肉体/テクスト:

Harold Jaffe の Avant-Pop 小説*

長澤 唯史

 

Harold Jaffe (1940-) は New York 出身の Jewish-American 作家である。ただしその作品には Jewish-American であることを感じさせる要素は希薄である。彼は Jewish であることに作家としてのアイデンティティを見出すのではなく、人種や国籍を超え、現代の資本主義社会というシステムに囚われた現代人に共感をよせる。そしてその資本主義の罠をあばきだす手法は、他に例を見ないほど独特かつ衝撃的である。本論文では、Jaffe の一風変わった作風を紹介しながら、その主題と手法の密接な関連について考察する。

 

Avant-Pop 作家としての Jaffe

Jaffe は 1970 年代の終わりから現在まで 8 冊の長編・短編集を出版しており、その実験的な作風によりアメリカではすでに確固たる地位を築いている。現在は San Diego 州立大学 (SDSU) 英文・比較文学科教授として現代アメリカ文学や創作を講義する一方、SDSU 出版局から発行されている総合文芸誌 Fiction International の編集長として、あらたな才能の発掘や育成に力をそそいだり、PC 問題など現代アメリカ文学を巡る状況に焦点を当てるなど、多方面で精力的に活動している1

Jaffe の名がアメリカで一躍注目されるようになったのは、Madonna and Other Spectacles (1988) が発表されてからである。この短編集は、Madonna, The Three Stooges, Tonto, Boy George, Lightninユ Hopkins などの大衆文化のアイコンとも言うべき存在、Illegal Aliens のような社会現象、Video や TV などのコミュニケーション・テクノロジーなどポップ・カルチャーを主題とし、大胆で実験的な手法とあいまって多くの批評家に高く評価されている。ただしそれはポップ・カルチャーそのものを描くのではない。ポップ・カルチャーに代表される現代資本主義社会の支配的なパラダイムを明らかにするために、あえて同じ土俵に立ち、そのシステムや隠喩や言説を再利用(リサイクル)しながら内部から突き崩していくのである。これはまさに SDSU の同僚で現代アメリカ文学・文化研究の第一人者である Larry McCaffery の唱える“Avant-Pop”の戦略そのものといえる。

LM: Your distinction between pop culture and works which are about pop culture raises an important point about the ongoing need for some sort of “resistance”art in creating works that don't simply incorporate the reigning paradigms but that question them, subvert them, confront them on their grounds. Thatユs the basis of my“avant-pop”concept.

HJ: Which is well conceived. I think of my work as a kind of resistance, or oppositional writing. I like to get inside the culture's systems and metaphors and discourses so I can oppose them-but from the inside out. (McCaffery 158)

Jaffe の作風は「モラリスティック」である。ただしこれは「清く正しく生きる」という意味の皮相的な道徳ではない。Hemingway がそうであったように、芸術作品を通じて人間存在の根元を見つめ、われわれの生きる状況を問い直すための批評的知性を読者に与えることをめざすという意味においてのモラリストである。彼は「制度化され押し付けられたモラル (the institutionalized moralities that are imposed on them) 」ではない「人間の本能や性向 (their own instincts and inclinations) に根差したモラル」に「人間存在の根元」を見る2。この根元的なモラルを問うために、本能など人間の原初的なレベルにまで遡行しようとするのが Jaffe の作家としての態度あるいは個性である。この個性が、現代の消費資本主義社会のシステムを内部から突き崩すという “Avant-Pop”作家としての主題と絡み合う場所から、個々の作品が生み出される。そしてその個々の作品に託された共通の主題は「性」と「暴力」である。

 

「性と暴力」という主題

Madonna の後、Jaffe が1990 年に発表した短編集 Eros, Anti-Eros には Calvin Klein, Xerox, Exxon, Sitcom, Easy Rider, etc というタイトルの短編が並び、「性」と現代資本主義社会におけるそのあり方が主題となっている。さらに 1995 年の Straight Razor では「性」に加えて「暴力」が作品全体を覆うトーンになる。その後 Jaffe は少なくとも 1997 年初頭までに新作として、短編集 Sex for the Millennium と長編 Queen of Hearts を完成させているが3、そのうち Sex for the Millennium はタイトル通り、近未来における性と暴力のあり方を主題とした短編集である。冒頭の短編“Cody in June”の主人公 Cody は友人の目前で母親と行為中に、母親の上げる声が耳障りだったというささいな理由から母親を窒息死させる。そして友人とともに母親の死骸を切断してゴミ袋に入れて捨てたあと、母親と寝ていたベッドで今度は友人と同性愛関係を持つ。この衝撃的な物語が Cody 自身と何者かの間の対話で淡々と語られる。

