■チェーホフ『桜の園』The Cherry Orchardについて

■テキスト

チェーホフ『桜の園』小野理子訳、岩波文庫(岩波書店、1998)を使用。

 

■質問(2012年度後期授業にて使用)

1 『桜の園』の背景となっているのは、大変化の途上にあるロシア社会である。人々はその変化にうまく順応していない。そのためか、彼らは言葉によって自分の気分を高揚させる世界をそれぞれに創りだしているように思える。ガーエフ、エピホードフ、ドゥニーシャ、フィールス、など。彼らが創る言葉の世界は、現実の世界や彼ら自身の現実を反映しているものではなく、各自のなかに閉じられた、すなわち他の人々とは共有されることのない幻想空間であるように思える。もしこの観察が当たっているなら、この言葉でつくられた空間は、この劇の他の要素とどのように関係しているのだろうか。

 

2 観客は劇のプロットは進展するものと考えがちである。そのような観点からは、「桜の園」の所有権の行方と、ワーリャとロパーヒンとの結婚の行方の二つがその種の関心となるだろう。この二つのトピックは繰り返し、人々の話題にのぼるからである。しかし、チェーホフは観客のそのような期待を裏切る。領地を守るためになんら現実的な対策はとられず、恋人たち(?)はすれちがってしまう。このことから、チェーホフはひとつの典型的な劇構成に対して拒否的な姿勢を示しているのだろうか。リニア(直線的)な時間感覚が拒否されるとしたら、チェーホフの劇にあるのはどのような時間感覚なのだろうか。ドラマは時間芸術なので、そこには「進行」がある。進行によって、なにが生み出されているのだろうか。

 

3 『桜の園』の女領主、ラネーフスカヤの人柄や振舞は、その時代に生きた彼女の地位にあった者なら、ありそうなものだったかもしれない(と、外国人である私は想像する)。演劇研究者としての私は、通常、作品に対してこのような態度は取らないのだが、今回はそうしてみたい気になった。彼女に特徴的と思われることがらをリストアップしてみよう。

 

4 第三幕で、帰宅したガーエフは、大きな関心で競売の結果を待つ人々に、報告しなければならない。ところがラネーフスカヤの問いに彼は答えることができない。しかし、しっかりと「アンチョビーと、ケルチの塩漬けニシン」の買い物は忘れていない。またビリヤードの部屋からは競技する人々の声や玉の音が聞こえると、彼の気分は一新する。そこで彼が言う言葉、「わしは疲れたぞ、フィールス、着替えさせてくれ」。彼は大きな子供である。ラネーフスカヤについても同様に感じられる。この劇のこれらの大きな子供について考えてみよう。

 

 

■質問(2010年度前期授業にて使用)

1 この劇では言葉はどのような働きをしているのだろう。多くの場合、登場人物どうしのやりとりはやりとりになっていない。意味のある言葉のキャッチ・ボールになっていない。発言者の言葉はその人の内部でこだまするだけで、目の前にいる人にどれだけ届いているのか、はなはだ疑問である。だから、誰も自分が嬉しくなるような言葉を人から聞くことはできない。例えば、劇冒頭で、アーニャがワーリャにロパーヒンから結婚の申し込みがあったかどうか質問し(劇中、初めてワーリャとロパーヒンの関係が言及される箇所)、ワーリャの返事を引き出すが、それに対するアーニャの反応はない。ベントリーは劇の中心には人と人との出会い(encounter)があると述べたが、この劇ではそれは当てはまらず、ここでは言葉は絵の具のようなものなのか。カンバスのそこかしこに異なる色が塗られ、それが全体として意味をもつような。(そのような言葉の用法は、また音とも親和性があるのではと思ってしまう。チェーホフは彼が肝心と考えたタイミングで舞台に音を入れている。)

【注】:「ベントリー」とは、エリック・ベントリーの演劇論『ドラマの生命』The Life of the Drama (1965)のこと。

 

 

2 この劇には家族らしい家族が存在しない印象を受ける。その印象の中心にはラネーフスカヤがいる。彼女にとってもっとも強い絆はパリの愛人である。そのために劇が始まる以前の五年間、ワーリャはひとりで彼女の屋敷を守り、アーニャは思春期の娘にはふさわしくないと思われるような環境(「煙草の煙がもうもうとして、居心地の悪さといったら」)におかれていた。母親が小さい息子(グリーシャ)を失った悲しみからパリへの逃避行をし、愛人もいたという状況にもかかわらず、アーニャは問題なく成長してきたように見える。以上のことがらは一幕だけ読んでもわかるのだが、二幕冒頭、シャルロッタが述べる「ルーツの不明」は一幕で提示される「家族らしい家族がない」ことの象徴とみることもできないか。

 

 


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