ハーレクイン対フェミニズム

− フォーミュラ・ロマンス批評史をめぐる一考察 −

尾崎 俊介


1 はじめに
 1963 年, 時代を画する 1 冊の本がアメリカで出版された。 Betty Friedan の The Feminine Mystique。 平凡な結婚生活を送っていた女性が, ある時ふと, その何不自由ない結婚生活の中に息苦しさを覚えるようになり, 自分は本当に幸福なのだろうか, これ以上のものを人生に期待するのは間違っているのだろうかと自問し始める。 そんな女性の覚醒の瞬間から筆を起こしたこの本が, 女性を家庭の中に閉じ込めようとする父権制社会の構造を暴き出し, 女性の自立を促して, 1960 年代後半から 1970 年代にかけて盛んになる女性解放運動の先駆けとなったことは, 既に常識の内と言ってよいだろう。 つまり 1963 年という年は, 新世代 (第 2 波) フェミニズムの誕生を歴史に刻む, 記念すべき年なのだ。
 だが 1963 年という年は, 女性と結婚にかかわる言説の, もう一つの別な潮流の原点にもなっていた。 結婚を女性の人生におけるクライマックスとして描く一連の恋愛小説叢書 「ハーレクイン・ロマンス」 が, アメリカでの販売を開始したのがまさにこの年なのである。 無論, これは大衆文学の分野での出来事であるとはいえ, ハーレクイン・ロマンスの異常なまでの人気は, その後 1970 年代から 1980 年代半ばにかけてアメリカにロマンス・ブームを引き起し, 1985 年にはついにアメリカで出版される大衆文学のほぼ 4 割をロマンスが占めるまでになったというのだから, その影響は決して見過ごせるものではない。 つまり, 女性を結婚制度の呪縛から解き放とうとするフェミニズムの潮流と, 逆に女性の結婚願望を煽るかに見えるロマンス・ブームの潮流は, 1963 年という年を起点にして同時進行的に進展しながら, 共にこの時代のアメリカ文化に影響を与えていたのである。
 であるならば, この相対立するかに見える同時代の二つの潮流は, それぞれ互いのことをいかに意識し, いかに反応してきたのだろうか。
 

2 フォーミュラ・ロマンスの誕生
 だが 「ハーレクイン対フェミニズム」 という二つの言説の交差について語る前に, このロマンス叢書を刊行している出版社, すなわち 「ハーレクイン社」 について, ここである程度紙幅を割いて解説しておかなくてはならない。1
 そもそも 「道化師 (=ハーレクイン)」 という風変わりな名前を冠した出版社はアメリカの出版社ではなく, 1949 年にカナダ・マニトバ州ウィニペグ市で創立されたカナダの出版社である。 創立者はウィニペグ市の初代市長を勤めたこともある Richard Bonnycastle という地元の名士であるが, もともと印刷会社の経営に形ばかり携わっていた彼にとって, 人に勧められるままに始めた出版事業は勝手の知れないことばかりであり, 当時の流行に従ってミステリーや探偵小説などのペーパーバック・リプリントを散発的に出版してみたものの, 発足当初の同社の業績は決して楽観を許すものではなかった。
 しかし 1950 年代も半ばを過ぎた頃, ハーレクイン社に大きな転機が訪れることとなる。 同社が出版しているペーパーバックの中でロマンスの売り上げが比較的良好であることに気付いた同社は, 伝統的なロマンスばかりを専門に出版していた Mills & Boon, Ltd. (以下 M&B 社と略称) というイギリスの出版社と 1957 年に業務提携を結び, M&B 社が出版したロマンスをカナダでリプリントし, 「ハーレクイン・ロマンス」 として販売する形で女性向けロマンス専門の出版社になったのである。 そしてこの新機軸が図に当たってカナダのロマンス市場を席捲した同社は, その余勢を駆って 1963 年からアメリカでもハーレクイン・ロマンスを販売し始め, 1975 年には総出版部数の 7 割がアメリカで売られるまでになった。 ハーレクイン・ロマンスの元である M&B 社のロマンス叢書は, もともとカトリックの影響の強いアイルランドを大きな市場にしていたため, 「離婚」 「不倫」 「あからさまな性描写」 といった要素が徹底的に排除された 「上品でハッピー・エンド」 なロマンスばかりが揃っていたのだが, そこがアメリカの保守的な女性読者層に受け入れられたのである。
 

3 フォーミュラ化されたロマンス
