■シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』Julius Caesarについて

 

■テキスト

ここでは主に、『ジュリアス・シーザー』(白水Uブックス20)小田島雄志訳(白水社、1983)を使用。他にも、『シェイクスピア全集6』中野好夫訳(筑摩書房、1967)所収など。

 

■質問

1 劇の前半と後半で異なる印象をもつ。前半では、次のヘンリー・ジェイムズの言葉が当てはまるように思われる。

 

What is character but the determination of incident? What is incident but the illustration of character?

Cited in Bert O. States, The Pleasure of the Play (1948, 13), p. 136.

 

つまり前半では登場人物と劇の展開は密接に関連している。この劇が進展する方向は、登場人物の特徴がそれを決定づけている印象である。ところが後半では、ローマの運命をコントロールできる人物、またコントロールできると考えている人物は一人もいない。このことは、シーザーが健在であったときには保たれていた社会秩序が、彼の暗殺によって無秩序(内乱)となってしまうこと以外に、どのような影響を作品に及ぼしているのか。

 

 

2 (1の問題意識を別の観点から)劇の前半はシーザーの凱旋で始まる。劇冒頭の職人たちの行動が示すように、凱旋は民衆にとって興奮をかき立てるスペクタクルであり見世物である(他のローマ史劇においても同様――『タイタス・アンドロニカス』冒頭の凱旋、『コリオレーナス』の凱旋、『アントニーとクレオパトラ』で、オクテーヴィアスが姉の帰郷を凱旋式として演出できなかった不満、女王が空想するオクテーヴィアスの凱旋)。見世物としての凱旋式には、その凱旋者の意図、その観客の解釈(受けとめ方)が関係している。つまり、『ジュリアス・シーザー』冒頭の凱旋式は劇場都市ローマへの入り口だと言ってもよいのではないか。劇場効果は平時のローマ(劇の前半)においてその最大の効果を上げることができるが、戦時のローマ(劇の後半)においてはその効果は薄い。

 

 

3 四幕一場でアントニーはオクテーヴィアスとのやりとりで、レピダスについて述べる――「要するにあの男はただの、/小道具と思えばいい」(“Do not talk of him / But as a property”)。「シェイクスピア時代における「小道具」(Property)の意味は、その使用者に属する(仏 'propre')モノ」ということを、今学期、Studying Playsで学んだ。上のアントニーの言葉は、この劇の他の登場人物どうしの関係にも拡大して適用できるのではないか。最も象徴的な瞬間は、シーザーの死体が「小道具」になってしまうことだ。それは「小道具」としてアントニーに活用される。生きている人間も同じだ。公的領域における人間は、他人にとって有用なモノにすぎない。

 

 

4 「高潔なローマ人」の観念や、シーザーに対する愛情とは相容れないと思われる以下の発言は、どのように作品の中に位置付ければよいのか。

 

「シーザーがどんな戦利品を/もって帰ると言うのだ?」(一幕一場)

「すべてのローマ市民にたいし、/それぞれ七十五ドラクマずつを贈る、とある」(三幕二場)

「例の遺産配分の金額を/少しでも削減できないものか、三人で考えたい」(四幕一場)

「金欲しさに手のひらをむずむずさせ」「卑しい賄賂に指を汚し」(四幕三場)

 

5 シェイクスピアの劇では女性の登場人物は少ない。従って、両極端に描き分けられることが多い。例えば、彼のローマ史劇においても、タモーラとラヴィニア(『タイタス・アンドロニカス』)、クレオパトラとオクテーヴィア(『アントニーとクレオパトラ』)、ヴォラムニアとヴァージリア(『コリオレーナス』)などが思い浮かぶ。『ジュリアス・シーザー』においては女性の登場人物は、ポーシャとカルパーニアだけであるが、彼女たちは相違性というよりもむしろ類似性が目立つ。ともに夫の健康や安全を願う、夫思いの妻たちである。この特徴は劇の構成のうえで、どのように機能しているのか。

 

 

 


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