中に一度も登場せずにただ主人公 Ganin の記憶の中に登場するだけの、あるいは他の登場人物に語られるだけの存在である。英語版では、他の登場人物と同じロシア人であるにもかかわらず不自然にもただ一人英語名を与えられ、しかもそれが Mary という聖母あるいは母なるロシアを暗示する女性名である (Field 128) ことからも明らかであるように、 Mary は一度も作品の中に実際には登場しないことによって特権的な地位を占めている3。Ganin が記憶を再構築する 4 日の間に彼の現実の世界と記憶の世界が反転し、彼は記憶の世界の中で生きることになる。その時 Mary の存在は Ganinによって失われたロシア、青春時代と同一視され、彼の世界に、つまりこの小説の中に Mary は偏在することになる。

一方、小説の現在時には、Mary は名前と写真、手紙などの小道具によってのみ登場する。冒頭に Alfyorov 夫人として名前が出てくるが、Ganin は反応を示さないし、同じ場面の手紙にしても故障したエレベータの暗闇の中でのことであるため、筆跡を見ることができない。2 章の終わりで Ganin は Mary の写真を見るが、語り手はその写真について言及しない。Mary の存在の物質的証拠となり得る写真は 4 章で Alfyorov の不在の時に再び Ganin によって眺められるが、その時にも彼が写真に見たものが描写されることはない。この場面で Ganin の見た写真が本当に Mary のものだったのかどうか断定できないことや筆跡もわからないことから、Alfyorov 夫人のアイデンティティに曖昧さがあると Toker は論じている。それらの曖昧さは、Alfyorov 夫人が誰であってもかつて Ganin の愛した Mary 自身ではあり得ないことを暗示し、最後に Ganin が Mary に会わない選択をすることを審美的観点からは正当化するという (Toker 44) 。しかし 7 章では Ganin の記憶どおりの Mary がその写真に写っていることを彼の言葉から間接的に確認できるので、Mary が Alfyorov 夫人であることはやはり疑い得ないであろう。写真、筆跡の描写が故意に避けられていることはこの小説の仕掛けの一つであり、最後まで Mary が登場しないことへの伏線ともなっている。そのかぎりでは Mary は隠されながらもあるいは隠されることによってこそ顕在的な存在であり、その存在に曖昧さはないといえる。だが、このような語りの仕掛けはそれだけにとどまらず、以下で考える Mary を取り囲む語りの曖昧さにつながるものでもある。

 

Mary の始まりと終わり

現実世界の Mary だけではなく、圧倒的な存在感を誇るはずの Ganin の記憶の中の Mary も奇妙に曖昧な登場の仕方をする。Ganin の回想はその不自然さが指摘されるほど (Boyd, The Russian Years 249) クロノロジカルに明晰に蘇っている。それも当然で、Ganin は記憶の蘇るままにまかせているのではなく、自分の思うままに意図的に記憶を蘇らせているからである。

He was a god, re-creating a world that had perished. Gradually he resurrected that world, to please the girl whom he did not dare to place in it until it was absolutely complete. . . . in the end he must resurrect her too--and he intentionally thrust away her image, as he wanted to approach it gradually, step by step, just as he had done nine years before. (33)

ところがその一方で、Ganin は初めて Mary に会った時を特定できない4

Strange to say he could not remember exactly when he had first seen her. Perhaps at a charity concert staged in a barn on the border of his parents' estate. Perhaps though, he had caught a glimpse of her even before that. Her laugh, her soft features, her dark complexion and the big bow in her hair were all somehow familiar to him when a student medical orderly. . . had told him about this fifteen-year-old “sweet and remarkable” girl, as the student had put it--but that conversation had taken place before the concert. . . . Now, many years later, he felt that their imaginary meeting and the meeting which took place in reality had blended and merged imperceptibly into one another, since as a living person she was only an uninterrupted continuation of the image which had foreshadowed her. (44)

