講演原稿 - 日仏二国間セミナー

講演原稿

大根 絹代 木村 信子 田所 光男 Français 棚沢 直子
辻山 ゆき子 Français 鶴巻 泉子 中嶋 公子 布施 哲
松田 道男 松本 伊瑳子 米山 優 Français Stéphane Heim
Marie-Claude Rebeuh Cobus Van Staden English Roland Pfefferkorn Michèle Forté
Alain Bihr Sandra Schaal Français Françoise Olivier-Utard










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大根 絹代

住まいが語る日本女性の生き方モデル

タイトル「家のつくりやうは夏をむねとすべし」という14世紀の随筆集『徒然草』の一説は、日本人の住居観の一端を示すものとしてよく知られています。
確かに、日本の伝統的家屋は、襖、障子といった移動式の建具を、外部との境界や内部の間仕切りとして用い、必要に応じて、それらを開け放つことで
外気を導入するという開放的構造となっています。これは、高温多湿の日本の風土に由来するものですが、その外部との連続性を重視する構造は、自
然との交流を大切にする生活様式の現れともみることができます。

また、外部との連続性だけでなく、住居内部も部屋と部屋の間の間仕切りは緩やかで、たとえ閉められていても互いの空間をうかがい知ることができま
す。個々の部屋の独立性が弱く、部屋の役割も、例えば食事を取った部屋を、テーブルを片付けて寝室とするなど、時と場合に応じて変化します。西欧
の住居が、役割の明確な個々の部屋を連結する構造であるのに対し、日本の伝統的住居のもつ部屋の連続性や、機能の曖昧さは、そこに住む人々の
関係性においても、西欧とは異なった価値観の現れを暗示しています。
しかし、近代化の過程で、従来の住まいの様式は大きく変わっていきます。そのことは、家族の中での女性の地位の変化とも大きく関わっています。

明治初頭に日本を訪れたアメリカの海洋生物学者エドワード・モースは、1875年ごろの農村部を観察し、「農村を訪れて、その住居を観察すれば中産階
級が存在しないことが明白になってくる。いっぽうでおおきな茅ぶき屋根と、母屋の周囲に数おおくの蔵、離れ屋をしたがえ、その富と生活の豊かさをしめ
す快適な住居があるかとおもえば、他方には、たんなるシェルターにすぎない住居が何百とある。・・・たいていの家はいうにいわれぬほどちいさい。」こ
とを発見しています。農村では「おおきな茅ぶき屋根」を中心に、「たんなるシェルターにすぎない住居」がそれを取り囲む形で点在し、全体で生産共同体
を形成していました。「おおきな茅ぶき屋根」の基本形は居住部分の四間形式と、生産空間としての土間から成り立っています(P.P農村の民家)。居住空
間の南側を占めるオモテには、座敷とデノマと呼ばれる部屋があります。座敷の語源は、上客のために畳を敷いた部屋であり、出入り口に近い場所にあ
るデノマは、家人がその場に出て応対するための部屋です。これらの接客のための空間である座敷、デノマに対し、(P.P農村の民家2)家の北側、すなわ
ちウラに位置するのがダイドコ、ナンドです。ダイドコは常(じょう)居(い)とも呼ばれ、囲炉裏を囲んでの食事、夜なべ仕事、家族やごく親しい人々との団欒
など家族が日常に使う空間となります。ナンドは家長夫婦の寝室であり、出産のための部屋でもありました。

民俗学の知見によれば、オモテが接客空間を担い、ウラが家族のための内向きの空間という二元的に対立する空間概念は、そのまま男と女にシンボラ
イズされる場であり、ひとつの住まいの中に男と女とに意味づけられる空間が隣り合わせにあるのが日本の住まいであると指摘されています。家の中に
祀られる多くの神々も、家の主人が取り仕切るオモテと、家長の妻が祭祀者となるウラの神々とは性格を異にするという指摘もあります。

一家の主婦はヘラトリ、エヌシ、イエトジなど、地方により様々な呼び名がありますが、それらは、囲炉裏のカカ座に座り、へらを握り、食事の分配権をも
ち、家を運営していくという意気込みを表しています(P.P農村の民家3)。主婦権を嫁に譲り渡すことは、その象徴であるヘラを渡すことから、ヘラワタシと
いい、それにより共同体の承認を得た主婦となれるのでした。そのような権能をもつのは、本家の長男の妻にかぎられていましたから、村の娘たちにとっ
て、本家の有能な主婦になることは憧れだったのです。

