キャザー、キャノン、ヒステリーの政治学:

My Mortal Enemy と女の肉体

 

谷本 千雅子

 

 

I.「不倶戴天の敵」

 My Mortal Enemy が、その発表当時キャザーの失敗作と評されて以来1、近年に至るまで、批評的に閑却されてきたことの理由を探れば、おそらく、不愉快で威圧的な女主人公マイラ・ヘンショーの悪意に満ちた台詞――小説の結末で語り手ネリーが繰り返し、かつ作品のタイトルともなったフレーズ ――の衝撃に対する、読者及び批評家達の隠された嫌悪感に辿り着くであろう。以下は、小説のクライマックスで、マイラが瀕死の床でつぶやく問題の言葉である。

苦痛は堪えることができる。多くの人が苦しんでいるもの。けれどどうしてこんなふうになるの? こんなはずじゃなかった。私はこれまで友情を大切にしてきたし、病人も、忠実に看病してきた。なのに、何でこんなふうに、死んでいかなくちゃならないの。たった一人で不倶戴天の敵と一緒にだなんて。(78: 強調筆者)

従来マイラの「不倶戴天の敵」とは、第一義的にマイラの夫、オズワルド、そして第二義的にマイラ自身であるとされてきた2。 小説の中で、妻が夫を「不倶戴天の敵」と呼ぶ事実は、フェミニスト批評以前の家父長主義的視点からみれば憎悪の対象となるのは当然であり、その妻の台詞をタイトルに持つ作品自体が、翻って、家父長主義的キャノンの「不倶戴天の敵」とみなされ、そこから締め出されるという結果3も、宿命的であるといわざるを得ない。

 しかし、マイラの「不倶戴天の敵」を彼女の夫に直結させる解釈は、ネリーの当初の見解――ネリーはマイラのこの台詞を聞いて身震いし、すぐオズワルドの方を振り向き、その後「不倶戴天の敵」とはマイラ自身と彼女の愛するもの(彼女の夫?)のことであろうと思う――を繰り返しているに過ぎず、そのような解釈は、小説の主題を、「レズビアン作家」4 による異性愛批判だけに閉じ込めてしまいかねない。そのうえ、情緒不安定の状態にある病人が発した言葉に、意識的に明確な意味づけを期待すること自体、かなりの危険性をともなうであろう。実際、病床に伏すマイラの発する言葉の多くは、他者に無根拠な非難を浴びせるものであり、彼女の精神的錯乱状態を露呈している。

 家に戻ったときには、彼女はもちろんとても疲れていた。オズワルドが私達を待っていてくれて、彼と運転手とでマイラを上階に運んだ。彼女をベッドに寝かせようとしたとき、頭の上でバタンバタンと騒音がした。マイラは泣き始めた。 
 「ああ、ここに戻ってきてしまった。また苦しめられに。私は病気を二つ抱えているけれど、私が死ぬのはあの下品な人達のせいだわ。ネリー、どうして私をあそこ[海の見える崖] においてきてくれなかったの・・・。」(61)

しかし、彼女の言葉の不合理性は、単に彼女の病気による情緒不安定だけによるものではなく、彼女のヒステリー気質に多分に起因している。上階に住む家族の騒音に対する、マイラの過剰ともいえる反応は、まさにヒステリックであることに加え、彼女自身の「私は二つの病気を抱えている」という台詞は、彼女の持つ二つの病気のうちの一つがヒステリーである、ということの暗示だとも解釈し得る。

 作品発表当時、若い女性達の間で流行していたヒステリーについて、Elaine Showalter が The Female Malady の中で、その気質的特徴と症状の考察の歴史を概説している。ヒステリー気質の女性は、典型的に、活動的、情熱的、かつ支配的であり、意志が強く、危険を恐れない。また、極度にわがままで、他人を困らせることを喜び、根拠もなく人を疑い、喧嘩を仕掛ける。そのような女性がヒステリーに陥った場合、彼女はもはや従来の娘や妻の役目を果たさず、他人からの奉仕と注目を要求する。Showalter によれば、以上の事柄が当時のヒステリーに関する言説の主流であった (129-134)。

