授業のなかで日本文化・日本事情をどう教えてゆくか
−AET2000を終えて−

船津明生

1. はじめに
 「ことば」を教えることは「文化」を教えることである、とよく言われる。異文化コミュニケーションの分野においては、言語は文化の一部であるとも言われている。日本語教育のカリキュラムの中には「日本事情」という科目があり、日本語教師としてはなんらかの形で関わっていかざるを得ないテーマでもある。筆者はAET2000においていわゆる「文化」を教える、という試みに1クラス、わずかな時間であったが挑戦してみた。未熟な、そして決して満足のゆく授業ではなかったがさまざまに考えさせられた。その際の問題点として反省した点などを中心に、授業のなかで日本文化を、日本事情をどう教えてゆくか、という非常に大きなテーマに関しての一試論をまとめてみたい。

2. 日本語教育のなかの「日本事情」
2−1.「日本事情」について
「日本事情」は1962年の文部省令において「日本人学生に対する一般教養科
目の趣旨と同様の教育的意図、専攻分野に応じた基礎知識」と規定されているが、明確なカリキュラムが定められているわけではない。広く用いられているテキストもなく、各学校、教師の裁量にまかされている状況である。「日本事情」という言葉が広大な分野を内在し、切り口、視点を変えればさまざまな姿を見せ、また形を変えるものである以上、いわゆる「何でもあり」の状態はさけられないところである。
 しかし、最近「日本事情」の授業を単に<日本に関する一般的知識や日本人、日本社会における一般常識の講義>ととらえるばかりではなく「異文化理解・適応」という視点から取り組む動きが高まっている。
長谷川(1998)は「日本事情」のあるべき形を、「留学生から見て異文化である日本という社会(日本社会一般、大学・研究室・専門領域という副文化等)に適応していくための訓練課程」とみるべきである、と考え、「日本語」と「日本語に関する専門領域あるいはその入門的講座」の2つだけでなく「第3の領域」つまり「異文化に適応していくための諸訓練課程」であると述べている。
また、早稲田大学の細川研究室を中心に「日本事情」について活発な議論も交わされている。『21世紀の「日本事情」第2号』のなかで、河野(2000)は戦略的に日本文化は存在しないという立場をとることを主張し、牲川(2000)は日本事情教育のためにステレオタイプな「文化」観を剥ぎ取ることの重要性を説いている。日本文化を規定し、一方的に講義するのではなく学習者の「環境への適応」やコミュニケーション活動能力育成のためのものでなければならないことを明確にしている。

2−2.日本事情と文化
筆者は現在執筆中の修士論文のなかで論考に入る前に、「文化」についての定義をいくつか引用し、筆者自身のなかの文化に対するパースペクティブを構築しようと試みた。たとえば異文化コミュニケーションの分野における古田(1987)の定義「ある集団のメンバーによって幾世代にもわたって獲得され蓄積された知識、経験、信念、価値観、態度、社会階層、宗教、役割、時間空間関係、宇宙観、物質所有観といった諸相の集大成である」に加え、相互作用の可能性から遠山(1988)の「文化とは、特定の時空環境内において、連鎖的情報選択・淘汰を含むコミュニケーション行為の累積的・複合的過程によりつくりだされた、最も広い意味での人間の生き方の制御プログラムの総体である」という概念を取り上げ考察の一助とした。
コミュニケーションをキーワードとして文化を考え、また異文化理解の複雑さについても論じ、そもそも「日本文化」といわれるものに関しては明確な定義などなく、さまざまな要素をもち、簡単にひとくくりにできるものではないことを主張した。その点に関していえば上記の細川他(2000)にみられる考え方には賛意を示したい。
しかし、「日本事情」が内在するあまりにも広い範囲のせいで、それをとりまく状況や解釈、提言などがストラテジーの考察に片寄り、より実際的なタクティクスまで踏み込んでいないところにもどかしさを感じるのは筆者だけであろうか。
さまざまな「日本事情」に関する考察を読む度に「じゃ、どうすればいいのか。具体的にどんな授業のやり方があるというのか。」とひとりごちている日本語教師がたくさんいるのではないだろうか。

