■三島由紀夫『サド公爵夫人』Madame de Sadeについて

■テキスト

『三島由紀夫戯曲全集』上・下巻(新潮社、平成2)所収のものを使用。

 

■質問

1 この劇の初めと終りの間には、20年にわたる時間の経過がある。一幕冒頭ですらサン・フォンの「まあ三月目のあのことでまだ?」という言葉がある。二幕冒頭には、1772年の判決を破棄した、6年後の1778年の判決書への言及がある。6年間の歳月は新しい状況を生み出し、モントルイユは「昔の仲になった母子三人で、永い苦労を語り合ったらいいのだわ」という。三幕冒頭は、二幕の13年後、フランス革命勃発後9ヶ月である。ここにおいても時の経過による新しい状況が描かれる。ルネ「アルフォンスのことではかれこれ20年このかた」(615)、「つかのまに私たちを染め変える「時」というものが」(617)の言葉がそれを示す。(注1)このように時の経過は状況変化と関係があるのだが、注目したいのはその関係ではなく、最終幕で示される身体の老いとの関係である。三幕の冒頭、モントルイユとルネはそれぞれに老いているし、最後では老いたサド侯爵の姿が報告される。身体を道具として快楽を追及するサド侯爵をめぐる女性たちのドラマにあって、「身体の老い」はどのように位置づけられるのか。

1:ほかにも、「あれからもう19年」(616)、「13年むかしこの部屋で」(623)、「19年のあいだ待ちこがれた」(624

 

 

2 オリヴァー・タプリンは『ギリシア悲劇を上演する』(289)において「わたしの主張は、その反対に、重要な行為こそが舞台の上で行なわれ、劇の主題にとって欠くべからざる要素なのだということである。つまり、舞台の外での行為は、舞台の上で注意を向けられる限りにおいて意味を持つのである」と述べる。『サド公爵夫人』の場合、アルフォンスの行為は「舞台の外」にある。タプリンの見解に則ると、アルフォンスの「鞭とボンボン」は話題としての興味深さはあるが、「舞台の上の」行為ではない。舞台の上にいるのは4人の女性である。だから、この作品は女性たちのドラマなのだ。そのように考えると、いったい何が主題なのか。

【注】:オリヴァー・タプリン『ギリシア悲劇を上演する』(リブロポート、1991

 

 

3 『サド公爵夫人』には女性しか登場しない。これはめずらしい特徴だと思う。フェミニスト批評家によると、家父長制のもとで生産される文学作品では、男性の登場人物の数は多く、女性のそれは少ない。そのため男性は個性化(individualized)し、女性は象徴化(symbolized)する。また、男性は主体として扱われるのに対し、女性は客体として扱われる。家父長的作品のなかで女性は、ジェンダー規範に合致した存在(乙女、貞淑な妻など)として提示されるか、あるいはそれから逸脱した存在(ファム・ファタル、娼婦など)として提示されるか、どちらかである。

 さて、『サド公爵夫人』は、あたかも、上に述べた特徴をもつ家父長制ドラマが転倒しているかのような形をもつ。では、この作品はフェミニスト演劇と言えるのか、あるいは依然として家父長的演劇なのであろうか。

 

 

4 (問3と関連)家父長的作品で女性が象徴化されるのは、そのジェンダー・イデオロギーのゆえである。登場人物がすべて女性からなる『サド公爵夫人』で、もっとも空想的に語られるのはアルフォンスである。アルフォンス自身は舞台に登場しないため、観客は、直接に彼の言葉を聞くことはなく、彼についてはすべて女性たちの言葉のフィルターを通して知ることになる。ここから、アルフォンスについての語られ方、提示されるイメージに注目する重要性がでてくる。家父長的作品で女性が処女と娼婦に分裂するのと似て、『サド公爵夫人』のアルフォンスは、少年(568570573618619620)と「怪物」(582)に分裂する。家父長的作品では、男たちは女性のステレオタイプを疑うことが少ないのに対し、この作品では、主人公ルネはなんとか自分の夫を理解しようとする。『サド公爵夫人』を生み出した源泉があるとするなら、捉えがたい夫を理解しようとするルネの苦闘がそれである。ところが、舞台上の女性たちにとって捉えがたいアルフォンスは、即物的に言えば「鞭とボンボン」に過ぎないのであって、それをなんとか腑に落ちるものにしたいルネの言葉は空想的であり、観客はそこに大きな落差をおぼえる。アルフォンスを理解するためにルネがとった方法とはどのようなものか。

【参考】:"Yet Sadean desire in seeking pain seeks more than the satisfaction of carnal appetites, which is why bodies alone are never enough. His heroes also require huge banquets of speech, reason, and meaning," David B. Morris, The Culture of Pain (Berkeley and Los Angeles: Univ. of California Press, 1991), p. 236.

