JANATHAN CARROLL (1949- )


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細部の大切さ

ジョナサン・キャロル作品の批評的要約

Originally copyright (c) 1990 by Glen E. Cox, from NOVA Express, v.3 #2, Summer 1990 Additions copyright (c) 1992-1995 by Glen E. Cox. 翻訳の許可を与えていただいたグレン・E・コックス氏に感謝したい。

序論

ホラー小説の方法の一つに、我々が身近な存在としてとらえることのできるキャラクター(我々自身のようだったり、我々の知っている誰かのようだったり)を、我々が常に恐れ(幼年期からの、あるいは現代生活の不安から生じる)を抱いているような状況に置く、というものがある。このことは、モダンホラーの名手と言われるスティーヴン・キング[Stephen King]の小説を見ても明らかであろう。ような小説において、キングは、次のような作業に作品の前半部を費やす。キャラクターと彼らの願望、目的、そしてなによりも恐れ、といったものに読者を馴染ませるのだ。彼は、ホラー的要素を解き放つ前に、十分な時間を費やすことを厭わない。その結果、後で生じる恐怖は強烈なものとなる−−−−恐怖の兆し、何か悪いことが起きるという読者の不安(結局のところ、それこそがスティーヴン・キングの作品なのだ)、そして、読者のキャラクターに対する自己同一化。こういったもののために。

ジョナサン・キャロル[Jonathan Carroll]はホラー小説そのものを書いているわけではないが、同様の手法をよく用いている。キャロルの卓越性は、日常的な出来事と現実世界の住人の巧みな描写にある。しかし彼は、人生の不条理や、我々が当然とみなしている物事の奇妙さについても、素晴らしい感覚を有している。彼はありふれた物事を描くのだが、我々は、初めて目にするものに対するようにそれを見ることになる。彼にはそのような能力がある。

キャロルの想像力は、踏みならされた小道からやや外れたところにある。それは、アイデアと映像とによって読者を魔法にかける。まさに、「トワイライト・ゾーン」[The Twilight Zone]のようなものであると私は思う。しかし、キャロルの関心対象は、単純なねじれにとどまるものではない−−彼の世界の現実は、分解し、粉々になる。フィリップ・K・ディック[Philip K. Dick]の最良の作品(特に『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』["The Three Stigmata of Palmer Eldritch"]や『ユービック』["UBIK"]のような小説)のように。また、原因と結果が、多くのキャロル作品にとって重要な側面となる。登場人物は、彼らの運命を自分自身で呼び起こしてしまうのか、それとも、彼らの行為は、逃れることのできない大混乱への転落を定められているのか。キャロルは問う、自由意志は存在するのか、それとも、我々の生は目に見えない何かによって支配されているのか、と。

キャロル作品の語り手の多くは、「信頼できない」という分類に入れることができるだろう。つまり、語り手の正体や、彼(彼女)が遭遇する出来事のために、読者は語り手に関するあらゆる「事実」を疑うようになる。実際のところ、この工夫は非常に危険なものではある。なぜなら、読者に疎外感を与えてしまうという問題点を孕んでいるからである。しかしキャロルは、再三再四、この失敗を回避する。その主な理由は、彼が描く信頼できない語り手が、標準的な語り手達よりもはるかに面白く、また現実らしく思えるために、彼等の奇妙さは、たとえ気が狂ってしまったとしても、とにかく許されてしまうということである。

そして何よりも、キャロルにはキング同様、読者の周りに非常な巧妙さをもってストーリーを張りめぐらしていく能力がある。そのために読者は、結末に至るまで、自分をしっかりと捕らえた網に気付かないのだ。プロット構成の巧みと言ってもいいし、着実な準備、また、緊張と開放の熟達と言ってもいい。あるいは、開始と遂行の才とも言えるだろう−−私としては、それは天賦の才能なのだと言うのみである。

警告:以下の文章には、作品の種明かしをしている箇所が含まれる。できる限りそうならないよう努めるが、他に仕様のない場合もあった。まだ以下の短編、長編を読んだことがなくて、これから読もうと思っている(お勧め!)人は、注意が必要。


『死者の書』 ["The Land of Laughs"] (1980)

トマス・アビイとサクソニー・ガードナーは、ミズーリ州ゲイレンに旅をする。そこは、彼らの愛する童話作家であり、『緑の犬の嘆き』『星の湖』『笑いの郷』といった素晴らしい童話を書いた、故マーシャル=フランスが生前住んでいた町である。高校教師であるトマスは、フランスの伝記を書くために、一年間の有給休暇を取っていた。フランスの元編集者の話から、ゲイレンに行ってもあまり歓迎はされないだろうと思い込んでいたトマスとサクソニーは、ゲイレンの人々の親切さに驚く。しかし、驚いたのはそれだけではない。フランスの人生について調査を進めるうちに、おかしなことに気付く。例えば、奇妙なことに、フランスの関心が、トマス達の関心のみならず、町の住人のそれにも影響を及ぼしているようなのだ。そしてトマスは、ベッドの端で犬が寝言を言っているのに気付く....