 しかしハーレクイン・ロマンスがアメリカにおいて大きな成功を収めたのは, 無論, そこに古風な恋愛小説を好む多くの女性読者が存在していたからだけではない。 ハーレクイン・ロマンスの成功は, 実は入念なマーケティング戦略の勝利でもあった。 1968 年, 創業者のリチャード・ボニーキャッスルが死去したのを機に, ハーレクイン社はマーケティングの近代化を押し進め, 徹底的な市場調査を元にロマンスを愛読する女性読者層の嗜好を割り出し, それによって M&B 流の 「上品でハッピー・エンド」 なロマンスのあり方をさらに洗練させて, 理想的なロマンスのガイドライン (=執筆要項) を完成させたのである。 特に 1971 年にハーレクイン社が M&B 社を買収し, その編集権を強化して以降, ハーレクイン・ロマンスはこのガイドラインに忠実に則って作られる一種の 「文学製品」 となった。
 では女性読者の恋愛願望を元に作られるロマンスとは具体的にはどういうものかと言うと, 簡単に言えばヒロインが素晴らしい男性と偶然出会い, その男性と結婚することによってそれまでの日常生活の退屈さから解放され, 豪奢でエキサイティングな暮らしを手に入れるという筋書きの, 典型的なシンデレラ・ストーリーということになる。 と, このようにまとめてしまうとあまりにも単純過ぎるようであるが, 実際にハーレクイン・ロマンスを読むと, この単純なストーリー展開の中に巧みに女性読者の嗜好を取り入れてあり, また 「ロマンス」 という文学ジャンルが伝統的に培ってきた様々な約束事が非常にコンパクトな形で内包されていることが分かる。
 例えばハーレクイン・ロマンスにおいて, すべての作品がヒロインの視点から語られることもその一つである。 ヒロインがヒーローに出会うのであって, その逆ではないのだ。 これは読者のほぼ 100%を占める女性読者が自己投影し易いように, このように決められているのである。 またヒロインの造型にも工夫があって, ハーレクイン・ロマンスに登場するヒロインは通常ハイティーンか 20 代前半という年頃, 金髪・碧眼で背は小柄, 明るく愛敬のある女性だが絶世の美女ではなく, 特に優れた能力は持ち合わせていないものの純粋で気立ての良い女性, ということになっている。 いわばどこにでもいる女性ということであるが, これによって一般女性読者は, ヒロインが美貌・才能において傑出した人物であった場合よりもはるかに容易にヒロインに自己投影することができるのだ。
 一方ハーレクイン・ロマンスに登場するヒーローは, ヒロインの平凡さとは対照的に, 容貌・身体・知性において傑出した人物として描かれるのを常とする。 またヒロインが金髪・碧眼であるのに対し, ヒーローの方は大抵肌の色が浅黒く, 髪の毛や目の色は漆黒である。 人種的にはラテン系であることが暗示され, またそれにふさわしく情熱的な気質の持ち主なのだが, その気質を強い意志の力で制御しようとするために表面的には鬱々としているように見え, また時には情熱を抑えきれずに暴力的な行動に及ぶこともある。 協調性はなく, 組織に順応できるタイプではないものの, 知的能力は高く, 親戚から大企業の経営を受け継いだというような形で生まれながらの資産家であることが多い。 ロマンス愛好家の世界ではこの種の万能のヒーローを 「アルファ・マン」 と呼んでいるが, ハーレクイン・ロマンスのヒーローは必ずアルファ・マンでなければならないのである。
 このようにハーレクイン・ロマンスにおけるヒロインとヒーローの造型はおおよそ上のような形で様式化されているのだが, 様式化されているのはこればかりではない。 実はヒロインとヒーローが恋に落ちる手順すら, あらかた様式化されているのである。 そしてその様式の中で特に重要なのは, この恋がヒロインにとっては初めてのものであり, 一方のヒーローにとっては最後のものになる, という設定である。 そしてこの設定ゆえに, ヒロインとヒーローはその最初の出会いからして互いに惹かれるものを感じつつ, ヒロインの方では未知の男性への本能的な恐れから必要以上に他人行儀に振る舞うことになり, ヒーローの方は過去の苦々しい幾多の恋の記憶に邪魔されて, ヒロインに対する自分の思いを素直に表に出せないという状況に陥るわけである。
 もっともヒロインとヒーローの結びつきを妨げるのは, 両者の心的状態といった内的な要因ばかりではない。 ヒーローの周辺には絶世の美女が虎視眈々と彼の財産を狙っており, またヒーローもこの美女に危うく惑わされそうになったりして, 無意識の内にヒーローに恋い焦がれているヒロインの心を一層傷つけるという一幕が必ずや用意されているのだ。 かくして恋愛小説とは言いながら, 実際にはハーレクイン・ロマンスのヒロインとヒーローは四六時中誤解と喧嘩ばかりを繰り返すのである。 しかも, 単なる 「小娘」 に過ぎないヒロインと, 全知全能のアルファ・マンたるヒーローとの対立となれば, 後者に分があるのは当然で, そのため作中, ヒロインはヒーローに一方的に苛められ, 嘲笑され, セクハラまがいの暴力を振るわれ続ける。 そしてこのヒーローによる 「ヒロイン苛め」 は途中に一時的な和解のシーンを何度か挟みながら, 結局 190 ページほどの長さに統一されているハーレクイン・ロマンスの最後の 3 ページあたりまで続くことになっている。 ヒロインとヒーローの恋の成就は, 際限なく先延ばしされるのである。
