■シェイクスピア『冬物語』The Winter's Taleの質問文

 

■テキスト

 

 

■質問文(170120

1 この作品は、三つのブロックで構想されているように思われる。そして、それぞれのブロックは独自の世界と感情を喚起する。喚起されるそれぞれの世界と感情について、その特徴を述べてみよう。

 

2 子どもはその親に似た外観になるという観念は、マミリアスについても(一幕二場、a copy out of mine, 1.2.122)、パーディタについても(二幕三場copy of the father, 2.3.99)、表明される。しかし、リオンティーズは生まれたばかりの女子についてこの点を確認しようとはしない。なぜか。それは、リオンティーズの思い込みでは、赤子は自分との一体性をもたないからである。逆に、マミリアスは自分と一心同体なのである。少年が健康を損なってゆく様子は、父親が妻に対する復讐心を表明する途中に置かれている(二幕三場)。父親は息子が弱ってゆくのは、自分が心の平安を失った原因と同じであると断定する。このイデオロギー的な親子観は観念的であるがために、子どもに対して身体的・具体的に係わることがない。マミリアスの病気がひどくなると召使から聞かされても、リオンティーズは自分で彼の様子を見に行こうともしない。家臣に命じ、生まれたばかりの娘を遠隔の地に遺棄する。この観念的なリオンティーズ像は、妊娠と出産を経験するハーマイオニ(「私の第三の慰めは、(中略)罪のない唇に/罪のない父を含んだまま、この胸もとからもぎ離され」三幕二場)と対照されていると思うが、どうだろうか。

 

3 四幕一場、「時」が観客に伝えるべき要点は「十六年間を飛び越え」ることと、「羊飼いの娘に/なにが起こるかは、(中略)「時」の主題」であることの二点であるだろう。しかしながら、「時」が観客に感じ取らせるものにはそれ以上のものがある。「時」の働きに関して、「過激」「逸脱」の感覚が喚起される――「法律をくつがえす」「ある習慣を(中略)根こそぎ引き抜く」。そして、劇のこれからの展開が「過激」「逸脱」に行われるとすれば、それはこれまでの劇展開との対比においてそうであるということになるだろう。劇前半のシシリアの場面からすると、いったい何が「過激」「逸脱」なのだろうか。

 

4 「時」は、「同様にいま栄えている/もっとも新しい秩序を目撃し、その新鮮な輝きを/いまの私の話と同じく、陳腐なものといたします」(So shall I do/ To the freshest things now reigning, and make stale/ The glistering of this present)と述べる。この言葉は、その前後の劇の展開のなかで眺めることができるように思う。王妃の不貞を疑った後、リオンティーズ王が自分の少年時代についてもっていた記憶の中の輝きは失われてしまったにちがいない。シシリアでの事件は、「時」の言葉の具体例であるとも言えるだろう。しかし、ボヘミアの場面、とくに毛刈祭りの場面は、観客に現在の輝き(The glistering of this present)を舞台的輝きとして取り戻す――「君のすることはどれもが女王なのだ」(四幕四場)。「君」、すなわちパーディタ、すなわち「失われた者」(三幕三場)は、現在の輝きとともに提示される。舞台の輝きは「時」の浸食を忘れさせる。舞台がもつライブ感、観客を巻き込むライブ感について議論してみよう。

 

5 四幕四場、毛刈祭りで老羊飼いは、自分の妻に言及しながらパーディタにはっぱをかける――「こら、娘!ばあさんが生きていた時分にゃ」。彼が亡くした妻は「祭りの女王」にふさわしく人々を歓待した。老羊飼いはパーディタにもそのように振舞うように励ます。毛刈祭りを通して喚起される喜びの感情は、おそらくパーディタの養父としての老羊飼いの喜びと重なる。彼は捨て子を自分の家族のなかに取り込んだばかりか、その子どもの成長を、彼女の結婚もふくめた成長を、自分の喜びとしている。二度目のシシリアの場面で、リオンティーズが(妻を想起させる)失った娘との再会が観客に対してもつ効果のなかには、老羊飼いのこの経験(についての観客記憶)がその底にあるではないだろうか。(この劇で、娘をもつ父親は二人だけである。)

 

6 三幕二場以降、ハーマイオニは舞台から姿を消す。しかし、四幕四場でハーマイオニの分身が現れる。劇の冒頭、ハーマイオニはボヘミア王ポリクシニーズを歓待しようとしたが、同じように、今度はパーディタがポリクシニーズを含む毛刈祭りへの来客を歓迎しようとする。一幕二場では、王たちは自分たちの少年時代の様子に触れたが、王妃ハーマイオニの少女時代についてはなにも触れられることはなかった。そのとき言及の無かったものが、いま、舞台化されて現れる。リオンティーズに疑われたハーマイオニとポリクシニーズとの不倫関係の代わりに、いまは、パーディタとフロリゼルの性的穢れの暗示のない恋愛関係が提示される。この劇の構成はなにを意味しているのか。

 

7 この劇世界のなかでは、オートリカスは異色の登場人物である。四幕四場の毛刈祭りの浮かれた気分を彼は共有していない。五幕二場で「神託の成就」に人々が歓喜につつまれているときにも、彼だけがその感情の渦から離れたところにいる。彼には家族はなく、また使える主人もいない。彼は親密な人間関係をもたない。では、彼の存在は人々となんの関係もないのかというと、そういうわけではない。毛刈祭りでは彼の商いはその二つの中心的な関心のひとつとなっている(もうひとつはパーディタによる歓待)。劇の終盤では、「神託の成就」の陰の功労者となる。このように場の空気づくりに関係し、人々の運命にも関与する登場人物をどのように捉えればよいのか。

 

8 劇を分析するときに使われるアクションという用語は、Studying Playsによると「状況を変化させるもの」である。この用語は、ある登場人物の他の登場人物や外界への働きかけであるように捉えられるかもしれない。この観点からこの劇を眺めると、劇の序盤においては、リオンティーズの過剰な働きかけがあったが、劇の終盤においては、基本的に人々は外界に対しなんの働きかけもしない。リオンティーズは心理的内向を示し、家臣たちの再婚の提案に対してもポーライナがそれを制止し、基本的になにもしないようにと強く勧める(ポーライナには権威がある)。ハーマイオニは亡くなっており像でしかない(16年間の間)。このような劇終盤の特徴は、他の要素とどのように結びついているのか。

 

9 キリスト教的な考え方からすると、罪を犯した場合、それを告白して悔い改めれば救われるという(西ドイツ大統領ヴァイツゼッカーの1985年におこなった演説『荒れ野の40年』に込められた思想が日本人政治家にないのは、このようなキリスト教思想がないからだというコメントを読んだ記憶がある)。二度目のボヘミアの場面はリオンティーズの悔い改めから始まる。劇の残りの展開は、しかしながら、悔い改めだけでは不十分であると述べているように思われる。失われた人間関係は、過去のそのままとは行かなくても、ほぼそのままに取り戻されなければならない。それは、「昔話のよう」(like an old tale)である。つまり人間の理解を超えた奇跡である。そして奇跡は、いまは心から愛する人との、また愛すると自覚する人との再会である。『冬物語』のドラマはこの点に収束してゆく。ここに至るにはどのような力がはたらいているのか。

 

 

 


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