『誤解:その言語文化的諸相』
(名古屋大学言語文化部特定シリーズ第5号、1995)

意識的/無意識的誤解としての自己欺瞞

 

---- ディケンズの場合 ----

    

松 岡 光 治

Of all impostures Self-Deception is the most dangerous,   
because least suspected. -- J. Mason, Self-Knowledge (1758), I, xi.

理想的なコミュニケーションは、メッセージの作成と解読において、発信者[話し手]と受信者[聞き手]の参照するコードに差異がない時に成立する。しかし、現実的な対人関係における言葉のコミュニケーションでは、両者の利用するコードにずれがある場合が一般的であり、このずれが言葉による伝達の場に様々な形の誤解を生じさせることになる。

そのような誤解を発生させる伝達上のコードのずれを補正するのがコンテクストであり、その意味でコミュニケーションにおけるコードとコンテクストの役割は逆比例の関係にあると言える。コンテクスト理論では言説や概念は文脈を離れては意味を持たないのが普通である。例えば極端な場合、敵同士の外国人が戦場で互いに武器を持って対峙した時、コードの役割が皆無となる双方の言葉/沈黙が全く誤解を招かないのは、その十全なコンテクストに両者の解釈が完全に依拠できるからに他ならない。

従って、発信者と受信者が同一人物であるような個人内部における思考内容の伝達といったものを想定するならば、そこには同一人物が利用するコードのずれが原理的にないわけであるから、これ以上に理想的なコミュニケーションはないはずである。しかし、いわば自我と自己との物言わぬ対話という形式をとる思考内容の伝達において、その個人の道徳性が少しでも問題となる場合には、意識的/無意識的にコードがずらされることによって誤解が生まれることになる。

誤解とは非常に外延の広い概念であるが、本稿では意識的誤解としての自己欺瞞の問題に、そして自己に対する自我の欺瞞に気づいていない無意識的誤解の問題に焦点を絞り、ディケンズ (Charles Dickens, 1812-70) の『リトル・ドリット』(Little Dorrit, 1855-57) やその他の作品に登場する人物の分析を通して、これら一考を要する問題を深く掘り下げてみたい。

 
              
              

本来、自己欺瞞とは自分で自分の心をだますことであり、自分自身の良心や信条に背いたことを、そうと知りつつ強いて行なう意識的な思考過程のことである。 これまで非常に曖昧な概念とされてきた自我 (ego) と自己 (self) を、 心的過程において受動的な客体としての性格を持つとするフロイトの自我を修正した新フロイト派 (ホーナイ [Karen Horney]、フロム [Erich Fromm]、サリヴァン [Harry S. Sullivan] など)に従って、ここではそれぞれ主体としての自我[主我]と客体としての自我[客我]と見なして考えることにする。そうした自我と自己との対話という同一人物間におけるコミュニケーションの場で自己欺瞞を捉えるならば、自我が欺瞞的メッセージを作成して自己に発信する際に、その欺瞞的な意図を自己は誤った解釈のまま意識的に受信することになる。その過程を簡単に図式化すると、次のようになるだろう。

   

      自我のメッセージを解読する時、その欺瞞性ゆえに良心を持つ内的自己は受信を拒み、自我の指令を受けて自我とともに良心を無意識の世界に抑圧し、形骸化した外的自己となってメッセージを受信せざるを得ない。そうすることによって自我の安定が維持されるわけである。

このような意識的誤解としての自己欺瞞は、後で詳述するかなり道徳性に問題のある人物たちは無論のこと、ディケンズは普通の人々の間でさえ見られる罪であると述べている。そのことを勘考する上で有益なのは、『リトル・ドリット』の主人公の一人クレナム (Arthur Clennam) の場合である。 彼は父親から遺伝的に「退嬰的な性格 (retiring character)」(311) を受け継ぎ、環境的には旧約聖書とカルヴィニズムを曲解する母親に支配された家庭で「無力感 (sense of helplessness)」(679) に苛まれながらも、誠実で公明正大な人間として読者の共感を失わない人物である。(1) 40歳の独身クレナムには、愛情の欠落した母親によって子供時代に抑圧されたフローラ (Flora Finching) への愛情が、今なお心の中でくすぶり続けている。そのため、彼はヒロインのエイミー (Amy Dorrit) の調査に進展がないにもかかわらず、 フローラの父キャズビー (Casby) との旧交を温めれば、 何か有望なことが聞けるかもしれないと自分で自分に言い聞かせる。

   It is hardly necessary to add, that beyond all doubt he would have presented himself at Mr. Casby's door, if there had been no Little Dorrit in existence; for we all know how we all deceive ourselves -- that is to say, how people in general, our profounder selves excepted, deceive themselves -- as to motives of action. (144)
クレナムが「リトル・ドリット」を口実にしてまでフローラに会いたい気持ちを偽らねばならない、その自己欺瞞の原因については後述するとして、ここでは作者がクレナムの自己欺瞞をわれわれ「人間一般」に共通する作為の罪 (sins of commission) として提示していることに注目したい。それでは、欺瞞行為を自覚した主体としての自我から除外された「われわれの深い所にある自分自身」とは何を意味するのか。これは読者の窺知すべからざることだが、自我と自我の指令を受けた内的自己が共謀して抑圧してしまった「良心 (our better selves)」のように思えてならない。 確たる証は何もないが、作者はそういったものをここで念頭に置いていたに違いない。