『死者の書』は驚くべき処女作である。その想像の領域が刺激的であるために、キャロルは、童話作家マーシャル・フランスが実在すると読者に信じ込ませてしまいかねない。(実際私は、フランスが実在しないこと、また、小説の中で紹介される素晴らしい物語をキャロルが書いていないということが、残念でならない。)また、ここには不可避性の問題も存在する。事件が積み重なり、キャラクターは、自分では状況をコントロールすることができないと感じるようになる。しかし、衝撃的なのは、意図的であるにせよ、そうでないにせよ、ある人物にとってはコントロールが可能であるということだ。その人物は世界の作者であり、ほかのキャラクターにとっての現実の決定者であるということが、明らかになる。彼は常にその力を発揮できるのか。ゲイレンとフランスの創作においてでさえも。それは謎のままである。

『死者の書』はまた、キャロルの作家としての最大の弱点も明らかにしている。それは、物語に申し分のない結末を与える能力の欠如である。これは、彼のその後の作品にもつきまとう問題となる。キャラクターは連続する断片を得、それがつなぎ合わさって、とんでもない答えが導き出される。そこまでは、キャロルの物語構築は完璧である。しかし、彼はそこでストーリーを突然終わらせ、「真実」の具現を避ける。そして、アフター・クライマックス、エピローグを読者に示す。そこでは、メイン・キャラクターが「真実」に対して行ったことについて、ヒントが与えられる。エピローグはこの小説に筋の通った結末を与えていると感じる人もいるだろう。そのメイン・キャラクターによる死んだ親の再生は、それまでに起こった出来事に、より深い意味を付け加えているのだと。そのような立場を取る人にとって、この小説は、ある人物がそれまで知らなかった親を捜し求める物語であり、片親を知らなかった人々に対するメッセージであると感じられる。もしそうであるならば、キャロルの読者は非常に限定されることになる。

しかし、このことは、『死者の書』が駄作であるということを意味しない。その正反対である。『死者の書』は、キャロルの巧みな語りと想像力とによって、その不十分な結末をも克服している。おそらく、唐突な結末は、読者に安易な答えを与えることを避ける意図で用意されたものであろう。おそらく、キャロルは読者に、閉じ込められた想像力をどこか他所に向けることを強いているのだ−−作者の想像力から、読者の想像力へ。おそらく。 しかし、この方法は、結局のところ不十分なものであったように思われる。


『我らが影の声』 ["Voice of Our Shadow"] (1983)

「我らが影の声」は多くのことを意味している。読者にとっては、それは本の題名そのものだし、登場人物にとっては、それは語り手が書いた短編小説を脚色した芝居の題目である。しかし、キャロルの主要な定義によれば、「我らが影の声」 とは我々の‘Jiminy Cricket’、肩の上に乗っかった小さな天使、つまり良心である。良心は強力な声となり、我々に語りかけてくる。罪悪感、ためらい、そして恐怖といった形で。キャロルの第二作目の小説は、『死者の書』と比べて、より暗い色調を帯びている。処女作においては風変わりなものと思えた雰囲気が、本作では、最初からすでに危険なものとなっている。 ジョー・レノックスは、15のときに鉄道線路上で死んだ兄、ロスの記憶につきまとわれている。しかし、ジョーはその日実際には何が起こったのかを知っていて、それが彼を悩ませるのだ。その記憶は、彼が悪魔払いのようなつもりで書いた「木のパジャマ」という短編小説として、最初に現れる。その物語は出来がよかったため、ブロードウェイの脚本家に注目され、芝居に書き換えられ、ヒットする。ジョーは快適に旅行する(特にイタリアへ)のに十分なだけの金を得るが、名声について言えば、それはつかの間のものであった。

彼は映画館であるカップルの会話に巻き込まれる。その二人は、彼が何者であるのかに気付く。そして三人は親しくなる。ジョーはポール・テイトとインディア・テイトの両方に魅力を感じるが、すぐに、自分がインディアに惹かれるのは、知的な理由によるのであると同時に、性的な理由によるのでもあることに気付く。三人の友人関係は、始めのうちは幸福なものであった。しかしその後、物事は厄介な方向に向かい始める。ある週末を他所で過ごしたポールは、帰ってくると、ジョーとインディアが寝たと言って咎める。そんなことは起こらなかったのだが、あとでこの出来事について二人で話すうち、ジョーとインディアは、お互いにそうしたいと思っていたことに気付く。不可避の事態が生じ、その結果、前から少し変わったところのあったポールは、完全におかしくなってしまう。