 だがそんな二人の恋路にも, やがて急転直下の大団円がやってくる。 ヒーローの財産を狙っていた美女の悪巧みは暴かれ, どんなに苛められてもヒーローのことを思い続けたヒロインの無欲の愛は彼の心に通じるのだ。 かくしてヒロインとヒーローの間にあった誤解やわだかまりは一気に氷解し, これまでの行為を恥じたヒーローは, ヒロインの前に膝を屈して愛を告白し, 求婚する。 シンデレラ・ストーリーの基本通り, ハーレクイン・ロマンスにおいても最も自己主張しない娘がヒーローの愛を勝ち得るのである。 そしてヒーローの求婚を受け入れたヒロインが, それまで自分なりに築いてきた何某かのキャリアを易々と投げ捨て, ヒーローが持つ経済力と高い社会的地位に全面的に身を委ねるという形での結末を迎えたところで, ハーレクイン・ロマンスは幕を閉じる。 無論, 細かい点では個々の作家の創意工夫が加わるとはいえ, ハーレクイン・ロマンスというのは, 概ねどれも皆今述べたようなストーリー展開をするのであり, その意味で文字通り 「型にはまったロマンス (=フォーミュラ・ロマンス)」 であるわけだが, その 「型にはまった」 度合いが桁外れと言うべきか, ハーレクイン・ロマンスという商標のついたロマンスがどれを読んでも皆同じであることは, 驚きを越えてほとんど感動的ですらある。
 しかしここで真に驚くべきなのは, これほどまでに型にはまったロマンスが飽きられもせず, 多くの女性読者の絶大なる支持を得ているということである。 実際に読者調査などを行うと, ロマンスを愛読する女性読者の中には自分のお気に入りのロマンスを何度も読み返す人が多いこと, また新しいロマンスを読む際, 先に終わりの部分を読み, それがハッピー・エンドであることを確認してから冒頭に戻ってあらためて読み始めるというような行動をとる人が多いことなどが明らかになるのだが, こういうことからも分かるように, ハーレクイン・ロマンスのようなフォーミュラ・ロマンスを愛読する女性読者は, よく知った筋書き通りに物語が進行し, 最後にヒロインがヒーローと結婚して幸福になる話を繰り返し読んでも, それを退屈とは思わないのである。 それどころか自分が熟知し, それゆえ安心して読み進むことのできる物語がそこに展開しているゆえに, 彼女たちはハーレクイン・ロマンスを買うのだ。 またハーレクイン社の方でもこうした女性読者の行動様式を十分承知していたからこそ, 敢えて多様性ではなく画一性を自社のロマンスの売り物としたのである。
 かくしてフォーミュラ・ロマンスを量産する道を選んだハーレクイン・ロマンスは, 作者の名前であるとか, 個々の作品の内容の善し悪しではなく, 「ハーレクイン」 というブランドとして消費者 (=読者) に選ばれるようになった。 そしてこのブランド戦略のおかげで, 愛読者の多くは立ち読みすることもなく毎月出版される膨大な点数のハーレクイン・ロマンスの新刊を片端から注文するようになったため, ハーレクイン社の業績は上昇の一途をたどった。 何しろ 1965 年には年間 6 百万部の売り上げに過ぎなかったハーレクイン・ロマンスは, その 10 年後の 1975 年には 7 千 2 百万部, 15 年後の 1980 年には 1 億 8 千 8 百万部を売るまでになっていたと言うのだから, その業績の伸びは凄まじいの一語に尽きる。 しかもこれはハーレクイン社だけの話ではないのだ。 アメリカのペーパーバック出版社各社がハーレクイン・ロマンスの人気に便乗して様々なタイプのロマンス叢書を一斉に発売し始めたため, 冒頭でも述べたように 1970 年代から 1980 年代半ばにかけて, アメリカでは空前のロマンス・ブームが生じていたのである。
 

4 フォーミュラ・ロマンスへの批判
 しかし, このような型にはまったロマンスが 「製品」 として大量生産され, しかもそれを世の女性たちが大量に消費しているということが知られるようになれば, このことに関心が集まるのは道理である。 事実 1970 年代の末あたりから, アメリカのジャーナリズムはハーレクイン・ロマンス, もしくはそれに類するフォーミュラ・ロマンスの流行について頻繁に話題にするようになってきた。
