■シェイクスピア『リア王』King Learについて

■テキスト

ここではシェイクスピア『リア王』白水Uブックス、小田島雄志訳(白水社、1983)を使用。ほかに、シェイクスピア全集5、松岡和子訳(ちくま文庫、1997)、シェイクスピア全集7、斎藤勇訳(筑摩書房、1967)などがある。

 

■質問

1 『オイディプス王』と『リア王』は、どちらも一国の王を主人公としている。オイディプス王はスフィンクスの謎を解いてテーベの町を救った功績があり、それは王自身の自負ともなっている。疫病に苦しむテーベの民にとって、王は最大の頼りどころである。観客は、テーベの災難の根源に自身の「行為」があることを王が悟るプロセスを、劇の進展とともに彼と共に辿ることになる。一方、リア王のこれまでの王としての功績については全く触れられていない。そのような主人公が、冒頭の場面で、観客の共感の多くを失ってしまう。そのように最初に大きなマイナスのイメージを与えられる主人公は、劇の進展とともに、どのように観客の共感を得ていくのだろうか。

 

 

2 Jean-Pierre Vernantは、ギリシア悲劇の主人公は自分が解き放った力(a daemonic power of defilement)に巻き込まれてしまうという。彼の分析はギリシアの宗教思想に依拠したもののようである。Vernantの考え方に対して、『オイディプス王』をめぐるクラスの議論では、主人公に行為主体を認めうるという意見があったと記憶する。さて、『リア王』においては、ある人とある人は人間性の本質的な部分を共有するという感覚が繰り返し表明されるように思われる。人間性と人間性がオーバーラップしているという感覚である。例えば、

(以下は引用文)

だがおまえはわしの肉、わしの血、わしの娘だ、と言うよりわしの肉をさいなむ病だ、それでもわたしのものに変りはない。(二幕四場214216行)

 

ケント:だれだ?(Who's there?

道化:頭に立つ人と股間の道化もの、つまり利口と阿呆だよ。(三幕二場3738行)

 

人間、衣装を剥ぎとれば、おまえのように、あわれな裸の二本足の動物に過ぎぬ。ええい、捨ててしまえ、借り物など!おい、このボタンをはずしてくれ。(三幕四場9597行)

(以上で引用文は終り)

この観察はそもそも正しいだろうか。また、このような特徴があるとすれば、この劇における登場人物の概念はどのようなものなのだろうか。

【注】:「ヴェルナン」とは、Jean-Pierre Vernant

 

 


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