 

 

5 ドラマの構成の点で、主人公ルネの次に重要な登場人物はサン・フォンである。一幕で彼女は乗馬服を着て鞭をもつという外観(男性化?既にサド化?)で登場し、その鞭はアルフォンスについての歯に衣着せぬ情報提供の際に、効果的な小道具として役立つ。二幕途中でサン・フォンが「テーブル」になった経験を語った直後に述べる「アルフォンスは私」(596)という言葉は、二幕の最後のルネの言葉となる。(注1)三幕(即ち13年後)ではその言葉はルネによって想起され、「ジュスティーヌは私です」(623)と修正される。観客はサドを舞台上に見ないが、社会規範の逸脱者としてのサン・フォンを見る。それは、サン・フォンはモントルイユからは「蝮」と見なされ、魔女のイメージが与えられる(「箒に乗って」593)ことからも言える。観客は、サン・フォンに対するモントルイユの態度(一幕「蝮」)について、それは過度の拒絶だと感じ取るだろうし、シャルロットの喪服(三幕)にサン・フォンを全面否定するのは間違いであることを教えられる。(注2)三幕でモントルイユは革命によって世の中が「ひっくり返っ」り、「逆様」(610618)になったので、アルフォンスはマイナス評価からプラス評価に変るという。この彼女の言葉に照らして興味深いのはサン・フォンの最期の姿である。

(以下、引用)

暴徒はその亡骸を取り返し、戸板に載せて、民衆の女神として、崇高な犠牲者として泣きながら運んでまはりました。(中略)

 朝の光の中で、サン・フォン伯爵夫人の亡骸は、殺された鶏のように、血と白と青い打身の、三色旗の色になりました。(中略)それが革命の発端でした。(611-12

(以上、引用終り)

このサン・フォンの最期の描写には、彼女の「テーブル」経験のときの語りの言葉が想起される。すなわち、メタファーの上で性的逸脱は革命社会と同一視される。この劇に登場する女性の登場人物の中で、サン・フォンが最も象徴的な存在と言えるだろうか。また、家父長的演劇における象徴性の強い女性の登場人物との違いはあるだろうか。

 

【注1】:Cf. 「あのことをわがことのように感じ」(571

【注2】:Cf. 「あの方が輝いていることには変りはありませんでした」(612

【参考1】:"It is revolution that provides the political metaphor best summarizing the meanings Sade found in pain." David B. Morris, The Culture of Pain (Berkeley and Los Angeles: Univ. of California Press, 1991), p. 237. Cf. 「バスティユの牢が(中略)あの人は内側から鑢1つ使わずに牢を破っていたのです」(623

【参考2】"The pornographic imagination for Sade and Sacher-Masoch depends on social and erotic dominance. . . . the erotic pain they seek and celebrate depends on a vision of radical inequality", ibid, p. 241.

 

 

6 「狭い空間」「閉じ込め」「内と外」「境界」「侵犯」「秘密」は頻出するイメージ(モチーフ)であり情景である。「耳をふさぎ」(568)、「石の扉」(589)、「私は牢の内外にいながら」(600)、「閾」(605)、「一枚の白い塀」(612)、「琥珀の中に残った蟲」(612)、「あの光の牢屋」(616)、「潮の差引で移る堺のよう」(619)、「私を、一つの物語のなかへ閉じ込めてしまった」「私たちは残らず牢に入れられてしまった」(623)など。これらはこの作品世界をつくる重要な部品と言えるか。

【参考1】:ウィリアム・エンプソン『曖昧の七つの型』上・下巻、岩崎宗治訳(岩波文庫、2006

【参考2】:ピーター・ストリブラス、アロン・ホワイト『境界侵犯:その詩学と政治学』本橋哲也訳(ありな書房、1995

 

 