 例えば Alice K. Turner が 1978 年 2 月に New York 誌に掲載した "The Tempestuous, Tumultuous, Turbulent, Torrid And Terribly Profitable World of Paperback Passion" という記事は, この時代のロマンス・ブームに対するジャーナリズムの反応の好例であるが, 大げさに頭韻を踏んだその標題からしてどことなく揶揄的な印象を与えるこの記事の中で筆者のターナーは, ハーレクイン・ロマンスのことを 「(Erich Segal の) Love Story から 4 文字言葉と婚前交渉を省いたもの」 (46) とかなり大雑把に説明した後, このハーレクイン・ロマンスの流行に触発された形で 1970 年代以降, ペーパーバック市場でロマンスが売れていること, 及び, そのロマンスは幾つかのサブジャンルに分類することが可能であるが, 近年では 「ヒストリカル・ロマンス」 と呼ばれるエロティックなロマンスに人気が集まっていることなどを説明し (48), さらに売れ筋の本の紹介やロマンス界の大御所 Barbara Cartland の写真つき紹介記事なども挿入しつつ (48), 最後に 「女性というのは, 妙なものを読みたがるものだ」 (49) というようなことを述べて記事を締めくくっている。 こういう傾向の記事としては, 同年 3 月の Forbes 誌に掲載された Phyllis Berman の "They Call Us Illegitimate", あるいは 1980 年 8 月 11 日に The New York Times 紙に掲載された Michiko Kakutani の "New Romance Novels Are Just What Their Readers Ordered" などがあるが, これらの記事に共通するのは, ハーレクイン・ロマンスをはじめとするフォーミュラ・ロマンスが非常に効率よく, かつ無数に出版されている事実, またそれを数多くの女性読者が読み漁っているという現象を, 興味深い, しかしやや低俗な風俗として紹介するという姿勢である。
 だがこれらジャーナリズムによるハーレクイン・ロマンス (あるいはフォーミュラ・ロマンス全般) の揶揄的な紹介は, ほんの序曲に過ぎなかった。 ジャーナリズムに続いてこの種のロマンスに目をつけた当時の先鋭的なフェミニストたちの舌鋒は, 「揶揄的」 などというレベルをはるかに越え, まさに 「言葉による打擲」 と言っても過言ではないほどに厳しいものだったのである。 冒頭でも述べたように, ハーレクイン・ロマンスのようなフォーミュラ・ロマンスがアメリカで流行し始めた時代は, 同時に覚醒した新世代フェミニストたちが女性の自立を訴え始めていた時代でもあり, そうしたフェミニストたちの目に, 結婚こそ女性の人生のハイライトであり, 幸福の源泉であるかのように描くハーレクイン・ロマンスの存在とその異常なまでの人気は, そうした 「打擲」 を加えたくなるほど歯痒いものに映じていたのだ。
 中でもハーレクイン・ロマンス的な恋愛小説に対し, 最も早い時期に最も手厳しい批判をしたのが Ann Douglas というフェミニスト批評家である。 その怒りに満ちた論文 "Soft-Porn Culture" (1980) の中でダグラスが強く批判しているのは, ハーレクイン・ロマンスにおいてヒーローのサディスティックで暴力的な言動が何ら批判を受けないばかりか, むしろその剥き出しのエゴイズムやセクシュアリティがプラスに評価され, しかもそのようなヒーローに従順に従うことがヒロインにとってこの上なくエキサイティングな経験であるかのように描かれる, そのフォーミュラ・ロマンス特有の構造である。 ダグラスはこのようなストーリー展開を繰り返すロマンスを 「女性のために水増しされたポルノ (porn softened to fit the need of female emotionality)」 (27) と呼び, このようなものを多くの女性たちが無批判に支持してしまうことは, 父権制社会における男性の性的願望を助長させるようなものである, と論難する (28)。 このように, フォーミュラ・ロマンスを女性 (ヒロイン) と男性 (ヒーロー) の間で支配権をめぐって争われる 「権力争い」 と見なし (25), その闘争の結末においてヒロインが従順な妻としてヒーローの前に屈伏する形で終わっていること, すなわち 「男性側に都合の良いファンタジー」 (28) に仕上がっていることを問題視するダグラスのハーレクイン・ロマンス批判は, その激した論調も含め, フェミニストの立場から見た初期ロマンス論の代表的なものであった。