われわれ人間一般に見られる自我に対する自己の意識的誤解は、『二都物語』(A Tale of Two Cities, 1859) をはさんだ次の作品である『大いなる遺産』(Great Expectations, 1860-61) の主人公ピップ (Pip) の場合では、 主としてその道徳性が問題視される。 この作品が教養小説 (Bildungsroman) である点からして、それは驚くに当たらないだろう。孤児のピップは田舎の鍛冶屋ジョー・ガジャリー (Joe Gargery) の妻となった姉の所で厄介になっているが、匿名の恩人から莫大な遺産を受けることを知らされる。彼は金と教養を身につけるにつれ世俗に染まらない本来の純真な性格が薄れる点で前述のクレナムとは異なるが、罪悪感/良心の呵責に悩まされながら読者の共感を保持する点では、双方のスタンスに埋めがたい径庭はない。

意識的に自分をだますピップの立場を的確に要約する一節としては、彼を魅惑して紳士になりたい気持ちにさせたエステラ (Estella) からの伝言を持ってロンドンにやって来たジョーに対して、彼が自分の俗物根性を恥じた直後の次のような場面がある。 

It was clear that I must repair to our town next day, and in the first flow of my repentance it was equally clear that I must stay at Joe's. But, when I had secured my box-place by to-morrow's coach . . . I was not by any means convinced on the last point, and began to invent reasons and make excuses for putting up at the Blue Boar. . . . All other swindlers upon earth are nothing to the self-swindlers, and with such pretences did I cheat myself. Surely a curious thing. That I should innocently take a bad half-crown of somebody else's manu-facture, is reasonable enough; but that I should knowingly reckon the spurious coin of my own make, as good money! (213)
忘恩の徒ピップの俗物性に染まった自我は、代父的存在のジョーに刺激された「悔恨の情」すなわち苛まれた良心を抑圧し、様々な「理由や口実」といった虚構によって欺瞞的メッセージを自己に伝達している。自我が自己を意識的に誤解させ、その誤解を自己もまた「承知の上で」受け入れるのは「確かに奇妙なこと」であるように思える。意識的に誤解せざるを得ない自己の欠点を、語り手や読者のように主人公ピップが客観的に見ることができない点に関しては、諸々の原因が考えられるだろう。しかし、その主な原因は、彼の認識の主体たる自我が「新しい産業世界における中流階級と労働者階級がその数、富、政治力、それに社会的な尊敬の度を着実に増していた」(2) 19世紀中葉のイギリス社会の価値観という色眼鏡をかけられていることにある。成長して社会事情に通暁した語り手が自己欺瞞の説明に用いた「お金」の比喩は、その点を裏づける傍証と言えよう。もとより、「お金」は時代の価値観を敏感に反映するものであるから、そこに時代相や社会相を透視できる読者は、ピップの自己欺瞞に当時の社会的思潮を仮託した気配が漂っているのに気づくはずである。このように、作品全体に一貫して見られる主人公に対する語り手や作者の基本的な弁護の姿勢をかんがみるに、自己欺瞞の罪を黙諾している自分自身の客体としての自己をありのままの姿で認識できるようになる、いわば自我の発達が教養小説としての『大いなる遺産』のメインテーマとなるのは当然の帰結だと言うべきかもしれない。
 
              
              

『大いなる遺産』という人口に膾炙したタイトルは、正確には「大いなる遺産相続の見込み」の意味であり、それは将来いつか財産を所有することに対する単なる「期待 (expectations)」にすぎない。「期待」という言葉には明らかに主人公ピップの「失望 (disappointments)」を惹起する「誤解 (misunderstandings) 」に対する作者の痛烈なアイロニーが読み取れる。 これは実際の財産の所有を意味するわけではないため、将来どうなるか分からないという意識を持つピップは、絶えず不安に悩まされることになる。この不安、具体的には遺産相続の見込みによって自分のアイデンティティーの基盤を置けるようになった紳士階級から、昔の労働者階級へ逆戻りするかもしれない不安を抑圧するために、彼は恩人が自分とエステラを結婚させようとしているハヴィシャム (Miss Havisham) だという誤解の罪を犯さざるを得ないのだ。

誤解という現象の中に精神分析学的な意味を見出したのはフロイトである。彼は意識下にある動機、願望、意向の発現として錯誤行為 (parapraxis/Freudian slip) を取り上げ、「思い違いがある場合には、その背後に必ず抑圧が隠されている」と言った。(3) われわれは思い違いをする時、それが錯誤であるとは気づかず、そのまま信じてしまう。その意味において偽の恩人ハヴィシャム (< Have a sham) は、何らの証左も見出せないため彼女が恩人であって欲しいという意向を抑圧せざるを得ないピップと、彼に感情移入する読者の注意を意図的にそらすことによって、作者が真の恩人についての両者の誤解を誘発するために仕掛けたレッドヘリングの最たるものだと言えるだろう。こういった数多くの陥穽の中で試行錯誤を繰り返す読者に与えられた課題は、ピップの期待する「遺産」とは「違算」の謂に他ならない点を発見することにあるが、それは緻密な技巧の網が張られた『大いなる遺産』の作為的構成によって作品後半まで妨害されることになる。それゆえ、真の恩人が昔ピップの助けた脱獄囚だったことは、恩人と言えば直ちにハヴィシャムを想起する先入観を突き崩し、思い違いも甚だしいピップと読者の不意を討つことで、意外性の効果を狙った戦略だという印象を与えるのに十分である。

名は体を表わすことが多いディケンズにアイロニーの意図があったか否かはさておき、ピップという名前もまた皮肉な解釈が可能である。以下の寓意的解釈は彼の名前に意味の重層性/多義性が潜んでいる証拠となるだろう。まず第一に、ピップにはリンゴやブドウなどの「種子」の意味がある。ハヴィシャムの屋敷「満足館 (Satis House)」へ行く前に、伯父の店で紙袋に包まれた「種子」を見たピップは、「こんな監獄のような包みを破って、 いつか晴れた日に花開くことを望むだろうか」(49) と思う。 こうした何気ないコンテクストへの投入によって、彼の名前は将来への期待という点で、 「大いなる発展のもととなる小さきもの」として「一粒の芥子種 (a grain of mustard seed)」(Matt. 13: 31-32; Mark 4: 30; Luke 13: 19) を想起させ、強烈なアイロニーを浮かび上がらせる。更に「種子」のイメージは、『ハード・タイムズ』(Hard Times, 1854) の巻題をはじめ、他の作品でも頻繁に言及される "As you sow, so you shall reap." というトポスを通して、ピップの誤解の罪に対する因果応報を読者に暗示してやまない。

