「父」 と 「息子」 が出会うとき − Bernard Malamud の

The Assistant における 「ユダヤ人」 −

本田安都子



 1957 年に発表された Bernard Malamud の二作目の長編小説 The Assistant は, 1930 年代と思しき時代のニューヨークを舞台に, 反ユダヤ的感情を持つ非ユダヤ人青年 Frank Alpine が, 雑貨店を営むユダヤ人の Bober 一家との交流の後にそれまでの自分を見直し, そして最終的には, そのユダヤ人一家の主人の亡き後に残された彼の家族を支えるべく, 雑貨店の経営を引き継ぐまでを描いた作品である。 物語はその結末において, 割礼の手術を受けた後に, Frank が 「ユダヤ人」 になったことを伝える一文で締めくくられている。
 この結末部分は, この作品に関して書かれた数々の批評における議論の的となってきた。 非ユダヤ人の Frank がユダヤ人に対する偏見をなくし, 最終的には自己犠牲を払って彼等を助けるまでになるという筋書きには, 第二次大戦以前のアメリカ社会に存在していた反ユダヤ主義的風潮を払拭し, 作品の中で新たなユダヤ/非ユダヤの間の融和を図ろうという作者の意図を汲み取ることもできる。 しかし, それまでユダヤ教への信仰心など微塵も見せなかった Frank が, なぜ小説の最終段落において突然に 「ユダヤ人」 になったのか, 更には, 彼がなったとされる 「ユダヤ人」 というものをどう解釈すればよいのか, という問題が批評家たちの間における大きな関心の的とされてきた。
 この問題に関して最もよくなされるのが, Frank がなったのは象徴的な意味における 「ユダヤ人」 であるという解釈である。1 この解釈は, Malamud 自身による "All men are Jews." という発言に裏書されている。 Malamud は, 事あるごとにこの発言の真意について聞かれているのだが, あるインタビューでは以下のように答えている。

What I mean, I'm sure you understand, is that the Jewish drama is prototypic, "formed," and symbolically understandable. If you understand it you realize it is your own, whether you are a Jew or not; and I suppose what I hope by saying that is that recognition of this drama should ally human beings to one another, should ally them, even strangers, to those who have as a people for historical reasons lived through it recurrently, and that's what I mean. (TH 137)2

つまり, ユダヤの迫害の歴史をユダヤ人に固有のものと見なさず, それは誰もが被る可能性のあるものであるという意味において, 人は誰でも象徴的に 「ユダヤ人」 であり, そして, 世界中の人間がそう理解し合い連帯することが究極的には人類の連帯, 平和へとつながる, というのが Malamud の真意のようである。 The Assistant では, 誰に対しても慈愛の心を忘れないが, 失敗続きの不幸な人生を送るユダヤ人雑貨店主 Morris Bober が, この象徴的 「ユダヤ人」 の原型として描かれている。 Frank は, そのような Morris に対しはじめは反発を示すが, 徐々に彼の人生に共感を示すようになり, 最終的には Morris の死後に彼の跡を継ぎ, 象徴的に 「ユダヤ人」 になったのだという解釈がなされている。
 しかしながら, そのようにユダヤという特定の民族の歴史を一般化し, 人類一般の状況に敷衍して象徴化してしまうことへの批判も勿論ある。3 Philip Roth は, 1961 年に発表したエッセイ "Writing American Fiction" において, Malamud の作品に登場する 「ユダヤ人」 について以下のように述べている。

The Jews of The Magic Barrel and the Jews of The Assistant are not the Jews of New York City or Chicago. They are Malamud's invention, a metaphor of sorts to stand for certain possibilities and promises, and I am further inclined to believe this when I read the statement attributed to Malamud which goes, "All men are Jews." In fact, we know this is not so; even the men who are Jews aren't sure they're Jews. But Malamud, as a writer of fiction, has not shown specific interest in the anxieties and dilemmas and corruptions of the contemporary American Jew, the Jew we think of as characteristic of our times. Rather, his people live in a timeless depression and a placeless Lower East Side; their society is not affluent, their predicament is not cultural. (127)

