■シェイクスピア『ロミオとジュリエット』Romeo and Julietについて

■テキスト

ここでは『ロミオとジュリエット』(シェイクスピア全集2)松岡和子訳(ちくま文庫、1997)を使用。他にも『ロミオとジュリエット』(白水Uブックス)小田島雄志訳(白水社、1983)、『シェイクスピア全集7』斎藤勇訳(筑摩書房、1967)所収などがある。

 

 

■質問

1 『アンティゴネー』では劇全体を通して、死体が地表にむき出しになっている。その死臭は「汚染」(pollution)という形でテーベの町全体に及ぶ。対照的に『ロミオとジュリエット』のベローナの町は両家の対立により死体がコンスタントに生産されていることが想像されるのだが、死臭を嗅ぎ取ることは困難である。ベローナはクリーンな町と言える。換言すると、暴力の結果としての死と、それについての嘆きは劇世界の一部に限定・幽閉されている。この特徴は劇の他の要素とどのように結びついているか。(『ロミオとジュリエット』五幕二場に疫病の恐れから禁足を受ける家が登場するが、これはこの劇における汚染の局所化の一例ではないかという印象である。)

 

 

2 『アンティゴネー』では劇全体がテーベの王クレオンとその命令を弾劾する。アンティゴネー、テイレシアス、ハイモン、エウリュディケーなどである。このうちの三人はクレオンの犠牲となり命を落とす。このような『アンティゴネー』のクレオンに対する姿勢と比較すると、『ロミオとジュリエット』における親たちに対する姿勢は前者におけるほど厳しいものではない印象がある。観客との関係でこの現象を見ると、後者の場合には親たちは観客の共感のすべてを失ってしまったわけではないということか。また、「犠牲となる」恋人たちは自分たちを死へと追いやる力が何であると認識しているのだろうか、またどの程度認識しているのだろうか。また彼らには認識がなくても観客は認識するように劇は構成されているのか。

 

 

3 ベローナ社会にはジェンダー・イデオロギーが観察される一方で、その侵犯もまた観察される。性別にこだわらないとするなら、この劇におけるヒーローは誰であろうか。興味深いと思えるのだが、日本語訳では劇の最後は「数ある悲恋の中でも/ロミオとジュリエットの物語ほどいたましいものはない。」(松岡和子訳)、「世に数ある物語のなかで、ひときわあわれを呼ぶもの、/それこそこのロミオとジュリエットの恋物語だ。」(小田島雄志訳)といずれも「ロミオとジュリエット」と訳されているのに対して、原文は"For never was a story of more woe / Than this of Juliet and her Romeo"と名前の現れる順番が逆になっている。初音ミクが「私の恋を悲劇のジュリエットにしないで」と歌うにもかかわらず歌詞のタイトルが「ロミオとシンデレラ」であるのは、「ロミオと〜」が日本人にとってはすでに固定化しているからだろうか。

 

 

4 四幕一場でロレンスはジュリエットに、「明日の晩は一人で寝むこと、/乳母もお前の寝室に寝かしてはならない」と指示するが、劇作家は、そのとき観客の知識をあてにしている。乳母がすでにジュリエットの助けにならないことはロレンスは聞き知っていないからである。劇は観客を恋人たちの秘密を共有する者たちとして扱っている。同様に、「でもね、ばあや/今夜は一人にしてちょうだい。/分かっているでしょう、ひねくれて罪深い今の私に/天が微笑みかけてくださいますようにって/たくさんお祈りしなきゃならないから」(四幕三場)と言うジュリエットの本当の動機を観客だけが知っている。四幕三場でジュリエットは「この恐ろしい一場は私一人で演じなくては」と言うが、彼女の完全な孤立の背景には観客の共感があるのだ。この劇における観客認識について考えてみよう。

 

 

5 「死との結婚」のモチーフは、『アンティゴネー』と『ロミオとジュリエット』の両方に見られる。前者では、劇の初めから主人公自身がそのテーマを表明する。そして国王クレオンの命令によって無理やりにそのモチーフが実現する。後者では、事態の展開の中でそのモチーフが次第に浮かび上がってくる。特定の個人にその原因を帰することはできないように思われるが、この観察は当たっているだろうか。

 

 

6 アンティゴネーは生きて墓穴に入れられることによって、自分が母となる経験も奪われると述べるが、ジュリエットは自分が母となることについてはまったく脳裏には浮かばないようである。これは、ジュリエットがキャピュレット家の跡継ぎの地位にあることや、当時の結婚の目的(一幕三場でキャピュレット夫人が言及:「お前の年頃でお前を生んだのよ」)を考えるとき、不思議である。さらに劇は、初夜の翌朝の場面を設けているが(ゼッフィレリ監督の映画版では二人が裸でベッドに横たわる映像あり)、観客の意識の中では、ジュリエットは既婚夫人として捉えられてはおらず、二人の愛の成就は墓所において完成するという印象がある。シェイクスピアの時代(伝統社会)の人々は人間発達の諸段階を意識していたと思われる。少女(maiden)と妻とは女性の発達図式における異なるカテゴリーだろう。するとジュリエットは既存のカテゴリーから逸脱するリミナルな存在になるという暗示がここにはないだろうか。あるいはこのベローナ社会には、ジュリエットが結婚した後に採用することができる母のモデルがないという暗示であろうか。

 

 

7 『アンティゴネー』では父の態度を変えさせようとする息子のハイモンに対して、クレオンは「女の奴隷」だと非難する。これに相当する『ロミオとジュリエット』における箇所は、マーキューシオがティボルトに殺害されたことを知ったロミオが叫ぶ言葉――「君の美しさが俺を気弱にし/俺の勇気の鋼をなまくらにしたんだ!」(三幕一場)である。この種の言葉は劇社会のジェンダー・イデオロギーのなかで、どのように捉えればよいのか。

 

 

8 空間的にはロミオの経験は水平方向の次元においてイメージされ、ジュリエットの経験は垂直方向の次元においてイメージされているのではないか。ロミオ(Romeo)の英語名は「徘徊する」(roam)を意味し、実際彼はベローナの町境を二度にわたって横切る。若者たちの窮状を救おうとするロレンスの案の中でも、ロミオは数度にわたり町境を横切る。ジュリエットはバルコニーに現れたこともあったが(ゼッフィレリ監督の映画版ではロミオが庭の木をつたってバルコニーに体を乗りだす映像あり)、最後にはその体は墓所に横たわる。またジュリエットを天(空)のイメージで捉えるのはロミオのレトリックでもある。この空間的配置についての観察が正しいとするなら、さらにどのようなことがここから言いうるだろうか。

 

 

9 『アンティゴネー』のクレオンに対する姿勢と比較すると、『ロミオとジュリエット』における親たちに対する姿勢は前者におけるほど厳しいものではない印象がある。観客との関係でこの現象を見ると、後者の場合には親たちは観客の共感のすべてを失ってしまったわけではないということか。

 

 

 


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