この記述は、Speak, Memory の 12 章で Mary のモデルとなった 10 代の恋人Tamara を樺の林の中に初めて見る鮮やかな回想の場面と比べると驚くべきものがある。Mary の登場に関するこの曖昧さは、物語の上では Ganin の記憶の不確かさにもとづくものであるものの、むしろ語りのレトリックから作り出されているという印象を受ける。ここではまだ Ganin と語り手の間に後述するような距離は感じられないにしろ、意図的に錯綜させた感のあるパラグラフでは、Mary を初めて知った状況がいくつか語られ、最後に彼女自身が彼女の前触れとなったイメージの連続にすぎないのだと結論づけられる。チフスの回復期に少年の Ganin が未知の少女について抱いた予感についての描写も同じことを述べている。“It was after all simply a boyish premonition, a delicious mist, but Ganin now felt that never had such a premonition been so completely fulfilled.”(33)。Mary は今ベルリンにいる Ganin の記憶の中のイメージであるだけではなく、9 年前の現実の恋愛においても彼が抱いていたイメージの連続体であり、予感の実現であったと語られている。ベルリンで Ganin は「消え去った世界を再創造する神」となって周囲の記憶を整えた中に Mary を呼び出すが、その行為は 9 年前におこなったことをより完全に行っているにすぎないことになる。このような意図的な回想は、記憶と芸術を等しいものとするNabokov の主張“The act of retention is the act of art, artistic selection, artistic blending, artistic re-combination of actual events.”(Strong Opinions 186) の実践であるように見えるし、そこに作家の創作行為を重ねて見る(Connolly 38、Zimmer 355) ことは自然だろう。

もちろん 9 年前の恋愛は彼の夢想ではなく現実であり、本来 Mary は Ganinの創造物ではない。しかし現在のベルリンでも過去のロシアの避暑地でも、Ganin の Mary を想起する行為は、未来と過去という方向の違いはあっても、同じものである。Mary と知り合うことは絶対にないだろうと考えながら夜鶯の声を待っていた時、そして Mary の記憶を生きたベルリンの 4 日間、それぞれ「全人生で最高のもっとも貴重な時」(47) 「おそらく人生でもっとも幸福だった 4 日間」(114) と語られる二つの特権的な時間は、未来と過去に向かった一組の憧憬の記憶として相似形をなしている。Ganin の記憶の中の Mary の始まりの曖昧さが指し示すものは、Ganin の記憶の頼りなさであると同時に、回想の対象となるファンタジーに対する Ganin の主体としての優位性であろう。彼の回想は確固として存在するものを再発見、あるいは再現しているのではなく、想起する行為によって記憶を創り出し、あるいは豊かさを与えている。

彼らの幸福な恋愛の期間は、みずみずしい数々のイメージで満たされているが、「ずいぶんありふれていますね。楽しき16歳、森の中の恋――」(42) とPodtyagin に揶揄されるような面がないわけではない。彼らの「森の中の恋」が平凡なままに終わらないのは、そこに含まれる未来回想のイメージ、またその後に続く不自由な恋愛時代における回想によって豊かになっていくからではないだろうか。初めの年の秋以降の彼らの恋愛は、幸福だった時間の回顧と未来への夢想で満たされていたと言ってよい。その年のぺテルブルグでの冬は二方向の憧憬に費やされる。“So they roamed all winter, reminiscing about the countryside, dreaming of next summer, . . .” (71). この期間の恋愛は Ganin にとってはむしろ苦行に近いものであり、Mary が去ると解放感にひたっている。Ganin の回想はベルリンで始まるわけではない。

翌年夏の別荘地でのただ一度のデートで「Ganin はこれまでになかったほど激しく彼女を愛し、また永久に――とその時には思われた――彼女を愛することをやめ」(72) ることになる。Ganin は突然「すべては終わり」「もはや Mary に魅かれることはない」と「決め」(73) 、その後二人の交際は途絶える。半年後偶然出会った Mary を最後に見送りながら Ganin には「決して忘れられないということが、彼女が遠ざかるにつれて、より明確になってくる」(75) 。語り手の語る Ganin のこれらの気持ちは、必ずしも読者に納得のいくものではない。最後のデートでの「決断」は不自然な印象を与えるし、この場面でそれまでになかったほど Mary を愛したようにも感じられない。最後の別離の時に感じた「決して忘れられない」という予感も実際には当たらなかったことが、回想の途中の Ganin の感慨で明らかになる。彼は「これまで何年も Mary のことを考えずにどうして生きてくることができたのかといぶかる」(60) のであるから。