 作品後半で、病床にいるマイラが、断続的に不合理な言葉を繰り返し、夫に奉仕を強いる様子は、明らかにヒステリー患者の特徴的状態であるといえるが、小説全体を通じて描かれるマイラの性格および性質も、病気に冒される以前でさえ、上記のヒステリー気質を顕著になぞらえている。莫大な財産の相続権を捨てて駈け落ちしたというロマンス(12-13)、夫の新しいシャツを無断で人にあげてしまったというエピソード(7)、ニューヨークで若い芸術家達の支援を積極的にしている事実、夫のポケットからキーホルダーを抜き取り、見知らぬ鍵があったことで、夫に喧嘩を仕掛ける場面 (41-42)。これらはまさしくマイラのヒステリー気質を描写していると読み取れる。

 それを考慮した上で、「不倶戴天の敵」と共に死ぬことを憂う彼女の台詞を、浮遊する、ヒステリー患者の言説とみなせば、その意味するものを象徴的言語体系の中で一元的に捉えることの不可能性は、その言説自体が内在的に伝えているといわねばならない。しかし、彼女のヒステリーを精神分析学的に解釈しようとする試みは、少なくとも彼女が「不倶戴天の敵」という名のもとに抑圧するものを、認識論的に見据えることを可能にするであろう。本論の第一の目論見は、まさにこの点にある。

 この目論見は、本稿の第二の論点であるヒステリー分析における主体の問題5 と当然絡んでくるはずだ。ラカンの精神分析学では、ヒステリーは、二極化されたジェンダー構造のなかで分裂を余儀なくされた自己のセクシュアリティへの困惑によって生じるとされている。このことを踏まえれば、マイラというヒステリックな人物の創造が「レズビアン作家」キャザーのセクシュアリティ考察と深く結び付いていることは、当然考慮せねばならない問題である。しかし、ラカンによるヒステリー分析のもっとも重要な発見として、個人のアイデンティティをセクシュアリティだけに見据えようとする姿勢がヒステリーの要因たりえるという暗示があることを、私達は見逃してはならない。このアイデンティティの政治学6を考慮した上で My Mortal Enemy という作品に描かれたヒステリーを読み解くとき、私達は、セクシュアリティに自己のアイデンティティを模索するという危うい誘惑に駆られたキャザーと、その誘惑の危険性に気付き、アイデンティティの放棄へと向かうもう一人の彼女とに、同時に出会うであろう。こうした見地から、ヒステリーの主体という問題を扱った My Mortal Enemy を文学史上どのように位置付けるべきかを考えるのは、「文学作品」というもののアイデンティティを問うことにも繋がるであろうと思う。

 

II. ヒステリーと女の肉体

 1925年に英訳が出版されたフロイトの著書、Fragment of an Analysis of a Case of Hysteria は、ドーラの症例についての考察である。18才の少女ドーラは、父親がK氏の妻、K夫人と愛人関係にあること、さらに父の不倫の代償として、ドーラ自身が父の手でK氏に与えられたことを、主張していた。彼女の症状は、K氏の姿が見えないときには彼女は声を失ってしまう、というものであった。ドーラについてのフロイトの診断は、彼女の抑圧されたK氏への愛情が彼女のヒステリーの原因である、ということであった。

 K夫人に対するドーラの感情についての考察で、フロイトはその同性愛的傾向について注の中で触れているが、ラカンは、ヒステリー患者の同性愛に対するフロイトの認識の不十分さを指摘し、ヒステリー患者のバイセクシュアリティーを、自己のセクシュアリティーについての定義の混乱としてとらえようとする方向性をうちだしている (“Intervention on Transference,”Feminine Sexuality 61-73) 。ラカンによれば、不能の父親に自己を同一化するドーラにとって、K夫人の肉体は、クンニリングスに置換された幼児期の口唇性欲の対象であると同時に、女性器を備えた自己の肉体についての認識を強いる存在である。ヒステリーを、ラカン的に、女性性と女性の肉体の認識の過程における、機能的分裂として捉えるならば、ヒステリー患者の主体は、欲望の対象として女性の肉体を求める主体と、他者の欲望の対象としての女性の肉体を持つ主体に分断され、その分断された主体が、欲望の対象としての女性の肉体を抑圧するという図式が得られることになる7

