例会・支部大会 研究発表要旨

■ 1 月例会 研究発表要旨

 Heroine/ the bloody old hag
  − Hawthorn の captivity narrative "The Duston Family" の特異性をめぐって 
 中村 栄造 (名城大学)


 「ダストン一家」 (1836) は, ナサニエル・ホーソーンがインディアン捕囚体験を正面から扱った数少ない小品である。 1697 年 3 月 15 日, ニューハンプシャー州ヘイヴァリルはアブナキ・インディアンによる急襲を受ける。 その際に, ハンナ・ダストンは生後間もない赤子を目の前で惨殺された後, 捕虜となった人々とともに荒野のなかを遙か遠方まで連行されてしまう。 だが, 二週間後, 生活をともにするように割り当てられたインディアンの家族のうち十名 (四名の大人, 六名のこども) を, 他の二名の手を借り, 彼女はまさかりで殺害し, さらには証拠品として頭の皮を持ち帰ったと伝えられている。 ホーソーンの時代でも, その名は植民地時代の英雄として, 広く人口に膾炙していたらしい。
 だが, ホーソーン版では, 荒野の野蛮人インディアンは, 神に真摯な祈りを捧げる敬虔な人間として同情的に扱われ, 殺戮行為に及ぶ彼女は 「血まみれの鬼婆」 だと形容されている。 ホーソーンはスケッチ前半を使って, 彼女とは対照的に影の薄い夫に注目し, 残りのこども七人を守り抜いた英雄として賛美する。
 十九世紀前半の国粋的でロマンティックな状況下では, 我が子の復讐のため, インディアンをまさかりで殺したハンナは, 異民族, 異教徒を退治した母性の英雄, 民族の英雄として扱われることが大半であった。 そうした時代性にあって, インディアンよりも白人女性の方が残虐であるかのように読めてしまうホーソーンの描き方は異彩を放っている。 彼には, 時代のヒロインが, 究極の 「女性性」 を振りかざし, 「頭の皮を剥ぐ」 という去勢を連想させてやまない行為によって 「男性性」 を脅かす 「血まみれの鬼婆」 にしか見えなかったのかもしれない。 だからこそ, 彼女の強靱な生命力とバランスを取って, スケッチを成立させるためには, 夫の過剰な 「男らしさ」 が必要だったのではあるまいか。 この作品は, ホーソーンの男性性, 女性性を巡る意識のあり方の一端を見事に示していよう。


 エコクリティシズムの理論的 (不) 可能性
 結城 正美 (金沢大学)


 1990 年代初頭のアメリカでエコクリティシズム (ecocriticism) が生まれて十数年が経った。 当初は 「エコロジカルな文学批評」 (ecological literary criticism) と称ばれることも多かったエコクリティシズムも, 現代文学批評理論の例に洩れず, 文化研究的傾向を強めつつ多角的な展開を呈している。 エコクリティシズムは, もともと現代文学批評の理論偏重への抵抗ないし懐疑から生まれたという経緯をもつように, 従来の理論の枠組みにおさまりきらない理論と実践との有機的関係に基づいた理論構築を目指す。 それは理論という制度からみれば, 理論的脆弱さないし理論の回避と映る場合もあり, ここにエコクリティシズムが文学批評理論として広く認知されない最大の原因がある。 本報告では, 理論と実践との関係をおもに学際性とナラティヴ・スカラーシップの二点から検討し, エコクリティシズムの理論的特徴の検討を試みた。
 エコクリティシズムは, 生態学をはじめ環境をめぐるあらゆる学問分野の知を文学研究に取り入れることに積極的である。 しかし, より統合的な環境理解を実現するためには, 学際的性格の強化と同時に学問的な知と日常的な知の架橋も実現されなければならない。 このように, エコクリティシズムの根底には, 分断され細分化され専門化されてきた知を統合的に再構築する動きがある。 これは批評実践にも当てはまり, そのひとつにナラティヴ・スカラーシップがある。 「テクストと環境との関係」 を検討するエコクリティシズムの批評主体である批評家の役割を問い, テクスト・環境・批評家の相互関係に重点をおいた批評の試みである。 文学研究にフィールドワークを導入することによって可能になる作品の修正主義的読みや新たな批評のあり方を提示するナラティヴ・スカラーシップという方法論は, 理論と実践を両輪とするエコクリティシズムの理論的具体化とみなすこともできる。
 エコクリティシズムにおける知の再編成および理論の身体化は, フェミニズム理論と相似するところが大きい。 今後は, フェミニズムの理論的蓄積に照らすことによりエコクリティシズムの理論的特徴や問題を明らかにしてゆく作業も重要となる。


■ 4 月支部大会 研究発表・シンポジウム要旨

研究発表
 「愛」 いう名の罠 − ホーソーンの 『七破風の屋敷』 について
 松崎  博 (愛知学院大学)


 ナサニエル・ホーソーンの活躍していた時代は, 「家に勝る場所なし」 と歌う, 「ホーム・スウィート・ホーム」 が多くの人々の心をとらえていた時代だった。 にもかかわらず, いや, そうだからと言うべきか, エドガー・アラン・ポウの 「アッシャー家の崩壊」 などに見られるように, 家が悲劇の舞台になる物語がいくつも書かれた。 しかし, ポウの物語とは異なり, 『七破風の屋敷』 (1851) の最後で, 古ぼけた屋敷が崩れ落ちることはない。 ここでは, 長年にわたって対立関係にあった二つの家の末裔が突然, 恋人同士になることで幕を下ろす。 この唐突な結末は, 前作の 『緋文字』 の成功によって作家としての名声は獲得したものの, いまだ経済的に苦しかったホーソーンが, 「ハッピーエンド」 を求める文学市場の要求に配慮した結果だった。
 ホーソーンに 「ハッピーエンド」 を強いた市場経済が, 物語の内容そのものにも影を落としている。 1848 年から 54 年まで続いた自由土地党などへの言及から, 執筆された時代がそのまま物語の時代となっている。 南北戦争前のこの時代, 市場経済の拡大により, アメリカの人々の生活は大きく変化した。 人々の移動が活発になり, すべての人々が顔見知りというような, 従来の狭いコミュニティの情報のネットワークが機能しない 「他者たち」 の世界が多く出現した。 このような歴史的なコンテクストは物語を読む際に無視できない。
 物語の結末を 「ハッピーエンド」 にしたのは, フィービーへのホールグレイヴの 「愛」 の告白だ。 しかし, 彼の 「愛」 が本物である証拠はないのだ。 当時既に, 「愛」 は結婚の前提としてマニュアル化されていた。 そして 『緋文字』 のなかのへスターの言葉にもあるように, 人は 「愛しているふり」 ができるのだ。 「愛」 を告白したホールグレイヴは 「高潔な人物」 とされるが, それを示す具体例は作中に十分には示されてはいない。 「信用詐欺師」 という言葉が登場するのは 1849 年のことだ。 本発表は, 匿名性を増した社会のコンヴェンションを巧みに利用したホールグレイヴのしたたかな復讐物語としてこの作品を読解した。