Yet with your mother's blood all over your bodies and on the walls and ceiling, and the whole place stinking of your mother's blood and body parts, you and Kyle had sex. Your mom's blood and stuff turned you on, right? / Not me. Kyle sort of got turned on, I guess. I went along with it. . . . / So Cody, are you sorry for what you did to your mother? Her name was June, right? Your mom? / Yeah. June. Sure I'm sorry. I'm real sorry. (SFM) 4

近親相姦、死体切断、ホモセクシュアルなど倒錯的な主題を扱った衝撃的な内容と、対話のみで無機質に語られる奇妙な静けさ、さらには最後に Cody がつぶやく“Sure I'm sorry. I'm real sorry”というまるでとってつけたような台詞、これらの激しい落差から倫理、感性の麻痺した現代アメリカの姿が垣間見られるのである。

“14 Ways of Looking at a Serial Killer”という短編は、Sean という名の、赤毛の若い女性ばかりを狙う連続殺人犯について、さまざまなスタイルを用いて描かれた 14 の断章からなる。一見客観的な報道的文体と様々な事実の列挙、Sean あるいは他の連続殺人犯(Unabomber や Charles Manson)についての対話、公衆便所での「連続殺人犯」と“Money Manager”との奇妙な会話、多種多様な人物から Sean へあてられた手紙、短詩(Wallace Stevens の“Thirteen Ways of Looking at a Blackbird”のパロディ)、etc。これはしかし、Sean という連続殺人犯についての様々な言説の集積にすぎず、そこから最終的に Sean の統一された人物像が浮かび上がってくることはない。連続殺人犯ではなく「連続殺人」そのものを描いている作品なのである。

“House of Pain”という短編ではふたたび、性と暴力がいわゆる「アブノーマル」な形で結び付けられる。San Diego に住む自称“Buddhist”の男が (この設定からは 実際に Buddhist を自認する Jaffe 自身が連想される) 、Anaheim 近郊のある館で行われている乱交パーティに参加している際に、ささいな事故から片足を切断する羽目になってしまう。最後にその事故の原因を作った Isadora という信じられないほど太った醜い男をパーティ会場で射殺したあと、その場でさらに氏名・年齢・性別その他不詳の人物たちと乱交を繰り広げる。ここには同性愛や SM、身体障害者が登場し、いわゆる「ノーマル」な性とはかけ離れた世界である。

 

「スペクタクル」の社会

なぜ Jaffe がこれほどまで「性」と「暴力」にこだわるのか。Jaffe が自作 Straight Razor について解説している文章によれば5、過激な暴力や過激な性は、その過激さ自体によって資本主義文化の言説をすり抜けるものである。Jaffe が好んで採り上げる連続殺人という題材は「唾棄すべきものであると同時にスペクタクルとして称揚される (nominally condemned but at the same time celebrated as spectacle) 」。しかしそれはメディアを通じて安全な「物語」として流通するかぎりにおいてであり、「暴力的な想像力 (The violent, illicit imagination) 」によってその連続殺人犯の「生」そのものをふたたび生きてみるという試みとは無縁である。メディアは報道によって「物語」を流通させ、それによって何か別のものを隠蔽する。Jaffe は「制度化された暴力 (the licit, lawful institutionalized violence) 」の対極に立つ「暴力的な想像力」によって、「連続殺人犯」の「物語」ではなく「生」そのものを作品化しながら、このメディアによる「露呈」と「隠蔽」の構造を明るみに出す。そしてメディアが「制度化された暴力」に荷担している、あるいはメディアそのものが「暴力」となる現実を明らかにしようとしているのである。