3.授業をふりかえって
 ここで授業内容とその反省点を述べてみたい。
3−1.授業内容
 まず、実際に実施したクラスは中級クラスである。AET2000においては初級を2クラス、中級、上級の合計4クラス編成となった。のちにこの中級クラスは初級レベルの上といった状況であることが判明してくるのだが、どうしても限られた人数のなかでクラス分けをするわけであるから相対的な評価が加わってくるのは致し方ない。授業を行ったクラスのレベルについては客観的に詳しくは規定できないが、いわゆるある程度日本語が理解でき、抽象的な意見等もなんとか表明できる、といったレベルのクラスであったということはできるだろう。
次に教材、内容であるが、この授業では「日本のアニメ」を題材にし、ビデオを使用した。具体的には「となりのトトロ」、「ドラえもん」そして「アキラ」を取り上げた。もちろんこれらのアニメが日本を代表するかどうか、教材として妥当であったかどうか、という批判はあるだろうが、筆者なりの基準はあった。
・ いわゆるR指定等の暴力、ポルノなどの描写のないこと
・ ある程度有名であまりマニアックではないもの
・ 現代の日本の描写であること
・ 日本アニメの特徴である画質の良さがわかること
・ 動画の質の高さ、色のきれいさがわかるもの
・ 海外でもある程度の評価を得ているもの
・ 古すぎず、また新しすぎず評価の定まっているもの
・ 筆者自身も好きなもの
等々である。それぞれのアニメの内容やそれに関する授業での解説は紙面の都合上省くが、現代の日本人の生活、日本人の心の中にある原風景の一例、日本におけるアニメから派生したキャラクターグッズ、及びエンターテインメント、そしてさらに日本のモノ作り、日本人の器用さ、精密な作業ぶりなどを説明する目的をもった題材として日本のアニメを取り上げたという前提がある。
また、授業の進め方として、まず解説、ビデオの一部分を見る、感想を述べてもらう、それに対してこちらがコメントする、といったやり方で進めていった。
もちろん文化の授業で何を取り上げるか、に関しては事前の全体ミーティングで議論もし、チームティーチングの一環として他の院生からもコメントをもらった上で私自身のアイデアをもとに決定したことである。
教案も作成したが、ほとんど教案通りにはいかないだろうという予測ははからずも適中した。実際に授業で起こったこと、結果に関しては次節で述べる。

3−2.反省点
1)時間のなさ:正味50分の授業のなかでやれることは限られている、という単純なことに気付いてなかったといえる。ビデオは多くても2点がせいぜい、また前節で述べたような、説明したい、わかってもらいたいポイントがたくさんありすぎ、どれもあいまいになってしまった。解説に関してももう少し簡潔に、また学習者のコメントをより引き出しやすい問いかけを用意すべきであった。
2)カリキュラム:実際に行われた日が初日の2限目、1限目が自己紹介の授業で、
まだ学習者が日本語の授業に慣れておらず、かつ学習者同士がコメントを出し合うような雰囲気ではなかった。日本に慣れてもらう、という意味で全体のカリキュラムの導入の部分のような役割を、と企画し初日に行ったが、ある程度学習者が日本に慣れ、授業にも慣れてきた頃にもう一度あればまた違った反応が見られたのでは
ないだろうか。
3)学習者の認識:2)で述べたように初日で、しかもこちらからの紹介、という形で進んでいったため学習者からの感想が単に何を感じたか、に留まって、何故こんなアニメが?とかどうしてこのようなキャラクターが?といった学習者の疑問やそれにともなう自発的な認識にまで至らなかった。当然、アニメは大人の観るものではない、といった認識を持つ人が大多数の国から来た学習者もいるわけなので、ただの感想ではなくそのあたりまで踏み込んだ発言を期待したのだが、限られた時間内にそれを求めるのは筆者の力不足、時間のなさもあり、かつ学習者の日本語能力の問題もあり無理であった。
4)機械の操作:至極物理的なことで改善可能なことであったと反省しているが、ビデオの早送り、巻き戻しの操作にかなり時間がかかり、空白の時間が生じた。
事前に、実際に使用することとなる当のビデオ機器によるカウンター記録、また学習者に見せる部分のタイムキーピング、どのくらい早送りに時間がかかり、どのくらいの分量見せるのかは前もって時間的に計っておくべきであろう。