 ソール・ベローのアフリカ (エチオピア) 物語
 鈴木 元子 (静岡文化芸術大学)

 
 Saul Bellow の Henderson the Rain King (1959) は, アメリカ人富豪が人生の危機に瀕して, 「シタイ, シタイ, シタイ」 という内なる声に突き動かされてアフリカに行き, ダーフ王にライオン療法を施されて, 何らかの成長を遂げて帰国の途につくという, まさにコミカルな冒険物語である。
 なぜアフリカでなければいけないのかという素朴な疑問は出版当初からくすぶり続け, その一方で, 批評家・読者によっては, 舞台がアフリカでなくてもそれに関係なくこの物語は存在し得るという読みも同時になされてきた。 具体的には, 「ジョークのアフリカ」 論から始まり, 「心の暗黒大陸」 の象徴としてのアフリカ, または 「文化人類学的地理を提供するイマジナリー・アフリカ」 等と評されてきた。 今日的な多文化主義の観点からは, ヘンダソンが人種差別主義者となり, さらには, ベローのアフリカ物語はトルーマン大統領の 「ポイント・フォー計画」 を嘲笑するものであるとの新解釈まで呈されている昨今である。
 これらの批評史を踏まえた上で, 発表者は, アフリカをアフリカとして真摯に受けとめ, 大学院で文化人類学を専攻したベローが当時の学問から具体的には, アフリカ唯一の独立国でアフリカのシンボルともいえたエチオピア (別名アビシニア) を念頭にこの作品を創作したのではないか, との論旨で発表した。
 案内役ロミラユの鼻が 「アビシニア人ふう」 であったり, 文学者にとってはランボーが住み着いた町として馴染みの深いエチオピアの 「ハラール」 は作品中に 3 回も出てくる。 その町で 「老王メネリクの宮殿の前をライオンを連れて見物して歩いた」 という表現があるが, メネリク王は 「ユダの獅子 (ライオン)」 を通称とするエチオピア皇室の王で, その宮殿は首都アディス・アべバにある。 すると, 事実を少し歪曲することで, ノンフィクションに近づく危険性を遠ざけ, あくまで想像物語の体面を保ちつつ, しかしながら骨子にはしっかりとライオンの檻を屋敷に置き, 部屋にもライオンをはべらせていた歴代エチオピア王とライオンの物語が存することは明らかである。 約 80 もの部族が暮らす国エチオピアには, アニュア族という名の部族もいるという。 今後さらに調査研究しなければならないことは多いが, 今回は発表者がエチオピアに実際に出かけ, 拾い上げてきた幾つかの事実と小説とを付き合わせることを試みてみた。



■シンポジウム

〈幻想文学〉とは何か − アメリカ文学との対話を通して
 司会・講師:小原 文衛 (金沢大学)
 講師:山辺 省太 (広島経済大学)
 講師:福田 立明 (跡見学園女子大学)


 体験的所与としての生活世界のなかで超自然的・奇怪な出来事が発生する。 この出来事に対して, 読者と主人公は解釈上, 二つの選択肢を与えられることになる。 一つはこの出来事を一つの幻覚・合理的に説明できる事象として把握すること。 この場合, 件の出来事が発生する物語は 「怪奇」 (不気味) の物語であると規定される。 もう一つはこの出来事の超自然性を現実のものであると結論づけること。 この場合件の物語は 「驚異」 の物語と規定される。 以上二つの領域の分水域に生起するのが 「幻想的なもの」 である。 つまり, 読者と主人公が, 先の二つの解釈的な選択肢の間で, いずれかの解釈を選択することを 「ためらう」, いわば認識論的な未決状態に陥る場所が 「幻想」 物語である, ということになる。 現在ではすでに古典の格位を与えられているツヴェタン・トドロフによる幻想文学の定義は大方以上のように要約できるが, もちろん, 幻想文学の定義は, トドロフの理論に集約できるような一枚岩的な問題ではないであろうし, トドロフの議論を構築する枠組みのドグマ性はつねに批判されてきたところである。 しかし, トドロフ自らも己が理論構築の枠組みの狭さをいわば了解済みの事項とした上で, 汎幻想文学論が生まれる危険性に対しての警告を行ってもいるのである。 ある意味, トドロフの議論はいまだ踏み越えられたものではないと言うことができるのであり, 再考の動機としてはこれで十分だと思われる。 「〈幻想〉文学とは何か?」 この問いはとりもなおさず, 「文学における〈現実〉はいかなる格位を有するのか?」 と問うことである。 読者は, 史的現実の一義性, 日常世界の自明性を括弧に入れることを要求されることになるのである。 本シンポジウムでは, 仮想現実に囲まれた現在の読者としての私たちが, 文学を存在論的に問うことで, 現実そのものの自明性を危機的に括弧入れする, 一つの試みである。


 反転する幻想文学 − Poe の〈現実〉とは? (小原 文衛)