 Ellie Ragland-Sullivan は、ラカン的文脈でドーラの症例の解読を試み、ドーラが自分を、父の手によってK氏に委ねられた悲劇のヒロインに同一化することは、自らを他者の欲望の対象に据える彼女のナルシシズムであり、反面、K氏の子供の世話をすることは、自己の隠された同性愛的欲望ゆえに自分が他者の欲望の対象には相応しくないのではないかという、彼女の不安のあらわれである、と論じている。同じ文脈でマイラを分析すれば、彼女は、駈け落ちというロマンスのヒロインを演じつつ、育て親である伯父の手から夫の手へと自らをゆだねるという行為の中に、自らが他者の欲望の対象となり得るというナルシシズムを見出し、また、若い芸術家を援助するという行為の内に、他者の欲望の対象としての自らの価値に対する不安を隠蔽しているのだ、と解釈できる。ここに映しだされるドーラとマイラの平行性は、両者の不能の父(マイラの場合は伯父8)への同一化にも見出され、二人の女性はまさにヒステリーという機軸の上で手を繋ぐ。

 ドーラとマイラに共通して見られるヒステリーの特徴的行為は、小説の中で歌われるベリーニのオペラ『ノルマ』にも暗示的に継承される。オペラのヒロイン、ノルマは、ドゥルイドの修道女であったが、敵対関係にあったローマの地方総督のポリオーヌと、密かに結婚していた。しかし、ポリオーヌは、ノルマの友人で同じく修道女のアダルジサに心を移してしまう。自分の方に戻ってきて欲しいという願いをポリオーヌに断られたノルマは、自分の属する共同体に対する裏切りの罪を公にし、自ら死を決断する。これに心を打たれたポリオーヌは、ノルマと共に命を絶つ。以上がオペラの大筋であるが、ノルマをヒステリーの文脈に据えるとするなら、彼女のポリオーヌとの恋と戦争の神への自己犠牲は、それぞれ、他者の欲望であることに対するナルシシズムと、そうなり得ないのではないかという不安であると考えられよう。

 

III. マイラのレズビアン性

 ヒステリー患者の持つナルシシズムと不安は、自己の欲望を特定できない分断された主体のバイセクシュアル性に起因している。ドーラを糸口に、ヒステリーの機軸をマイラ、ノルマへと連鎖的に辿れば、ヒステリー患者特有のレズビアン性についての暗示は、マイラとノルマの間で、修道院という鍵によってさらに強化される。オペラ『ノルマ』が小説で言及される必然性は、修道院という舞台設定と深く関わっているともいえる。

 駈け落ちするまでマイラが伯父ジョン・ドリスコールと共に暮らしていた屋敷は、彼女の伯父の死後、修道院に寄贈される。その修道院のイメージを、ネリーは、次のように描写している。

私が小さかった頃、リディアおばさんは、昔のドリスコールさんの敷地のまわりの広い敷石の道に、よく散歩に連れていってくれた。高い鉄柵を通して、表に遊びに出ているシスターたちの姿が見えた。彼女たちは、林檎の木の下で、二人ずつ並んで、ゆっくり歩いていた。(13)

修道女の、柵に入れられた、社会的に明るみに出されえない、がしかし芳香なレスビアニズムを匂わせるようなこの描写は、修道院を舞台にしたオペラの中で歌われる、『カスタ・ディーヴァ』という処女の女神――ペニスに刺し貫かれることを拒否する女性――の歌に呼応する。以下は、その『カスタ・ディーヴァ』が、小説の中で歌われる場面である。

彼女[マダム・モジェスカ]は窓際に坐った。ケープを半分引っ掛けて。月の光が彼女の膝の上に落ちた。彼女の友達は、ピアノに向かい、『カスタ・ディーヴァ』のアリアを始めた。月光が、水面で震えるような始まり方だった。家にある古いオルゴールの最初の曲だったが、歌を聞いたのは初めてだった――こんなに美しく歌われたのも、それ以来聴いたことがない。オズワルドがマダム・モジェスカの椅子の後ろで、銅像のように立っていたのを、覚えている。マイラは、歌い手の横で低くうずくまり、頭を両手で抱えていた。偉大なる感情のように、雪が激しく降っていた。(39)