『死者の書』と同様、『我らが影の声』においても、『郵便配達夫は二度ベルを鳴らす』["The Postman Always Rings Twice"]に対する敬意が示される。これらの小説においては、登場人物はみずからの感情によって縛りつけられ、 カーニバルの乗馬を強いられる。そしてそれは結局、不幸な結末を迎える。ジョーは悲劇的人物である。そして、ポールとインディアの結婚生活に入り込むことにより、その悲劇を運命つけてしまうのだ。またもや結末は曖昧で、混乱しているが、この場合、それはジョーの知覚というフィルターを通されているからである。読者にとって唯一明らかなのは、ジョーの影の声が絶叫し、彼は完全におかしくなってしまったということである。ポールのように。


『月の骨』 ["Bones of the Moon"] (1987)

『月の骨』はジョナサン・キャロルにとって突破口的な小説となった。この作品によって、彼が単なる一発屋ではないことが証明されたのだ。アメリカにおいて、『月の骨』は、彼の作品としては初めて広告の援助を受け、また、初めて「ジャンル」小説として出版された。メインストリームの中で埋もれてしまうのではなく。さらに、相当な部数のハードバック版が初めて出回った。『月の骨』は、『死者の書』『我らが影の声』よりも首尾一貫とした内容を持ち、完成度も高いが、それらの作品を価値あるものとしていた自由な想像力も維持している。

カレンとダニーは完璧なカップルではない。それでも彼らは、お互いにとっては完璧な存在−−第一部におけるカレンの回想の中に現れる、現実的な人間関係。この序盤における描写、イベントの的確さ、明らかになる事実、といったものに、「計画」ということばはそぐわない。「計画」は嘘や騙り、ごまかし等を暗示するが、そのいずれもここには当てはまらない。カレンとダニーの物語のごときは、ニューヨーカー誌を構成する記事のようなものである−−フィクション雑誌がなんだ。空想的なことが起こらないからといって、それがどうした?私は笑ったり、匂いを嗅いだりしながら第一部を読んだ。それは、人生に対する関心を呼び覚ましてくれた。

とはいえ、「キャロルは読者に対してアップダイク[J. Updike]のように振る舞っているのではないか」などという心配は無用である−−読者の心を捉える出だしの一行についてはまだ触れていなかった−−「まさかり少年は下の階に住んでた。」第二章では、カレンがペプシについての夢を見始める。ペプシとは、夢の国ロンデュアに住む少年である。この連続夢は、その内容が鮮明になるにつれ、急速に悪夢のような様相を見せはじめる。そして、「現実」世界において、ある人物がカレンと同じ夢を体験し始める。

ロンデュアでの冒険は、単独でも素晴らしいファンタジー小説となるであろうが、キャロルはそれを現実的な上書きの下に挿入する。結果として、その冒険物語はより強力なもとなるのだ。ジョナサン・キャロルは、まるでより有名なキャロル、ルイス・キャロル[Lewis Carroll]のように、想像力に富む名前をつけたり、非現実を描いたりするこつを心得ている。夢の世界における敵対者、ジャック=チリは、混沌とした邪悪の縮図であり、Grinch、Sauron、Heat Miserといった生物の最悪の特徴を有している。

ロンデュアは、我々を悩ませるのと同時に、説明も与えてくれる。そこでは、カレンの無意識(過去の中絶に関する罪の意識と、現在の妊娠についての不安)のみならず、「現実」世界における出来事をも、カレンの語りのフィルターを通さずに、かいま見ることができる。再びキャロルは世界と世界の間の浜辺に留まり、潮の干満の中に入ったり、そこから出たりして、小説を書く。結末は恐ろしいものである。読者はこぶしを握り締める。「こんな展開はありえない」と。この作品において、キャロルはついに、すべてをうまくやりおおせた。しかしキャロルは(いつも「しかし」と言わねばならないのだが)、第二版以降では結末を書き直し、後の作品においてもここでのキャラクターを利用できるようにした。改訂版の結末は、彼の処女作、第二作のそれよりは良いが、改訂前の結末が持つ衝撃と哀感に迫っているとは言い難い。イギリス初版1500部においてのみ、改訂前の結末を読むことができる。


『友の最良の人間』 ["Friend's Best Man"] (1987)

私はこの短編で初めてキャロルを知った。楽しく読むことができたので、『月の骨』も手に入れることになったのだが、この作品が傑作であるとの確信は得られなかった。しかし、最近読み直してみて、その構造と、明瞭さの度合い、そして何よりも結末について、新たな認識を得ることとなった。

