■作者不明『万人』Everymanについて

■テキスト

ここでは、作者不明『万人』、『イギリス道徳劇集』鳥居忠信・山田耕士・磯野守彦訳(リーベル出版、1991)を使用。英語版では、Everyman in The Wadsworth Anthology of Drama (Berkeley: Univ. of California Press, 2007), pp. 170-80.などがある。

 

 

■質問

1 エウリピデス『メデイア』は古代ギリシアのアテネで紀元前431年に上演され、『万人』は1518-19年ごろに英国で印刷されたと考えられている。作られた時代も土地もこのように異なる作品であるので、当然、作品に内包されるエートス(ethos)も異なっていたことが予想される。次の『メデイア』の引用を参考に、この点を考えてみよう。

 

  敵に侮られることだけは、ねえ、みなさま、我慢のならぬことですから。(99頁)

  敵のやつらをこのままに捨て置いて、もの笑いにされたいというのか。(106頁)

  イアソン:そういうそなたも、やはり苦しいはず、不幸なはず――。

  メデイア:喜んで苦しみますのよ、あなたに嘲られさえしなければ。(115頁)

 

 

2 この劇の登場人物の登場の仕方は、すでに舞台上にいる人物が次の登場人物を召喚する、指名するというように構成されている。劇の前半では万人が召喚し、後半では万人以外の者が指名する。つまり後半では、1)善行が知識を【520】、2)善行が3人を、さらに知識が1人を【656】、3)知識が司祭を【705】、指名したり、勧めたりする。この召喚・指名の構成は、また人々が万人から次々と去るパターンとも連動している。作品のこのような特徴は何を表わしているのか。

 

 

3 多くの劇において、観客の認識は登場人物の認識よりも優位に立つ。観客は舞台のすべてを見ているが、登場人物はおもに舞台でのやりとりから情報を得るだけだからだ。『万人』において、この傾向は顕著である。劇の冒頭で観客は、使者、神、死の三者から、主人公がすぐには理解しえない「神の計画」、摂理を聞かされる。(これ以上の知識があろうか?)その神的な観点の下に、アクションを眺めることになる。ところが、一方で、万人は観客自身であるのだ。死は次のように言う。

 

  わしは怖い者なしの死だ――一万人を

  引っ捕らえるんだからな――一一人だって容赦せぬ。

                      (115-16

 

この死の言葉は、万人とは一人の人間ではなく、すべての人間である可能性を示唆している。では、この劇の観客は、神の(ような)認識が与えられる一方で、自分が置かれている状況を理解しない万人にすぎないということになる。このような特徴をもつ劇において、観客が主人公と同一化することはあるのか、それともないのか。劇はどのような観客を作ろうとしているのだろう。

 

 

4 上記の問いと関連するが、この劇が神の言葉(ロゴス)から始まるということは、主人公の言葉から力を奪い去る。つまり、彼が自分自身についてなにを語ろうとも、それは神のとの関係において不完全な言葉でしかない。彼が神との正しい関係を保っていないからである。(万人の語る言葉の無力さは、故郷を失い、頼る者をすべて失ったエウリピデスの『メデイア』のタイトル・ロールを思い浮かべれば歴然としている。万人の言葉が真実味を帯びて聞こえてくるのはいつだろうか。)さらに、万人以外、登場人物はすべて抽象的観念である。観念は擬人化されているとはいえ、その観念の範囲を超えた反応をすることはできない。人間どうしのやりとりに見られるような予想できない展開はあり得ない(従って、バニヤンの『天路歴程』(John Bunyan, The Pilgrim's Progess)も示すように、物語は旅の形をとる)。この劇は、演劇の特質(ダイアログ、世俗的・五感的・一時的快楽など)に抵触するのか。

 

 

5 財産(Goods)に続いて、善行(Good Deeds)が登場する。彼らは似た名前をもつ、エンブレム的な登場人物である。彼らは、つねに舞台上におり、ともに「横たわって」(395486)、「身動きできない」(396487)。前者は万人の「決算書にしみをつけ、読めなくした」のであり、善行の「足下」の決算書の文字は「一字も読み取れ」ない。財産は、神と同じ言葉(「貸し与え」)を話し、人間に厳しい言葉を投げつけ、人間から「その時は自分が恥ずかしかった。非難されても至極当然」(476-77)という思いを引き出す。二人のこのような構成は何を表わしているのか。

 

 

 


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