『カスタ・ディーヴァ』を聴いているのは女性ばかりで、唯一の男性オズワルドは、まるで銅像のようだったという記述――そのアリアは彼の耳には届いてはいなかったことをほのめかすような描写――は、オペラの舞台である修道院――女だけの世界――とマイラの世界を繋ぎ合わせる。『カスタ・ディーヴァ』のアリアは、「めったに目にすることはないがほとんどいつも感じとれるマイラのとある本質」と結びつけられ、ネリーの中で「名づけられない、抑え難い、情熱的な、圧倒するような何か」(40) 9としていつまでも残り続ける。

 マイラ自身の女友達との親密な交際の中には、彼女のレズビアン的な欲望が感じとられる。モジェスカに高価なクリスマスツリーをプレゼントしたこと、その帰りに、ネリーと腕を組んできたこと、病気の女性詩人アン・エイルワードへの愛情溢れた接し方、モジェスカの命日のミサを毎年お金をいとわずに行っていること。次の描写はマイラがアン・エイルワードを訪問する場面である。

マイラは、この光のさす屋根裏の書斎で、私がこれまで見たこともないくらい、美しく、不思議に魅力的だった。彼女らの話に私は息を飲んだ。彼女らは、人や本や音楽――その他なんでもについて、わくわくするようなファンタスティックなことを話した。彼女らは、何か、崇高な感じのする特別な言葉をお互いに話しているみたいだった。(35)

女同志の間で話される「崇高な感じのする特別な言葉」は、修道女達の間で話される言葉、レズビアン的欲望を匂わせる言葉への連想を余儀なくはしまいか。

 マイラの宗教への帰依は修道院への帰属と暗示的に結びつけられる。修道院が眠れる森の美女の宮殿か美しい死体のようだと描写されていること (15) から、宗教、修道院、女性の肉体の連続性を踏まえれば、次の引用箇所の文脈において「宗教」を「女性の肉体」に置き換えて読むことが可能となる。

 「ああ、フェイ神父。そんなことは理由ではないのよ。宗教は他の何とも違うもの。なぜかといえば、宗教では求めることが見つけたことになるのよ。」
 彼女は「求めること」というのをとても強く、とても深く発音した。他の探求では、満足を運んでくるのは求める対象か、あるいは求める途中で偶然手に入ったものだけど、宗教では、願望自体が成就であって、求めること自体が報酬を得るのだとでも言いたげであった。(77)

レズビアンが弾圧される当時の社会状況10において、女性の肉体への欲望は、レズビアン的傾向を持つ女性が自ら社会的に抑制せねばならないものである。同性愛的傾向ゆえに自己の肉体が男性の欲望の対象となることに不安を覚えながらも、自らの押し殺された欲望の対象である他の女性の肉体を得ることを禁じられている女性が、リビドーの発露の場としての肉体(自己の肉体/他者の肉体)を手にすることは容易ではない。このような局面において、肉体の喪失を強く意識すれば、「女性を欲望する女性」は「ヒステリー患者」へと変容するのだ11。セクシュアル・アイデンティティ形成の場である肉体の放棄がヒステリーを生み出すとき、ヒステリーの徴候はアイデンティティ(自己同一化/意味の単一化)ではないセクシュアリティとして立ち顕われる。「求めること」の「見つけること」への限りない接近は、探求の到達点としての物質的な肉体を空白にし、「求める」というプロセスに自らの存在意義を据える。つまり、レズビアン的欲望は、肉体の棄却により、純粋なベクトルとして存続することが可能になるのである。

 空白化される肉体と、肉体を空白にするヒステリー患者の主体の間の緊張は、マイラの解き放つ「不倶戴天の敵」というシニフィアンの中に転移される。そしてそのシニフィアンは、愛と欲望と憎悪と憐憫の対象である――それによって自らが抑圧され、同時に自らもそれを抑圧する――他者/自己の女の肉体の幻想の上を、滑るように浮遊していく。

 

IV. キャノンとヒステリカル・テクスト

私はその場所が、魔法にかかった場所だと思った。眠れる森の美女の宮殿みたいに。それはまるで眠っているのか、あるいは花の中に横たわった、美しい死体のようだった・・・。(15)

死体のように静まり返った修道院の中で、ひっそりと息づく同性愛的欲望のイメージ。圧迫され死に瀕した処女の肉体の美。これはまさしくヒステリー患者の言説の中で主体の分裂が抑圧する幻想である。