 トドロフの幻想文学理論に対して, ポオのテクストがどこまで親和性を示し, この理論に対してどこから逸脱を始めるのか。 ポオのテクストがトドロフの理論に異議を唱えるとすれば, それはどのようなかたちか? 本発表における当初のテーマはこれである。
 (1) "William Wilson" − 分身物語の典型例とも言えるこの物語では, 分身の出現という非合理的な事件が, 主人公兼語り手の日常的な生活世界で発生する。 語り手兼主人公も読者もこの分身という存在が超自然的なものであるのか (驚異), それともすべては語り手の幻覚に過ぎないのか (不気味) と言う点においては 「ためらい」 の状態に置かれる点では, このテクストはトドロフの言う 「幻想文学」 理論に親和性を示している。 トドロフの理論が拠って立つ 「(人間的) 現実 (リアリティ)」 対 「幻覚・想像 (イマジネール)」 という二項対立をめぐって, このテクストは逸脱を開始する。 人間的な現実の内部に, 非合理なもの, つまり, 妄想的・空想的なものが侵入してくるトドロフの 「幻想文学」 とは逆に, このテクストでは, 語り手が自らの人生 (つまり彼が認識する現実) を夢だったのではないか, と自問している点に典型的に見られるように, この語りの地盤となる 「現実」 そのものがすでにして幻覚的な性質を備えているのであり, むしろこの語りに唐突に現れる 「錯覚」, つまり, 語り手が分身ウィルソンを前にして感じる, 「記憶が未だ生まれていない頃の記憶」, 「ずっと大昔に彼を確かに見知っていたという気持ち」, 最終的な分身との対決の場面における, 突如として 「部屋の奥, 上手一帯の配置が物理的に変化してしまっていた。 そしてありえなかった場所に大きな一枚の鏡が立っていたのだ」, という 「錯覚」 こそがむしろ 「覚醒」 と呼ぶべき契機を形成しているのだ。 つまり, ポオのテクストは, 「現実」 対 「想像」 という対立を共有する点ではトドロフの理論に親和性を示すけれど, この二項の関係は完全に反転しており, 「想像的・空想的・幻覚的なもの」 の内部に 「現実」 が侵入してくる, と言う点ではトドロフの言う 「幻想文学」 の概念枠を完璧に逸脱してしまう。 ポオのテクストは, 人間的な現実そのものの幻覚的な性質を示し, あるいは日常的な現実の 「外部」 にある 「もう一つの現実」 を想定することの必要を迫っているのだ。
 (2) "Morella" − このテクストにおける語り手とモレラ (母親) の関係, 語り手とモレラ (娘) の関係は双数的な想像的空間を形成している。 ここに介在するのが 「死」 という 「現実」 である (「現実性」 ではなく)。 ラストの場面において, 語り手は母親モレラの死体を安置した納骨堂に娘モレラの死体を運ぶが, そこに安置されていたはずの母親モレラの遺体は, 痕跡すら残さずに消えている。 このテクストでも, 語りの地盤となる 「現実」 はやはり幻覚的な性質を備えており, 「死」 がもう一つの現実として, この幻覚的な構造に侵入している, ということができる。 第一のモレラの死体が消えてしまうこと, このことは, 現実としての 「死」 の代表たるモレラの死体が, この空間には 「場」 を持たない, ということを意味している (=この語りの地盤を形成する幻覚的な 「現実」 においては, モレラの死体によって代表される現実はまさに 「無」 なのである)。
 ポオのテクストが提示する 「幻覚的な構造」 としての 「現実」 は, トドロフが依拠しているような 「人間的な現実」 の安定性を根底から切り崩してしまう可能性をもつものである。 ここで想定しなくてはならない 「もう一つの現実」 は, ラカンの 「現実界」・「現実的なもの」 の概念と極めて近似的な関係にある。 ラカンの言う, 人間的現実にとってまさに 「到達不可能な」 現実界である。 象徴化されずに, 外に放り出されるもの, それゆえに人間的現実の枠内にあるものとしての現実界である (ラカンのいわゆる 「抛棄」 されたもの, 対象化の契機をつねに逃れ出でるもの, 「狼男」 症例の読解のなかでラカンが出会うことになる 「現実界」 である)。
 (3) "The Masque of the Red Death" − 「モレラ」 では死体=死という現実界が, 幻覚的な空間としての現実性のなかに, 場を持たない。 「無」 のイメージは, "The Masque of the Red Death" に, より具体的なかたちで現出している。 赤死病という "pestilence" が猛威を振るうなか, 主人公のプロスペロー公は, 城郭風の僧院という一つの閉域に仲間を引き連れて外部の影響を遮断し, さまざまな享楽にふけるが, この閉域にもやはり現実界が侵入してくる。 壮大な仮面舞踏会が催されたこの閉域のなかで, ある奇怪な "figure" が一同を動揺させるのだ。 死に装束に身を包み, 全身に血痕をちりばめたこの異様な姿に, 怒りと戦慄を覚えたプロスペロー公は短剣を抜いて踊りかかるが, この奇怪な "figure" が公のほうに向き直った瞬間, 鋭い叫び声が起こり, プロスペロー公は, 短剣を落とし, 事切れて, その場に倒れてしまう。 一同はこの "figure" を捕らえるが, この死に装束と仮面の下には, 影も形もないのである。 結局, 全ての人々が死に, 最後は暗黒と荒廃と赤死病が, あらゆるものを無限に支配することになる。 ここでも, やはり, 仮面の下は 「無」, つまり, 母親モレラの死体の消失と同様な事態が発生している。 「外部は外部でどうとでもなればよい」 をモットーとするプロスペロー公の閉域はいわば, 「外部」 を抛棄しているわけだが, 彼らの享楽も一時間ごとに, つまり, 大きな黒檀製の柱時計が時間を告げるごとに遮断される。 柱時計が時を告げるたびに, 踊りも主演も一時停止し, 一同は動揺し, 青ざめるのである。 時計が撃ち終わると, 酒宴は再開するけれども, 一時間後には同じような停止が起こる。 例の奇怪な "figure" が最後に不動の状態で立っていた場所も, この黒檀の時計の近くである。 閉域に忍び込むこの奇怪な "figure" と, 一時間ごとに夢幻的な酒宴を遮断するこの黒檀の時計の効果は, 緊密な関係にあるということができる。 ラカンは, 「現実界とは, つねに同じ場所へ戻ってくるものである」 と述べているが, プロスペローの閉域はつねに (一時間ごとに) 戻ってくる現実界によって, つねにすでに危険にさらされていたのである。 さらに, ラカンはこう述べる。 「現実界と我々はどこで出会うことになるのでしょうか。 精神分析が見出したものにおいて重要なのは, ある出会い, 本質的な出会いです。 それは逃れ去る現実界との出会いの場であり, 我々はそこへつねに呼び出されるのです」。 現実的なものは, あの奇怪な "figure" と同じように, 捕まえたと思っても, 実は 「無」 としてのみ, 出現するのだ。 誰も現実会を捕まえることはできない。 現実界はつねに逃れ去るのである。 この意味で赤死病と言う "pestilence" は現実的界の第一の比喩となる。 (ちなみに "William Wilson" の語り手も, 分身からの逃亡の不可能性を記述する際に, "as from a pestilence" という表現を用いている)。
 トドロフの議論を支える現実・幻覚の概念枠を, ポオのテクストがすでに乗り越えてしまっている, このことは明らかである。 トドロフの言う現実は, あくまで 「人間的な」・「象徴的な」 現実なのであり, このような概念的な枠組みを基盤とする思考運動は, いつも 「現実的なもの」 に出会い損なうのである。 トドロフがポオの作品群を, ほとんどが驚異の物語である, そこには 「ためらい」 がなく, 幻想文学が生起する場所はないとしている。 実際トドロフはポオに出会い損ねていたのである。 ただし, トドロフが拠って立つ, 現実・幻覚の二項対立, つまり主観客観図式から, 思考運動を始めること, まずそこから始めることは必要なことである。 「現実的なもの」 はあまりに危険だからである。
 ラカンがユンクから聞いたというエピソードがある。 精神分析が初めてアメリカに渡ったとき, つまり, フロイト, ユンクらがクラーク大学を訪問した際, ニューヨーク港に着いたフロイトは, 自由の女神を初めて見ながら, 「彼らは, 我々が疫病を持ち込んだことを知らない」 と言った。 ここでは, 精神分析が疫病と隠喩的な等価関係にある。 ラカンは, 「我われの活動を他の全てのもの以上に支配しているのは現実界であり, 精神分析は我われにそのことを示しているのです」 と指摘している。 彼が言う通り, 現実界 (the real) という知ならぬ知を, 人間的・象徴的な現実性 (reality) に持ち込むものとして機能する精神分析が, 疫病の比喩で表されても, 何の不思議もないのであろう。 だとしたら, ポオのテクスト自体が, 私たちにとって, 一つの疫病として機能しうること, このことも覚悟しておかなくてはならないのかもしれない。