ピップ ( < Pirrip ) という名前はまた、 前後どちらから読んでも同じ回文 (palindrome) となっている。(4) レディーのエステラを求める労働者であろうと、 逆に幼馴染みのビディー (Biddy) を求める紳士であろうと、 そういう彼の期待は結果的に失望に終わるという点では等しく無益な誤解にすぎない。その意味において、満足館におけるピップの主たる仕事が「ミス・ハヴィシャムを部屋中ぐるぐる歩かせること」(79) だというのは、 実に興味/意味深い。彼が円弧を描く部屋は、色あせた花嫁衣装に身を包んだハヴィシャムを中心に、 時計の針をはじめ一切の活動が停止した (78)、 いわば活人画 (tableau vivant) の世界であり、絵になる要素をふんだんに内蔵している。 エッシャー (M. C. Escher) が無窮階段[ペンローズ (L. S. Penrose) の階段]をライトモチーフにして描いた有名なリトグラフ『上昇と下降』(Ascending and Descending, 1960) の連想を呼び起こすように、(5) 紳士階級への階段をいくら昇ったところで結局どこにも到達しないピップの無益な堂々巡りは、満足館という錯視 (optical illusion) の世界で彼が抱いた数々の期待が、すべて誤解を基盤にしていることの皮肉な結果だと言えよう。更に言い足すならば、現実の比喩的空間をなす錯視の世界で与えられたピップの仕事の遊戯性は、回旋起重機のようなロンドンの上流/有閑階級に振り回されつつ、 彼が現実空間で繰り広げる無為徒食の生活 -- その抑圧された罪の意識は後に彼が高熱に浮かされた夢の中で、自分が「衝撃音を立てて深淵の上をぐるぐる回る (whirling over a gulf) 巨大なエンジンの鋼鉄製のビーム」(438) であることを知覚させるのだが -- の優れたアナロジーとして異彩を放っている。

ピップの意識的な誤解としての自己欺瞞を皮肉な目で距離をおいて記述する成長した語り手ピップの言葉は、「空の空、すべては空」(Eccl. 1: 2) と言って虚無的な人生のむなしさを訴えた「伝道の書」の著者(ソロモン)の言葉に一脈通じるものがある。語り手ピップの場合のように、伝道者の言葉の冷徹さは、俗世の多くの事物に対する過度な期待ゆえに、誤解(聖書では思い違い/錯覚)の苦汁をなめた結果の産物に他ならない。神を愛して従うことの重要性を説いた伝道者、そして「主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい」(Psalm 118: 8) と忠告した詩篇作者のように、語り手にとってもまた匿名の恩人だけに期待/信頼して金と教養を求めるピップの行為自体が誤解のもとに思えたことは想像に難くない。

自分の誤解を意識しながらも遺産相続に期待せざるを得なかったピップは、失望の経験で改悛してから親友ハーバート (Herbert Pocket) の任地である東洋へ行く。11年後に帰国したピップは、20年以上も父と暮らした中国から帰国したクレナムと、状況も精神状態も極めて似通っている。単なる類型分析に堕することを避けるために付言するならば、彼らの精神状態は両作品にはさまれた『二都物語』の主人公カートン (Sydney Carton) のそれとも軌を一にしている。有能な弁護士でありながら自堕落なカートンの無感情 (apathy) は、 彼が最も曖昧性の強い表現手段としての沈黙に支配されているがゆえに、その原因について様々な誤解を読者に招くことになる。とはいえ、痛ましくも孤立した彼の沈黙は、何かを抑圧した無意識の世界からの身体的衝動の表現のように思えてならない。カートンは、ルーシー (Lucie Manette) によって愛する機能を回復することになる前に、"I am a disappointed drudge, sir. I care for no man on earth, and no man on earth cares for me." (79) と告白したことがある。この告白から判断するに、沈黙に支配された彼の無感情の原因は、愛すること/愛されることに対する「失望」から生じた過去の精神的外傷としての愛情コンプレックスの可能性が最も高い。換言すれば、彼の無感情はこういった昔の心の傷の無意識的行動化 (acting out) なのである。その意味において、詩人ポープが友人の弁護士フォーテスク (William Fortesque) への手紙の中で第9番目の福音として記した、"Blessed is the man who expects nothing, for he shall never be disappointed." (Sept. 23, 1725) という格言めいた言葉は、(6) カートンのみならず帰国したクレナムとピップの生活信条をも理解する一つの大きな指針となるのではあるまいか。

しかしながら、代父ジョーの愛情に恵まれたピップと違って、「厳しく愛のない家庭 (rigid and unloving home) 」(165) で育ったクレナムは、 フローラを愛する際の自己欺瞞ははっきり意識できるものの、逆に愛されるという点については疎くなっており、その結果エイミーの自分への愛に気づかないという不作為の罪 (sins of omission) を自覚できないでいる。そうした彼女の愛を認識できないのは、カートンの場合と同様に子供時代における心の傷によって形成された愛情コンプレックスのためだと考えられる。従って、クレナムが自覚できない不作為の罪は、意識下ではエイミーに愛されていることを認識していながら、その認識を愛情コンプレックスゆえにあえて誤解として処理しているという点で、無意識的な自己欺瞞と言わねばなるまい。つまり、自分に対するエイミーの愛が「ありえないこと (improbability)」(730) だと考える際のクレナムの推論は、 彼が判断材料とした既知の事柄がすべて誤解に基づいているという点で、偽推理 (paralogism) にすぎないのである。 それは彼の心得違いから生じた問題だ。その点で、エイミーに望みなき恋心を抱くジョン君 (Young John Chivery) によってクレナムが彼女の愛を知らされるシーンは、彼が推理の過程で犯した誤謬を際立たせる役目を担っている。