 女性の肉体へのキャザーの執着は、彼女の作品群において繰り返される女性の肉体の描写のうちに顕になる。O Pioneers!My Antonia に描かれた、たくましい女性の肉体(アレグザンドラ、アントニア)としなやかで誘惑的な女性の肉体(マリー、リーナ)、A Lost Lady に描かれた、異性のエロティックな欲望を刺激するマリアンの肉体、対して、The Professor's House に登場する、マネキンやミイラなど、醜くデフォルメされた女の体、Sapphira and the Slave Girl に描かれた、車椅子に縛られたサファイラの肉体。美しい女の肉体から醜い女の肉体を描くに至るキャザーの軌跡を、他者の体から自己の体への視線の移動として認識し、他の女性の肉体の美の崇拝から、レズビアン的欲望に捕われたまま満たされない自己の肉体に対する嫌悪への意識の移行であると解読することは可能であろう。しかし同時に、My Mortal Enemy に描かれた眠れる森の美女にも似た女体の美と、身体の自由を奪われたマイラの肉体との対比は、A Lost Lady のマリアンの「美しい」肉体に対して隠蔽された軽蔑的な眼差しを微妙に覗かせるキャザーの、欲望の対象としての女性の肉体を求める主体と、他者の欲望の対象としての女性の肉体を持つ主体とへの、ヒステリックな分断を提示している。

 マイラのヒステリーは、こうした作者自身のヒステリー12を映しだす鏡としてテクスト内に織り込まれている。しかし、そのヒステリーをもたらしたキャザーのバイ-セクシュアリティー13は、テクストにおいては男性文学と女性文学という二つの伝統との対話を併合するバイテクスチュアリティー14に転換される。My Mortal Enemy に見られる、度重なるシェイクスピアへの言及(あるいは依存と呼んでもよいであろう)――Henry VIII (37); King Lear (60); Richard II (68) ――や、ハイネの詩へのマイラの傾倒は、男性作家の文学キャノンへの同一化をもくろむテクストの欲望に起因していると考えられる。しかし、他方で小説は、ネリーという女性の語り手を据えて女性文学の体裁をとるうえ、結末近くでのマイラの死は、探求者としてのヒロインを描きつつ物語をその探求の挫折とヒロインの死で閉じるという19世紀女性文学の伝統 (DuPlessis 1-19) に立脚している。

 ヒステリー患者の言説として書かれた小説は、それ自体ヒステリーを病んで、ヒステリー患者さながら肉体の物質性という概念を喪失している。

この本は、出来事の連なりで、なにも明らかになっていない。その効果においても形式においても、これを小説と呼べるかどうかは、はなはだ疑わしい。本当の意味での連続性もなく、有機的な全体も形成しない。 (Kronenberger 229)

My Mortal Enemy は、上記のような理由によって「失敗作」として片づけられてしまう。この小説の有機的な全体すなわち肉体の欠如――「骨ばかりで肉がない」どころか「骨までない」(Kronenberger 229) ――は、この小説自身が、肉体よりも主体の分裂を優先しアイデンティティを放棄するヒステリーの症例となっていることに由来する。それでもなお、作品がキャノンを崇拝する批評家の手に渡るとき、ヒステリーの徴候が映しだされる肉体として現前する作品は、「失敗作」という病名を与えられ、治療と処罰という名目でキャノンから隔離される。小説が抱えるこの必然は、作品を作者自らがわざと「不倶戴天の敵」と呼んでみせた由縁である。

 小説にのりうつった作家のヒステリーは、主体の分裂を引き起こす。その分裂は、小説かのじょ自身がキャノンに価する作品になるという幻想よりも優先し、分裂から生まれるテクストは、ヒステリーの徴候として批評家達に混乱を与えながら、作品という肉体から滑り落ちて、キャノンという鎖の上を決して葬り去られることなく今なお漂い続ける。物質的な到達点を自ら投げ出し「求めることは見つけること」、「書くことは見つけること」、「読むことは見つけること」という、純粋なプロセスとして抽出されたベクトルの上で、言葉の「意味」からこぼれ落ちる愛や欲望や感情を共有しながら、自分と一緒に二人並んでゆっくりと歩く誰かを、永遠に浮遊しながら秘かに待ち望んでいるのだ。

 