7 サドが書き、ルネが読んだ『ジュスティーヌ』は、「アルフォンスは私」から「ジュスティーヌは私」への変化の原因となっている。そのことによって、アルフォンスのイメージも変化している。前者においてはアルフォンスは、「私」であるルネと似た人間サイズであるが、後者では、「私たちが住んでいるこの世界は、サド侯爵が創った世界なのでございます」(623)という彼女の言葉が示すように、世界の創造神の大きさに拡大している。サドが書いたこの本は、ルネの思想的変化をどのようにして引き起こしたのか。また、ドラマの批評で登場人物の発展(development)はしばしば取り上げられる問題である。アルフォンスは作品全体を通して変化がないと思われるが、ルネの発展をその発展を促した諸力・諸関係とともに考えてみよう。

 

 

8 劇の最期近くでルネが提示するアルフォンスのイメージ(634)は、超男性的である。ルネは語る――「あの人はもう一度、由緒正しい侯爵家の甲冑を身につけて、敬虔な騎士になりました」。ここに到っての騎士のイメージ、戦闘のイメージは、それが余りにも空想的であることもあって違和感を感じさせるが、なぜルネはこのようなイメージでアルフォンスを捉えたのか。(注1

【注1】:Cf. 「長剣を腰につり」(568)、「錆びついた甲冑や剣」(572)、「十字軍に加はったご先祖」(584

 

 

9 シェイクスピアの『ハムレット』の主人公である王子は母親の穢れたセクシュアリティの妄想にとりつかれるあまり、自分の恋人であるオフィーリアに「尼寺へ行け」、すなわち、結婚(生殖)がない世界に閉じこもれと促す。もしハムレットが、サドの性癖を知っていたなら、オフィーリアに対して別の道を示すことができたかもしれない。すなわち、「鞭とボンボン」に耽れと。サドの世界は生殖のない世界である。そのような世界で創られる物語はどのような特徴をもっているのか。これを考える材料として、例えば、シェイクスピア喜劇では、恋愛から結婚への移行が大前提となっている。これは嫡子相続が社会の根幹であった時代に生まれた作品であるがゆえにその大前提をもつ。

【参考】:"As Angela Carter has observed, Sade anticipates our own era with its unprecedented break between erotic pleasure and childbirth." David B. Morris, The Culture of Pain (Berkeley and Los Angeles: Univ. of California Press, 1991), p. 229.

 

 

10 イヴ・K・セジウィック『男同士の絆:イギリス文学とホモソーシャルな欲望』上原早苗・亀澤美由紀訳(名古屋大学出版、2001)によると、女性が中間項となって男性同志のホモ・ソーシャルな関係が成立しているという。『サド公爵夫人』への応用を考えてみよう。

 

 

11 三幕の終盤で、ルネは、アルフォンスが『ジュスティーヌ』を「私のために書いたのではないか」という。この物語をめぐるやり取りのなかで、さらに「アルフォンスは私を、1つの物語のなかへ閉じ込めてしまった」という。このようにルネは、この物語と「私」とを緊密に結び付けるのだが、その直後、「牢の外側にいる私たちのはうが、のこらず牢に入れられてしまつた」と、代名詞が「私」から「私たち」に変る。その後、もういちど代名詞は「私」に戻って、また「私たち」に変っている。「そして、お母様、私たちが住んでいるこの世界は、サド侯爵が創った世界なのでございます」(ついでながら、ルネが「サド侯爵」という言い方をするのは稀)。この代名詞の変化は、劇のこの後の展開(ルネが語るアルフォンスの「敬虔な騎士」のヴィジョンと、それに続く、サド侯爵帰宅の報せ)とどのような関係があるのだろうか。

 

 

12 一幕で、劇作家はサン・フォンとシミアーヌを「悪徳の女と聖女」というように両極端の存在として、前者に述べさせている。ルネの発展は、ある意味で、サン・フォンからシミアーヌへの変化であると言える。前者については、「アルフォンスは私です」という言葉が、後者については「貞淑の鏡」(621)の言葉がそれを暗示する。また、二幕でルネがサン・フォンの「机」の経験と似た経験をすること、三幕では彼女がシミアーヌに頼んで修道院入りすることがそれを示している。このパターンは、人の魂を取り合う善天使と悪天使の戦いであるサイコマキアのパターンであると言える。ルネは修道院へ入ることを決意するが、しかし、彼女が見た光はシミアーヌとは別のもののようである。彼女の心境の変化について考えてみよう。

 

 


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