Roth がここで主張しているのは, つまり, Malamud の作品の 「ユダヤ人」 は現実のユダヤ人を反映したものではなく, あくまでも彼自身の思想を表すための象徴的手段でしかないということである。 時代を超越したような設定の中で生きる Malamud の象徴的 「ユダヤ人」 に Roth は不満を感じており, 現代アメリカ社会の中で, 主流社会への参入と同化の過程において, 自身のユダヤ性に関して葛藤し, 矛盾を抱えている現実のユダヤ人に目を向けたらどうなのだ, というのが Roth の訴えるところのようである。
 確かに, Frank がなったとされる 「ユダヤ人」 を Malamud の "All men are Jews." という言葉に込められた彼の思想を体現する 「象徴的ユダヤ人」 として見なせば, 上記の Roth の意見にも一理あると言える。 しかしながら, Malamud は現実の世界から目をそむけ, 空想の設定の中で象徴的 「ユダヤ人」 という装置を使い, 人類平和という道徳的観点からのみ作品を書くだけの作家なのだろうか。 同時代のユダヤ系アメリカ人たちが自身のユダヤ性に不安を感じていたように, ユダヤ系アメリカ人作家としての Malamud 自身のユダヤ性に対する揺らぎの反映を The Assistant の中で Frank がなったとされる 「ユダヤ人」 の中に見て取ることはできないだろうか。 このような問題設定をした上で, まずは以下において, The Assistant の中で Frank が 「ユダヤ人」 になるまでの過程を詳しく見ていく。
 

2
 Sidney Richman は, Frank の持つ二重性, "the riven nature of his personality" (54) を指摘しており, 例えばそれは, 物語の中での彼の登場の仕方 − 強盗の片割れとして登場したすぐ後に, まるで別人であるかの様に聖フランシスの信仰者として登場する − に如実に表れている。4 そしてその二重性は, 彼が Bober 一家とともに暮らすようになると, ユダヤに好意的な側面と反ユダヤ的な側面という二面として表れもする。 更に Richman は, ". . . the short history of his life in the store is continually dominated by the yearning of a fractured personality to resolve and so 'fulfill itself'." (55) と述べ, その二重性が一つに統合されることを求める力が物語全体を貫いていることを主張する。 確かに, はじめは反ユダヤ的な感情をユダヤ人に対して持っていた Frank が最終的にはユダヤ人になるというこの小説の展開は, Richman の指摘する "the yearning of a fractured personality" が成就され, 最終的には Frank の二重性の解消が達成されたような印象を読む者に与える。 しかしながら, この小説の中における Bober 家と Frank の物語を丹念に辿っていくと, そのような二重性の解消に逆らうような動きが Frank に二つの極の間を行ったり来たりさせていることがわかる。
 Bober 家の人々と Frank は, その出会いから互いを 「ユダヤ」 「非ユダヤ」 の枠に当てはめて理解しようとする。 例えば Morris の妻 Ida は, 食べ物を恵んでもらったお礼に無償で働くことを申し出た Frank に対し, 彼が非ユダヤ人であるが故に恐怖心を抱き, 一刻も早く家の中から出て行って欲しいと願う(54)。 また一方の Morris は, 自分の療養中に Frank が店を切り盛りし, 結果的に売り上げが上がった理由として, Frank が非ユダヤ人であるために非ユダヤ人の客が集まったからだと結論する (72)。 このように, Morris と Ida はともに, Frank の行動をすべて彼の 「非ユダヤ性」 というものに還元して理解しようとする。5
 一方の Frank も, Bober 一家を 「ユダヤ人」 としてしか見ようとしない傾向が強い。 例えば, Morris の店に強盗に入った理由として, そこがユダヤ人の店であったからだと言い (66, 87), また別の折には, Morris の店で一人店番をする時にレジから小銭を盗みながら, ユダヤ人の鼻先から金をせしめることは小気味のいいことだとも感じる (79)。 これらは, ユダヤ人というのは, 内在的に被害者になるような性質を持っているのだとする典型的な反ユダヤ主義的発言と言える。 Frank は, 一日中ほとんど店から出ずにわずかばかりの収入で細々と暮らす Morris を指して, どうしたらあのような生活ができるのだと自問する。 "What kind of a man did you have to be born to shut yourself up in an overgrown coffin . . . ?" という自身の疑問に対し, Frank は, "The answer wasn't hard to say − you had to be a Jew. They were born prisoners." (81) として, ユダヤ人というのは生まれながらの囚人のようなものなのだから, あのように生活することが可能なのだと結論付ける。 ここからわかるように, Frank にとってユダヤ人というのは, 生まれながらにして彼ら共通の性質や運命といった 「ユダヤ的性質」, 「ユダヤ的運命」 を持つ人々であり, 非ユダヤ人である彼とはまったく違うところに属する人々いうことになる。
 このように, Bober 家と Frank は, 互いを 「ユダヤ」 「非ユダヤ」 という枠組みからのみしか理解, 評価しようとしない。 それゆえに, 両者の間には厳然とした 「ユダヤ」 「非ユダヤ」 の壁がそびえ立ち, 両者の間の融和などありえないようにさえ見えてしまう。 しかしながら, その壁を突き崩すような考えが Frank 自身から発せられている。 先ほど触れたように, ユダヤ人というのは生まれながらの囚人なのだという考えにたどり着いたすぐ後に, Frank は次のように考える。