このメディアの持つ「暴力性」を描いているのが、Madonna の最後におさめられている“Max Headroom”である。80 年代に日本でも人気があった TV 番組のタイトルを題名に用いたこの作品で Jaffe は、不法移民の中年女性が小学校の教室に突然入り込んできて子どもたちの前で拳銃自殺するという事件の概要を、マスコミの報道のスタイルを用いて前後二度語る。そして作者は二度目の語りで不法移民であることの強調や巨大な肉体を誇張する表現など、最初になかった言葉や描写を加えていくことで、この一見無機質で中立的な報道の背後にある「露呈と隠蔽」の暴力をあきらかにする。

A 44-year-old Hispanic woman, described by her daughter as “emotionally distraught,”walked into an elementary school class- room on Tuesday morning and fatally shot herself in front of 23 fifth-graders. . . .“I'm sorry I have to do it this way,” the woman said in heavily-accented English before firing a bullet into her head. . . . The first time the woman, identified as Missy Rodriguez, and overweight, pulled the trigger of the gun in her right hand, it misfired . . . (M 139)

言葉を加えれば加えるほど、この女性は「怠惰で精神不安定な不法移民」という「物語」の中に回収されてしまい、人間性を剥奪され一個の記号と化していく。子どもたちは目前の自殺を見ずに TV モニターを見つめており、その事件をまるで TV のなかでの出来事のように語る。「メディアの眼」を内在化してしまった現代人にとって、現実はもはや「スペクタクル」でしかない。

The whole life of those societies in which modern conditions of production prevail presents itself as an immense accumulation of spectacles. All that once was directly lived has become mere representation. . . . The spectacle is not a collection of images; rather, it is a social relationship between people that is mediated by images. (Debord 12)

人間の死という「生(なま)」の暴力を、カッコ付きの「暴力」として物語化してしまうメディアそのものが、人間の生や現実に対する「制度化された暴力」なのである。

Jaffe は先進資本主義国の実態は、じつは全体主義社会であるという。企業、政府その他の組織に属する少数のエリートに益するために、権力と資本を蓄積することが他のすべてに優先し、そのために少数者や弱者、環境や自然を犠牲にする社会である。それはじつに巧妙に、物理的な力ではなく文化的な力でわれわれを支配する。Jaffe は人間を機械化し、人間としての権利を奪い、人間性を剥奪する文化・制度に対する反抗を企てる。彼にとって暴力という主題はこの社会の力学に目を開き、分析し、一人一人の人間的な結びつきを回復することをめざすために、社会の「良識」に揺さぶりを掛けるための手段なのである。

As the book's title suggests, the collection [Straight Razor] is primarily concerned with violence: institutional violence, against the body and spirit, renegade violence against the status quo, and sense-less violence. Characters are deliberately shallow and anonymous which shifts the focus to the culture at large. The overall effect is to ask lots of questions and suggest some alternative perceptions for ugliness paraded here. Who has power in this degraded culture, who suffers by it, who is blind to the suffering? (Filas & Koopmans 136)

「性」という主題も「暴力」と同様、この「制度化された暴力」への反抗を表現している。Jaffe は制度に対する闘争と反乱の場としての身体、ジェンダーの混乱あるいはジェンダー間の闘争が刻印された肉体を描く。そのため前述のように同性愛者、性別不詳の人物、性転換者 (transsexual) などを好んで登場させ、さらに近親相姦、乱交、スワッピング、SM といった「正常位」以外のあらゆる形態を試しているのである。

エイズ以降、性に対する抑圧的な言説がアメリカ社会に蔓延している。この状況の中で「商品」としての性、つまりメディアを通じて言説化・物語化される性に対して異議を唱える性のあり方を描くとしたら、「暴力」と同様、社会の良識に対して石を投げつけるような、退廃と堕落と過激さに満ちた、反社会的なものにならざるをえない。「資本主義システム」を突き抜ける身体的経験としての「性」、苦痛・快楽など肉体的体験としてのセックスを描くために、誇張した肉体の表現や入れ墨や性転換など肉体そのものの改変、さらには身体障害者とのセックスなど、肉体の存在そのものを題材にすることは当然の帰結ではないか。

 