He did what he could to muster a smile, and returned, 'Your fancy. You are completely mistaken.' 'I mistaken, sir!' said Young John. 'I completely mistaken on that subject! No, Mr. Clennam, don't tell me so. On any other, if you like, for I don't set up to be a penetrating character, and am well aware of my own deficiencies. . . .' (729)
「自分の欠点を十分に自覚している」ジョン君とそうでないクレナムの対話から判明するのは、クレナムが愛情コンプレックスによる「誤解」という無意識的な罪の認知を避けようとするあまり、その罪を他者のジョン君に投影し、外的なものとして認知していることである。ここで作者が「他人の目にあるほこり」(Matt. 7: 3) という聖書の一節を心に留めていたかどうかは定かでない。(7) しかし、この風刺の効いたファルスで、自分の大いなる「誤解」を自覚せずに、お門違いにもそれを相手の「誤解」として非難するクレナムの無意識的な自己欺瞞に対して、作者が劇的アイロニーを意図していたことは間違いない。いずれにせよジョン君は、クレナムが抑圧していた心の傷の弊害として犯してしまった思わざる過誤を読者に見せるための拡大鏡であったことが判然とする。
 
              
              

最初に述べたように、一般に自己欺瞞とは意識的な行ないと考えられている。そうした自己欺瞞に対してインドの宗教家・思想家クリシュナムルティは、「われわれのうちで果たして何人が自分を欺いていることを本当に自覚しているだろうか?」と疑問を投げかけた。(8)  自己欺瞞の事実を認識することなく、のほほんと知らぬ顔で暮らしている普通の人間にとって、彼の警告はまさに頂門の一針である。『リトル・ドリット』に登場する退職した銀行家ミーグルズ (Meagles) は中心人物ではないが、 われわれ普通の人間が無意識的に犯している自己欺瞞に対するディケンズの揶揄の典型的な対象となっている。というのも、ミーグルズはピックウィック (Pickwick) やブラウンロウ (Brownlow) の系譜に連なる善良で慈悲深い人間であるにもかかわらず、実は定見がなく勢力の強いものに従っているだけの衆愚の心性の体現者であるからだ。クレナムはミーグルズの胸の中にすら、「繁文縟礼省という大樹に芽を出すような顕微鏡なしには見えないほど微小な芥子種のかけら」(194) が宿っているのではないかと考える。 この聖書を眼中に置いた「種子」のイメージは、寄らば大樹の陰の傾向が紳士階級への所属を熱望する前述のピップにあったことの確証となるかもしれない。

ところで、ミーグルズ自身そうした事大主義的傾向を自覚できないため、権力あるものだけでなく自分の善良性や正当性をも信じて疑わない。例えば、 ミーグルズは発明家のドイス (Daniel Doyce) を役所の玄関から引きずり出し、自分が「こういう連中に対する役所の判断を理解できる実際的な人間 (a practical man)」(121) であることを自慢する。 この一節には、ドイスの「発明品 (an invention . . . of great importance to his country and his fellow-creatures)」(119) の価値を理解できず、彼を「社会的犯罪者 (a public offender)」と誤解する役所の非実用性が、そのまま一知半解の徒であるミーグルズに当てはまることを仄めかすために作者の凝らした趣向が感じられる。その他の多くの実例から帰納するならば、ドイスのような発明家の偉大さが理解されない/誤解されるのは、 コンコードの哲人エマソンが "To be great is to be misunderstood." といみじくも言い表わしたように、(9)  世の常と言うべきである。しかしながら、そういう世の中を支えているのは、事大主義を自覚できないミーグルズのような一般市民なのだ。作者は勢力の強い/家柄のよいものに目がない彼の弱点を普遍化して、 "a weakness which none of us need go into the next street to find" (204) と語っている。ミーグルズという名前からは "measles" (麻疹) が連想される。この生産的な操作がなされた魯魚の誤りと言うべき名前は、一般市民が知らぬ間に道徳心を毒されてしまう事大主義という病の感染性を暗示してやまない。

ミーグルズは自称「実際的な人間」であるものの、実地にはあまり役立たない。特に精神的な問題には非常に疎く、同じ実地に疎い良家の息子ガウワン (Henry Gowan) に、 自分が甘やかして駄目にした娘のペット (Pet) をだまし取られてしまう。加えて、昔ガウワンに捨てられたことのあるウェイド嬢 (Miss Wade) が娘に悪意を抱いていることを理解できない (809)。こうした点から、第2巻第21章全体を占めるウェイド嬢の手記は、そのようなミーグルズの浅薄さを攻撃の的として創作されたエピソードであると言っても、あながち牽強付会とはなるまい。彼女は手記を "I have the misfor-tune of not being a fool." (663) という逆説で書き始め、続いて「いつも真実を見破るのではなく、常にだまされている (imposed upon) ことができたならば、わたしも大多数の愚者 (most fools) と同様に平穏な生活を送ることができたでしょうに」と真情を吐露している。"I hate [Gowan] . . . [w]orse than his wife, because I was once dupe enough, and false enough to myself, almost to love him. . . ." (659) とクレナムに語ったように、 ウェイド嬢は奔放な性格であるガウワンの冷笑的態度に共通性を見出し、「自分自身の気持ちを偽って」彼を愛しそうになった経験を持つ。しかし、そういう憎しみに裏返る前の自己欺瞞的な愛の原因を解読する糸口は、この手記がクレナムに読んでもらうために書かれたという事実 (660) にあるのだ。彼女の自己欺瞞には彼と同じような子供時代に形成された愛情コンプレックスの影響が見られるのである。更に、彼女自身の意図はさておき、この手記における作者の意図の一部は、家柄がよいという理由だけで放埒な人間ガウワンにだまされたミーグルズを「大多数の愚者」の典型として匂わせることにあったように思える。言い換えれば、ミーグルズが「だまされる」原因は、彼自身「だまされる」以前に自分を無意識的に「だましている」ことにあるのだと作者は言いたかったのではなかろうか。言うまでもなく、彼の無意識的な自己欺瞞は自覚されない事大主義と関連がある。そして、そういった自覚のない事大主義に関する作者の認識の在り方を最も凝縮した形で表わしたものが、当初『リトル・ドリット』に対して彼が考えていた『誰の責任でもない (Nobody's Fault)』という原題だったのではあるまいか。

