■イプセン『人形の家』A Doll's Houseについて

■テキスト

『イプセン戯曲全集 4』原千代海訳(未来社、1989)所収のものを使用。

 

■質問

1 三つの幕を通して場面はヘルメル家の居間である。地理的空間としては限定されている。この作品は、登場人物に互いの過去の関係にも言及させることによって劇世界を演劇的・物語的に拡大している。クリスティーネ(リンデ夫人)とノーラ、またヘルメルとクロクスタは学生時代を共にしたのであり、クロクスタはクリスティーネと親密であった時期があり、ドクター・ランクはヘルメル家と従来から親交がある。このように時間的枠組みの拡大は、同時に人間関係の枠組みの拡大にもなっている。この特徴自体は味もそっけもない劇作法といってよいのだが、それが作品のテーマの観点から眺められるとき、登場人物がそれぞれに抱える過去に対してどのように対応するのかという問題となって現れてくる。以上の点をさらに考えてみよう。

 

2 自分の妻を愛玩動物のように扱うヘルメルに対して、観客が自己同一化することは困難だろう。しかし舞台上で女優が演じるノーラに対し観客が感じる魅力の一部は、ヘルメルが妻から受けている磁力に依存しているように思う。ヘルメルは妻が仮装ダンスをするのを見ていて性的欲求をかきたてられるが、観客にもそれも当然と思えないと、この作品は輝き出さないように思われる。ノーラ役に与えられるセリフは最も多いが、同時に役者は身体全体での演技が最も要求される。さらにノーラなら自分の人生(そのすべてでないにしても)はこれまで演技であったと答えるだろう。ノーラ役に特徴的なこの身体性・演技性は、劇の他の要素とどのように結びついているか。

 

3 観客はノーラに対しある程度、距離をおいた関係をもつ。それは観客がノーラの視野よりも大きな視野をもつことができるように設定されているためである。しかし、彼女は劇の登場人物すべてと交流することができる要(node)の位置に置かれている。もしノーラがノーラのようでなければ、彼女はこの要としての位置を獲得することはできなかっただろう。リンデ夫人とクロクスタからは予期せぬ接近を受ける。実際、彼女のヴィジョンによれば、親密圏への新メンバーの加入も受入OKなのである(「ここに座ってよく想像したものよ」、第一幕)。この観点からすると論理的に言って、ノーラが一大転換(conversion)すれば、彼女はこの要としての位置を失うことが必然であるとも言える。すなわち彼女はほかの人間との繋がりをすべて切断してしまう。あなたはこの見解を正しいと考えるか。

 

4 ノーラの「何万、何十万という女がそれをしてきたのよ」(第三幕)という言葉は、性別によって生き方・考え方は異なるというフェミニスト的な示唆を含む。この劇全体はその示唆を支持しているのか、あるいはその示唆と異なる要素も発見できるのか、どちらであろうか。

 

5 この作品において象徴的意味が与えられていると思われる設定は、マカロン、主人公が暮らす家、クリスマスという時期、仮装舞踏会、ランク医師の病気などである。ここではクリスマスを取り上げる。劇の冒頭でノーラが心を砕いているのは家族へのクリスマスの贈り物の準備である。クリスマスに贈り物をするというのは世俗的な慣行とも言えるが、宗教的にはキリスト誕生を祝う行事であり、キリスト降誕(救世主の出現)は原罪を負う人間への神からの贈り物と神学的には捉えられる。去年の同時期にノーラが一ヵ月も部屋に閉じこもってクリスマスの準備に没頭したと夫ヘルメルが述べる(彼は本当のことを知らない)のは、実は、内職によって夫のために負った借金を返済しようとする彼女の献身、すなわち、夫への贈り物であった。「ギフト」という視点でこの作品をさらに考えてみることはできるか。

 

6 第二幕冒頭のノーラと乳母とのやりとりは印象に残るものである。後者は過去に実子の養育をあきらめ、乳母としてノーラを育てる仕事に就いた。このエピソードが想起させるは、劇中において、これ以外の「親子」関係(同時に、乳母の夫婦関係も暗に含まれているかも)でポジティブな価値をもつものは少ないという事実である。そのような対象を浮かび上がらせるために、ある登場人物の親はまったく言及されないか(例 ヘルメルの両親)、子どもが幼少の頃に死んでいるか(例 ノーラの母親)である。さらに別の登場人物については、親から子への悪しき影響が強調される(例 ノーラの父)。また、いくつか言及のある「結婚関係」も不毛であるか、あるいはポジティブな思い出が回想されることはない(顕著な例は、リンデ夫人)。劇世界のこの特徴と、劇の展開とはどのように関係しているのだろうか。

 

7 マーク・シェル『地球の子供たち』(みすず書房)第七章「ファミリー・ペット」にバニー・ガールのことが出てくる。若い女性にかわいい動物の印をつけるのは非性化(desexualize)する工夫だというのである。ヘルメルの性生活について考えてみたい。彼が妻を「リス」「ヒバリ」などと呼ぶこと、劇の終盤で「兄と妹のようにして」ノーラとの同棲を提案することは、彼にとって妻との性生活(観)は彼独特のものであることを示唆する。またこの関連で考えてよいと思われるのは、死の影をもつランク医師の存在である。西洋の表象(文学、美術など)の歴史のなかでは、性化(sexualize)された「死」はめずらしくはない(例 若い娘に言い寄る死神)。しかし、ランクは性的な存在ではない。もしそうであれば、ヘルメルがランクの妻への接近を認めるだろうか。劇世界のこの性的に萎えた、あるいは性的に局所化した特徴について考えてみよう。この文脈では、リンデ夫人の感性に注目してよい。第二幕で、リンデ夫人はランク医師が毎日のようにヘルメル家を訪問する動機について誤解したことになっているが、それは誤解ではなかったのではないか。ノーラとリンデ夫人のやりとりにうかがわれるのは、ノーラが示す性的な側面をもつ夫婦関係についての未熟さであり、リンデ夫人が示す大人の知恵である。

 

 

 


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