 失われたエコーを求めて −
  Thomas Pynchon の The Crying of Lot 49 における幻想と開示(山辺 省太)


 「明白なるものの背後に別な様式の意味が存在するか, あるいは存在しないか。 真のパラノイアという旋回飛行の恍惚状態にいるか, あるいは, 真のトライステロに捉えられているか。 アメリカという遺産出現のかなたにトライステロがいるか, あるいは, ただのアメリカが存在するだけか」。 Thomas Pynchon の The Crying of Lot 49 の幻想性を集約すれば, 引用した主人公エディパ・マースの苦悶のフレーズが最もそれに当てはまる。 彼女は, かつての愛人でありまたカリフォルニア州の不動産業界の大物, ピアス・インヴェラリティの遺言使命人に指名されるが, その処理の過程で実在するかわからない謎の地下組織 「トライステロ」 に気付き, その集団がピアスと大きく関わっている可能性があることをしる。 そして, あたかもギリシア神話のナルシスが水面に映った自身を他者と思い込み, その姿に夢中になり, そしてその実体を掴もうとするように, エディパは, この集団の実在性を確証するために躍起になる。
 ブライアン・マックヘルはこの物語の特徴を, 「存在するかもしれないし, 存在しないかもしれない。 そこにジレンマがある」 と表現するが, The Crying of Lot 49 が幻想的であることの証左は, 「あるいは, トライステロは存在するかもしれない」 というジレンマの言葉が, エディパの頭から離れないことにある。 この 「あるいは」 という接続詞は, ツヴェタン・トドロフが 『幻想文学論序説』 において幻想文学の大きな特徴と指摘した言葉 − 「ためらい」 − に置き換えることは可能であろう。 トドロフの定義に依れば, 幻想とは, 自然の法則しか知らぬ者が超自然と思える出来事に直面した時に, それが現実なのかそれとも超自然的なものなのかを認識しようとする間に生じる迷い, 「ためらい」 と直結しており, もし幻想が超自然的なものと判断されれば, それが 「怪奇」 や 「驚異」 という他のジャンルとなり, もはや幻想の範疇に属しないことを指摘する。 幻想とは, 判断可能な領域と不可能な領域との狭間への迷い込みであり, それが解明されるべき瞬間を想起する。 その意味で, トライステロの郵便組識 WASTE が WE AWAIT SILENT TRISTERO'S EMPIRE の頭文字をとった略語であるのは, その啓示の瞬間, 「沈黙のトライステロ帝国」 という幻想が解明される瞬間であり, この啓示を 「待つ」 ことが, トライステロが単なる想像の産物ではない, 「あるいは」 実在するかもしれないという幻想の狭間, 幻想の迷宮を生み出す力となる。
 そもそもこの作品において, このような幻想的な謎の秘密集団の存在を仄めかす要因は, 現代のアメリカの現実への懐疑にある。 その現実とは, 「大きなデジタル・コンピューターのマトリックスの中を歩いており, 無数の 0 と 1 が頭の上に対になって並んでいて, 右にも, 左にも, 前方にも, ぎっしりと, 果てもないほど, バランスの取れたモビールのようにぶら下がっている」 状態であり, それがピンチョンのいう 「エントロピー」 という混沌の世界である。 多様性がなくなり, 「主体性が欠け」, 「中間が脱落し」, 「0 と 1」 の関係のみ成立する同一性としてのエントロピーの世界, 「トライステロ」 という幻想は, この 「バランスのとれた」 世界, 他者のない sameness の世界に不可解な他者として侵入する。 そして, この他者は同一性の世界, 「0 と 1」 しかない虚無の世界に 「あるいは」 という分流を生み出し, 「0 と 1」 の世界に風穴を空け, そこから多様性への可能性を形成する。 The Crying of Lot 49 において, 「トライステロ」 という幻想はエントロピー的なアメリカの現実と並置しており, その幻想を通して現実世界の表層を転覆し, その下に埋もれている, あるべきもうひとつの世界を演出しようとする。
 エントロピー的世界, それはアメリカという巨大なシステムの中に飲みこまれることであり, 主体と他者とのコミュニケーションもない世界であり, 現代における主体の完全な喪失である。 ピンチョンは, 主体が自身の中に囚われてしまっていること, そして他者との交流が困難になっているエントロピー的状況を, 自身の形象の美しさに飲みこまれてしまったナルシスの姿を, 視線と反射の要素を散りばめながら暗示する。 ナルシス的な要素は, The Crying of Lot 49 の幻想性を強化する装置として機能するが, 彼の物語とは, 結局他者と交感することなく自分自身の閉ざされた世界から脱出できなかったエントロピー的幻想物語であり, 「トライステロ」 の幻想性と共鳴(エコー)しない。 「トライステロ」 の幻想性と密かに共鳴(エコー)し合うのは, たとえばガヤトリ・スピヴァックが指摘するように, ナルシスの影に隠れてあまり着目されることのないエコーに付随する要素である。 いうなれば, The Crying of Lot 49 における幻想性を醸し出すのは, 視覚よりも音声の作用なのであるが, 重要なのはそのエコーの特質である。