4. 日本事情に取り組む際の注意点
 前節までの記述から明らかになった日本事情教育に関する具体的な注意点とアイ
デアをまとめてみることにする。
@ 取り上げる題材を具体的に細かく絞り込むこと
ただでさえ茫漠ととらえどころのない「日本事情」。さまざまな話に派生していく恐れがあり、取り上げたかったテーマ、内容とは懸け離れた方向へと授業が流されていく可能性がある。教師の提案があいまいであれば学習者の反応もあいまいになる。
A 広がりをもたせる、またそれを意図する
@で述べたような広がり過ぎる特性を利用し、学習者の発想にまかせ自発的な認識を深めてもらう。教師が提示するものはほんの少しでもいいのではなかろうか。たくさんの内容を教師側が教え込む、のではなく、絞り込んだ題材を学習者の気付きと教師のリードによって深みをもたせる、そしてそれを意識する、ということである。
B 学習者のレディネス、ニーズ分析
日本の文化を紹介、と教師側が張り切り過ぎることはないだろうか。我々ネイティブが考えもしない、日常気にも留めていない事柄に関して学習者が多大な関心を抱いている可能性は否定できない。現に授業でアニメを見ている際も、学習者の関心を惹く箇所がどうも我々とは違うような気がしたものである。
今回授業でのアニメ紹介は興味をもつ学習者の存在を意識したのが始まりであった。学習者が何に関心があるのか、それをすくいとり日本事情のテーマとなるにこしたことはない。つまり学習者主体の「日本事情」ということである。
C 日本の伝統文化の紹介
佐々木(2000)は言う

「日本事情」イコール「日本の伝統文化ではない」という意見があります。私はそれには賛成、なぜなら日本事情はプリズムのようにさまざまな角度からの光を集めてこそ、見えてくるものだからです。しかし「日本の伝統文化は日本事情の対象ではない」という方には異を唱えましょう。なぜなら数百年の時を経て今なお現代人の心をとらえるもの、そこにはきっと「日本人ならではの事情」があるに違いないからです。」

 筆者は修士論文において「武士道」は日本文化の発信のメッセージとしては妥当ではないが、ひとつの伝統文化として見るならば日本人の精神性、また歴史的特殊性を読み説くキーワードのひとつとなり得る、と述べた。
日本の伝統文化紹介の授業はこれまでにも多数あったであろうし、そのような授業が行き詰まりを生じていた例もあるだろう、しかし、それは授業が単に伝統文化の紹介に終止し、それによって日本人を読み説く、というところに入っていなかったからではなかろうか。「日本にはこんなことが残っているのです」と教師も珍しいものをみるような態度ではなかったか。<保護されるべき>伝統文化ということは今日のごく普通の人々を魅了するパワーをもうすでに欠いているということの証明である。ならばそのような紹介にとどまらず、教師側も、「なぜ数百年も続いたのか」「どのように成立したのか」を学習者とともに考えるべきではなかろうか。そして最も重要なのは学習者がそれをどうとらえ、自国の文化と照らし合わせ、日本人のどの部分に重ね合わせ理解しようとしているか、我々には考え付かない部分を解き明かしてもらい、我々も新たな認識を深めることでより深い相互的な、いわゆる日本文化論の一方的な押し付けではない、異文化理解へとつながる考察を試みることなのではなかろうか。

5.まとめ
本稿は日本語教育における「日本事情」への取り組みの一方法論を現状の概観と筆者自身の授業体験をもとにして述べてきた。
「ことば」の習得が教師の教え方の多様性はあるもののある程度目的は一致するのに対し、「日本事情」の授業においては教え方、題材の多様性はもとより、場合によっては結論、習得目的すらも多様性が存在し、それを積極的に容認することがあたかもより良い授業を目指す方向だとされていることに少々疑問を抱いたのが発端である。現場はどうしたらいのか、が自身で授業を行ってみた率直な感想である。
簡単に語られる「言葉と文化」という言い回しであるが、その関係性の解明。また同じく「文化とコミュニケーション」のその相互の関連のダイナミズムが筆者のこれからの考察のテーマである。今回、その考察に「日本事情」の授業がさまざまなヒントを与えてくれたことに感謝したい。

主要参考文献

アルク地球人ムック(2000)『日本を知るための本』アルク
名古屋大学留学生センター(2000)『国際化の視野からみた言語文化科目の教育改善』
日本事情研究会編(2000)『21世紀の「日本事情」第2号』くろしお出版
長谷川恒雄他(1998)『諸外国における「日本事情」教育についての基礎的研究』日本事情研究会
細川英雄・他編(1999)『日本語教育と日本事情』明石出版
細川英雄編  (2000)『日本事情とは何か』早稲田大学日本語研究教育センター   
古田暁・他  (1987)『異文化コミュニケーション』有斐閣選書
水谷修・他編 (1995)『日本事情ハンドブック』大修舘書店


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名古屋大学大学院国際言語文化研究科
日本言語文化専攻