Mary との本当の決別はいったいいつおこなわれるのか。初めて Mary に会ったのがいつなのか Ganin 自身にはっきりわからないように、Ganin の恋愛がいつ終わったのか、実はこれも明確ではない。駅での別れの時に Ganin は永久に Mary を忘れないと考えるが、直後列車の中で既視感におそわれ、「これはすべて過去に起きたことだ」(75) と考える。ここで Ganin が列車の窓から見る風景は、6 章で Mary と知り合いになる前に彼が見た印象的な夕暮れの風景を思わせる。さらにこの「過去に起きたこと」とは、Nabokov 自身の記憶の中にあることか、 あるいはそれまでの数え切れない Mary との別離を示している (Sicker 268) のではないだろうか5。確かに彼らは幾度も別れを経験している。初めての夏のデートの度に長い別れになるかのように惜しまれる別れを初めとして、Ganin が先に別荘地を発った時、Mary がペテルブルグからモスクワに発った時、二度目の夏のデートの時、最後に会った時、そしてこれは時間的にかなり後になるが、Ganin がロシアを永久に離れる時のそれぞれの別れ。小説の最後で Ganin が Mary との恋の終わりに気づく時にこそおそらく最終的に完全な決別が行われるわけだが、それはまた何度も繰り返された別離の最後の反復にすぎないとも考えられる。記憶の中の Mary はその存在の初めと終わりが複数のあり得る場面の中に霞んでしまう。彼らの幸福な恋愛期間が、当時の回想の中でこそ豊かなものになってゆくように、Mary の存在の曖昧な部分はそれゆえに逆説的にその存在を特権化する。同時にそこでは常に Ganin が回想の行為の主体として示威されることにもなる。

 

手紙

13 章は、Mary との別離の後に彼女から届いた手紙を Ganin が読み返すことに費やされる。Ganin が駅で Mary と別れてからも二人の間には交信があったことをここで私達は知ることになる。これら5通の手紙を持ち歩きながら、Ganin が Mary のことを完全に忘れていたということも不自然に思われるが、さらに不可解なことは、これらの手紙を読むことにより Ganin が現在時のMary の愛を確信することである。“He stood motionless, preoccupied with secret, delicious thoughts. He had no doubt that Mary still loved him” (93).彼のこの確信は 14 章のパーティの席でも繰り返される。“. . . Ganin thought, 'What happiness! Tomorrow--no, it's today, it's already past midnight. Mary cannot have changed since then, her Tartar eyes still burn and smile just as they did.' He would take her away, he would work tirelessly for her. Tomorrow all his youth, his Russia, was coming back to him again” (102). 実際にこれらの手紙から知り得ることは、手紙が書かれた 7 年前にすでに Maryの Ganin への愛はかなり揺らいでいたということである。当時の Mary にはすでに Alfyorov らしき人物がいて、彼女が Ganin に対して後ろめたい気持ちを抱いていること、しかしまだ Ganin には未練があるらしいこと、を手紙から読み取るには特別に慧眼な読者である必要はない。最も率直に愛情を語った最後の手紙は、情熱的な Ganin の手紙への返信として書かれたものらしいが、それにしても決して彼の考えているような手放しに積極的なラブレターではない。Mary からの 4 通の手紙に情熱的な手紙を書き送ったことから、不思議なことに当時も Ganin がそのことに気づいていなかったらしいことがわかる。7 年後の Ganin も Mary からの手紙の中の「幸福」という言葉を繰り返し、彼女への思いにひたり、途中で読むのをやめてしまう。そして彼のその幸福感は翌朝の覚醒の時まで持続する。

これらの手紙は二人の恋愛の終わりに対してさらなる引き延ばしの効果を持っている。彼らの恋愛が本当はどこで終わったのか、私達にはますます断定しがたい。Ganin の幸福感とは裏腹に、これらの手紙でも Mary は彼との未来に希望を持つよりもむしろ最初の年の恋愛を愛惜しているように思われる。