イーガン・ムーアは、汽車に引かれそうになった彼の犬、フレンドを助けて、自分の足を片方失う。彼は病院で、ジャセンカ・ジャズ・シリックに出会う。彼女は病気で、末期症状にある。ジャズはフレンドと話すことができる。少なくとも、そう考えている。それで彼女は、フレンドの話や予言を、イーガンのために翻訳する。

ここでは、珍しく語り手が信頼できるために、キャロルの人物造形の能力が浮き彫りになっている。イーガン、ジャズ、フレンド、キャスリーン(イーガンの隣人。彼と恋に落ちる。)の間で、もつれ合った関係が生じる。目に見えて異様なことは起こらず、ストーリーの美点は想像力に対して暗示されることがらから生じる。イーガンは信頼できる語り手だが、ストーリーの展開はジャズに左右される。この場合キャロルは、語り手を読者と同様、居心地の悪い位置に置き−−次のような問いを生じさせる。「何が現実なのか?」「誰を信用すればよいのか?」


『炎の眠り』 ["Sleeping in Flame"] (1988)

『炎の眠り』には『月の骨』のキャラクターが何人か登場する。しかし、それはテーマ上の続編であり、それ自体で独立した作品となっている。キャロルの作品はすべて、現実対非現実というテーマを持つ変種であるように思える。ロンデュアの小説は、実際のところ、繰り返し登場するキャラクターの存在によって彼の他の作品から区別されているにすぎない。

『月の骨』と同様、『炎の眠り』は非常に現実的に始まる。読者はまず、語り手であるウォーカー・イースタリングを知ることになる。ウォーカーは、彼の結婚と離婚について、また、その後マリス・ヨークというオーストリア人女性に魅了されたことについて、我々に語る。キャロルはここでも、素晴らしくはあるが、ひどく損なわれた人間関係を提示する。以前の作品におけるそのような関係とはまた異なっているが、実人生に即したものであるという点では同様である。カレンのように、イースタリングも奇妙な夢を見るのだが、彼の夢は、ルンぺルシュティルツキンのようなノームの子として自分が育てられるというものである。彼は不思議な出来事を次々と体験する。例えば、ある時二人の老女が彼のことをなぜか「レドナクセラ」と呼び、それから自分達の言ったことを打ち消す。

ストーリーは、基本的には、自分の過去を知ろうとするウォーカーをめぐるミステリーなのだが、まさにその過去が蘇ってきて彼につきまとう(『我らが影の声』が陰を落としている)。ウォーカーの役者としての仕事(彼はウェーバー・グレグストンの映画「ワンダフル」でペンシル氏の役を演じる)、マリスによるデザイン道具としてのコンピューター利用、そして妖精物語の昔風の語り聞かせ。小説の大部分を構成するのは、これらの断片の奇妙な現われ方である。ヴェナスクも登場する。彼は、この現実世界においても道理に適った存在であるというタイプのシャーマンで、その動物との親和性は、ドリトル先生とジェームズ・ヘリオットに相通ずるものがある。また、彼はケーブルテレビで古い映画を観るのが何よりも好きである。

キャロルはここで自分のスタイルを完全に使いこなしていて、ボクシングのチャンピオンのように機敏に方向を変えて動き、読者の顔にタイミングの合ったパンチを浴びせる。躓いたり、滑ったり、転んだりすることもない。語るに足るストーリーとそれを語るユニークな方法を知る人間の、我々を夢中にさせるような饒舌ぶりがあるのみである。

『炎の眠り』のクライマックスは、そこに至るまでの過程が極点に達したものとしての役割をよく果たしている。結末において、ウォーカーは二人の年配のドイツ人女性に出会う。彼女達は、ウォーカーに彼の父親についての物語を聴かせようとするのだが、この物語に関して本当の力を有するのはウォーカーで、彼は必要に応じてそれを改変することが出来るのだ。しかし、力と共に、大きな責任とさらに大きな危険性が生じる。残念ながらキャロルは、肝心なところを省略する形でこの小説を終わらせてしまう。読者には想像をめぐらせる他術がない......。


『空に浮かぶ子供』 ["A Child Across the Sky"] (1989)

この小説では、『月の骨』に登場したウェーバー・グレグストンに焦点が当てられる(彼はカレンと共にロンデュアの夢を体験した人物である)。またもや素晴らしい幕開け。「ライフル自殺する一時間前、親友のフィル・ストレイホーンは拇指の話をしに電話をかけてきた。」読者はストーリーに引き込まれる。ここでのキャロルは、男女関係の代わりに、大学時代ルームメイト同士だった二人の男性の間の関係に目を向ける。彼らは、互いに似たようなことに関心を持っていたのだが、卒業後はやや異なった道を歩むことになる。グレグストンはアートハウスフィルムの監督となり、多大な評価を受ける。ストレイホーンは「ブラッドストーン」に、ホラー映画「深夜」シリーズの「主役」兼脚本家となる。彼等は、映画というものにとりつかれながらも、同時に幻滅を感じてもいる。ストレイホーンが四作目の(そして最後の)「深夜」を仕上げようとしている頃、グレグストンは演劇に取り組んでいた。