ミーグルズの事大主義は貴族階級への盲従に端的に現われている。次の引用文は、娘と娘婿の結婚を思い出したミーグルズがエイミーに対して行なう自己正当化と、それに対する作者のコメントである。

'You remind me of the days,' said Mr. Meagles, suddenly drooping -- but she's very fond of him, and hides his faults, and thinks that no one sees them -- and he certainly is well connected, and of a very good family!' It was the only comfort he had in the loss of his daughter, and if he made the most of it, who could blame him? (814)
娘の自己欺瞞を嘆くミーグルズは、娘婿の「よい家柄」を名目に彼の「欠点」を見て見ぬふりすることで、自分の自己欺瞞を正当化している。だが作者が問題視しているのは、そのような麗々しい意識的な自己欺瞞ではない。それでは、作者が自分をだますミーグルズをあえて「非難」しようとしないのはなぜか。それは「よい家柄」に弱い彼の事大主義が社会一般の時弊であるからに他ならない。面白いことに、「娘の損失」という個人的問題の場合ミーグルズは自己欺瞞を認識できるが、その自覚が普段の社会生活では全く見られない。例えば、彼は初めて登場した時に "If there is . . . anything that represents . . . our English holding-on by nonsense . . . it is a beadle." (18) と言うが、その後の彼の言動から読者は、彼の非難する「教区役人」とは彼自身が自分の内部にあるのに自覚していない「ナンセンスなものに固執するイギリス人気質」を投影したものであることを徐々に理解できるようになる。(10)  ミーグルズには「教区役人」が事大主義に染まった異質な生き物に見えるが、こうした反感は本質的に矛盾している。なぜなら、異質なものとして投影される事大主義こそ、まさに彼が無意識的な自己欺瞞によって送っている生活を支配する道徳的な病であり、そうした病菌のキャリアであることを彼は自覚していないだけなのだから。

『リトル・ドリット』全体に浸透した逆様の世界というトポスの視座から眺めるならば、 原題 (Nobody's Fault ) は反転して『みんなの責任 (Everybody's Fault)』という意味を浮き彫りにする。(11)  あるいは "Nobody" を転義して、みんなが意識下に抑圧している罪深い「もう一人の自分/分身」という意味に解しても、「責任」の所在に関しては結果的に同断である。このように、原題は積極的に読み替えられることにより、作品論を社会的コンテクストへと開く契機を孕んでいるのだ。要するに、作者の目にとって逆様の世界と映った当時のヴィクトリア朝社会を支えているのは、ミーグルズのように付和雷同する度しがたい衆愚なのである。そういう事大主義の自覚を阻止する無意識的な自己欺瞞こそ近代社会の原罪とも言うべきもので、現代社会でも決してアナクロニズムに堕することのない十分な妥当性を持った道徳的な価値判断の規準になる通弊だと言っても差し支えあるまい。

 
              
              

ディケンズが捉えたありのままの英国社会の縮図としての牢獄は、『リトル・ドリット』を読むために予備知識化したモチーフである。そして、この作品では物理的な牢獄の外にいる一般市民もまた、道徳的堕落という罪ゆえに精神的な牢獄に監禁された囚人としての印象を与える。こういう精神的な囚人であることを自覚していない彼らに自己欺瞞が見出せることは言を俟たない。例えば、長年を病床に送りながら屋敷から一歩も出ないクレナム夫人 (Mrs. Clennam) が、実際にマーシャルシー債務者監獄で25年も拘束されながら自由を満喫するドリット氏 (William Dorrit) と比べて、遥かに強く監禁された印象を与えずにおかないのは、それだけ道徳的な病の程度が激しく、それだけ良心が強く抑圧されているからである。車椅子の生活を余儀なくされる彼女の身体の麻痺は、そういった抑圧に伴う道徳心の麻痺 (moral paralysis) の形象化、あるいは抑圧された罪悪感の肉体における顕現と言ってよい。

クレナム夫人は結婚前に夫が歌姫との間にもうけた子供(アーサー)を罪の子として養育したが、それは二人に対する憎しみと復讐心ゆえの行動であった。しかし、そういう否定的な感情を正当化すべく、すなわち意識的な誤解によって是認するために、 自分に課された試練を「原罪」(356) と見なしている。こういった「彼女の自己欺瞞 (her own deception)」(357) による自己正当化の習性は、 最後に召使のフリントウィンチ (Flintwinch) によって暴露される。