13 章であらためて明らかになるのは、Ganin の読みの強引さとそれに比例する Mary の弱さである。Mary は、不在でありながらその存在感で他を圧倒するヒロインではない。登場人物の記憶の中にのみありながら彼ら以上の存在感を持つヒロインの例として Daphne du Maurier の Rebecca の同名のヒロインがあげられよう。もう一人のヒロインである語り手はファーストネームすら与えられていないのに、Rebecca という前妻の名前は彼女の周囲に繰り返し現れ、語り手を呪縛する。Alfred Hitchcock の同名の映画化作品 (1940) ではその効果がより巧みに用いられ、一度も画面に登場しない Rebecca が作品空間に偏在し、生前のみならず死後もますます力を得てすべての登場人物を支配する。このような不在でありながら支配する女、不可視の fatal woman からは Mary は遠く、呪縛するヒロインにふさわしい強さを決定的に欠いている。Rebecca が自己の死すらも利用して死後も夫を支配しようとしたのに対し、Mary は Ganin に対して、現実にも記憶としても、受動的であり続ける。彼女は、魅惑と嫌悪、恐怖の入り交じったアブジェクト的存在にはなり得ず、無害なままで終わる6。

一方 Ganin は、一見夢想の中で Mary を待つという完全な受動性の中にあるように見えながら、実は記憶の中の Mary という存在を作り出し、思いのままに動かすことで、能動性を獲得している。Roland Barthes は「待ちつづけ、待つことによって苦しむ男は、驚くほど女性的になる」(14) と愛する人の不在に苦しむ恋人(男性)について述べているが、これは Alfyorov の姿には合致しても、Ganin には当てはまらない。彼は待つことの中で苦しみ、そのためにBarthes のいう意味での「女性性」を発揮しているようにはまったく見えない。そもそも Ganin にとって Mary を待つことは苦しみではなく、不在の Mary を考えることはこれ以上はない幸福である。確かに Ganin は「不在の他者」としか正常な関係がもてない (Connolly 32-34) と言えるだろう。

Ganin の現実を無視した幸福への執着は、ありのままの現実への挑戦として幸福を作り出す行為と考えることができる。この Ganin の態度は短編“A Letter That Never Reached Russia” の書き手を思い出させる。Mary の前身となるはずだった Happiness という小説の一章として書かれたこの短編では、語り手は自分は幸福だと主張し、自分の幸福は一種の挑戦だと述べる。ただし一人称で書かれたこの短編では語り手の姿勢が一貫しているが、三人称で書かれた Mary の場合には、Ganin が手紙を読んで幸福感にひたるあたりから語り手と Ganin の乖離が目立ってくるように思われる。ドラマティックアイロニーが色濃くなってきて、Ganin の心情には説得力が欠けてくるのだ。昔どおりのMary と共に彼の青春とロシアが戻ってくるという期待の楽天性に対して読者は危惧を抱かざるを得ない。実はこの部分は、Mary の愛が変わらないという確信の部分同様、Ganin の直接の言葉としてではなく、語り手が間接話法としてつけ加えている言葉であることにも語り手の隠された意図がうかがわれる。Ganin の楽天的な期待は翌朝まで持ち越されるが、そこでの彼の覚醒に向けてひそかに伏線が張られているのである。

 

黄色の変奏

小説の最後で Ganin が Mary との恋は永久に終わったことを悟り、Mary に会わずにベルリンを去る決心をする場面で、突然の彼の翻意は建築中の家の新鮮な木材の輝きを見てなされている。

Despite the early hour, work was already in progress. The figures of the workmen on the frame showed blue against the morning sky. One was walking along the ridge-piece, as light and free as though he were about to fly away. The wooden frame shone like gold in the sun, while on it two workmen were passing tiles to a third man. They lay on their backs, one above the other in a straight line as if on a staircase. The lower man passed the red slab, like a large book, over his head; the man in the middle took the tile and with the same movement, leg right back and stretching out his arms, passed it on up to the workmen above. This lazy, regular process had a curiosity calming effect; the yellow sheen of fresh timber was more alive than the most lifelike dream of the past. As Ganin looked up at the skeletal roof in the ethereal sky he realized with merciless clarity that his affair with Mary was ended forever. (113-114、下線は引用者)