1 My Mortal Enemy は、1926年10月の『ニューヨーク・タイムズ』の書評で「キャザーの作品中最も重要でない小説」と酷評された (Kronenberger 299)。

2 こういった解釈については、Kronenberger 299; Eichorn 240; Fisher-Wirth 42; Urgo 194 などを参照。ネリーの存在に注目する最近の批評では、この言葉に対する彼女の解釈を探る研究が増えている。それらは、女性の肉体やレズビアン性の問題ではなく、「不倶戴天の敵」というシニフィアンの指し示すシニフィエの多様性、意味の決定不能性を主に論じている (Skaggs 42; Carlin 29-30; Rosowski 144-155) 。

3 My Mortal Enemy を皮切りにキャザーの後期作品は総じてキャノンから排除されている。Carlin 参照。

4 セクシュアリティをアイデンティティと同一視するという誤謬を避けるために、ここに鍵括弧を付けた。

5 ラカンは、ヒステリー患者の言説の中で浮かび上がる、シニフィアン (S1)、言語体系としての記号の鎖 (S2)、分断された主体 (S)、欲望の対象 (a) の間の関係を、 S/a→S1/S2 という図式で示し、ヒステリーの言説を、患者の幻想 (a) に対する主体の分断 (S) の優位性が、患者の徴候を知識 (S1) の位置に生み出し、その徴候は知識を支えるはずの記号の鎖 (S2) と関連しつつもそこから分断される、という主体性の問題として定義している (Feminine Sexuality 161)。

6 セクシュアリティがアイデンティティとして機能することの問題を指摘したフーコーの The History of Sexuality をひきうける形で、バトラー、セジウィックのクイアー批評はアイデンティティの政治学を展開する。ラカンのヒステリー分析は、 Gender TroubleEpistemology of the Closet を先取りしているといえる。クイアー批評をひとたび通過すればヒステリーはジェンダー構造そのものの抱える問題を体現する一つの徴候として簡単に解読しえるかもしれない。

7 注4で挙げた図式において (a) の位置に女性の肉体が置かれることになる。

8 マイラの伯父が生涯独身であったという事実は、彼の死後、屋敷が修道院の手に渡ることに暗示される彼の女性性や、休日や彼の誕生日には彼が経済的に支援している男の子達だけの音楽隊が招かれるという記述にほのめかされる彼の同性愛的傾向とあいまって、彼の性的能力に対する嫌疑を読者に抱かせずにはおかない。

9 ここで使われる "something for which I had no name" という表現は、Not Under Forty に含まれるエッセイ "The Novel Demeuble" の中でキャザー自身が用いたフレーズ "the thing not named" (50) と呼応している。O'Brien は、その同じフレーズをタイトルにした論文 "The Thing Not Named" の中で、「名づけえぬもの」が秘かに意味するキャザーのレズビアン的欲望を解き明かしている。

10 Smith-Rosenberg 245-296, esp. 275-281 を参照。

11 Monique David-Menardのヒステリー論では、ヒステリーを生成する肉体ヒステロジェニック・ボディーとは、エロスを生成する肉体エロトジェニック・ボディーの性別化が頓挫するときに作り出され、エロスを生成するエロトジェニック・肉体ボディーの欠如を補うものとして機能するとされている。この文脈では、ヒステリー患者はエロスを生エロトジェ成する肉体ニック・ボディーを放棄することによって、肉体を持たない存在になることが可能となる。なぜなら、ヒステリーを生成する肉体ヒステロジェニック・ボディーは病の徴候の中にのみ存在するに過ぎないからである。(Hysteria from Freud to Lacan, esp. xiv).

12 以下ヒステリー患者としてのキャザーについて触れるときは、My Mortal Enemyという作品の作者として機能するキャザーを指す。

13 異性愛、同性愛が交換可能なバイセクシュアルではなく、セジウィックの定義する「ジェンダー境界」にキャザーは近い (Tendencies, esp. 171-72; Epistemology 67-90) 。そこで彼女のヒステリー的なジェンダーの混乱を示す語として、男性性、女性性を併合するという意味でハイフンをほどこし、バイ-セクシュアルと表記した。

14 「バイテクスチュアル」という用語の定義に関しては、Showalter の "Introduction: The Rise of Gender" (esp. 4-5) を参照。

 

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