論文作成のプロセス(溝上由紀)

これはあくまで私の個人的な体験談で、このようなことを書くのは大変僭越なようで恥ずかしいのですが、少しでもご参考になれば幸いです。論文を書くにあたっての私の個人的状況としてあげられることは、マイナス要因としては、短大の専任講師の仕事をしながらの論文作成だったので、時間的制約がかなりあったこと、プラス要因としては、修士論文(仮に修論(1)(2)とします)を2本書いた経験があり、それらの一部を発展させる形で博士論文の中に生かすことができたこと、また自分も家族も健康に恵まれていたこと、という点でしょうか。以下に博士論文完成までの3年間のプロセスを簡単にまとめてみました。

1年次(2000年4月〜2001年3月)

1年次の始めの頃は、まず論文全体のアウトラインをどうしようかと頭の隅においてはいましたが、まだしっかりとしたテーマやアウトラインは確定していませんでした。ただ、主指導教官の吉村先生にご相談する中で、なんとなく決まってきたことは、修論(1)(2)の一部をそれぞれ発展させて2章分を作り、その上でさらに2〜3章を新たに作り上げるということでした。4〜6月は、博士論文を執筆する作業はまったく手つかずでしたが、夏休みを使って執筆作業に取り掛かろうと思い、その準備のための参考文献集めや読書に取り組みました。

修論(1)(2)の一部を発展させる予定の章についてはとりあえず置いておき、7月、8月の夏休みを使って、まず、新たに作成する章の執筆に取り掛かりました。具体的には、英語で1万5千字程度の論文を書き、職場の紀要に投稿しました。結果的に、この論文は3章の一部となりました。吉村先生にも、この論文をお見せし、「この論文を長い博士論文の中でどう位置付けていくかよく考えておくように」というような旨のコメントをいただきました。

また、10月頃、修論(1)の一部を修正した短い論文を名大の国際言語文化研究科の国際多元文化専攻の機関誌『多元文化』に投稿しました。この論文は、博士論文の2章の一部になりました。こうしているうちに、2月にD1全員の「博士論文研究発表会」が行われる旨が知らされました。発表会では、論文の概要や章立てなどを発表する必要があるので、この時期にかなり焦って論文全体のアバウトなアウトラインを考えました。考えた末、とりあえず、論文は4章構成にし、1章は、修論(2)の一部を生かしながら、理論仮説を組み立てる章とし、2章は修論(1)の一部を発展させつつ作ることとし、3章は夏に書いた論文を発展させることとし、4章の内容は次年度に集中して考えることとしました。

2月に行われた発表会では、上述の構成に基づいて発表し、さまざまな先生方から貴重なコメントをいただきました。特に、私のこれまでの研究は、調査のようなものを含んだものではなく、文献研究が中心だったので、「オリジナリティをどのように出していくのかをよく考えるように」と指導教官の先生を含め何人かの先生方に指摘されました。このオリジナリティの問題は、論文作成の間の自分自身の大きな課題として重くのしかかってきました。博士論文を書くにあたって、自分自身で独自の調査などをする必要性を強く感じ、次年度以降の研究では、調査研究に取り組んでいくことにしました。

2年次(2001年4月〜2002年3月)
この年の前半は、まず第4章に専念しました。4章は調査を含んだ章にしようと思っていたので、調査が生かせるようなテーマをまず設定しました。「シンガポール人の英語観」というテーマを決めるとすぐに、シンガポールの言語状況についての文献を集めて読み、また同時にどのような調査をするかを考えました。調査などやったこともなく、シンガポールにツテもないような状況の中でしたが、いろいろ画策した末に、シンガポール国立大学英語学部に連絡を取ってみました。「自分はシンガポールに関する研究をしようとしていて、シンガポール人の英語観について調べたいので、どうか学生さんに調査に協力してほしい」旨を伝えると、ありがたいことに、学部長から、調査に協力してくださるとの返事が返ってきました。調査のやり方を伝え、質問紙のサンプルを送り、8月頃に調査に行きたい旨を伝えると、しばらくののちに、学生の授業に差し支えるなどの問題があるかも知れないので、調査はできれば直接行うのではなく、Eメールによるものにしてほしいと言われました。