三人の職人の手渡す作業が Ganin の心を鎮め、木材の黄色い輝きがどんな夢想よりもあざやかに感じられ、彼は現実に戻って来る。

ここでもう少し詳しく Mary における黄色のヴァリエーションを見ていきたい。黄色と紫は Nabokov の作品でしばしば重要な意味を持っているが、この作品における黄色はとりわけ重要な役割を果たしている7。1 章での名前の登場から、回想内で初めて Mary が姿を現す納屋の場面、最後に会う駅にたなびいている黄褐色の煙、そして最後に Ganin が心変わりをする場面での木材の輝きにいたるまで、どのような形にせよ Mary に関係のある場面にはしばしば黄色あるいは黄色系の色が見られる (中田 209-10) 。このリストにさらにつけ加えて、Ganin が Alfyorov の留守に部屋に入り込み、引き出しの中の Mary の写真を見つめる場面で、廊下に部屋の黄色い明かりがもれているという箇所をあげることができるだろう。この作品に現れる黄色はそれだけにとどまらない。Podtyagin が失くしてしまうパスポートの頁も黄色であるし、Alfyorov の特徴になっている黄色い口髭や、Lyudmila の流行を追って染めているらしい黄色い髪の色があげられる。パスポートの紛失は持ち主の心臓病を決定的に悪化させるし、世俗的な二人の髭と髪は Ganin にとって嫌悪の対象となる黄色の一対をなしているように思われる。対照的に、予感としての Mary や未来と結びつけられているのは、黄色い光、あるいは輝きである。駅での別離の場面に流れるのが光ではなく、黄褐色の濁った暗い煙であることもそれを裏づけよう。

Mary をめぐる黄色の系譜は Ganin の心変わりの場面で最後を迎えるのだが、これまでランプや電灯の黄色の光であったものがここでは実質をもった材木の輝きとなり、新たに見出した現実に対応しているという解釈も可能であるだろう。しかしこの場面にはまだいくつか考えるべき問題がある。

黄色い光や輝きの現れるいくつかの場面では、Mary の予兆だけではなく、別の次元の存在もまた暗示されている。まず冒頭の場面である。故障で止まってしまったエレベータの暗闇の中に Ganin と Alfyorov が閉じ込められるが、そこで主人公 Ganin の名前、ヒロイン Mary の名前が紹介され、宙づり状態の亡命生活というこの小説の精神的背景も説明される。やがてエレベータは「突然上のほうからカチリという音がして」「黄色い光が溢れ出し」 (3) 動き始めるが、上の階についてみるとそこには誰もいない。Alfyorov はそれを「象徴的」と言い、大袈裟な彼の口癖を Ganin は無視するのだが、これはやはり象徴的と言ってもよさそうである。つまり、エレベータを動かして Ganin を宙づりの窮地から救ったのは見えない「誰かの手」なのであり、この小説の世界を動かしている存在を冒頭から示唆していると考えられる。そして上に引用した Ganin の心変わりの場面では、黄色い木材の輝きは、今度は目に見える「手」とともに再び現れている。

 

棟木を歩く天使

Mary がおそらく最後まで小説には登場しないことは予想がつくし、Ganin と Mary の再会があり得ないことも前日の Ganin と語り手の乖離から予期できることであるが、Ganin の心変わりがこの場面で建築中の家を見てなされる理由は何だろうか。この場面で特に問題になるのは、建築中の家の持つ意味であろう。この家に本のイメージが付与されていることは複数の研究者によって指摘されている。Asher Z. Milbauer は、Ganin が本を連想した厚板でこの家が建てられていることを指摘し (38) 、Toker は、この場面では家の建築が本の完成を表し、Ganin が家を見て感じる安堵の気持ちは本を完成した作者 Nabokov の気持ちだと述べている (46) 。 諫早勇一はかねてより Nabokov 作品における建築現場の重要性に注目してきたが、 この場面で建てかけの家が書きかけの本を暗示し、芸術創造につながる Ganin の覚醒が将来おそらくは語り手によって実現されることが示唆されていると論じている (「ガ−ニンの決心」30-33) 8。「結末部において主人公から語り手に一種のバトンタッチがあった」( 同 33) とする解釈は、この場面での職人達の動作を考える時、さらに説得力を増すように思われる。Ganin が、少し後で眠り込んでしまうほどにも心を鎮められるのは、これらの職人達の「もの憂げで規則正しい手渡しの作業」であり、彼らがなぜかことさら目を引く不自然な姿勢で「手渡し」ているのは「大きな本に似た」厚板なのであるから。彼らの動作に、ここで Mary という本が完成し、Ganin から語り手に、語り手から作者に、あるいは読者に手渡されているイメージを読み取ることは容易であろう。建築中の家は完成に近づいたこの小説よりも、むしろ作家としての Nabokov の仕事全体を表していると考えられる。故障したエレベータの中で Mary を初めに示し、それからエレベータを動かした見えない「手」はここではっきりと目に見えるものとなり、Ganin に彼の仕事が終わったことを告げる。主人公としての仕事はここで終わり、 彼は南へ行く列車の中で、箱にもどされた操り人形のように眠りこむことになる9