ストレイホーンはグレグストンにビデオテープを送り、その中で最後の頼みごとをして、自殺する。奇妙なことに、そのビデオテープを砂嵐が現れるまで再生し続けると−−再生するたびに新しい映像が映っている。ストレイホーンはグレグストンに、最後の「深夜」を完成させ、ストレイホーンのロサンゼルスでの仕事を片付けてくれるように頼む。この物語の中には、ストレイホーン自身によるコメントが散在している。彼はより大きな世界(「死後」?)に入り、ポストモダン・フィクション的なキャラクターとなっているのだ−−小説の筋に参加すると同時に、コメントもするというような。「深夜は殺す」を完成させようとしていたグレグストンは、ストレイホーンの生まれなかった娘、あるいは天使であるピンスリープの訪問を受ける。彼女は、映画を完成させることの重要性を説く。ストレイホーンが世界に解放した邪悪を何とかしなくてはならないと。しかし、天使といっても色々なのがいるし、死者の望むことが生者にとって最善であるとは限らない......。

『空に浮かぶ子供』は多くのパンチを放つが、そのほとんどは目標からそれている。過去の作品を読んで、ストレイホーンやグレグストンを知っている読者ならば、彼らについての物語に新たなエピソードを加え、複雑化するものとして、この作品を楽しむことができるだろう。しかし、グレグストン達とキャロル作品全般になじみのない読者は、この問われざる問いと語られざる可能性の新領域の中で、困惑し、頼りない気分になってしまうだろう。


『フローリアン』 ["Florian"] (1989)

画家は「学習」をする。あとで自分の作品の中に含めようとしているものを、小さくスケッチするのだ。作家も似たような練習をする。時々短編を書いて、あとでそれをずっと大きなキャンパスの上に書き直す。しかし画家の場合には、作家がそのような練習をする際の、副次的な目的に類するものは存在しない。副次的な目的というのは、あらゆることを一つの簡潔なテーマに、ほとんどアイディアそのものにまで凝縮し、そのテーマに拠って、ページ上の語数以上に価値のある短編を何本か書くということである。アイディアを負った緻密な散文の最良の実践者として、ラテン・アメリカ作家のJorge Luis Borgesの名前が挙げられる。彼は、"The Library of Babylon"のような作品において、途方もないアイディアの数々を、無尽蔵の蔵書のように提案する。一つのアイディアの一切を読者に示し、それから捨て去るのだ−− 究極の想像力テスト。『フローリアン』においてキャロルは、ロンデュア本(特に『月の骨』)のテーマと考えられるものを採用し、ある父子についての簡潔ではあるが痛切な物語の中で、それを表現する。

ストーリーは、入れ子式の構造の内側から始まる。そこでは、フローリアン〔1〕は「世界一美しい子供」である。その箱を囲むのは、作家〔1〕によるフローリアン〔1〕についての物語であり、その作家自身の息子、フローリアン〔2〕は肺炎で死にかけている。その箱を閉じると、作家〔2〕と、彼による、フローリアン〔1〕の物語を書いている作家〔1〕についての物語が現れる。作家〔2〕の息子フローリアン〔3〕は、健康な普通の子供で、フローリアン〔1〕のように魔法的な存在ではないし、フローリアン〔2〕のように病んでもいない。もちろん、一番外側に最後の箱がある。ジョナサン・キャロル自身、あるいは作家〔3〕。このような構造のために、読者は、キャロルにも彼自身の息子、フローリアン〔4〕がいるのだろうかと想像する。フィリップ・K・ディックの"Time Out of Joint"を読むときのように、読者は、新しい世界がホットドッグの屋台や、ストーリーの次のパラグラフと同じくらい身近なものとなり得るのだと気付く。


『くたびれた天使』 ["Tired Angel"] (1989)

この書簡体の物語(一通の手紙からなる物語が書簡体であると言えるならばだが)は、信頼できない語り手を描く際のキャロルの巧みさを示す、格好の例である。また、現代生活に潜む恐怖を彼が理解しているということも、この作品からよくわかる。精神病質者「くたびれた天使」から読者への手紙では、基本的に次のようなことが語られる。正体不明の語り手が、一人の若い女を知り、観察し、親しくなり、そして苦しめるのだ。語り手は、この過程におけるあらゆる段階について詳述し、まるで「いかにして精神に異常をきたすか」という講義ででもあるかのようにレクチャーしてみせる。その内容は、明らかに読者を混乱させるようなものである。しかし、一人の若い女性が匿名の語り手によって少しずつ狂気に追いやられていくという、読者の心を捉える話を通じて、効果的なものとなっている。