この年の7月の1ヶ月間は職場の仕事で、学生のカナダ語学研修の引率に行かなければならなかったため、7月は基本的には研究を中断していましたが、シンガポール人に行う予定のアンケートの予備調査を現地のカナダ人を対象に行ってみました。そして、帰国後の8〜9月に、シンガポールの学生にEメールによるアンケートを行いました。返事がどれくらい返ってくるか心配でしたが、ありがたいことにたくさんの学生さんたちが調査に協力してくれました。この調査結果をふまえて、2月の「博士候補生資格審査会」(ここで合格しないと、博士論文を執筆する資格が与えら れません)に提出するための英語2万語程度の論文を書き上げました。

2月の審査会に先立つ12月頃、ご専門が私の研究と近いヘイグ先生に副指導教官に加わっていただきました。私がこれまでに書いた論文を読んでいただいたところ、かなり厳しいご批判をいただきました。そのご批判の要旨は、「1、2、3、4章は、微妙につながっているかもしれないが、全体として見ると、広い範囲を扱いすぎていて、広く浅くの論文になっているきらいがある。むしろ、1、2、3章は捨て、4章を発展させていく形で、狭い範囲を深く掘り下げた論文を書いていくべきではないか」 というものでした。もちろん、オリジナリティのことも言われました。「いろいろな考え方があると思うが、オリジナリティは、純粋に理論的な研究ではなく、調査をしてこそ出せるものだと思う」というようなことを言われました。ヘイグ先生のコメントは、論文の構成全体に大きくかかわることだったので、大変悩み、また落ち込みました。思えば3年を通じてこの時が一番落ち込んだ時かもしれません。先生のおっしゃるように4章を発展させる形に論文全体の構成を変えることはそのまま、論文の執筆期間の延長を意味しました。個人的には、仕事と家庭と博士論文の両立の生活はしんどいので、できれば3年で論文を書き上げたいと思っていましたので、悩んだ末、「このことを論ずるためには1、2、3、4章の全てが必要だ」という形の論文を書くことでなんとかヘイグ先生にも従来の構成で納得していただきたいと思い、吉村先生にもご相談した上で、ヘイグ先生に、「先生に読んでいただいた論文は、まだ全て執筆途上のものでもあり、1〜4章を関連づけ、またなんとかオリジナリティが出せるような形で今後全章を書き直していく予定なので、構成の変更の話は、その書き直しの原稿を見てから判断してほしい」とお伝えし、当面は、これまでの構成の形にこだわっていくことにしました。2月の審査会は、その構成で発表を行い、なんとかパスしました。

3年次(2002年4月〜2003年1月)
主指導教官の吉村先生から、論文全体の第1草稿を遅くとも夏までには書き上げるようにとのご指示を受けていたので、前年度2月の審査会と相前後して、全章の書き直しを始めました。まず、全体を貫く理論仮説をたてるという重要な章である1章から書き始めました。理論的な章なので、オリジナリティを出すのは大変苦労しましたが、いろいろな文献を参考にし、また修論(2)の一部を使いつつ、なんとか4月末頃に1章の第1稿を書き上げました。書き上げたものは早速、吉村先生とヘイグ先生にお見せしました。「全章を貫く理論が作れていて、1稿としてはまあまあ良いので、とりあえずこのまま書き進めるように」とのコメントをいただきました。4〜6月には、2、3、4章でのオリジナリティを出すために、職場の短大の学生の協力を得て、3種類のアンケート調査を行いました。それらの結果を基にしながら、6月末に2章、7月末に4章、8月末に3章と序論、結論の第1稿を書き上げました。