 ナルシスではなくエコーが 「トライステロ」 と反響し合う理由として, その反復の機能が挙げられる。 ジョン・バースは, Lost in the Funhouse の中の Echo という章で, 「エコーは一般的に言われているように, ゴシップや鏡のようにすべてをただ単に繰返すのではなく, 主体的に, 他者の言葉を編集し, 高揚させ, 音を消し, そして自身の目的へと変えていく」, とエコーが一見他者の音声を繰り返すだけのようにみえて, 実は彼女が主体的にそれを 「編集」 している特質を指摘する。 またショシャナ・フェルマンは, アウシュビッツの証言の中に生じるエコーの性質を以下のように記述する。 「リフレイン……その機能は, まるで機械のように対話の相手の発言の最後の言葉をインタビュアーの声で投げ返す (回帰させる), 声のエコーによる繰り返しにも似ている。 このエコーは, そのこだまの原因となったであろう元の言葉をたんに再現させるのではなく, むしろそれを疑問に付すのだ。 ある合理的なもの, 終結, 限界が存すると思われたところで, リフレインのような反復は, ある空白を, ある裂け目を開いてみせるのであり, それによって, 開かれた問いの未規定の空間を開示する」。 このバースやフェルマンの指摘するエコーの反復とは, 同一性から逸脱し, あるいはその中に裂け目を生み出し, 破壊し, そして今まで開示されなかった新たな領域へと誘う性質を持つが, これはまさに, エントロピー的な同一性のアメリカ世界に潜みながらそれに揺さ振りをかける幻想世界, 「トライステロ」 と呼応する。 同一性からの逸脱, それは作中に記述されている, 「心の鋤の先が震えて畝と畝の間の溝からはずれていく」 という語源を持つ, 時間の微分 (time differential) の真理とも共鳴 エコー している。 時間の微分とは, 平均率という定数からはずれる 「わずかなプラス, マイナス」 の差異で, 測定される物質の実体を垣間見る事ができる不可視の瞬間である。
 エドワード・メンデルソンは, この物語が二つのタイプの反復, 「取るに足らない反復」 と 「時間を超えた, 変容することのない神性なものを指し示す反復」 を内包していることを指摘するが, バース, フェルマンが指摘するエコーは, 認識不可能なものを開示するという点において, 後者の神的な反復と結び付く。 そして, その未規定の領域へと横滑りする反復のエコーこそが時間の微分のような差異を生み出し, 「トライステロ」 の啓示のモメントを形成するのである。 ちょうど, 「トライステロ」 という 「魔法の他者」 とは, 「継電器のうなり, 侮蔑, 汚辱, 幻想, 愛などの単調な叫び (roar) が繰返される中で」, その叫びの中から 「いつしか生じる, 名付けることのできない行為, 認識, 『御言葉』 の引き金」 を生み出すように。
 「トライステロ」 とは, 常に差異を生み出しながら認識からすり抜けていくエコーのようなものであり, そのことを示すかのように, 作中に散りばめられている一見意味のなさそうな様々な声の反響(エコー)は, The Crying of Lot 49 において, ナルシス的な視線と反射の力学同様に決して見過ごしてはならないものである。 エコーは, 幻想文学において圧倒的な美しさを持つナルシスの影に隠れた寄生する存在であり, それ故に, 現代のエントロピー的なアメリカの影に隠れた存在, かつて存在したかもしれないがもう失われた 「トライステロ」 の声と常に共鳴(エコー)しあっているのかもしれない。 しかし, もしローズマリー・ジャクソンが Fantasy のなかで指摘したように, 「幻想とは, 常に不協和音的な要素を併せ持ち, 統合や固定化に激しく抵抗する」 ものであるならば, ナルシス以上にエコーは幻想物語の中で不可欠な人物, 音声となり, 「トライステロ」 という幻想世界と強く結び付く。 開示されていない, 「未規定の空間」 をこじ開けるエコーは, その追いかけても捉えることのできない声を通して, 過去に埋もれた 「トライステロ」 という扉の前にエディパを導くのである。 T. S. Eliot が以下に謳うように。