「制度」への戦略的抵抗

しかし、性や暴力を物語化してしまう「制度」に対して異議を唱える、あるいは「物語」に回収されない「暴力」や身体的経験としての「性」を描くといっても、これがまた「制度」によって「物語」化されないとは言い切れない。現に性器への入れ墨やピアシングすらファッションにしてしまうほど資本主義システムの回収・リサイクル能力は高い6。Fredric Jameson も述べるように、後期資本主義というのはコンテクストを組み替えることによって差異(=価値)を生み出すシステムである。かつての反体制的なモダニズム運動も今では “dead classics”となり、「商品」として流通する (Jameson 4) 。したがって Jaffe の「性」や「暴力」は、「制度」に荷担する側にまわってしまう危険性をつねにはらんでいるのである7。そこで Jaffe は先手を打つ。「制度」によってリサイクルされる前に「制度」の物語、言説、文体、その他諸々を、そして時には自分自身をリサイクルする。制度がリサイクルする過程をあからさまに模倣してしまうことで、制度によるリサイクルを無効にしてしまうのである。これは Jean Baudrillard の「拒否と非=受理 (non-reception)」という「戦略的抵抗」と通底する。

It is the strategy of the masses: it is equivalent to returning to the system its own logic by doubling it, to reflecting meaning, like a mirror, without absorbing it. (Baudrillard 85)

Straight Razor という短編集では、冒頭の“Straight Razor”と末尾の“Sex Guerrillas”が明確に対称形を成している8。“Straight Razor”では、シアトル近郊の Quentin 刑務所で一仕事(女性テロリストの処刑)を終えた死刑執行人が、帰りの列車のコンパートメント内で、二人の若いならず者(最初は二人の女かと思われていたが、じつは一人は女装した男)に銃で脅され、下半身をむき出しにされて陰毛を剃られるという事件が、この死刑執行人の視点から語られる。これは滑稽な暴力によって体制側を愚弄する若者の物語である。

一方“Sex Guerrillas”にはタイトル通り、sex を社会に対するテロリズムの手段とする若者たちが登場する。彼らは公共の場所で、時には公衆の面前で(ビルのエレベータの中、フリーウェイ上で渋滞につかまっている車の車内、銀行の窓口に並ぶ列)で突然、何の脈絡もなく性行為を始める。“s/he”という代名詞で語られ、性別すら判然としない彼らは、既存の社会の性モラルを破壊するゲリラであるが、最後に監獄ならぬフットボール・スタジアムに収容され、そこで毒ガスで処刑される、という結末を迎える。

つまりこの短編集は処刑に始まり処刑に終わるという対称的な構造のなかで、自分が語り始めた物語を最後に自分自身で回収するリサイクル運動なのである。そしてミステリー小説的なプロットやホロコーストのイメージといった、語り尽くされ使い古され手垢にまみれた「商品」を臆面もなくリサイクルすることで、深刻さではなく滑稽さが漂い、60 年代的な「反体制」の物語に回収されてしまうことをかろうじて逃れている。

Jaffe は自分の Madonna 以降の作品を「20 分先の未来」に設定している。現実と作品世界のこの「20 分」の時間差が、作品の持つ「過激さ」として表現されているのだが、実験的な文体・構成もその「過激さ」の表現の一つである。状況のない対話あるいは寸劇、直線的な語りと突然の切断、インデックスやカタログ形式、語り手や語りにおける一貫性の欠如、さらに現代文化の作用やメディアに犯された時代を模倣する素振りやパスティーシュ、TV・新聞・コンピュータ・ネットワーク上における「権威の言葉」(voices of authority) の模倣、などの手法がそれにあたる。“Max Headroom”における報道や広告の文体の模倣と二つの文章のズレからは「悪意」が、“Cody in June”で語られる余りに過激な物語とその静かな語り口とのギャップからは「現代人の麻痺した感性」が、“14 Ways of Looking at a Serial Killer”の 14 の断章に見られる様々なスタイルと各々の関連性の欠如からは「人間性の剥奪」が、というように、こうした隙間や裂け目から現代という時代が顔をのぞかせている。