 ところが意外なことに, ダグラスの勇ましく, またそれなりに説得力を持ったロマンス批判は, その後のロマンス研究家の間でさほど支持されず, 逆に批判の対象にすらなっていくのである。 例えば Romance and the Erotics of Property: Mass-Market Fiction for Women (1988) という研究書を著した Jan Cohn という批評家は, ダグラスと同様, ハーレクイン・ロマンスのようなフォーミュラ・ロマンスをヒロインとヒーローの間で繰り広げられる 「権力争い」 (3) と見なすものの, どちらがその勝者かという点ではダグラスとまったく逆の見解を示し, ロマンスというのは結局ヒロインが愛の力で金と権力を持ったヒーローを飼い馴らす物語, つまり美女が野獣を屈伏させる物語なのであって, この権力争いの勝者はむしろヒロインである, と結論づける (34)。 女性が男性に屈伏するのではなく, 事実はその逆だというコーンのこの見解は, 実際にロマンスを愛読している多くの女性読者の実感と合致していたこともあって, フォーミュラ・ロマンスを全否定する初期フェミニズム批判に引導を渡す結果となった。
 

5 逃避文学としてのロマンス
 だが, ロマンスにおいてヒロインとヒーローのどちらが勝者か, というような一種の水掛け論に基づいてロマンスを断罪したり, 逆に名誉挽回したりするような批評の仕方は, その先の発展性がないということもあって, その後に登場するロマンス批評に引き継がれることはなかった。 現在のロマンス批評の主流はむしろ 「なぜこれほど多くの女性読者がフォーミュラ・ロマンスを支持するのか」 という, より根本的な疑問について考察することで, ロマンスの存在意義を探ろうとする方向に向かっている。 そしてそうした系統のロマンス論の最も早い例が Ann Barr Snitow の "Mass Market Romance: Pornography for Women is Different" (1979) という論考である。
 この論考の中で筆者のスニトウは 「ロマンスは女性の想像力の第一義 (romance is a primary category of the female imagination)」 なのであって, 「シリアスな文学よりもハーレクイン・ロマンスの方が, 女性の愛されることへの希求に対して真摯に回答しようとしている」 (160) と述べ, ロマンスという文学ジャンルが本来的に女性読者に強く訴求する力を持っていることを指摘する。 しかしスニトウが自説の中で最も強調するのは, ロマンスには女性の恋愛願望を満足させる効能だけでなく, 女性の成功願望をも満足させる効能が備わっているということである。 つまり女性の自己実現への道がほとんど閉ざされている現代社会において, 女性が社会的成功と生活上の満足を得るための現実的な方法は, そのどちらをも与えてくれるような素晴らしい男性と結婚することしか残されていないのであって, それゆえヒロインがヒーローと結婚することによって経済力と社会的な地位の双方を勝ち得る物語群であるハーレクイン・ロマンスに女性の人気が集まるのは当然である, というのだ (149-150)。 スニトウはこの分析を締めくくるにあたって, ハーレクイン・ロマンスの異常なまでの人気は, 逆に言えば現実世界がいかに女性にとって過酷なものかを示す指標でもあるのであって, 問題はロマンスではなくむしろ現実の方にある, という見解も付け加えている (160)。 要するにスニトウが提示しているのは, 悪いのは家父長制に基づく男性支配の現状であって, その中で女性がロマンスに逃避し, そこに息抜きを求めるのは仕方がない, という考え方である。 ハーレクイン・ロマンスは文学としては評価に値しないが, 現実逃避の手段としては有効だという論理, これはほぼ同時期に発表された Tania Modleski の "The Disappearing Act: A Study of Harlequin Romances" (1980) という論考の中にも見られるもので, モドレスキもまた女性にとって制限の多いこの社会の中で, ロマンスは 「女性の怒りを中和する (neutralize women's anger)」 (448) 役割を果たしているのであり, ロマンスを読む女性はいわば 「能動的に」 逃避的な読書をしているのだ, と主張する (436-437)。
 このようにロマンスを 「逃避のための文学」 として位置付け, その枠内で肯定的に評価しようというのは, 先に述べた初期ロマンス批評には見られない傾向であり, その意味でスニトウやモドレスキらをここでは便宜的に 「ロマンス批評の第 2 世代」 と位置付けたいのだが, 彼女たちが採用するこの批評的戦略は, ロマンスの文学的価値を不問に付す理由を与えると同時に, フォーミュラ・ロマンス (のような 「低俗」 な小説) を読む女性読者の免罪符にもなるということもあって, その後数多現れるハーレクイン・ロマンス論の基調音となった。 例えば Margaret Ann Jensen は Love's $weet Return (1984) という著書の中で, 一般の文学とハーレクイン・ロマンスのような逃避文学を同列に扱うのは 「リンゴとオレンジの優劣を決めようとするようなもの」 (17) であると述べ, ハーレクイン・ロマンスを他の一般の文学作品とは違う基準で批評しなければならないという基本的な立場を明らかにした後, ハーレクイン・ロマンスが現実の社会の中で女性たちが直面している様々な問題, 例えば経済上の問題, 孤独, 無力感, レイプされることへの恐怖などを取り上げ, それらが最終的には素晴らしい男性 (=理想的な夫) の登場によってすべて解決されるという楽観的な世界観を提示することにより, 女性たちに安息を与えているのだという考え方を示している (159)。