語り手はなぜ信頼できないのか?読者に正しい情報を与えないからなのか?その可能性はあるが、起こった出来事の説明をする際に、彼が嘘をついているかどうかは疑問だ。むしろ、彼は「正常」ではないということがその行為から認識されるがために、彼は本質的に信頼できないのだ。彼の行為には、冷静な無関心と感情の欠如が見られる。結末に際して、信頼の問題(語り手の女に対する「背信」を考慮に入れれば、それはこの物語の重要な側面である。)が強調される。我々は、自分の友人や隣人を横目で見ずにはいられない。

この作品は、超自然に関する物語を超える、真実のホラーであり、Lansdaleの"Night They Have Missed Horror Show"やトマス・ハリス[Thomas Harris]の小説によく似ている。現実に起こり得ないことは、ストーリーの中に一切ない。我々は、そのようなことが実際に起こるということを知っているし、何かで読んだり、テレビで観たりもする。だから、我々はそれが現実であることを知っている。そして、現実というものは常に、フィクションよりも恐ろしいものなのだ。


『パニックの手』 ["The Panic Hand"] (1990)

「それじゃ不満だと言われれば謝るしかない。」

この物語の最終部には、上のようなセンテンスで終わるパラグラフがある。私は顔をピシャリと打たれたように感じた。

『パニックの手』の語り手には、名前が与えられていない。彼は週末に、田舎にいる恋人のもとへ向かうのだが、その途中で一人の少女とその母親に出会う。この内気な、年端の行かない少女には吃音癖があり、それが彼女の世界全体を曇らせているらしい。語り手は、最初は両方の女性に惹かれるのだが、やがて娘の方とますます打ち解けていき、母親の方は退屈でしゃべりすぎだと思うようになる。しかし、キャロルの他の作品と同様、物事は目に映るままではない。その母親は、男性の注意を引くことを切望する娘が、理想とする自分を投射したものにすぎないのだ。

ストーリーは『ロリータ』["Lolita"]的な関係を暗示するが、そのレヴェルでの理解でさえ認められない。この物語が何を言おうとしているのか、また、本当に何かを言おうとしているのかどうか、語り手には(そして多分作者にも)まったくわからない。これは子供についての、そして、大人の行為に関する彼らの誤った理解についての物語なのか?それとも、語り手は幼児性愛者であって、性的魅力にあふれた肉体の感触を切望しているのか(この小説の最後のセンテンスによって有力なものとなる考え方。語り手は、駅で彼の恋人の娘を見て、興奮を示す。)?あるいは、彼の恋人もその娘によって投射されたものなのか?

このテクストには、よく出来た部分がいくつかある。導入部における、語り手の倦怠感の描写。母娘の登場を描く、三つのパラグラフ。ある種の人々がウェイターの注意を引く方法。いずれも面白いのだが、ほとんどストーリーから脱線している。活字にされるだけの価値はある、ちょっとした断片なのだが、無意味なやり方で使用されることにより、無駄になっているのだ。

テクストとその書き方は、何か重要なことが起こっているということをほのめかすが、この作品を読み終えたとき、私は肝心なところを見落としてしまったようだった。少し考えて、急いで読んだために細部がすり抜けてしまったのだと思い、もう一度読んでみた。しかし、それでもこのストーリーを理解することはできなかった。私は担がれたような気分になった。誰かが「ペンギン!」と叫び、私以外の皆が笑う。まるでそんな感じだった。『パニックの手』は、ドイツのみで入手可能なキャロルの短編集の表題作である。多分それは、翻訳の過程で何かが失われてしまったジョークなのだろう。


『細部の悲しさ』 ["The Sadness of Detail"] (1990)

タイトルは悲しいと言っているかもしれないが、細部はとても大切なものである。キャロルがこの短編小説において非常に効果的に示しているように。妻であり、母でもある語り手は、カフェ・ブレーメンに行って、スケッチしたりハミングしたりすることを楽しみとしている。彼女に降りかかる厄介事は、一人の老人である。彼は、語り手のテーブルに侵入してくる。彼女の家族が写った写真でもって−−そこにあるのは、彼らの未来の姿。これらの写真を見せつけられて−−息子は身障者となり、彼女自身は夫と離婚する−−彼女は気丈にも、その老人に質問を突きつける。何が目的なのだと。答えは簡単。一枚の絵。幸福と未来のために、一枚の素描画。