カカ座が主婦権の象徴として確立している農家の間取りからは、家長が公的空間の代表となる一方で、妻もまた生産労働に携わりながら、家の存続、繁
栄の責任を担う主人としての地位を承認されていたことがわかります。

西洋を範とした近代化の過程で、上述のような共同体に結び付けられていた人々を均質な国民へと統合していくために、1898年(明治31年)に施行され
た民法では、戸の構成員に対する戸主権が明確に位置づけ強化されました。それは、祖先崇拝と親子関係を重視した「家」を国家の末端に位置づけるこ
とによって、天皇を頂点に置いた国家機構を「家」のアナロジーとするものでした。近代化が西洋を範とする西洋化である以上、この「家」に対する対抗軸
として浮上したのが、西洋の夫婦関係を重視した「家庭」という新しい家族のあり方です。このような「家庭」へのまなざしが住宅のあり方を問い直す推進
力となったのです。ですから、住宅への問い直しは、啓蒙家、教育者らによって啓蒙的雑誌や女子のための家政学書によってまず発信されています。

近代以降の産業構造の変化は、農村部の次男、三男の都市への流入を促し、一方では貧困層を生み、また一方で俸給生活者からなる新中流階級を生
み出しました。この新中流階級の人々の求める住居は、明治維新以前には、身分制度により武士以外の階級には禁じられていた住居構造である武士の
住宅を原型としたものであるといわれていますが、いくつかの大きな違いが見られます。(P.P武家住宅)

第一に、南側に並んだ部屋に大きな違いがあります。武家住宅では、接客空間である「座敷」とそれに隣接する「次の間」が日当たりのよい場所を占めて
います。身分の上下により接客方法の異なる武士の生活様式では、「座敷」は床の間をしつらえた最も格の高い部屋で、日常は主人のための部屋でした。
主人との上下の関係により、より身分の低い訪問者は敷居を挟んだ「次の間」で主人と対峙し、より身分の高い訪問者には床の間を背にした座を譲るとい
う起居様式が確立していました。つまり、南面する部屋は公的空間として、主人を主体とする部屋が占めることになります。そのため、主人以外の家族の
部屋は北向きの暗く寒い部屋に押しやられていたのです。

一方、新中流階級の住宅では、(P.P新中流階級の家)接客空間として西洋風の応接室が玄関脇に接合されています。これは、西洋=近代のシンボルとし
て別棟の洋館を建てた上層階級の住居を矮小化して模倣したものです。接客部分を独立させることにより、「茶の間」が「次の間」の位置に配されていま
す。「茶の間」は、日々の家族の食事の場であるだけでなく、団欒、夜なべ仕事、縁側からの親しい間柄の訪問者など複雑であいまいな機能の複合した空
間です。接客空間を独立させることで家族のための「茶の間」の南面が可能となったのです。食事風景も、各々が「箱膳」と呼ばれる小さなテーブルで食
事をするスタイルが廃れ、折りたたみ式の一つのテーブル(ちゃぶ台)を家族そろって囲むようになります。食事中の会話が礼を欠くこととされた武家社会
とは異なり、ちゃぶ台を囲んで家族が会話を楽しむ「一家団欒」のイメージは、「茶の間」とともに普及していきます。「茶の間」に続く「客間」は、(間取り図
においては)「居間」と称されています。当時、家政学の教科書を著した大江スミは、たまにある客のために用意された座敷を「客室」として空けておくこと
が困難な「中流以下の生活」では、それが「書斎兼主人の居間」となり、「寝室」となっていると指摘していますが、まさに「居間」と標され、客間の機能より
も主人の「居間」という意識が明確にされています。さらに、「茶の間」と「居間」の大きさを比べると、武家住宅の「客間」「次の間」との序列が反転し、「茶
の間」がより広くとられ、「家族本意」の生活に比重がおかれていることがわかります。

(P.P『赤い鳥』)1918年に創刊された児童文芸雑誌『赤い鳥』に表れる図像を分析した柏木博は、そこに描かれる父親不在の家庭の図像から、不可視の
空間に存在する大正期の父親の暗示を読み取っています。新中流階級の間取りが語るのは、「立身出世」(社会的上層移動)を目標に仕事に携わり、不
在がちの彼らに代わり、家父長制の規範を主婦が支える「新しい家庭」像であるといえるでしょう。