That's what they [Jews] live for, Frank thought, to suffer. And the one that has got the biggest pain in the gut and can hold onto it the longest without running to the toilet is the best Jew. (82)

ここで示されている 「一番ひどい腹痛を抱えたまま, トイレに駆け込まずに一番長く我慢することのできる者こそが一番のユダヤ人である」 という考え方に従えば, 先に述べた, ユダヤ人の性質はその生まれによって決まるという本質主義的なユダヤ人定義とは異なり, 或る特定の行動, 例えばここでは腹痛を一番長く我慢することができる人間ならば誰でも 「一番のユダヤ人」 になることができるということになる。 極言すれば, 非ユダヤの生まれの Frank でも 「ユダヤ人」 になることができるという考え方をここでの引用中の Frank の言葉は図らずも示唆している。
 「ユダヤ」 「非ユダヤ」 というカテゴリーによって互いの間に線引きをし, 互いにそこから動こうとしないという硬直したユダヤ/非ユダヤ関係が描かれる一方で, 先ほどの引用での Frank の発言に示されたような, その境界線の存在を曖昧にしてしまうようなユダヤ/非ユダヤ関係もこの作品の中では示されている。 それは, Frank と Bober 家の一人娘 Helen との関係の中に見受けられる。
 非ユダヤ人の Frank には近付くなと警告する母への反撥心も手伝って, Helen は当初から Frank を偏見のない眼差しで見ようと心がける。 Frank を 「非ユダヤ」 という枠にはめて見ようとしない Helen には, 彼の持つ二重性というものが露わになる。

She [Helen] made that very clear to herself, for among his [Frank's] other disadvantages there was something about him, evasive, hidden. He sometimes appeared to be more than he was, sometimes less. . . . There was more to him than his appearance. Still, he hid what he had and he hid what he hadn't. . . . At the very minute he was revealing himself, saying who he was, he made you wonder if it was true. You looked into mirrors and saw mirrors and didn't know what was right or real or important. (114)

Frank には何か隠されたものが潜んでいて, 彼を見ることは鏡に映った鏡の中をのぞくようなものであり, どこまで行ってもどこにも行き着かないように Helen は感じる。 その結果, 彼女はどうするかというと, 自分にとって心地のよい Frank 像というものを作り上げ, 将来の結婚相手として真剣に考えるまでになる。
 しかし, そのような心地のよい Frank 像は, 現実の Frank による彼女への暴力的行為によって打ち砕かれる。 すると彼女は, 自分の予想を超えた行動をする Frank を "Dog−uncircumcised dog!" (159) と罵倒し, 彼を 「非ユダヤ」 のカテゴリーに押し込めて彼の行動を理解しようとする。 つまり Helen は, 今まで自分の結婚相手にふさわしいと考えていた Frank がこのようなひどい行為をするはずがない, このような非道なことをするのは彼が非ユダヤ人だからだ, というようにして自分に起こったことを説明する。 そして, "She was filled with loathing at the fantasy she had created, of making him into what he couldn't be−educable, promising, kind and good, when he was no more than a bum."(167) とあるように, これまで抱いていた好意的な Frank 像を自分が勝手に作り出したファンタジーだとして一蹴してしまう。
 しかしながら, その考えも再び覆されることになる。 自身の行為を深く反省した Frank が, 危機的状況に陥った Bober 一家を献身的なまでに支え, 助けようとする姿を目の当たりにすることによって, Helen は, ろくでなしの 「非ユダヤ人」 という彼に対する評価を覆すに至る。 夜間学校からの帰り道, 夜に雑貨店を閉めた後に Frank がアルバイトをしている深夜営業のコーヒー・ショップの前を偶然通りがかり, 彼が昼も夜もなく働いていることをはじめて知った Helen は, 自分の考えの偏狭さに気がつき, 次のような考えに至る。

It came to her [Helen] that he [Frank] had changed. It's true, he's not the same man, she said to herself. I should have known by now. She had despised him for the evil he had done, without understanding the why or aftermath, or admitting there could be an end to the bad and a beginning of good. . . . It was a strange thing about people − they could look the same but be different. (231)