 そしてこれら第 2 世代のロマンス批評家たちが築き上げたこの種のロマンス論をさらに磐石のものとするのに大いに与ったのが, Janice E. Radway の Reading the Romance: Women, Patriarchy, and Popular Literature (1984) であった。 ラドウェイのこのロマンス論は, それが発表された時から今日に至るまで, およそフォーミュラ・ロマンスを論じる際には必ず引用されるものであるが, この本がそれほどまでに画期的なものとされているのは, ラドウェイのロマンスを論じる際のアプローチの仕方が従来のロマンス批評とはまるで異なっていたからである。 ラドウェイはこの本を執筆するにあたってアメリカ中西部の小都市に住むロマンスの愛好家たちに直接詳細な聞き取り調査をし, その分析を通して現代に生きる女性たちがなぜロマンスを読むのか, という自ら発した疑問に答えようとした。 つまり従来のロマンス批判が主にテキスト分析に依るものであったのに対し, ラドウェイはロマンスを読む女性読者の側の分析を試みたのである。
 そしてそのラドウェイの分析によれば, 現代の結婚制度の下, 女性は夫や子供, さらには年老いた両親など常に人の面倒を見る立場に置かれる一方, 自分の面倒を見てくれる人がいないという状況にある。 無論、 本来は夫がその立場にあるのだが, 妻のことを優しく気遣い, その面倒を見ようという理想的な夫というのは, 実際には少ない (94)。 例えば教会の婦人会のような女性同士のコミュニティが確固として存在していた時代には, そこで主婦としての重責から一時的に解放されることも可能であったが, 今ではその種のコミュニティを維持することも難しい (96)。 そこで, 現代の女性たちはロマンスに逃避する。 ロマンスに逃避し, ヒロインに自己投影してしまえば, 最後には必ずヒーローが自分の面倒を見てくれる理想的な夫となって立ち現れる。 そしてこのハッピー・エンドがもたらす至福の読後感が, 明日の現実に立ち向かうだけの元気を女性に与えてくれる, というのだ (113)。 つまりテキスト分析から得られた 「ロマンス=逃避文学」 論は, ラドウェイの結論, すなわち読者分析から得られた同趣旨の結論によって見事に確認される形になったのである。
 

6 90 年代以降のロマンス批評
 かくしてロマンス=逃避文学という批評の視座は, ラドウェイの登場でほとんど決定的なものとなった。 またこの視座に立てば, フェミニズムの側としてもロマンス・ブームの現状をむしろ自分たちの主張を裏書きするものと見なせることもあって, フォーミュラ・ロマンスを敢えて敵対視する必要もなくなり, その結果フェミニスト批評家のハーレクイン・ロマンスに対する批判的関心は一時的に薄らいだ。 実際, 1970 年代末から 1980 年代前半にかけて盛んに出された各種ロマンス論も, 1980 年代の後半に差しかかる頃には新味を失い, 下火になってしまった観がある。
 しかし, ラドウェイの調査・考察が与えた衝撃がある程度過去のものとなった 90 年代に入ってから, 新世代のフェミニスト批評家たちがあらためてフォーミュラ・ロマンスのあり方に注目するようになり, 彼女たちの手によって再びハーレクイン・ロマンスが批判の俎上に載せられることが多くなってきている。 例えば Daphne Watson は, M&B/ハーレクイン・ロマンスを論じた Their Own Worst Enemies: Women Writers of Women's Fiction (1995) なる勇ましいタイトルの著書の中で, モドレスキやラドウェイなど第 2 世代の批評家たちの仕事を紹介しつつ, 彼女たちのロマンス批評はその批評の姿勢からして 「及び腰」 である, と批判する。 ワトソンによれば, これら前世代の批評家たちは, ロマンス・ファンを自認する膨大な数の女性読者を敵に回したくないばかりに, フォーミュラ・ロマンスの文学作品としてのレベルの低さには目をつぶり, 「逃避文学」 という別基準の評価軸を用いてその価値を不当に高めようとしている, というのだ (81)。 そしてその上で, フォーミュラ・ロマンスなど実際には 「逃避のための読書の他に, 何かの役に立つというものではない」 し, それどころか, 女性の自立よりも男性への従属が重視されるかのような 「現実の歪んだ絵姿 (a distorted picture of the world)」 を見せる点で, 決して無害ではないと断罪する (94)。 これはかつてハーレクイン・ロマンスを 「ソフト・ポルノ」 と罵ったアン・ダグラスを彷彿とさせる論調であり, フォーミュラ・ロマンス批評の分野で言えば第 3 世代にあたるこのフェミニスト批評家は, 母親の世代を通り越して祖母の世代の手厳しさを継承したかに見える。