'. . . But that's the way you cheat yourself. Just as you cheat yourself into making out, that you didn't do all this business because you were a rigorous woman, all slight, and spite, and power, and unforgiveness, but because you were a servant and a minister, and were appointed to do it. . . .' (782)
クレナム夫人が自分を「神の下僕で代理人」と誤解しなければならないのは、憎しみと復讐心に支配された「厳格な女」である事実を隠蔽する必要があるからだ。彼女がカルヴィニズムと旧約聖書を曲解して、その教義に従ったこともまた、このような隠然たる願望の正当化に都合がよい教義だったからに他ならない。作中人物に例外なく自己欺瞞の罪が検出でき、(12)  作者自身が自己欺瞞なる言葉を頻繁に使用している点で、『リトル・ドリット』は作者が自己欺瞞の問題に他のどの作品よりも意識的だった小説だと言える。 なかんずく「マーシャルシー監獄の父」(65) と呼ばれるドリット氏の自己欺瞞は、彼の背馳した言行を記述する際の作者の絶妙な筆致による心理描写と相俟って、読者の関心を引きつけずにはおかない。

アイロニーを成立させる上で最も大切な要素は外観 (appearance) と実体 (reality) のずれであり、それは虚構と事実、言葉と行為、外面と内面の乖離と言ってもよい。そうしたギャップをディケンズは自己欺瞞というフィルターを通して鮮明化しながら、ドリット氏をアイロニーの犠牲者に仕立てている。ドリット氏は牢獄という苛酷な現実から逃避して自我の安定を計るべく、自己欺瞞による色々な虚構に依存する。最も顕著なものは婉曲語法 (euphemism) による言葉の虚構である。 例えば、自分のような貧窮者への施し物に対しては「寸志 (Testimonial)」(83)、道徳的堕落による屈辱感に対しては「気概 (Spirit)」(369) という言葉を創作するドリット氏の語り/騙りには、事実と虚構を巧みにすりかえる詭弁家の面目躍如たるものがある。同様に、「マーシャルシー監獄の父」なる言葉は、家父長制社会のヒエラルキーで最下層に位置する犯罪者という事実を歪曲して周囲の目を瞞着するために、囚人たちの最古参という現実を逆用した見事な虚構だと言える。

更に看過できない点は、「マーシャルシー監獄の父」という言葉が、自分を養うため「エイミーが昼のあいだ外で働いていることに知らぬ顔の半兵衛を決め込む儀式」(74) から発生する、 その父性コンプレックスに対処するための虚構となっていることである。(13) 第1巻第19章で、ドリット氏は自分の利益のためエイミーにジョン君を誘惑するように慫慂して失敗するや、自分は「施し物と残飯で養われる哀れな囚人、みすぼらしい恥知らずな囚人」(227) だと言って、 日頃その実体を意識的に遮蔽していたことを露見させる。しかし、自暴自棄になって馬脚を現わすことで「マーシャルシー監獄の父」の虚構が背景に押しやられても、彼の場合は言葉巧みに煙幕を張る習性のために、 間髪を入れず「肉親としての父 (private father) 」という虚構が前景化する。

'You know my position, Amy. I have not been able to do much for you; but all I have been able to do, I have done. . . . 'I am in the twenty-third year of my life here,' he said, with a catch in his breath that was not so much a sob as an irrepressible sound of self-approval, the momentary outburst of a noble consciousness. . . . Only the wisdom that holds the clue to all hearts and all mysteries, can surely know to what extent a man, especially a man brought down as this man had been, can impose upon himself. (230-31)
「あらゆる人間の心と神秘を解く鍵を握る知恵の主」とは全知の神を指すが、(14)  読者もまた全知の語り手に導かれることで、モックヒロイック調のアイロニーで描かれるドリット氏の自己欺瞞の程度だけでなく、娘エイミーの愛によって父の自己欺瞞に歯止めがかけられる程度をも知ることができる。ここでは作者がドリット氏の「息のつかえ」を「自画自賛」や「高貴な心」の外在化として茶化している点に着目したい。「自画自賛」や「高貴な心」を意識するには自己欺瞞が必要となるわけだが、この場合そのような罪に対して苛まれる良心、すなわち "a touch of shame" (226) を顕在化したものが「息のつかえ」だと言った方が正鵠を射ているように思える。

以上の点を実証するために、大いなる遺産によって牢獄から釈放され一躍お大尽となったドリット氏が、エイミーの姉の結婚式当日、自分の世話をしてくれるエイミーにも然るべき伴侶を見つけることを期待する場面を検討してみよう。

'. . . As to taking care of me; I can -- ha -- take care of myself. Or,' he added after a moment, 'if I should need to be taken care of, I -- hum can, with the -- ha -- blessing of Providence, be taken care of. I -- ha hum -- I cannot, my dear child, think of engrossing, and -- ha -- as it were, sacrificing you.' (611)
ドリット氏には未亡人で家庭教師のジェネラル夫人 (Mrs. General) を後妻に迎え、娘に代わって自分の「世話」をさせたいという意向がある。この意向を娘の幸福のためという口実で押し隠す際に、彼は自己欺瞞を犯さざるを得ない。ところが、その罪の過程で無意識の世界に抑圧された良心は反動的に自律性を高め、最初の図で示したように、自我の制御を突き破って反逆を企てることになる。ドリット氏の「息のつかえ」や引用文に反復して現われる言葉のつかえ、 すなわち「断片化 (fragmentary)」(477) された言語は、そういった抑圧された良心/罪悪感の表出として捉えることができるだろう。