Jaffe がとる戦略はこのように、「制度」のコトバを模倣しながら、その「制度」のコトバ自身に「制度」を語らせてしまうものである。そしてこの戦略が具体的に「暴力」や過激な「性」と結び付くとき、それはこの両者と不可分の「苦痛」を主題化することとなる。制度化されたテクストとしての「肉体」に裂け目を入れ、そこに生の肉体を露出させるという試みとなって現れてくるのである。そして文学作品における「苦痛」の主題化とはいかにしてなされるべきか。「性」を主題化することと「性行為」を描写することはまったく異なることであるのと同様、「苦痛」の主題化はテクストという「肉体」に苦痛を与え、亀裂を生じさせるという言語的実践によって達成されるべきものである。Jaffe が執拗に追求する文体上の実験は、この「肉体」としてのテクストに亀裂を生じさせるための手段にほかならない9

 

「肉体」としてのテクスト

このテクストという「肉体」に亀裂を入れるという試みは、Sex for the Millennium に収録されている短編“Rodman”に顕著である。この作品はシカゴ・ブルズの名リバウンダー、NBA の問題児、そして「アメリカで3番目に魅力的な人物」であるバスケット選手 Dennis Rodman がインタビューに答えるという形式を取っている。現実の Rodman はスラム街の出身から、今では NBA を代表する名選手となったという、現代のアメリカン・ドリームの体現者である。しかし Celebrity としての名声を打ち消すかのように、常識外れな言動を繰り返す事でも有名である。ハーレーを乗り回しているかと思うと女装をしたり、髪を奇妙な色に塗り分けたり、一物にピアスしたり、エイズなどの社会問題に関心を示したり、カメラマンを殴って謹慎処分を受けたり。性別や社会的常識を越境する言動、エロティックなイメージ、動物的肉体性の体現、都市のスラム出身の「語り口」、などとても一つの「物語」には回収できない。Rodman はいかなる定義もすり抜けてしまうのである。

-- Who is the real Dennis Rodman?
-- Axin' me?
-- Yes.
-- Hey, I do what I do. It turn you on, cool. It don't, thas cool, too.
-- Well, it's turning a lot of folks on. People magazineユs annual survey of “American 50 Most Fascinating People”ranked Dennis Rodman number 3. That good news or bad?
-- Ain't no kind of news neither way.
-- Only President Clinton and First Lady Hillary were ranked ahead of you.
-- Thas cool.
-- You're not a registered Democrat?
-- What's that mean? Democrat?
-- If you don't respect political party designations, I guess you don't vote in elections.
-- Ain't never voted and ain't gone vote till they have the Motherfucker party. I see that, I vote Motherfucker.
-- Is your penis really pierced?
-- Yeah. (SFM)

「本物」の Rodman とは誰かなどという、陳腐で紋切り型の質問をはぐらかしながら、政治について、ペニスへのピアスなど何の脈絡のない質問が延々と続く。メディアを通じて流れる様々な情報やイメージの集積でしかないにもかかわらず、強烈な存在感を持つ存在。そのイメージや情報の相互のズレ、矛盾そのものが Rodman という存在であり、この“Rodman”はそのテクスチュアルな変奏である。

Jaffe は Madonna において、様々なポップ・カルチャーのアイコンとも言うべき存在をテクスト化していた。これは例えば Madonna Louise Ciccone という存在が“Madonna”として言説化されて流通するという、資本主義のダイナミズムをあからさまに模倣する事で愚弄するという戦術であった。しかしここで描かれている Rodman は言説化し得ない存在として賞揚されている。この Rodman はまさに「苦痛」によって裂け目を生ずる「肉体」としてのテクスト、Jaffe が追求する、自分自身に亀裂を生じさせていくようなテクストそのものである。Jaffe にとって Dennis Rodman は理想の「テクスト」であり、自らを脱構築する“Rodman”というテクストは彼の一つの到達点といえる。

*本論文執筆にあたっては、San Diego 州立大学英文学・比較文学科の Larry McCaffery 教授および東京女子大学英米文学科の今村楯夫教授に多大な示唆および助言を頂き、また Harold Jaffe 氏には貴重な資料を提供していただいた。ここに感謝の意を捧げたい。

 

Notes

1 これまでの日本での Jaffe 作品の紹介に触れておくと、まず『Positive 01』 (水声社、1991) において“Madonna”が佐藤良明氏の訳により紹介され、『ユリイカ』のバロウズ特集号(1997 年 11 月号)で、“Stalker”という短編が翻訳された。さらに『新潮』の 1998 年 5 月号で今村楯夫氏の翻訳・解説によって本格的に紹介され、この特集に対しては、安原顕など多くの批評家、評論家の好意的な反応があった。1999 年中に Eros, Anti-Eros 及び Straight Razor の 2 冊が異なる出版社から翻訳出版されることも決定している。