この場面にはもう一つ気になることがある。この棟木の上にいる職人が 2 章に登場する映画の撮影現場にいた職人達によく似ていることである。先程の引用部分の建築現場では、「職人達の姿は朝の空を背景に青く見え」るし、「一人は今にも飛び立つかのように軽々と自由に棟木を歩いてい」る。2 章の撮影現場では、「職人達が青い服を着た天使のように、高い所にある足場から足場へ、楽々とのんきそうに歩いてい」た。“He [Ganin] recalled . . . the lazy workmen walking easily and nonchalantly like blue-clad angels from plank to plank high up above, or aiming the blinding muzzles of klieg lights at a whole army of Russians herded together onto the huge set and acting in total ignorance of what the film was about” (21). この撮影に Ganin はエキストラの一人として参加していたのだが、それとは知らずにその映画を見に行き、画面に自分の姿を見て恥じる。Ganin が恥辱を感じるのは、映画のエキストラに身をやつしていることではなく、何の映画かもわからないまま、監督の指示どおりに観客を演じさせられ、しかもその映画をそれとは知らずに見に来てしまったことである。Ganin は苦々しく「人間は自分のしていることがわからない」と考えるが、これは自己が映画の中の「影」であると同時に現実でも影のような存在にすぎないことへの嫌悪である。その後 Ganin は過去の世界を「神として」再創造する作業をとおして自分自身は影から実体へと移って行ったのであるが、その行為は外側から眺めれば、記憶という影の世界に隠遁していることに等しく、最後に覚醒によって現実の側に戻ってくることになり、二つの段階を経て彼は影から実体へと移ってきたことになる。最後の覚醒こそ、彼を影の世界から現実にひきもどすものだったわけであるが、そこで彼が見る職人達は現実世界を代表するようでありながら、映画の撮影現場から移ってきたようにも見える。特に一人目の職人は、仲間が本のような厚板を手渡す作業に没頭しているにもかかわらず、映画の撮影現場にいた裏方のようにのんびりと棟木を伝い歩き、今にも(天使のように)空に飛び立って行くかのように見える。映画撮影の時には強い照明をエキストラ達に当てて彼らを映像、つまり影に変えていた彼らが、ここでは厚板や瓦を運んでいるという違いはあるものの、ここでも職人/黒衣達は、Ganin に一種の指示を与えている。最後の場面では、旅立ちを示唆すると同時に、たとえ Ganin が記憶の世界を自分の望むとおりに完全に作りあげることができても、それによって小説の最終的な主体の位置を手に入れたわけではないことを告げている。Ganin の覚醒と心変わりが唐突の印象を与えるのは、それが Ganin の内部から自然に起こったものであるよりは、むしろこの黒衣の指示によってなされたものであるからであろう。