しかし、「トワイライト・ゾーン」の良質なエピソードが常にそうであるように、それはただの絵ではない。テストなのだ−−雇用前の調査表と言ってもいいだろう−−その老人は、彼女の細部を記憶して描く能力を必要としている。神自身が思い出せるように。読者はそのアイディアに十分惹きつけられるが(考えてもみよ!神は老人で、地獄の軍勢は細部を忘れさせるのと同様に自分自身のことも忘れさせようとする。そのために本物の混沌が訪れるかもしれない......ジェームズ・ブリッシュ[James Blish]、いやそれ以上だ!)、キャロルはそこで唐突に結末を持ってくる。語り手は神のために絵を描き続けることになるのだが、その先のストーリーはすべて読者の想像にまかされる。

この場合は、そのような未完成も理解できる。短編小説を書くにあたって、キャロルが自らを制限しているというだけではない。彼の強みは現実的な設定にあるという動かしがたい事実ゆえに、彼は、人類の運命を決定すべき、善と悪の戦いにまで話を広げようとはしないのである。そう、キャロルにとってそのような叙事詩的物語は、大部のシリーズ物志向の作品に任せておくことができれば幸いというようなものなのだ。彼は、自分の関心をそそる部分、つまり、善の勢力に与する日常における戦いへの、ある女性の投入という一断面について語る。それこそがキャロルのやり方なのだ。


『黒いカクテル』 ["Black Cocktail"] (1990)

この小振りで、欠点の目立つ中編は、マイケル・ビラに関するものである。彼がする話は、キャロルのそれを反映している。おかしくて、興味深いが、扱うのはありふれた物事。ビラのスクール時代の親友だったというクリントン・ダイクスは、メイン・キャラクターであるイングラム・ヨークに、ビラの言うことは全部嘘だと告げる。イングラムは、どちらを信用すればよいのかわからなくなってしまう。マイケルの話はあまりに途方もなくて、真実とは思えない。ダイクスはといえば、イングラムには、彼がビラのスクールメイトだとは思えない。ビラは30代なのに、ダイクスは15歳なのだから。そして読者は、ビラには人をある成長段階/年齢で「凍結する」能力があるのだと「聞かされる」。

混乱する?多分、それはキャロルが、普段なら多くのページを費やして書く内容を、短くまとめて書こうとしているからだ。アイディアとキャラクターが、読者に向かって行き当たりばったりに投げて寄こされ、そして−−バン!おしまい。何が起こるのか?私にはわからない。しかし、いくつか気に入ったことばはあった。長いものでさえ。『黒いカクテル』は、『パニックの手』よりはまだわかりやすいが、それでもやはり、最終的な爽快感というよりも、その文体を楽しむためにちびちびすするのがふさわしい、そんな飲み物である。


『犬博物館の外で』 ["Outside the Dog Museum"] (1991)

新たな「ヴェナスク」小説。「ヴェナスク」小説には、全作品に共通するキャラクターが一人いるのだが、その人物の名前を採り、「ヴェナスク」小説と言うのである(『月の骨』、『炎の眠り』、そして『空に浮かぶ子供』。John Cluteはこのサイクルを「かなえられた願い」と呼ぶ。こちらのほうがより適切な表現だろう。)。『犬博物館の外で』は、ハリー・ラドクリフを中心に展開する。またもや芸術家タイプのキャラクターである。ラドクリフは建築家で、絶大な権力と支持を得ている。また彼は、タイトルにある通りの博物館を設計し、建てるよう、サルーのスルタンから要求されている。ムスリムにおいて犬は不浄の生き物であるにもかかわらず、そのスルタンは、自分の生命は犬によって守られ、救われてきたのだから、彼らに名誉を与えるために博物館を建てねばならぬと感じている。ラドクリフはその仕事を断り続ける。ロサンゼルスで地震に遭うまでは。その時、彼とスルタンはヴェナスクの飼い犬に助けられる。

ラドクリフは、精神崩壊から立ち直った後にもヴェナスクと会った。彼は天才の正気の側面にかろうじて留まっているのだが、そのような彼の状態は、外観上の非現実[unreality](あるいは[disreality])やスルタンの世界とあいまって、小説の大部分に浸透している。興味深い副筋は、ラドクリフが二人のガールフレンドとの間に持つ困難な関係と、彼の不誠実に対する彼女達の反応を描く。

キャロルはいい形でこの小説を書いている。しかし、何かを見落としてしまったような気にもさせられる。多分、私は彼のテーマに慣れつつあるのだろう。あるいは多分、彼は自らを反復しているだけなのだ。地方的特色を与えられたストーリーと副筋は、キャロルの過去の作品と同じくらい新鮮で、興味をそそるものだが、小説そのものは生命がこもっていないように思える。そして、ここでも結末は省略形であり、それまでに積み重なった出来事が爆発したというようなものではない。