2 筆者は 1996 年から10ヶ月間、文部省在外研究員として San Diego 滞在中に、幸運にも Jaffe の知遇を得ることができた。ここに掲げた Jaffe のことばは、筆者と交わした E-mail のやりとりから Jaffe の許可を得て掲載したものであることをお断りしておく。

3 この二冊ともに現在出版が難航しており、そこで Jaffe はこの二冊の出版交渉と並行して、すでに新たな作品を準備中である。次作もやはり「性」や「暴力」を扱った新聞記事を題材とし、それに手を加え脱構築するものとなる予定である。当初 False Positive (『虚偽の確信』)とされていた新作のタイトルは、後に Carlos the Jackal と変更された。今村 175 を参照。

4 筆者が Jaffe の好意により入手した Sex for the Millennium の原稿には、ページ番号が記載されていない。したがって出典のみを記す。

5 これは Jaffe が SDSU での講義の中で自作を採り上げたときに用意した原稿で、学部学生相手に自作の主題や手法を分かりやすく解説したものである。ただしここでは筆者が内容を再構成して紹介していることをお断りしておく。

6 Sex for the Millennium については、アメリカでは PC に触れることを恐れて、実験的な出版物を扱う小出版社ですら出版を拒否している。その一方でアメリカほど性に関する強いタブーが存在していない日本では、逆に出版社が話題作りのためにこの作品集からの翻訳を希望した。コンテクストが変わればいかに易々と「商品」化されうるか、という例である。

7 例えば「少数者の性」を描くことが「ヒューマニズム」や「愛」という名の傲慢さや鈍感さと誤解されたり、メディアの持つ暴力性が「マスコミ報道の是正・中立化」と言った皮相的な議論にすり変わってしまったり。

8 Jaffe は自作を、短編集であっても一種の長編であると語っている。「関連性をもったテクスト。それは意識的に行っている。独立した短編の集積ととられてもいいが、実際に書いているときには頭の中であることを設定し、その設定にしたがって書き上げる。したがって、それぞれに相互作用を与える領域があり、同じ人物が異なる姿で再び現れたりすることもあるんだ。それがある人物を描くことになるが、それは有機的なものだ。」(今村 175)

9 Jaffe が編集長を務める Fiction International 第 29 号では、“Pain”と題する特集を組んでいる。苦痛とは、その何物にも変換することができない絶対的な肉体感覚によって「制度」としての「性」や「暴力」に亀裂を生じさせ、リアルな肉体を露呈させる手段である。Jaffe は近年、肉体を「性」に関する社会的言説に回収され得ないものにする手段として SM に対する興味を深めており、Queen of Hearts という未発表長編は SM を主題にしたものである。ちなみに、彼は日本とフランスの SM 表現を「世界でもっとも洗練されたもの」と賞賛していることをつけ加えておく。

 

Works Cited

Baudrillard, Jean. Simulacra and Simulation. 1981. Trans. Sheila Faria Glaser. Ann Arbor: U of Michigan P, 1994.

Debord, Guy. The Society of the Spectacle. 1967. Trans. Donald Nicholson-Smith. NY: Zone Books, 1994.

Filas, Michael and Andrew Koopmans. “Review on Straight Razor and Queen of Hearts.” Central Park No. 26 (1997): 135-140.

Jameson, Fredric. Postmodernism, or, the Cultural Logic of Late Capitalism. Durham: Duke UP, 1991.

今村楯夫. 「ハロルド・ジェフィ インタヴュー」 『新潮』第 95 巻第 5 号(1998 年 5 月号): 173-7.

Jaffe, Harold. Eros, Anti-Eros. San Francisco: City Lights Books, 1990.

___. Madonna and Other Spectacles. New York: PAJ / FSG, 1988.

___. Sex for the Millennium. Unpublished.

___. Straight Razor. Normal, IL: Black Ice Books, 1995.

McCaffery, Larry. Some Other Frequency: Interviews with Innovative American Authors. Philadelphia: U of Pennsylvania P, 1996.