■チェーホフ『三人姉妹』Three Sistersについて

■テキスト

チェーホフ『桜の園・三人姉妹』神西清訳(新潮文庫、1967)を使用。

 

■質問(2014年度後期授業にて使用)

1 倒れている人がいて、その人が呻き声をあげているとする。その呻き声を、彼はコントロールできず(何オクターブで発声するかなど彼の関心でもないし、それを考える余裕もない)、それだけよけいに彼の体が危険な状態であることを伝える。『三人姉妹』の人々の言葉はそのような言葉に似ている。外界について述べたり、他人に働きかけたりする言葉ではない。彼らの言葉は彼ら自身の内的リアリティを反映している。倒れている人の呻き声が、その人が意図して発した声ではないように、劇の人々の言葉についても、それぞれの内的リアリティがそれを言わせる(その典型は劇の冒頭)。(さて、以上の観察は正しいだろうか。もし、正しいとすると――)チェーホフは『三人姉妹』をどのような劇として構想しているのだろうか。(Cf. 「出会いこそが、実際の演じられるドラマを作っている」、Eric Bentley, The Life of the Drama (1975), p. 63

 

2 この劇世界には、男性的権威をもつ人物がいない。三人姉妹の父親が亡くなっていることがそもそもの象徴であるが、ナターシャによるポローゾロフ家の侵略・占領はそれだけ容易となっている。さらに劇では、父親やその代理者は機能不全だといえる。この家に長期にわたり居候(?)していて、プローゾロフ夫人を過去に愛したチェブトイキンは飲んだくれで、火事という非常時でも役に立たない(彼の泥酔は責任を負うことの拒否姿勢?)。アンドレイも火事のときにバイオリンを弾いている。ヴェルシーニンの家庭は崩壊家庭の様子である。マーシャの夫であるクルイギンは妻に愛想をつかされているが、それを十分に認識している様子はない。イリーナの結婚相手として、ソリューヌイは言うに及ばず、トゥーゼンバフも最後にはその資格を自ら失ってしまう。アンドレイは父親亡き後の三姉妹の期待に応えられない。ナターシャが猫可愛がりしている二人の子どもは、いったい誰との間にもうけた子どもなのか。特権的な地位を有するがために、プローゾロフ家の客となりえているように思われる軍人たちは、まるで有閑階級のように見える(日常的に軍事訓練をしているように見えない)。このような男性的権威不在の世界は、三人姉妹にどのように影響を与えているのか。あるいは影響はないのか。

 

3 三人姉妹は、男たちに愛を告白されるが、彼女たちにとって生きていくとは、まず働くことであるようだ。劇ではそれは彼女たちの疲労・疲労感として提示される。イリーナは、「あたしたち、勤労を卑しんだ人たちの子」であるという。労働は、劇中の男たちにも習慣化していない(トゥーゼンバフ「僕が手足を動かさずに済むように」)。この劇の関心が、労働と愛であるとするなら、両者の関係はどのように扱われているだろうか。

 

4 チェーホフは、この劇において、一幕を聖人イリーナの日、三幕を火事、四幕を別れのときと、それぞれ特徴づけている。これらの特別な時は、観客が、三人姉妹の住む家に関してもつ感覚を形成する一要因となっている。そこに人々は集まり、そして最後には別れを惜しみながら去ってゆく。第一幕では、仮装踊りを夜通しこの家で楽しもうと人々が待ち構えている。火事の際には不特定多数の人々がこの家に避難し、保護された様子である。嫌われ者のソリューヌイでさえ、この家の訪問を厳禁されるわけではない。このように基本的に人々を抱擁しようとするこの家の姿勢は、人々を排除して(アンフィーサの排除、仮面踊りの排除、姉妹たちを排除)、この家を独占しようとするナターシャの行為と対照的である。この視点から、この劇についてどのような議論が展開できるだろうか。

 

 


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