ここで Helen は, 人というのは, 同じに見えても違う人間になれるのだと言う。 Frank は, これまでに, Helen にふさわしい結婚相手から, 彼女に危害を加える凶暴な非ユダヤ人, そして, 献身的に Bober 一家を救おうとする者というように, 次から次へと 「違う人間」 へと変化していった。 しかし, この変化というのは, Frank の内的性質に変化が起きた結果というよりも, 彼と Helen との関係性の上で彼という人間がどう評価されたかの変遷であると言える。 彼の持つ善や悪, 或いはユダヤ人との関係で言えば, ユダヤに対して好意的か反ユダヤ的か, という二重性がどちらか一方に統合されることはなく, Frank はその二つの間を行ったり来たりしているに過ぎないと言える。 このように, Frank と Bober 一家との物語は, Frank の 「変化」 を通して, はじめは不動のように見えていたユダヤ/非ユダヤとの境界の不確かさというものを示唆していると言える。
 

3
 ユダヤ/非ユダヤの境界を曖昧にする Frank の姿は, 作者 Malamud の姿と重なるところがある。 Malamud も "All men are Jews." という発言をすることによって, ユダヤ/非ユダヤの垣根を越えようとする姿勢を示してきた。 また同時に, この二人は共通の問題を抱えてもいる。 それは, 二人ともが 「ユダヤ人」 と呼ばれることにより, 常に彼らの 「ユダヤ性」 とは何なのかという疑問を突きつけられる, 換言すれば, ともに 「ユダヤ」 という特定の民族集団の枠内から理解される運命にあるということである。
 インタビューを受ける際, Malamud は, 彼のユダヤ人としての特殊性を探ろうとする質問に対し, 常に警戒心を抱いていたようである。 例えば, 「あなたはユダヤ作家ですか?」 という質問に対し, "I'm an American, I'm a Jew, and I write for all men." (TH 19) と前置きした後, "Sometimes I make characters Jewish because I think I will understand them better as people, not because I am out to prove anything." (TH 20) と答えているように, 自分はユダヤ人に生まれ, ユダヤ人についてよく知っているからそれを題材に書くだけであって, そこでユダヤの特殊性を描きたいのではなく, 「すべての人のために」 普遍的な物語を書こうとしているのだという立場を示し, 自分を 「ユダヤ」 という枠内に押し込めようとする働きかけに Malamud は抵抗しようとする。
 このように見てみると, The Assistant という作品は,"All men are Jews." という Malamud の普遍主義的主張を体現する作品として位置づけることができる一方で, ユダヤ/非ユダヤの垣根を越えようとする作家 Malamud の分身として見ることのできる Frank を物語の最後の最後で 「ユダヤ人」 と呼んでしまうことによって, 普遍主義を訴えながらも 「ユダヤ」 という特定の民族集団の枠から抜け出せない, 或いは抜け出すことを容易にさせてもらえない Malamud 自身の困難な状況を露呈させてしまう作品とも言えるのではないだろうか。
 このような, ユダヤという特殊性から離れたいという欲求とユダヤという特殊性から離れられないというジレンマは, この作品が書かれた 1950 年代当時のユダヤ系アメリカ人の多くが戦後アメリカの主流社会への同化過程の中で共有するものでもあった。 第二次大戦後, アメリカ生まれのユダヤ系第二世代の中で, 教育環境に恵まれた者たちがホワイト・カラーの職業に大挙して就き, 経済的に上昇した結果, 彼等の多くは生まれ故郷のユダヤ移民街を離れて郊外へと新居を求めて移動した。 戦後のユダヤ系アメリカ人たちにとって郊外への移動は, アメリカ社会における移民というよそ者の地位からの脱出, つまり, アメリカ社会に仲間入りするため, 生まれ育った移民の街, 文化などを捨てる行為に等しいものだった (Heilman 16)。 言い換えれば, ユダヤ移民街から郊外への移動というのは単なる物理的移動ではなく, いわば, 移民社会からアメリカ社会への移動, 主流社会への参入という意味を持っており, Arthur Hertzberg はユダヤ系アメリカ人たちによるこの移動を "a move into America" (310) と呼んでいる。 しかしながら, Hertzberg によれば, その際に移動を行ったのは主に二世以降の世代であり, 一世はその殆どが移民街に残ったままだったと言われている (309-310)。 つまり, 戦後のユダヤ系のアメリカ主流社会への参入, 同化の過程では, ユダヤ移民のアメリカ生まれの息子, 娘たちがより大きな社会, 世界へと移っていくために両親や生まれた街を後にしていく姿があったということである。
 そのようにしてアメリカ社会へと参入すべく郊外へと移ったユダヤ系アメリカ人たちに一つの問題が浮上する。 その問題を Irving Howe は, 以下のように述べている。

