■シェイクスピア『コリオレーナス』Coriolanusについて

 

■テキスト

ここでは主に、『コリオレーナス』(白水Uブックス31)小田島雄志訳(白水社、1983)を使用。他にも、『シェイクスピア全集8』倉橋健訳(筑摩書房、1967)所収など。

 

■質問

1 美内すずえ『ガラスの仮面』第45巻で演出家の黒沼が北島マヤなどの役者たちにいう。「舞台もまた人工的な空間だ。そこになにを生みだすかは役者と演出家の共同作業だが、おれがいいたいのは、空間は生きているってことなんだ。そしてその空間に、ほんのちょっとの創造性を加えるだけで空間は変化していく。生き物のようにだ。(中略)おまえたちには空間のもつ性質や影響力に敏感であってもらいたいと思っている。役者もまた空間を変化させる力をもつからだ」。この言葉は、現象学的な視点に立つ演劇の研究書、Bert O. States, Great Reckonings in Little Rooms: On the Phenomenology of Theater (1989)の、役者を演技者(行為者)ではなく、場面作り者(scene-maker)と捉える視点と通じるものがある。

 さて、イプセン『人形の家』では全幕を通して、場面はノーラの家であった。その劇では場面が家の内部であることが大道具・小道具(例えば家具)、役者の台詞と所作(例えば座ること)などによってつくられていた。シェイクスピア時代における劇場の張り出し舞台(apron stage)では、物理的な方法で場面情景が示されることはなく、役者たちの台詞と所作によって情景が喚起された。『コリオレーナス』の場合には、それは都市ローマの情景である。このローマは内部と外部をもち、その各々の場に独特な人間的感情が湧きあがり渦巻く。観客はその感情のなかに巻き込まれ、揺さぶりをかけられる。このようにして、『ガラスの仮面』の黒沼が言うように「空間は生きている」という感覚を観客はもつ。このような激情都市ローマから出発して、この劇について考えてみよう。

 

 

2 『コリオレーナス』の主人公は、一貫した自己像(アイデンティティ)を人々に対して主張する。この特徴が彼の基調としてあるため、それと抵触する行為やきっかけは彼にとって予期しない驚きとして提示され、また実際、観客もそのように感じる。例えば、一幕九場で、突然、戦功の褒美を願いでることを思いつくこと(かつて世話になり今は捕虜となっている敵方の町の人間を解放してほしい)。三幕二場で、変節と思える母の言動に彼が驚くこと。五幕三場で母や妻がローマの命乞いに来たのを見て驚くこと。主人公が一貫性を主張する強烈な個性をもつがゆえに、他の登場人物ではなく彼においてこそ最も鮮明に浮かび上がるのは、自己とは結局、アイデンティティではなく、演技(パフォーマンス)ではないかということである。彼が一般人からすると超人と言えるようなアイデンティティを自己主張するためには、繰返し、超人的偉業を達成し続けなければならない。ところで、偉業は社会の認知があってこそ偉業と定義される。あたかも自分が立つ社会的基盤は不要であるかのごとくに発言する主人公と、どのようにしても彼と切り離すことはできない社会的基盤との相克について考えてみよう。

 

 

3 ケネス・バークは、ことわざのもつ価値をその真理性ではなく、その実用性にみている。すなわち、ふさわしい社会的文脈で、ふさわしく用いてこそ、ことわざの価値が発揮されると考えるのである。だから、言葉という道具をうまく利用するにはその道具に習熟していなければならない。ヴォラムニアについて述べた主人公の次の言葉は同じ内容をもつように思われる。

(引用)

そういった金言を母上は始終、私に注ぎ込み、それを一つ一つ憶え込ませて、私を大胆不敵な者に鍛へ上げようとなさったものだ。(四幕一場、福田恆存訳)

(引用終り)

このヴォラムニアの言語観は、ローマの人々が政治的状況にのぞむ際に共有されているものらしい。ローマの言葉は手垢にまみれ、真理を語るためではなく、人々を丸めこむためにもっぱら利用される。しかし、そのような用法は相手も先刻承知である。言語に対する姿勢がこのように「意識された」ストゥディウム(studium)である社会において人々が真実を表明しようとすると、どのような表明の仕方があるのだろう。

 また「先刻承知」の言語が支配する劇世界をシェイクスピアが描いたとしても、それは彼の劇そのものが「手垢にまみれた」ものであるということにはならない。この社会で、またこの劇で、プンクトゥム(punctum)はどこに見出せるだろうか。

 

注:ストゥディウム(studium)とプンクトゥム(punctum)は、ロラン・バルトが『明るい部屋:写真についての覚書』において写真の二つの見方を示したもの。

 

 

4 主人公コリオレーナスのイメージは劇の進展に従って、超人サイズ(コリオライ戦と凱旋)→人間サイズ(選挙)→超人サイズ(復讐)→人間サイズ(家族との対面)というように変化する。この現象に一定の解釈(例えばキリスト教的解釈)を与えることは容易である。しかし演劇が解釈されるためだけに存在するのでなく、「演劇される」ためにも存在するのだとすると、この現象にはどのような演劇的効果があるのだろうか。

 

 

5 五幕三場、敵の陣地での家族(母、妻、小さい息子)との再会の場面は、三幕二場における主人公と母(母のみ)とのやりとりの場面を想起させる。五幕三場は三幕二場を下敷きにして作られていると言ってもよいのではないか。そして、過去の場面の要素がそのまま繰り返されるのではなく、新しいコンテキストの中で新しい効果を生むために再利用されていることが推測される。この点について議論してみよう。

 

 

 


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