この作品では同じ事物が時空を超え、姿を変えて再登場する。Eric Laursenはそれを「(時間を移動する)魔法の絨毯を模様が重なるように折りたたむ」 (Speak, Memory 139) という Nabokov の比喩で説明する。たとえば Mary の姿が初めて示されるチャリティコンサートの会場となった納屋が Ganin がエキストラをつとめた映画の撮影がおこなわれた納屋になるし、Ganin はかつてMary から突然去ったように、Lyudmila に一方的に別れを告げ、最後に再び未来の Mary からも去ることになる (Laursen 62) 。物語上に持つ意味としては対照的な二つの重要場面――撮影現場と覚醒の場面――にも同一人物を思わせる職人が現れることで、この作品の中に隠されたいくつかのものの重なりや繰り返し、この作品の各部分をつないでいる糸、またそれを織り込む手を私達は改めて感じることになる。それは影と現実、あるいは過去と現在を静止した対立するものとして割り切ることの否定ではあっても、過去と現在が結局は同一物で Ganin は過去から逃れられないということを意味するわけではない。納屋でエキストラ役を演じていた Ganin とここで覚醒する Ganin はもはや同じ人間ではない。映画のエキストラ役であった無気力な Ganin は、回想するという行為によってエキストラから一つの世界を作り出す主役となり、そこからその世界を離れるだけの強さをも、たとえ直後に主人公の座から降ろされてしまうにしても、得ている。しかしまた彼の成熟だけがこの小説の最終的な到達点ではない。今にも空に飛び立って行きそうな職人は物語のレベルでの Ganin の出発を示しているが、同時に Ganin には到達できない高みに出発するもう一人の人物、作家の存在を暗示してもいると思われる。最後の Ganin の眠りが Look at the Harlequins! の最終場面での Vadim の時空を超えた眠りにつながる(中田 215)だけではなく、高次の創造者の存在を暗示することによっても最初と最後の小説はつながっている。列車の中で Ganin が顔を埋めるレインコートの襞は、Nabokov 世界の時空の襞でもあるのだろう。

この地点から振り返ってみると、この作品を形作る両義性があらためて明らかになるはずである。Mary の特権的偏在と無力、想起されることによって創り出され、豊かになる逆説的な記憶、Ganin の成熟とそれとは矛盾する彼の唯我的性格、物語の中の現実への帰還であると同時に自らの虚構性についての自覚でもある覚醒、クライマックスである覚醒とその直後の主人公の座からの退場、最後の出発の二つの意味。Nabokov の生涯の主題の一部である楽園喪失とノスタルジアがこの処女長編の主題でもあることはいうまでもない。しかし、現実から記憶の世界に逃避した主人公がその体験によって成長し、ふたたび現実の未来に向かうという、直線的な時間構造を持つ Bildungsroman からも、耽美的なノスタルジアの物語からも、この処女作はすでにして遠いところにいる。

* 本稿は 1995 年 4 月の名古屋大学英文学会において「越境と複数性――ナボコフのロシア」と題して発表したものの一部に大幅な加筆修正をおこなったものである。

 

Notes

1 ロシア語による批評も含めた近年の Mary 批評については、諫早勇一「ガーニンの決心」に詳しい。

2 客観的に見た場合、Mary と Lyudmila の類似点は大きい。Stephen Jan Parkerは、二人に共通した要素として、凡庸さ、安香水の匂い、性的な放縦さをあげている。30 頁参照。もっとも Mary の香りは Ganin が彼女の魅力の一つとしているものなので、二人の違いを作り出す Ganin の主観がこれによって際立つことにもなる。

3 英語版で女主人公の名を Mary にした理由として、Nabokov は Mashen'ka を英語に転記した時の“mash”が耐え難いことをあげている。Selected Letters 459 頁参照。

4 Connolly は Nabokov における自己と他者の問題を扱った著書の中で、この Mary に関する記憶の曖昧さを Ganin が現実よりもファンタジーを重視することに結びつけ、後の Nabokov の作品においてきわめて重要になる心理学的な現象の萌芽と考えている。すなわち、理想化された他者の内部のイメージが現実の人間に重ね合わされ、しばしばその人物の自律性を犠牲にしてしまうというのである。35 頁参照。

5 それまでにも多くの別れがあったために最終的な別離の経緯を思い出せないということは、Nabokov も Tamara との別離に関して Speak, Memory の中で述べている。“. . . no matter how I worry the screws of memory, I cannot recall the way Tamara and I parted. There is possibly another reason, too, for this blurring: we had parted too many times before” (240) .

6 アブジェクトの定義については、Julia Kristeva, Powers of Horror 特に第 1 章を参照。

7 Marina Turkevich Naumann はMaryLolitaAdaTransparent Things における黄色と紫色の重要性を指摘しているが、Mary に関しては具体的な論述はない。42 頁参照。

8 諫早論文「『足場』の推移」は Nabokov のロシア語小説における建築現場の足場の重要性に着目し、それぞれの意味を分析したものである。

9 Toker は、結末で Ganin の覚醒も主人公としての存在も取り消されると論じている。46 頁参照。

 

Works Cited

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