But moving into the suburbs required that people decide whether or not they wanted to declare themselves as Jews. At first everyone seemed amiable and anonymous, young and shiny, not stamped with an encrusted ethnicity. But that was just the trouble, since merely to surrender to the ways of suburbia was in effect a declaration about what one wanted to be. . . . At least some of them must have been alive to the irony that they were going to escape from "old-fashioned Jewishness." [sic] perhaps from Jewishness entirely, but would escape together, as Jews, comforted by the presence of other, also-escaping Jews. (614)

つまりその問題とは, 郊外に移ったユダヤ系にとっての自己規定の問題であり, 彼らがユダヤ人として生きていくか否かという問題であった。 新しく建設された郊外の街で, 非ユダヤ人たちと共に同じ生活スタイルの中で生きていくことに自己規定の不安を感じたユダヤ系アメリカ人たちは, 同じく郊外へと移ったユダヤ系同士で固まり, 郊外の街にシナゴーグや子供たちのためのヘブライ学校の建設をするなどというように, ユダヤ的なものにすがることで自分たちが何者なのかを確かにしようとした (Heilman 28-38)。 引用の中で Howe が指摘するように, ユダヤ的なものから逃れるために郊外に来たはずだったのが, 逆にユダヤ的なものにすがるべく仲間同士でかたまるという皮肉な姿がそこにはあった。
 ユダヤ移民の息子として 1914 年に生まれた Malamud もそのような戦後のユダヤ系の動きと無関係ではなかった。 実生活において, 1949 年から 1961 年まで Malamud は生まれ故郷のニューヨークを離れ, 妻と息子を伴い, オレゴン州立大学に英語の教師として赴任することになる。 後年, 息子の Paul は, 父 Bernard について書いたエッセイの中で, 父が子供時代の困窮から逃れ, 生まれた土地からできるだけ遠くまで離れたがっていたことを述べている (5-6)。 また, Malamud が離れたがっていたのは生まれた土地だけではなかった。 "All men are Jews." という発言に見られる彼の普遍主義者的態度もこの文脈から理解することができる。 ユダヤという一民族から離れ, より大きな, 普遍的な世界へと向かうその態度に, 移民街を離れ, より大きなアメリカ社会へと参入すべく郊外へと移った多くのユダヤ系アメリカ人の姿を重ねて見ることは決して難しいことではない。
 しかしながら, 郊外のユダヤ系アメリカ人たちが自己規定の問題に直面し, ユダヤ的なものを回復しようとしていたように, Malamud もまた, 自分がユダヤという特殊から離れていこうとしたことに対し, 複雑な境地を抱いていたことを示唆する発言をしている。

I thought of him [Malamud's father] as I began The Assistant and felt I would often be writing about Jews, in celebration and expiation, though perhaps that was having it both ways. I wanted it both ways. I conceived of myself as a cosmopolitan man enjoying his freedom. (TH 6-7)

