『週刊読書人』 2004年3月26日号

以下、『週刊読書人』の営業部および編集部長の許諾を得て、転載いたします。

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松岡光治編

ギッシングの世界

全体像の解明をめざして(没後100年記念)

A5版・432頁・4000円
英宝社
4-269-71039-X

英国世紀末を代表しうる作家の主要作品のすべてを懇切に解説

富士川義之

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ジョージ・ギッシングが四十六年の短い生涯を閉じたのは、一九〇三年十二月のこと。その没後百年を記念して出版されたのが本書である。

ギッシングといえば、平田禿木や戸川秋骨による紹介以来、日本でもっぱら愛読されてきたのは、随筆集『ヘンリー・ライクロフトの私記』である。自然と人生、読書や文学などをめぐって、雅趣に富む筆致で淡々と語るこの随筆集は、とりわけ都会の喧噪から離れて小さな田舎家で四季の自然の美を賛美する作者の姿勢が、日本の隠者文学にも通じるとしてかつて人気を呼んだことがある。

晩年に執筆されたこの魅力的な随筆集からは、自然の豊かな田園生活を心から楽しむ孤高の作者のイメージがおのずと浮かんでくる。しかし、自然主義作家ギッシングの傑作とされる小説の舞台の多くは、彼が過酷な貧困生活を送ったロンドンである。この大都会での生活こそが、好むと好まざるとにかかわらず、彼の生涯を支配したのである。それゆえ、ギッシングを『ライクロフト』のみで代表させてはならない、彼の本領はロンドンを舞台とする数多くの小説にあるし、何よりも彼の「全体像の解明」をめざさねばならい。そういったことが、本書刊行の重要な目的となったのである。

芸術や学問の世界に憧れる貧乏学生だったギッシングは、十八歳の時、十七歳の娘と恋に落ちる。ところが、極貧の彼女が街の女にならずにすむようにと思いつめるあまり、学校で盗みを働いてしまう。それで逮捕され放校処分になった経験を、彼は一生引きずることになる。一年ほどアメリカに逃れたあと、ロンドンでその日暮しの貧乏状態のなかで、作家生活に入るのだが、彼が貧困や疎外感を小説に繰り返し取り上げるのは、そうした経験がトラウマの一つになっていたからであろう。なかんずく長篇『ネザー・ワールド』などは、貧しい労働者たちのスラム街生活をドキュメンタリー・タッチで克明に描いていて、以前に邦訳を読んで、そのすさまじい迫力に驚いた覚えがある。

そのようなギッシングであるから、労働者の貧困や疎外感を悪徳と結びつけてとらえ、ヴィクトリア朝の拝金主義に対して抗議しつづけたのも領けよう。とともに、若い頃から強く魅せられていた芸術や学問の世界への憧れも大切に育んでもいくのである。巻頭言でギッシング研究の権威、ピエール・クスティヤス氏が述べるように、「そうした教養への傾倒を彼は登場人物たちの野心と挫折を通して根気よく論じ」たのである。また同氏は、拝金主義への彼の抗議が、長年にわたる自然愛好心や自然保護への関心と軌を一にしたものであり、「ディケンズやギャスケルの流れを汲む初期のエコロジスト」として彼を位置づけている。これは、私には、エコロジストとしてのラスキンとの類縁性を感じさせもする位置づけで興味深い。

ギッシングは利益追求の実利主義が優勢な時代を生きた作家である。同時代のワイルドが唯美主義思想を商品化することに成功して人気者になったのに対して、ギッシングはワイルドを遥かに上回る膨大な作品を書きのこしながら、長いこと名声とは縁が薄かった。しかし長篇をはじめ、その主要作品のすべてを懇切に解説した本書を読むと、評者のような素人読者にも、英国の世紀末をワイルドのみで代表させてよいのか、という思いを改めて抱かせるのである。(ふじかわ・よしゆき氏=駒澤大学教授・英文学専攻)

まつおか・みつはる氏は名古屋大学助教授・英文学専攻。編著書に「ギャスケルの文学」翻訳に「ギヤスケル短篇集」など。