 ところがこのような 「断罪調」 のロマンス批判が復活する一方で, これとはまったく別の論点が Angela Miles という研究者によって提示されている。 マイルズは "Confessions of a Harlequin Reader: romance and the myth of male mothers" (1991) なる論考において, それ以前の批評家とは異なる独自の視点から 「ロマンスは女性のためのものである」 という趣旨のロマンス論を展開する。 「支配的で, 傲岸で, 高圧的で, 時には暴力的ですらある」 (99) ヒーロー像と, そうしたヒーローに従属するがごときヒロイン像の組み合わせをもってフォーミュラ・ロマンスの構図的特色とする点では, マイルズもまた第 1 世代のフェミニスト批評家たちのロマンス論に同意するものの, こうしたロマンスの構図を父権制社会の縮図と見て批判の対象とする第 1 世代のフェミニスト批評家たちとは異なり, マイルズはこれを意外にも 「母娘関係」 の鏡像と見る。 マイルズによれば, 娘 (子供) から見た母親というのは一般に支配的・高圧的・暴力的なものであるが, しかし同時に優しい保護者でもある。 そして, ハーレクイン・ロマンスのヒーローというのは, 確かに支配的で, 高圧的で, 暴力的ではあるものの, 最終的には優しい保護者となるという点でまさに 「母親的存在」 であり, それゆえヒロインが依存しようとしているのは 「父権的な男性」 ではなく, 実は 「母親的な同性」 なのだと結論するのである (103-104)。 つまり, 恒常的にロマンスに読み耽っている女性読者がその空想世界の中で本当に欲しているのは, 白馬に乗った騎士ではなく他の女性との連帯である, というのだ (125)。
 

7 ハーレクイン対フェミニズム
 このようなマイルズの説を至当と見るか, 牽強付会な珍説と見るかは読む側の判断ということになろう。 しかし重要なのは, マイルズのような説, すなわち 「ハーレクイン・ロマンスにはもともとフェミニズム的なところがあり, またこれを耽読する女性読者も実は潜在的なフェミニストなのだ」 という考え方が, 1970 年代から今日に至るまで, ハーレクイン・ロマンスを論じてきたフェミニストたちの言説において常に主流であった, ということである。 一見すると時代錯誤的なシンデレラ・ストーリーの再生産に努め, 父権制社会の存続を擁護しているかに見えるハーレクイン・ロマンス (フォーミュラ・ロマンス) は, イデオロギー的にはその対立者であるはずのフェミニストたちを自陣に取り込み, その攻撃の矛先を逸らせてきたのだ。 無防備のように見えて, ハーレクイン・ロマンスは案外難攻不落なのである。
 しかし, それならば 「ハーレクイン対フェミニズム」 という対立的構図において, 勝利したのは前者かと思いきや, 実は必ずしもそうではない。 時を同じくして進展してきたフェミニズムの動向に対し, ハーレクイン・ロマンスは案外敏感に反応しているのである。 というのも, 前述したように, 読者調査を通じて時代の流れを読み, それに歩調を合わせることを常に心がけてきたハーレクイン社としては, フェミニズムの主張が少しずつ世間に浸透するにつれ, これに対して反応せざるを得ないのだ。 とりわけ第 1 世代のフェミニスト批評家からの厳しい批判を経験した 1980 年代初頭以降, ハーレクイン・ロマンスのガイドラインにも若干の改編が加わるようになってきたのはよく知られた事実で, 例えばマッチョで傲慢で支配的であることを売り物にしてきたハーレクイン・ロマンスのヒーローたちも, 時代を経るに従ってそのアルファ・マンぶりに抑制がかかるようになってきたし, またハーレクイン・ロマンスにおけるヒロインのヒーローへの精神的・経済的依存の度合いも次第に減る傾向が見られる。 無論, ヒロインとヒーローが最後に結婚して幕を閉じるというロマンスの約束事自体に大きな変更を加えることはできないまでも, この制約の枠内でハーレクイン・ロマンスがフェミニズムの主張を採り入れようとしてきたことは確かなのである。 そしてそのことは, ロマンス作家同士の親睦と情報交換などを目的として 1981 年に開かれた the Romance Writers of America (RWA) の第 1 回会合において, 「ヒロインをより成熟した女性として描くこと」 「ヒロインの処女性を重視し過ぎないこと」 などが提案されたことにも窺うことができる。