8月末に論文全体の草稿を主指導教官の吉村先生、副指導教官のハ−イ先生、松岡先生、ヘイグ先生にお渡しし、読んでいただきました。また、調査等の関連で、国際開発研究科の木下先生にも草稿を読んでいただきました。これがいわゆる予備判定の予備判定のようなものとなりました。判定の結果によっては、今年度に提出することをあきらめるということになっていました。この判定の結果が出るまでに、2ヶ月ほどありましたので、先に行ったアンケート調査のフォロ−アップ・インタビューをこの間に行ったり、草稿の部分的な書き直しをしたりしました。

10月末にそれぞれの先生からコメントが返ってきました。それぞれの先生に貴重なコメントをいただきましたが、各先生方が共通しておっしゃったことは、「1章の一部と、3章全体の論旨に特に問題があるため、書き直しの必要あり」ということと、「強い主張は避け、全体を慎重な言い回しに変える必要あり」ということでした。コメントの中にはかなり厳しいものもあり、自分の能力不足にどっぷりと落ち込みました。これを受けて、吉村先生より、「11月末までに修正原稿を書いてくるように。それを予備判定とします。」と言われました。先生方のコメントをもとに、1ヶ月の期限の間にかなり大幅な書き直しをしました。冗長と指摘された部分を削り、「学術論文にふさわしくない」と指摘された個人的体験を書いた部分などを大幅に削り、全体の言い回しを慎重に変えていきながら、書き足すべきことを加えていきました。それとともに、同僚の英語のネイティブスピーカーに頼んで論文を読んでもらい、英語の文法的誤りを指摘してもらいました。

1ヶ月後、改めて修正論文を4人の指導教官に提出しました。その2週間後の12月上旬に吉村先生に御会いし、予備判定に通ったこと=今年度の論文提出が可能なことを告げられました。3年間でこのときはじめて明るい気分になりました。このとき新たに何箇所か修正すべき点を指摘されたので、それらを修正し、12月20日頃に指導教官の先生に再度論文を提出すると共に、事務にも提出しました。その後、1月18日に口述試験を行う旨が知らされました。口述試験に備え、論文を読み返したり、参考文献を読んだり、落ち着けない正月休みを過ごしました。1月18日当日は、試験の1時間半くらい前に名大に来ていたのですが、あまりの緊張に気分が悪くなり、図書館で座っていたことを思い出します。口述試験には、指導教官の先生方を始め、講座の先生方、また院生のみなさんも来ていたので、やはりかなり緊張しました。私は緊張すると全く頭が回らなくなるので、先生方や院生の質問に、言葉たらずな答えを返してしまったり、しどろもどろになってしまったりしたのですが、先生方の恩情でなんとか口述試験もパスすることができました。その連絡を受けて、生協に論文の製本を依頼し、製本後の論文を事務に再提出しました。以上が、私の3年間の論文作成の簡単なプロセスです。指導教官の先生方の丁寧なご指導のおかげでなんとかここまで来ることができましたが、この3年間は、先生方のコメントに落ち込んでは、自分の研究能力不足に落胆し。。。という感じで常にへこみっぱなしの精神状態でした。論文を書き終えた現在すら、もっと努力して時間をかけてもっと良いものを書くべきだったのではないかなど、別の意味で落ち込んだりもします。でも、博士論文が研究者としてのゴールではなく、ただのスタートだととらえれば、この3年間苦労して、なんとか論文を書き上げることができたことは、本当に貴重な体験だったと思います。博士論文を書くことは、決して平坦な道のりではなく、行き詰まって何度も投げだしたくなったり、精神にもかなり大変なものがありますが、月並みですがやはり大切なことは「あきらめずに努力する」ことだと思います。誰のためでもなく、自分自身のためにやっていることなのですから。指導教官の先生方をはじめ、他の先生方、同僚、友人、家族など3年の間にいろいろな方のお世話になり、また励ましをいただきました。改めて感謝の気持ちでいっぱいです。