ここで良心の反逆として注意を喚起しておきたいのは、ドリット氏が娘を「犠牲 (sacrificing)」にすると言うべき時に思わず「独占 (engrossing)」すると言い違えた錯誤行為である。娘を「独占」するという否定的なニュアンスの言葉をうっかり使ってしまったのは、こうした行為を非難する良心を自己欺瞞のために抑圧したにもかかわらず、自由になった今もなお娘を「独占」しておきたいという本人の無意識的意図が、意識的意図に反した欠陥行動として発現したためである。彼の利己心ゆえの娘に対する「独占」の願望は、"Her father is all for himself in his views and against sharing her with any one." (258) というジョン君の母親の優れた洞察力によって看破される。 ところで、「犠牲」という言葉には「神 (Providence)」に近い存在の家父長としての自己に対する他者の行為を正当化する意図が働いていると考えられるが、その意図を妨害するのが本人も自覚していない無意識的意図なのである。フロイトによれば、「錯誤行為は決して偶然のものではなく、大まじめな心的行為で、固有の意味をもち、二つの異なった意図の共働、いや、もっと適切にいえば相互の衝突の結果として生じたもの」である。(15)  新たに得た社会的地位のために自ら放棄してしまったエイミーとの密接な関係を、自分の弟フレデリック (Frederick) が受け継いでいる現場を目撃した時に、ドリット氏が感じた「心の苦しみ(pang)」つまり「嫉妬」(638) -- 結果として彼はそれも自己欺瞞的に意識から追放してしまう -- は、そういった無意識的意図の存在を分明に示しているのではあるまいか。

このようなドリット氏の様々な言葉の虚構による現実への自己欺瞞的な対処は、道徳律から裁断すれば明らかに悪徳である。「若くて才能があって美男子で独立心もあった」(227) 過去の自分を創作して同一視することによる、 そして「残骸同然の惨めな人間」(374) である自分をナンディー爺さん (old Nandy) に、「体力の衰えた」(641) 自分を弟フレデリックに投影することによる父性コンプレックスへの対処もまた、不道徳な行為以外の何物でもない。 しかしながら、 牢獄(をメタファーとする社会)で生活を続ける上では、処世の要諦として、また生存競争のストラテジーとして知的な長所であると言えなくもない。更に、そうしたドリット氏の自己欺瞞が、『リトル・ドリット』という物語を活性化/流動化させる生命力の源泉として大きな長所になっていることもまた否定できない。なぜなら、ドリット氏が自分の弱点をはっきり認識したりすれば、作者のアイロニーが醸し出す良質のユーモアやペイソスの大部分は、皮相の見たるを免れない露骨な社会批判や社会風刺にも共通する独善的な視点によって破壊され、何の味わいも面白みもなくなってしまうからである。  

 
              
              