 だが, フェミニズムの影響が一番面白い形で表れたのは, フォーミュラ・ロマンスの書き手の側の意識の変化である。 ロマンス作家というのは, ごく少数の例外を除いてほぼ全員が女性であるわけだが, それだけに彼女たちもフェミニズムの動向に無関心ではいられなかったのだ。 実際, フェミニズムによるロマンス批判が盛んになると同時に, それに対する反発からか, あるいは賛同からか, 批判されている側のロマンス作家たちが自らを 「フェミニスト」 と名乗ることが多くなっている。 そしてこのロマンス作家の自己規定の変化を最も端的に表しているのが, 1992 年に出版された Dangerous Men & Adventurous Women: Romance Writers on the Appeal of the Romance という本である。 これは自らも著名なロマンス作家である Jayne Ann Krentz の掛け声の下, 総勢 21 名のロマンス作家たちが結集して, それぞれのロマンス観などを披露している本なのだが, ここで多くのロマンス作家が異口同音に語っているのは, 自分たちが書くロマンスのヒロインは, 人生における目標をそれぞれ探求しながら成長を遂げ, 最終的にはその目標に到達するのであって, その意味で現代のフォーミュラ・ロマンスは本質的に 「プロ・ウーマン」 の立場をとっているのだ, という強い思いである。 無論, 作家がそのように述べているからといって, その作品がフェミニズムの思想を正しく体現しているとは言えないわけだが, それにしてもこの本に寄稿している作家たちが現代のロマンス作家の大多数の声を代弁しているのだとすれば, 先程述べたこととはまったく逆に, フェミニズムの方こそハーレクイン・ロマンスを自陣に取り込んでしまった, という見方もできる。
 つまり, フェミニズムとハーレクイン・ロマンスという, 時を同じくしてアメリカに生じたこの二つの対立する言説の相互駆け引きに関して面白いのは, 30 年にわたる論争の末, いつしか互いが互いを自陣に取り込み, その結果, 気付いてみればフェミニズムはハーレクイン支持に回り, ハーレクインはフェミニズム支持に回っていた, ということである。 「反発と対立」 から 「相思相愛」 へ。 「誤解と不和」 から 「結婚」 へ。 まさにハーレクイン・ロマンスのストーリー展開を地で行くようなこの巧まざる批判回避があったがゆえに, ハーレクイン・ロマンスはその時代錯誤的なシンデレラ・ストーリーを 21 世紀に伝え残すことに成功したのだ。 第三者の冷静な目で読めば, 男尊女卑のイデオロギーに支えられ, セクハラ的状況に満ちあふれ, 結婚をひたすら賛美しているとしか思えないこの単純無比な恋愛小説が今日なお堂々と書店で売られていることの背景には, このような事情があったのである。
 しかし, 問題はここからであろう。 ハーレクイン・ロマンスが 「……かくして二人は未来永劫, 幸せに暮らしました」 の一行で幕を閉じるのと同じように, ハーレクイン・ロマンスとフェミニズムは相互支持の蜜月時代を永遠に続けるつもりなのか。 それとも, ハーレクイン・ロマンスが与り知らぬ閉幕後の未来のどこかで, 両者に破局が訪れるのか。 既に見てきたように, 世の膨大な女性読者がこの種のフォーミュラ・ロマンスに 「依存」 していることが明らかである以上, この大衆的な文学ジャンルとフェミニズムの相互関係の行く末に対して, 文学研究もまたしかるべき関心を払う必要があると思うのである。
 

Notes

1  本論中に述べているハーレクイン社についての情報は Harlequin 30 th Anniversary: The first 30 years of the world's best romance fiction, Margaret Ann Jensen, Love's Sweet Return, および Paul Grescoe, Merchants of Venus を主な典拠としている。 また M&B 社については Jay Dixon, The Romance Fiction of Mills & Boon, 1909-1990s, および Joseph McAleer, Passion's Fortune: The Story of Mills & Boon に依った。
 

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2005.3.29