『沈黙のあと』 ["After Silence"] (1992)

ジョナサン・キャロルの作品はすべて、我々に純粋な喜びを感じさせてくれる−−謎めいていて、サスペンスフル、それでいて現実的で、感動的−−しかし、私が(そして他の人も)彼の過去の作品に唯一欠けていると思うもの、それは、他の点では素晴らしいストーリーに申し分のないメイン・ディッシュを添えるような結末である。キャロルによる結末に失望したことはないけれども、驚異のあとにさらに何かが欲しいのだ。『沈黙のあと』でキャロルはついにやってくれた−−この作品の結末ならば、指し示して「これぞ結末」と言うことができる。大変な結末である。

彼の小説の大部分がそうであるように、『沈黙のあと』はラヴストーリーである。今回は、「ペーパー・クリップ」の作者である、ちょっと有名な漫画家のマックス・フィッシャーが、美術館の展覧会でリリー・アーロンとその息子リンカンに出会う。マックスは語り手であり、彼の人生とアーロン母子がそれに及ぼした影響について考察し始める。すべては牧歌的に思える......しかし。過去の作品と同様、『沈黙のあと』においても、物事は目に映るままではない。そしてマックスは気付いてしまう。リリーのリンカンに対する庇護には、単なる母性愛というのではない、何か別の動機があるのかもしれないということに。

この作品は、『月の骨』以来の傑作である。『沈黙のあと』に欠けているのは、カレンの夢にあった絶対的な狂気の感触だが、これまでで最も直線的なストーリーがその欠点を埋め合わせている。細部はいつも通りそこにある−−リンカンのひどい誕生パーティー、「衆と力」(リリーが勤めているロサンゼルスのレストラン)の不思議かつ奇妙な面々、愛と罪から生じる臆病、壁にテープで貼り付けられたグロック−−しかし今回は、これらの要素がストーリーとよく調和しているように思えるのだ。長編小説につめこまれた完全な短編小説である『フィドルヘッド氏』["Mr. Fiddlehead"]や"The Art of Falling Down"のような、驚くべきよそ見ではない。『沈黙のあと』に含まれるすべては、結末に向かって作用する。

結末はトリッキーなものである。トリック・エンディングと呼ぶのはためらわれるが。最終部においてストーリーの緊張が緩むにつれ、登場人物にかかる重圧は大きくなり、小説のペースは速くなる。だから、結末において実際に起こることを完全に理解するには、最後の20ページの中にあるニュアンスをすべてとらえることが重要である。また、結末が素晴らしいものであることは確かだが、読者がそれを気に入るとは断言しかねる。


結論

ジョナサン・キャロルは成功するにあたってスティーヴン・キングと同じ「方式」を用いているが、キャロルの手際はキングよりもさらに大きな評価を受ける可能性を有している。キャロルのキャラクターは、キングのキャラクターに見られるような素朴さやユーモラスさは備えていないかもしれない。しかし、彼らの体験はより普遍的なものなのだ。キャロルの描写は、キング、特に最近のキングのそれに比べて、より簡潔、適切で、また、心に訴えてくるものがある。それに、キャロルはホラー小説にこだわる必要がないため、キングであれば書くのをためらうであろう作品も、自由に書く権利を持つ(たとえキングが現代におけるベストセラー作家であるとしても−−大きな名声は、時に大きな制限をもたらすのだ。)。

メインストリームとジャンル文学の最良の部分を混ぜ合わせることで、キャロルは豊かな資源鉱脈を発掘してきた。最も現実的に描かれたキャラクターを、最も非現実的な状況の中に置くことによって。彼には、幅広い読者層を獲得するだけの潜在能力はある。もしクライマックスに熟達することができれば−−クライマックスとは、必ずしも花火の閃光の中でストーリーを「終らせる」ものではない。むしろそれは、読者に満足感を与えるようなものでなくてはならないのだ。イギリスにおいては(そしてあるいはヨーロッパ各国においても)ポピュラーな存在であるキャロルだが、アメリカにおいては、まだ本当に人気を博しているとは言い難い。

C.S.ルイス[C.S.Lewis]の『魔術師のおい』["The Magician's Nephew"]の中で、ディゴリーは林とその中にある数多くの小さな池を見つける。池はそれぞれ新しい世界で、林は世界と世界の間の中間地点。キャロルの執筆作業においては、この中間地点は現実世界である。そしてそれは、こちらからそちらへと移るための単なる手段であるというよりも、全ストーリーの背景をなすものである。シュレーディンガー[Schrodinger]の猫のように、キャロルのキャラクターは、二つの世界の間で一瞬にして凍結される。そして、観察されることによってのみ、彼らは解き放たれる−−生、あるいは死へと。

Last updated: 21 July 1998.


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