足音が記憶の中にこだまを響かせながら
まだ通ったことのない狭い路地を辿って
まだ開けたことのない扉に向かい
バラの園に入っていく。 ぼくの言葉も
そんなふうにきみの心にこだまする。
                   しかし水鉢のバラの
花びらに積もったほこりを煽って, 何になるのか
ぼくにはわからない。
          まだほかにもこだまたちが
バラの園にいる。 追いかけてみようか。


 読書と意味 (幻想) 生成(福田 立明)

 シンポジウムの発題者間でカテゴリー論の枠組み論拠として了解されていた Tzuvetan Todorov, Introduction a la literature fantastique (1970) は, Nothrop Frye のジャンル論 (Anatomy of Criticism 1957) 批判を起点として書かれている。 トドロフにしたがい, フライの文学ディスクールのカテゴリー分析を図式化すると, 次のようになる (Todorov 12; Frye 312-13)。

 
Intellectual
Personal
Introvert
Confession
Romance
Extrovert
Anatomy
Novel


 この図式には現れない 「短編小説」 ("Story", "Tale") は, ことに古典アメリカ文学の場合, 「ロマンス」 の範疇に組み入れてよいものが多い。 19, 20 世紀のアメリカ幻想文学の代表例 (と私が思うもの) を, それぞれ "The Black Cat" (1843) と Lolita (1955) として例示する場合, 両者は日本語での 「小説」 のジャンル拡大解釈からすれば, 「告白」, 「ロマンス」, 「解剖/分析」, 「小説」 のすべての範疇の性格を帯びている。 つまりフィクション形式なるものは, 知的, 私的を問わず, 内向的言述と外向的言述をもろともに包括しうる弾力性を備えていることがわかる。 もとより, それは多分にフィクションのレヴェルでの 「告白」 や 「分析」 であるとしても。
 幻想文学は上記のカテゴリーでは, 内向的で私的なもの, つまり 「ロマンス」 の範疇内にあり, 私がたまたま例示した二つのテクストをそう呼んでも差し支えないのだが, それが同時にフライの他の分析カテゴリーの全項目の特性をもはらみこんでいることに, まず注目しておきたい。
 構造主義者のトドロフは, このような現象の背後にある抽象的構造を幻想文学の公準として求める。 一文で要約すれば, 「幻想 (the fantastic) とは, 自然法則しか知らぬ人が見たところ超自然的な出来事に直面して経験するためらい」 のこと, と定義される (Todorov 25)。 さらに 「幻想」 の隣接ジャンルとして, 物語主人公と感情移入した読者が事件を現実に生起したものと解釈する 「驚異」 (the marvelous) と, 幻想と解釈する 「怪奇」 (the uncanny) の二つが, その両端に連続するものとして想定される。 ここで現実と空 (幻) 想という対立概念を文学ジャンルの定義づけの基準とすることの危うさは, 文学者ならずとも感じ取られよう。 文学こそが, トドロフも気づいているように, 稀有な想像力によって日常的現実と空想的非現実との境界を自在に超越させるディスクールであることは, 改めて付言するまでもない。
 トドロフのいう 「ためらい」 が続くのは一定期間であり, いずれは事件が現実か, 空想の所産かのいずれか, として納得されることによって, 物語はそれぞれ隣接する 「驚異」 か 「怪奇」 の一方向に移行することになる。 したがって純粋な幻想小説は, その両端から限りなく侵食される危うげなジャンルとしてのみ存在すことになる。 古典アメリカ小説についていえば, 「怪奇小説」 へと還元されることが多い。 こういうジャンル移行の傾向を予期するかのように, Poe は 「黒猫」 の語り手に 「やがて私の幻想をありふれたものとして片づける知性の持ち主が現れよう」 (Poe 850) と予言させている。 彼には, 事件の解釈上のためらいが永続するものでないことが感知され, 幻想小説から怪奇小説へのジャンル移行が避けられないことが予見されていたかのようである。
 幻想文学のテーマが二十世紀の心理学研究のテーマへと化し, それがこのジャンルの衰退の一因となることは, トドロフが指摘する通りであろう (160-61)。 その一例として, Otto Rank による分身テーマの研究が言及されるようになる (161)。 文学は文学から創られるというフライの仮説からすれば, 「黒猫」 から創られたともいえる Vladimir Nabokov の 『ロリータ』 では, 分身モティーフは反復的に使われる。 Humbert を 「黒猫」 の語り手同様に獄中告白者にさせる因となった Clair Quilty 殺害のバーレスク的描写が, ハンバートの自己処罰の悪夢を暗示することに気づく読者なら, ロリータとの情事の成就直前に暗いフテルのポーチで, 彼の分身と思われる男から衝撃的な問いかけを受ける挿話を見逃すことはあるまい (Nabokov 117)。 20 世紀小説の分身モティーフも, 「黒猫」 同様に物語が深層のレヴェルで, 性的放逸と抑圧という禁断のテーマに関わる幻想小説であることを示唆している。
 精神分析学の幻想文学研究の一例として, Freud, "Das Unheimliche" (1925) では, 「不気味なもの」 の定義づけのひとつとして 「秘められているはずのものが表に現れてきたときは, 何でもすべて不気味な, と呼ばれる」 という Friedrich W. J. Schelling の言葉が引用される (『著作集』 332-33)。 トドロフの読者反応批評的な 「ためらい」 という定義よりも, この深層心理学的な公準はより広い適用範囲を与える。 新大陸最初の職業作家 Washington Irving は, 世界的に読まれるアメリカ最初の物語 "Rip Van Winkle" (1819) で, 日常世界から秘められている 「山中のゲームをする人びと」 という旧世界のゲルマン神話モティーフを新世界の土俗神話化する。 キフホイザー山をキャツキル山稜に, Frederick der Rothbarth を "Hendrick Hudson" に, テュートン神格 (テクスト上は隠されている Odin) をアメリカ原住民の神霊 (Manitou) にそれぞれ置換し, 建国動乱期と共時化することにより, つとにアメリカニズム原型物語において一種の文化変容的神話形成を果たし終えていることが知られるのである (福田 『アメリカニズム』 133-46)。
 アメリカ文学は当初の Pocahontas 神話 (白人植民者側からすればインディアン捕囚体験記) 以来, "Young Goodman Brown" (1846) から Beloved (1986) に至るまで数々の 「秘められたもの」 を明かし, 構造主義文学理論的基準からも心理学的基準からも, 豊かな幻想文学を生み出してきた。 それを味読してみれば, たとえ表面上は幻想性に欠けると思われる作品であっても, 作者の精神の産婆術によって人間存在の深層の暗闇から引き出された言語テクストは, すべて広義の幻想小説の性格を帯びることがわかる。 その極端な例としてポウの〈風景庭園譚〉があるが, メタファー表現を読み取る読者ならば, それが語りうるものと語りえないものとの境界領域にある幻想世界の言説化であることを感知することになろう。 「黒猫」 や 『ロリータ』 が現実のミメティックな表出ではなく, 表現不可能なものを表出しようとする限界への挑戦として語り手の内面劇の形を取るように, 風景探訪の行程さえもが詩的深層心理劇となるのである (福田 「地形学的想像力」 17-18)。 もっともナイーヴな読者でも, フロイトがいうように (『著作集』 3.14), 私たちの心は何のためらいもなく作者と共に空想の世界へと踏み込んでいくことができるから, 狭義での幻想文学が書かれるのであり, それにしたがってジャンル論も必要とされるのだろう。
 もちろん私見をこれ以上唱えるのは, せっかくのシンポジウムの論題を脱構築する恐れがあることは弁えている。

引用文献

  • Freud, Sigmund. Das Unheimliche. 1925. 高橋義孝他訳 「無気味なもの」
  • 『フロイト著作集 3 文化・芸術論』 人文書院 1969 年.
  • Frye, Northrop. Anatomy of Criticism: Four Essays. 1957. New York: Atheneum, 1968. 
  • Irving, Washington. "Rip Van Winkle." The Sketch-Book of Geoffrey Crayon, Gent. 1819-20. Susan Manning, ed. Oxford: Oxford UP, 1996. 33-49.
  • Nabokov, Vladimir. Lolita. 1955. New York: Berkley Medallion, 1966.
  • Poe, Edgar Allan. Collected Works of. 3 vols. Thomas Ollive Mabbott, ed. Cambridge, Mass. and London: Belknap P of Harvard UP, 1969, 1978.
  • Rank, Otto. Der Doppelganger. 1914. 有内嘉宏訳 『分身 − ドッペルゲンガー』 人文書院 1988 年.
  • Todorov, Tzuvetan. Introduction la literature fantastique. Paris:Seuil, 1970. Richard Howard, trans. The Fantastic: A Structural Approach to a Literary Genre. Cleveland/ London: P of Case Western Reserve U, 1973.
  • 福田立明 『アメリカニズムと神話形成』 開文社出版 1999 年.
  • −−−−. 「ポウの地形学的想像力 − 言語と心象のあいだで」, 『跡見英文学』 14 号 (2001 年 3 月):1−20. 

