■チェーホフ『かもめ』The Seagullの質問文

■テキスト

ここでは、チェ−ホフ『かもめ』浦 雅春訳(岩波文庫)を使用。他に、チェ−ホフ『かもめ・ワーニャ伯父さん』神西 清訳(新潮文庫)などがある。

 

■質問

1 アルカージナ「おお、ハムレット、もう何もいうてたもるな!そなたの語で初めて見た此魂のむさくろしさ。何ぼうしても落ちぬ程に、黒々と沁み込んだ心の穢れ!」、トレープレフ「いや、膏ぎった汗臭い臥床に寝びたり、豕同然の彼奴と睦言・・・・」(岩波文庫版、25頁)は、『ハムレット』からの引用である。デンマークの王子ハムレットは叔父である現在の王が、自分の父親(先の王)を本当に殺害したのかどうか、確かめようと劇中劇という手段を用いることを思い立つ。引用は、劇中劇によって確証を得たと信じる王子が、その直後母親の私室を訪ね、叔父との関係をなじる箇所から取られている。『ハムレット』では中盤に置かれた劇中劇は、『かもめ』では冒頭におかれている。『ハムレット』の劇中劇には王子の攻撃性(叔父と母に対する)と性的空想(目の前にいるのはオフィーリア、空想の中では母親)の両方が見られたが、『かもめ』の劇中劇には攻撃性(母と愛人との関係と彼らの世間的成功に対し)のみ顕著である。後者では、息子の攻撃性は、劇中劇の後でかもめを撃ち落とす形で、三幕初めで伝えられる母の愛人に対する決闘の申込とその直後の自殺未遂という形で、また、最後には自殺という形で表面化するだけである。他方、王子の性的空想が支配する『ハムレット』とは対照的に、『かもめ』の世界では、絆をつくる性的関係も破壊的な性的関係も存在しない。赤ん坊が誕生しても(二人の女性、マーシャとニーナの出産)新しい家族は誕生せず、逆に、出産は新しい家族の崩壊のプロセスの中にある。『かもめ』の世界は、このように人間の根源的な情動が希薄であると断言してよいか。

 

 

2 『かもめ』は演劇への言及や演劇的な要素が目立つ作品である。アルカージナとトリゴーリンはそれぞれの道のプロであり、ともに職業人として名声を得ている。この作品世界では、彼らは職業的習慣(女優と小説家)を通してしか生きることができない――「ひっきりなしに書いていて、これじゃまるで駅馬車を乗り継いでいるようなものです」(68)。小説家は周囲の人々から次々と小説の題材を採取し(「ちょっとした短編の題材、146」)、女優は日常生活においても人々の賛辞を糧に生きている。しかし芸術は世界のすべてではないことをこの劇はいたるところで示す(例えば、お金の話題、馬車の都合など)。ゴールドマンは、『バッコスの信女』が観客に与える悲劇的効果は当時のアテネが期待したものではなかったと論じているが、『かもめ』においても「反演劇的な偏見」antitheatrical prejudiceが見られるのだろうか。

【注】:ゴールドマンとは、Michael Goldman, On Drama: Boundaries of Genre, Borders of Self (Ann Arbor: The Univ. of Michigan Press, 2000)のこと。

 

 

3 『かもめ』の最後、ドールンはトレープレフがピストル自殺したことを知り、母親であるアルカージナに気づかれないようにトリゴーリンにそのことを伝えようとする。この1分ほど前、舞台上で「かもめの剥製」が小道具として現れる。剥製はトリゴーリンが注文したものだが、彼は記憶にないという。通常、死は最もリアルとされる。しかし、かもめの死に見られたように、トリゴーリンにかかっては小説の題材としてノートに記録され、やがて小説化(虚構化)されるものに過ぎない。死の事実がトリゴーリンに伝えられることによって、死のもつリアルはやがて失われることをこの劇は暗示しているのか。(ところで、アルカージナの振舞いは芝居がかるときがあるが、息子が想起する母の思い出の一つは隣人の身体的ケアであったことは(90)、ドールンの配慮が正しいことを示唆する。)

 

 

4 この劇が発展する登場人物として提示するのは若い世代である。トレープレフとニーナはどちらが主人公なのか。

 

 

5 ゴールドマンは演劇における認識(recognition)について以下のように語る。

(以下は引用)

認識はドラマにおいては(小説におけるのとは異なり)独特の地位をもつ。演技の興奮(魅力と恐怖)を増幅させる。従って、劇的認識の力とは、脅かすと同時に安定化させる力。単に解決点(resolution points)ではなく、エネルギーの高まりである。

(以上で引用は終り)

『かもめ』の終り近くにあるトレープレフとニーナの再会の場面は観客が期待して待っていた瞬間、期待して待っていた認識の瞬間である。観客は劇の前半でニーナを演じる役者が与えた印象と、その後の人々の噂から形成したイメージを彼女に確認しようと、その登場を心待ちにする。ゴールドマンによると、認識は、たんに作品をきれいに終らせるためのスイッチのようなものではなく、「エネルギー」だという。この再会の場面から観客はどのようなエネルギーを感じ取るのだろう。

【注】:「ゴールドマン」は、Michael Goldman, On Drama: Boundaries of Genre, Borders of Self (Ann Arbor: The Univ. of Michigan Press, 2000)のこと。

 

 


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