■エウリピデス『バッコスの信女』The Bacchaeについて

■テキスト

ここでは、エウリピデス『バッコスの信女』、『ギリシア悲劇全集〈4〉』松平千秋訳(人文書院、昭和35)所収を使用。他にも、『ギリシア悲劇〈4〉エウリピデス〈下〉』松平千秋訳 (ちくま文庫)、『ギリシア悲劇全集〈9〉エウリピデス』伊藤照夫訳(岩波書店)などで読める。

 

 

■あらすじ

『バッコスの信女』を仮に幕に分けてみると――

第一幕:最初から、テイレシアスがペンテウスに教え諭そうとする箇所、そのあとのコロスまで。391

第二幕:番兵、王宮の崩壊、牛飼、王は不思議な若者の戒めに耳を貸さず。402

第三幕:ディオニュソスの提案、女装する王、コロス。411

第四幕:使いの者、アガウエの凱旋と覚醒。420

第五幕:ディオニュソス顕現。運命の宣告。423

 

 

■質問

1 劇の終盤、使いの者はペンテウスがその母アガウエたちに殺害されたことを語った後、「人間の分際を守って、いやしくも神様にかかわりのあることには恐れつつしむのが、何よりのようだ」(414)と述べる。使いの者のこの言葉の後、今度はコロスがバッコスを褒めたたえる歌を歌い始める――「足をあげ、バッコスを称えて舞わん、/声をあげ、大蛇の胤ペンテウスの悲運を歌わん/(中略)カドモスの子らよ、信女よ、/たぐいなき勝利の歌をうたい上げたり、/慟哭と悲運のうちに。/わが子の血汐に染めしその手こそ/見事なる勝利のしるし」(414)。使いの者とコロスの言葉は、表面的な最終的結論としては(字義どおりには)、ディオニュソスを称えるものであるが、その点に収束しない要素が含まれていることを我々は認めざるを得ないのではないか。この劇の真に演劇的なクライマックスはアガウエが自分の認識力を取り戻し、自分の行為の結果を直視する瞬間であると思われる。上の箇所は、その瞬間へ至る予告としても機能している。観客の反応は曖昧なものとなるのではないか。(この種の劇の展開は他でも見られる。例えば、カドモスが「大切な孫」に呼びかける「わしを「おじいさま」と呼んで抱き、わしの頬を撫でながら」などの言葉に不調和な結びの「しかし神霊を軽んずるものは」の言葉。420

 

 

2 神をないがしろにするアガウエは人間にはふさわしくない高慢の持ち主とされる。人間としての分際を超えた侵犯者アガウエの意識と行動を支配するディオニュソスは、狂気の彼女にさらに侵犯者を演じさせる。その典型はジェンダーの境界を破らせることである。劇の終盤においては、その彼女に「獅子を仕留めたことで」意気揚々と高揚した気分にさせる。彼女はその成果を「誇り」と言い表す。またこの部分は彼女の凱旋式として舞台化されている。このようにアガウエの狂気の振舞いは彼女がディオニュソスとの関係において定義する自己アイデンティティの誇張、あるいは視覚化となっているように思われるが、どうであろうか。

 

 

3 杖の先に突きしたペンテウスの首をもつアガウエは、「さあいっしょに食事をしましょう」と述べる。彼女はこのとき自分がもっているものは「仔牛」だと思っており、これは「狩りの獲物を料理して同行衆で食事するのがならわしであった」(注)という。このとき、ペンテウスの体が母親に料理され食われてしまう可能性が一瞬であるが示された訳である。ローマ時代の劇作家セネカが書いた復讐劇『サイエスティーズ』(Thyestes)では人の肉が食われる。しかし、『バッコスの信女』ではそこまで行かない。アクタイオンが犬に噛み殺される故事への言及があるが(419)、これも引き裂かれる四肢のイメージが重視される証拠ではないか。劇作家エウリピデスの選択によってそうなっていると仮定すると、この劇の結末で意味があるのは、ペンテウスの引き裂かれた四肢であるということにならないか。

 

 

4 先に引用したカドモスがペンテウスの死体に呼びかける「わしを「おじいさま」と呼んで抱き、わしの頬を撫でながら」という言葉はこの劇では観客が初めて聞く響きをもつ。これは、劇全体を通して、親密な人間関係を感じさせる言葉、エピソードが少ないからだと思える。親密な関係は、ディオニュソスを崇拝する女性信者たちの神との歓喜にあふれた霊的交流が主である。また、牛飼は彼女たちどうしの「規律のよさ」に「驚」き(400)、使いの者は信女たちが「バッコスの歌を仲間と歌いあっている」のを観察する(412)。テーベの町は実質上、その支配者であるペンテウス一人によって代表されていることもあって、この町には共同体があることを感じさせない(牢屋、王宮、壁にのみ言及)。共同体は山のなかにあり、それは女性たちから成る共同体なのである。では、この女性信者だけからなる共同体の存続はどのように考えればよいのか。この劇では生殖の問題は人間界においては排除されているように見えるが。

 

 

5 この劇の方向性(どの方向に進展するか)に関する一つの述べ方は、男性性の消去であると言えるのではないか。女たちはすべて山に登ったためにテーベの町は男だけになった。残る男性の登場人物はカドモスとテイレシアスという老人だけである。次に、その町の王であるペンテウスが力ずくで女たちを連れ戻そうとするが失敗する。最後にペンテウスが女装し、滅び去る。ペンテウスは男性性を主張しようとして、信女たちは機織仕事を放棄して入山する。最後には男顔負けの素手による狩りを行う。他方、神々のジェンダーはどうかというと、ディオニュソスの場合は曖昧である。またその父親ゼウスは、早産で生まれた彼を自分の腿を切り裂いて作った「新たなる母胎」(a secret womb)に隠し育てた。このように神々にとっては男女などという人間界のややこしい境界線はいとも容易に超えることができる。この劇においては、ジェンダーは神々の観点からすると嘲笑されているのだろうか。

 

 

6 逸脱は逸脱的な空想を呼び覚ます。劇の終盤、ディオニュソスはペンテウスの窃視的欲望を利用する。この要素は劇全体からするとどのように捉えればよいのか。

 

 


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