■ 6 月例会 研究発表要旨

 「父」 と 「息子」 が出会うとき − Bernard Malamud の The Assistant
 本田安都子 (名古屋大学 (院))

 Bernard Malamud の The Assistant (1957) には, 非ユダヤ人の主人公 Frank Alpine が 「ユダヤ人」 となるという結末の意味をめぐって, 批評家達から様々な解釈, 評価が与えられてきた。 多くの批評家達は, ユダヤの迫害の歴史をユダヤ民族に固有のものとみなさず, それは誰もが被る可能性のあるものだという趣旨のこめられた 「すべての人はユダヤ人である」 という Malamud による発言を受け, Frank は, そのような Mulamud の思想を体現するような象徴的 「ユダヤ人」 になったのだという解釈を支持してきた。 しかし, ユダヤの歴史をそのように一般化, 象徴化してしまう事への批判も勿論なされている。 中でも Philip Roth は 1961 年に発表したエッセイの中で, Malamud がその初期作品において, 「すべての人はユダヤ人である」 という彼の思想を体現させるような象徴化された 「ユダヤ人」 ばかりを描き, その結果, 現実のアメリカ社会において, 自身のユダヤ性の問題に葛藤を抱いているユダヤ系アメリカ人達の姿を作品の中では省みていないとして批判をしている。
 本発表では, 上記の Roth の批判をふまえつつ, そのような批判に収まりきらないような側面を The Assistant の中に読み取っていこうと試みた。つまり, The Assistant において, 作者 Malamud 自身のユダヤ性に対する揺れや葛藤を読み取る事は出来ないか考察を試みた。
 注目すべき点として, 父子関係に焦点を当てた。第二次大戦後のユダヤ系アメリカ社会には, Malamud 自身もその一人である移民第二世代以降の者達の多くが, 親達を移民街に残し, 大挙して郊外の街へ新たな生活を求めて移住するという現象があった。その移動は物理的移動であると同時に, 「移民」 という地位から 「アメリカ社会」 へと参入するという意味もこめられたものでもあった。しかしながら, 移民街, そして移民の親達からの別離の後には, アメリカ社会における自らの自己規定, 自身のユダヤ性に関する葛藤という問題が彼等を待っていた。 The Assistant の中でユダヤ/非ユダヤの垣根を越えようとする Frank の姿には, 「すべての人はユダヤ人である」 と主張する事によって 「ユダヤ」 という一民族の枠から抜け出そうとする Malamud の姿を重ねる事ができる。しかしながら, 物語の最終部分において, Frank にユダヤ人雑貨店主 Morris Bober との間に擬似的親子関係を結ばせ, 更には, 彼を 「ユダヤ人」 にするというこの物語の結末には, Malamud が 「ユダヤ」 に対して感じていた一筋縄ではいかない複雑な感情の発露を読み込む事は出来ないだろうか, という指摘をした。


 Willa Cather, Sapphira and the Slave Girl を読む
 岩田 和男 (愛知学院大学)


 本発表は, 失敗作といわれる Willa Cather の最後の作品 Sapphira and the Slave Girl (1940) を, 積極的に評価する立場から読むものである。 それはすなわち, この作品において生き生きと描かれている南部を生かす読みであり, Cather と南部の関係を重視した読みとなるはずである。 しかし, そういう読みは必ず, モダニスト, 田舎から都市への変化を描く 「動」 の作家としての彼女のイメージとの間に齟齬をきたす。 そこで本発表は, その乖離を埋めるべく, 描かれる登場人物の特徴を交通 (モダン=現在)/非交通 (プリモダン=antebellum) と図式化してみた。 その結果目立つのは, Sapphira の動と静であり, 見て考える人 Henry の不動であった。 そして, そこから見えてくるこの小説の特徴とは 「動きたくても動けない姿」 であり, その二人がそれを確認する場面 (268-69) とは, まさに小説における二人の象徴的な死を示唆しているのである。
 「古き時代のよき人びと」 を回想する。 小説の基調はこれに尽きるが, しかし単なるノスタルジアでもない。 この小説は, 実は現在時制で書かれており, それはすなわち作者がこの作品を執筆時期から眺めていることを示唆するからである。 とりわけ, 南部の土地である Double S に言及した箇所が現在時制に基づいていることの意味は大きい。 なぜなら, その描写中に使われている singular・rock・something slow and dreamy で表現される南部の情景とは 「単独 (singularity)」 そのものだからである。
 既に時代は過ぎてしまったという, 自分ではどうにもできない事態を manageable なものにすること。 Double S とはその象徴なのではないか。 決して諦念ではなく, 私に関わるひとつの 「個」 の結実として世界を構築していく。 それは, 行き過ぎてしまった社会の中で自分に把握できるものを探して生きようとする, 南部を故郷に持つ現代人 Willa の姿である。 だからこそ, この現在時制による自然描写は nature writing のように私たちの目に映るのではないか。 それを作家 Willa に重ね合わせると, 作品執筆時期 (1938〜40 年) に既に彼女にはポストモダンの萌芽があったということになるのかもしれない。 そういう意識というかぼんやりとした自覚のようなものが, 上述の作中人物二人を 「個」 として描くことへの Willa のこだわりという形をとっているとも言えよう。 そうしてみると, この二人の姿がどことなくクィアに見えるのも, 同じ理由で構築された, ある意味理想的な人物像だからということにもなる。 その意味において, Henry の姿がどことなく少女漫画に登場する, 女性から見たときの理想的な男性の姿に似ているように見えるのは, 私としてはとても興味深いところなのである。



■ 9 月例会 研究発表要旨

 非リアリズム文学批評を概観する
 − Frye, Todorov からポストモダニズムへ
 長澤 唯史 (椙山女学園大学)


 本発表では, ファンタジーや SF など, リアリズムとは異なったスタイルや様式を持つ文学形式を, ポストモダニズムとは異なった文脈で再評価することを目指し, その前提として Northrop Frye 以降のジャンル論の再検証を行うことを目的とした。
 19 世紀末から 20 世紀初めにかけて新たに誕生した芸術形式が, それ以前の芸術とどのように質的に異なっていたかは, T. E. Hulme を初めとする論者によって検証されてきたが, その新たな芸術が, アインシュタインの相対性理論と同根である経験的現実への不信と, 新たな現実世界の構築へと向かったこと, そしてその運動と 「非リアリズム」 とも呼ぶべき文学形式との関連を文学史的な観点から論じた先行研究はいまだに多くない。 近年はポストモダニズムの議論の中に回収されつつあるこのような "Literature of Unreality" (Rosemary Jackson) をあらためてジャンル論の文脈から再検証することによって, 逆に既成の文学史への新たな視座を提供することが可能となるかもしれない。
 ジャンル論ともいうべき新たな文学研究の枠組みを作ったのが, フライの Anatomy of Criticism (1957) であるが, フライの提示したモデルが理論的というより経験的に導き出されたものであること, そのため論理的に不整合な点が多々あることを, Christine Brook-Rose を援用して検証した。 そのフライの曖昧さを補正しようとした Tzvetan Todorov の The Fantastic (1973) は逆に理論に拘泥するあまり歴史性が欠如してしまい, 結果的にほとんど現実に存在しない 「幻想」 というジャンルを作り出してしまったことを指摘した。 ただしこの両者の功績は, このような弱点を補って余りあるものである。
 この両者を止揚して新たなジャンル論を構築しようとしたのがジャクソンの Fantasy (1981) である。 このジャクソンの論の検証を通じて見えてくるのが, いわゆる 「ロー・ファンタジー」 と 「ハイ・ファンタジー」 の区分と, 英米におけるその位置づけの問題である。 とくに主流文学とジャンル文学の区分と, この二種のファンタジーの区分とは密接に絡み合っていること, そこにこそ新たな文学史の見直しの可能性があることが, 今回の発表から垣間見えてきた。 今後はこのファンタジー/SF のジャンル論に踏み込み, さらに検証を進めていきたい。