  1. ディケンズのテクストからの引用と言及は、すべて The Oxford Illustrated Dickens 版 に依拠した。以下、当該箇所にはページ数だけを括弧に入れて示す。 (マ Back)
  2. G. M. Trevelyan, English Social History (Harmondsworth: Penguin Books, 1982), p. 530. (マ Back)
  3. ジークムント・フロイト, 「日常生活の精神病理学」『フロイト著作集4』(京都:人文書院, 1974), p. 187. (マ Back)
  4. パリンドロームとしてのピップの名前に肯定的解釈を施すならば、労働者の視点から見ようが紳士の視点から見ようが、貧富の懸隔が甚だしい外見にもかかわらず、作者と読者の共鳴を維持するピップの実質に、基本的な差異はないと言わねばならない。"What's in a name?" (Romeo and Juliet, 2. 2. 43) と言ったジュリエットにとって大切なのは、ロミオの呪われた名前ではなく彼の実質であった。名を捨てて実を取る点において、ピップの名前の重要性は、彼が紳士としてロンドンに出発する人生の重大な転機に、偽の恩人ハヴィシャムが "Good-bye, Pip! -- you will always keep the name of Pip, you know." (149) と命令したことによって解体する。 つまり逆説めいた言い方をすると、彼の名前の重要性は名前が重要でないこと/実質が重要であることを暗示する点にあるのだ。 (マ Back)
  5. このリトグラフに関しては、M・C・エッシャー, 『無限を求めて』(東京:朝日新聞社, 1994), p. 108 を参照のこと。 (マ Back)
  6. George Sherburn, ed., The Correspondence of Alexander Pope (Oxford: Clarendon, 1956), Vol. II, p. 323. (マ Back)
  7. 「他人の目にあるほこり」のモチーフについては、ディケンズとも面識のあったホー ソーン (Nathaniel Hawthorne) が短編「痣」"The Birthmark" の中で扱っている。 こ の作品はディケンズがアメリカから帰った時、 親友フォースター (John Forster) に手 渡して読むように言った『旧牧師館の苔 ( Mosses from an Old Manse ) 』(1846) に収められている。表題の「痣」とは、 主人公エイルマー (Aylmer) がほとんど完全な姿で自然の手から生まれたような妻の唯一の欠点として、その美しい顔の中に見出す痣のことである。しかし、自然科学のあらゆる分野に精通した万能の科学者であるエイルマーが「地上の不完全さを表わす可視的な印」と見なした妻の痣は、彼が全能の神のような自分の完全さを意識するあまり、自己欺瞞的に自分の内部に抑圧してしまった不完全さを妻に投影したものとして読めないであろうか。エイルマーは自分が見た痣を剔出する夢を妻に指摘され、心臓まで深くメスを入れて痣を取ろうとした自分の冷酷さに罪の意識を抱くが、それはホーソーンが言うように、夢の世界では「真実が、眠りの衣にすっぽり包まれた精神をしばしば訪れ、目覚めている間にわれわれがいつ も無意識的な自己欺瞞 (unconscious self-deception) を行ないがちな事柄について、情け容赦なくありのままに語ってくれる」(Nathaniel Hawthorne, The Complete Short Stories of Hawthorne [New York: Doubleday, 1959], p. 229) からである。 (マ Back)
  8. Jiddu Krishnamurti, The First & Last Freedom (New York: Harper & Row, 1975), p. 120. (マ Back)
  9. R. W. Emerson, "Self-Reliance" (1841) Essays (London: J. M. Dent & Sons, 1947), p. 37.ドイスの発明品が何であるかについて、作者は故意に伏せたかのように最後まで緘黙して語らない。沈黙はその性質上、曖昧性を発生させ多様な解釈を許容する。従って、 沈黙は時として作中人物間のみならず作者と読者間にも誤解を促してしまうが、こう した沈黙の曖昧性が意味の決定不能性をもたらすことによる誤解は、文学批評を豊か にするという点で大いに価値があると言える。ホーンバックは役所に拒否されるドイ スの発明品が「愛」(Bert G. Hornback, Noah's Arkitecture: A Study of Dickens' Mythology [Athens: Ohio Univ. Press, 1972], p. 102) だという創見に富む逆説的な読み を提示した。しかし、ドイスが "The thing is as true as it ever was." (190) と言っている点から、ドイスは「真理」を、エイミー (OF < L = beloved) は「愛」を具現した人物だと考えた方が、この作品のテーマの一つである「愛と真理」(719, 817) にふさわしいだろう。 (マ Back)
  10. エイミーの姉ファニー (Fanny) に関して、 昼行燈のスパークラー君 ("Mr. Sparkler, who, if he still believed [which there is not any reason to doubt] that she had no nonsense about her, rather deceived himself" [499] ) は彼女の実体を誤解して忠義を尽くしている。こういう彼の無意識的な自己欺瞞に作者が与えた意義は、その皮肉な名 前に含意されるような彼自身の知能の低さに対してというよりは、むしろ父のように 自分の一部としての「家の名誉 (family dignity)」(498) を最重要視するファニーの中 味のない「ナンセンス」な実体に対して、アイロニーを提示する聖なる白痴としての レーゾンデートルの方にある。同時に、彼が低能にもかかわらず英国社会の縮図たる 繁文縟礼省で無任所の重役を与えられている点に着意すると、彼の無意識的な自己欺 瞞は「ナンセンス」なものを崇拝する英国性に対して読者の覚醒を促すことを眼目に しているように思える。 (マ Back)
  11. "nobody" の両義性については、Philip Hobsbaum, A Reader's Guide to Charles Dickens (New York: Farrar, Straus and Giroux, 1973), p. 190 に詳しい。 (マ Back)
  12. ヒロインのエイミーに自己欺瞞が見出せるのは特筆に値する。例えば、出獄に際して 父が長い年月をかけて牢獄で苦しんだのに借財を払わねばならないのは残酷だと、彼 女がクレナムに抗議する場面 (422) がある。コックシャットは彼女の抗議を牢獄が彼 女に与えた「しみ (slight taint of irresponsibility)」(A. O. J. Cockshut, The Imagination of Charles Dickens [London: Collins, 1961], p. 41) と考えたが、それに反論してリーヴィ スは、彼女の抗議を牢獄の空気が彼女の心に記した「しみ」と見なすクレナムの方を 問題視し、それを幼少時に彼の身についた「しみ (taint of the Calvinistic commercial ethos)」(F. R. & Q. D. Leavis, Dickens the Novelist [London: Chatto & Windus, 1973], p. 224) と考えた。齟齬をきたす双方の見解に対して、エイミー自身の "Yes, I know I am wrong. . . ." (422) という言葉に留意したウィルソンは、彼女が「父親思いだからとは いえ、決してものが見えていないわけではない」(Angus Wilson, The World of Charles Dickens [Harmondsworth: Penguin Books, 1972], p. 243) と主張した。 確かに彼女は父 の自己欺瞞を知っている。知っているがゆえに父への愛情から忍従しているのだ。そ れは父の自己欺瞞を糾弾して彼の「気概」を粉砕しないようにするための彼女の意識 的な自己欺瞞の産物に他ならない。従って、彼女がクレナムに垣間見せた自己欺瞞的 な心の惑いは、作者が「哀れな囚人たる父への同情から発生したもの」(422)と言明 したように、「親孝行ゆえの欺瞞行為 (pious fraud)」(77) に付随する小罪 (venial sin) ということになる。とはいえ、こういった彼女の愛ゆえの自己欺瞞が、父の保身ゆえ の自己欺瞞を幇助している不作為の罪であることもまた顕然たる事実である。 (マ Back)
  13. ドリット氏は遺産相続して初めて、子供たちの労働で扶養されているという「事実を 内々関知していた (privy to the fact)」(420) ことを明かすのだが、熟慮を要する問題 はそういう事実を意図的に誤認する顕著な自己欺瞞ではなく、容易に知覚できない習 慣化した自己欺瞞である。サーレイが指摘するように、「ドリット氏が自分をだまし ているとか、だましたいと思っているとか、(もっとも両方その通りなのだが)もは や言えないほど、彼の自己欺瞞は牢獄に順応するために生活様式の一部となっている」 (Geoffrey Thurley, The Dickens Myth [London: Routledge & Kegan Paul, 1976], p. 247) のである。 (マ Back)
  14. ディケンズが『二都物語』を執筆する際に師と仰いだカーライルは『フランス革命』 (1837) の中で、 共和制という合言葉を通して団結していたジロンド派とジャコバン派の対立について、「人間の心と神秘」を説明することに対する神ならぬ人間の言葉の無力さを指摘し、相手を実在のゆがんだ心象として見るという「誤解」に争いの原因を帰している。"Men's words are a poor exponent of their thought; nay their thought itself is a poor exponent of the inward unnamed Mystery, wherefrom both thought and action have their birth. No man can explain himself, can get himself explained; men see not one another, but distorted phantasms which they call one another; which they hate and go to battle with: for all battle is well said to be misunderstanding." Thomas Carlyle, The French Revolution (London: J. M. Dent & Sons, 1950), Vol. II, pp. 227-28. (マ Back)
  15. フロイト, 「精神分析学入門」『フロイト著作集1』, p. 32. (マ Back)


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