この引用中に述べられているように, 彼の子供時代の移民街での経験が反映されているであろう The Assistant を書く際に, 自分の父親のことが頭にあったこと, 更には, 移民街を離れ, 物理的にも思想的にもより大きな世界を求めていったことによって自分が得た自由への後ろめたさから, 祝福と償いをもってユダヤ人を描くようにしていると述べていることの意味は非常に大きい。 なぜなら, 自由を求めるために後にした世界 − 恐らくそれは, Malamud にとって父親というものに象徴されているであろうことが先の引用中の発言から推測される − に対して後ろめたさを感じていたということは, Malamud が自身の誇る普遍主義に対して, 苦悩や葛藤を少なからず抱いていたことの証左としてとらえることができるからである。 この作品における父と息子の関係を見てみると, Malamud もこの作品を書く際にそのような自身の葛藤を意識していたのではないかと思われる。 なぜなら, この作品は, 「息子」 が 「父」 の元へと戻ってくる物語としてとらえることができるからである。 はじめは他人同士であった Morrris と Frank は, 最終的には擬似的な親子関係を結ぶことになる。 Morris の亡くなった一人息子 Ephraim の後を埋めるかのように, Frank は Morris の死後, 雑貨店を引き継ぎ, Morris と全く同じ生活を営むようになる。 Frank が西部からニューヨークへとやって来たという筋立てを考慮に入れれば, その執筆当時に同じく西部にいた Malamud の身代わりとして, Frank が 「父」 の元へ舞い戻ってきたとは考えられないだろうか。
 第二次大戦後のアメリカ社会の中で, より大きな世界へ進出するための扉が開かれたユダヤ系アメリカ人たちは, ユダヤ的なものから逃れるため, 新しく建設された郊外の街へと大挙して移り住んだ。 しかしその結果として, 自己規定の不安に駆られた彼らは, その不安の解消のために, 自分たちが逃れてきたはずのユダヤ的なものにすがろうとした。 そこには, アメリカ社会への同化過程の中で 「ユダヤ」 とその外側の世界との間で揺れていたユダヤ系アメリカ人たちの姿が見られる。 そのような時期に, Malamud も同じくユダヤという特殊と普遍的世界との間で揺れていた。 そのような揺れの表現手段として, Malamud はあえて 「ユダヤ」 の息子をユダヤの父の元へと舞い戻らせたのではないだろうか。 その意味において, Malamud の The Assistant という作品は, 作品執筆当時のユダヤ系アメリカ人たちの状況というものを多少なりとも反映した作品とみなすことができるであろう。
 The Assistant を Malamud の普遍主義思想の体現であると見るならば, それはユダヤと非ユダヤの出会いの物語と読むことができる。 また一方で, 普遍と特殊の狭間で揺れる Malamud と 「ユダヤ」 との困難な関係の露呈として見るのならば, それはユダヤの父と 「ユダヤ」 の息子との出会い, 再会の物語と読むことができよう。

※本稿は, 2004 年 6 月に行われた日本アメリカ文学会中部支部例会での発表原稿に加筆・修正を施したものである。
 

Notes

1  この立場の批評の例としては, Abramson 25-42, Alter, Harap 119-132, Mandel を参照。
2  本稿では, Alan Cheuse and Nicholas Delbanco, ed. Talking Horse: Bernard Malamud on Life and Work からの引用は, TH と略して表記する。
3  批判の立場をとる批評の例としては, Guttmann 112-120, Field を参照。
4  Frank が強盗ではなく, Frank 自身としてはじめて登場する第二章の冒頭にて, "Sam did notice that the stranger [Frank] sometimes seemed to be under stress. . . . Other times the stranger, as if he had somehow squared himself with himself, seemed relaxed, even satisfied with his existence." (26) とあるように, 菓子屋の店主 Sam Pearl が Frank の二重性にいち早く気づいている。 また Frank 自身も自らの二重性を感じ, 必死にそれを打ち消そうと Bober 家の人々に対し, 「自分は, 悪く見えるかもしれないが, 本当は良い人間なんだ」 と弁明する場面も何度か登場する (37, 133)。
5  他の例としては, Frank がレジの金を盗んでいるのではないかと感づいたときの "Was the Italyener stealing from the cash register?" (120) という Morris の発言や, Morris がガス中毒で倒れ, 益々経済的に苦しくなった雑貨店を彼の代わりに一人で切り盛りしようとする Frank に対して Morris が発する "Who could stay in such a place but a goy whose heart was stone?" (185) という発言などが挙げられる。
 

Works Cited

  • Abramson, Edward A. Bernard Malamud Revisited. New York: Twayne, 1993.
  • Alter, Robert. "Malamud as Jewish Writer." Commentary 42.3(1966): 71-76.
  • Cheuse, Alan and Nicholas Delbanco, ed. Talking Horse: Bernard Malamud on Life and Work. New York: Columbia U P, 1996.
  • Field, Leslie. "Bernard Malamud and the Marginal Jew." The Fiction of Bernard Malamud. Ed. Richard Astro and Jackson J. Benson. Corvallis: Oregon State U P, 1977. 97-116.
  • Guttmann, Allen. The Jewish Writer in America: Assimilation and the Crisis of Identity. New York: Oxford U P, 1971.
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  • Hertzberg, Arthur. The Jews in America: Four Centuries of an Uneasy Encounter: A History. New York: Columbia U P, 1997.
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  • Mandel, Ruth B. "Bernard Malamud's The Assistant and A New Life: Ironic Affirmation." Critique 7.2 (1964/65): 110-122.
  • Richman, Sidney. Bernard Malamud. New York: Twayne, 1966.
  • Roth, Philip. Reading Myself and Others. New York: Farrar, 1975.
2005.3.29