 グローバリゼーションの文脈における Emasculation/ Domestication
  − The Woman Warrior をめぐる 「外枠/内枠」 物語 −
 和泉 邦子 (金沢大学)


 キングストンの 『チャイナタウンの女武者』 (と 『アメリカの中国人』) をグローバリゼーションが進行する文脈の中で, ジェンダーとエスニシティが交渉し合う物語として再読を試みた。 中国系移民男性のエスニック体験としての外枠物語は, <Emasculation of Asian Men>として, 中国系男性の 「アメリカ化物語」 に孕まれる 「女性的」 位置への格下げという仕打ちに対する屈折した自己表象をとってきた。 この表象は, エスニシティの要素をジェンダーカテゴリーへと比喩転嫁した 「記号」 であるが, このミクロレベルでのアイデンティティ表象をマリア, ミースらの提起している問題点, つまり, 「世界システム」 論におけるマクロレベルでのジェンダー概念の再利用という現象と照らし合わせて考察した。 ミクロとマクロの比較で, 明確になることは, 世界中の女性を 「扶養される主婦と定義する政策 (housewifization international)」 をグローバルに展開することで, ジェンダーは, 「第一世界の女」 と 「第三世界の女」 を両極に分断して異なる支配を公使する理念となり続けていることであり, かつ, エスニシティのジェンダー化表象によって, 特殊化される男性への支配力としても利用されていることである。
 そのような問題を孕む外枠物語に対して, 『女武者』 は, 移民第一世代の母と第二世代の娘の物語が, 内部に抱え込まざるを得ない Domestication というコミュニティの要請を入れ子状に構造化している。 その内枠となる母と娘の物語には, 中国の伝統的家父長制とアメリカのブルジョア核家族の両方に存在する 「ジェンダー/セクシュアリティ」 制度の問題があり, 母の物語を語る娘が 「自らの声」 を見つけ出す作業を至難のものにさせている。 しかし, the Mother Tongue という 「エスニシティ/ジェンダー/性」 が幾重にも絡み合った身体の場を象徴的に提示することによって, キングストンの二重の語りは, Cutting the Mother Tongue とは, 解放の身ぶりであると同時に, 未来に向けての再意味化のための結束のエネルギーが孕まれる場でもあることを示しているのではないか。



■ 11 月例会 研究発表要旨

 Charles Busch の The Lady in Question
  − メタシアトリカリティとパフォーマティヴィティ
 藤田 淳志 (名古屋大学 (院))


 Charles Busch の The Lady in Question はハリウッド映画や女優たちへのオマージュとしての要素と同時に, それらの作品に表れたジェンダーや戦時下のイデオロギーへのパロディという要素を含んでいる。 本発表は, 1940 年代の反ナチスをテーマとした, Escape (1940), 『汚名』 (1946) などのハリウッド映画の要素がどのように取り込まれているか, またブッシュ自身によるドラァグでの演技がジェンダーやイデオロギーをパロディ化していることを指摘しながら,この作品が, 演劇が作り事であることをばらしてしまうというメタシアターの構造を強くもっていることを指摘する。 またこのメタシアトリカリティをジュディス・バトラーによるパフォーマティヴィティの概念と結びつけることで,この作品が持つ政治性, さらに演劇がどのようにして政治的に有効になるのかについて考察する。
 この作品の中で行われたパロディによる撹乱は, メタシアトリカリティの構造を通して観客の, つまり現実社会の規範を撹乱する契機となる。 このように演劇が政治的に有効である重要な理由の一つは, メタシアトリカリティが現実世界のパフォーマティヴィティを明るみに出すからである。 現実に起こっていることもパフォーマンスされたフィクションであり, そのパフォーマンスがパフォーマティヴに現実世界をリアルなものとして構築していると考えたとき, さらに意図的でラディカルなステージの上で起こるフィクションは, メタシアトリカリティによって演劇としての枠組みをあいまいにされ, 現実社会の強制的な規範を暴き, ずらしていく政治的効果をもつ。


 Willa Cather の My Mortal Enemy にみられる女性主体の変容
 木下 恭子 (中京大学 (非))


 Willa Cather の作品には, 結婚生活の破綻を描いたものが多いが, 彼女の短編, My Mortal Enemy (1926) もまた, 主人公, アイルランド系アメリカ人のマイラ・ドリスコル・ヘンショーが, 晩年病気と貧しさに苦しみ, 夫オズワルド・ヘンショーを彼女の苦悩の要因とみなす物語である。 この作品におけるマイラの女性主体について考えたとき, 前半のニューヨークでの裕福な生活を送った日々と後半のサンフランシスコでの貧しい日々では, その女性主体は変容しており, それがキャザーのフィルターを通してどのように表象されているか, 考察した。
 大おじの財産相続が不可能になるのを承知で, オズワルドとの結婚を選択したマイラは, 最初から物質主義を信仰してお金を第一と考えていたわけではない。 貧困生活をサンフランシスコのアパートで過ごすこととなり, 上の階のポインデクスター一家の騒音に悩まされているマイラは, オズワルドに対して押さえ込んできた感情を爆発させる。 この場面で 「貪欲で利己的で世慣れた女」 マイラは, お金こそ最も必要なものだと認識して, 彼女の女性主体が変容したと考えられる。
 ここで, 成功して社会的地位を欲したマイラは, 結婚で本当の幸せは得られなかったと述べている。 オズワルドは激しく非難されながらも, 意見を述べることはなくソファーに座っている。 そして, この場面では, 男=主体, 支配, 女=客体, 従順という従来のジェンダーの構図の逆転が示されているのである。
 マイラが時代の流れに大きく取り残されていることは, 「彼女の性質には全く現代的なところがない」というフェイ神父の言葉から明らかになる。 Ann Romines が "Myra is unable to reconstruct herself because she rejects a reconstructed social order, turning herself into a kind of monument to the manners, values, and hierarchies of the past" と指摘するように, マイラは再構築された社会に適応できないヒロインである。 物質的な女に変貌したマイラは, 不満をオズワルドに向けて, さらに生来の性格, アイルランド人気質を表面化させ, カトリックを再び信仰することで彼女の過去への回帰願望は満たされたと読むことができるのである。

2005.4.1