敗戦後、民法の改正により、直系家族的「家」制度は存在の法的根拠を失い、憲法には個人の権利が明確に謳われます。
維新以降の近代化が欧米先進国に範を求めたように、戦後の生活様式の強力なモデルとなったのは、新聞や雑誌を通じて紹介されたアメリカの郊外に
住む核家族の「豊かな」生活スタイルでした。

1960年代、羨望をこめて「団地族」と呼ばれた人々の住まいは高度成長期を迎えた日本の家族の姿を伝えます。(P.P 2DKの間取り)1965年の実態調
査によると、居住者の年齢は男性が30代前半、女性は20代後半が圧倒的に多く、ホワイトカラーの年収の比較的高い層であり、「団地は若い夫婦と幼児
の居住地として、独特の雰囲気」であり、プライヴァシーを重視し、団地内の交際は希薄であると報告されています。その住まいは、都市郊外に政府主導
で建設された鉄筋コンクリート構造の集合住宅でした。大量生産を目指し、間取りは定型化されています。間取りの標準化は、夫婦と子ども一人か二人と
いう小家族像をも標準化します。「あこがれの」といわれる「団地族」という響きは、大家族から開放された「小さな家族」のもつ自由への潜在的欲求を表し
たものだったのです。

その標準的な間取りは、2部屋の和室とダイニングキッチン(2DK)です。台所と食事の場を一箇所にまとめ、南に配置する間取りは、主婦の家事労働を
軽減することを目的に設計されています。大正時代の新中流階級の間取りでは、台所の隣に女中室があり、主婦は台所仕事を主導する立場でしたが、
ここでは、自ら家族のために家事を行う主婦が想定されています。「男子厨房に入るべからず」といわれ、一段低い空間と考えられていた台所で食事を
するという設計が受け入れられた背景には、DKの発案者のひとりが振り返るように、「モノはなくても新憲法ができ、世の中には男女平等の民主的な生
活をしようという不思議な明るさがあった」からでしょう。2DKの専業主婦は、かつての農村のカカ座に座る主婦ではなく、新しい生活と家族の中心であり、
アメリカ的な豊かさの象徴でした。しかし、これは、近代的な間取りなのでしょうか。よく見ると、田の字型の住居から接客部分と生産空間を取り除いた形
にとてもよく似ています。つまり、妻が主人となる私的空間を残し、夫を主とする公的空間が消滅した間取りです。日本全国の民家を調査した今和二郎は、
住まいの原初型は休むところと食事の煮炊きをするところだと述べていますが、原初の型に戻ったものともいえます。しかし、大きな違いは、原初型も田
の字型の住居も生産共同体の一部であったのに対し、2DKの間取りは、生産共同体や近隣ネットワークから独立した閉鎖的な空間である点です。それは、
「子どもをつくり養育する」という機能に収斂していく住まいであったのです。その後、日本の住宅は、DKとつながる洋間のリヴィングルーム(L)を加えた
nLDKを基本として発展します。(P.P nLDKの間取り)リヴィングルームは接客の場と家族の団欒の場の重なり合う空間として普及しましたが、実際には、
家族のくつろぎの場と位置づけられています。

そして、台所はリヴィングルームを一望できる対面式が主流となります。
昨年おこなわれた25歳から35歳を対象とした調査では、現在の生活への総合的な生活満足度は、有職者が5割前後であったのに対し、専業主婦の満足
度が75%と最も高いという結果が得られています。調査からは、子どもの出産を機に専業主婦となり、経済的には必ずしも恵まれているとはいえないが、
子供の成長を楽しみにし、家族との時間を大切にする専業主婦像が浮かびあがってきます。リヴィングを一望できる対面式キッチンは、主婦が住まい全
体の女主人となった究極の間取りといえるかもしれません。

近年、インターネットの普及に伴い、そこに新たなネットワークをつくり、様々な情報のやり取りを通じて社会とつながる女性たちが増加し、「女性の書斎」
が注目されています。妻たちは理想の書斎をどのように描いているでしょうか。ヴァージニアウルフは女性が小説なり詩なりを書こうとするなら、年に五
百ポンドの収入とドアに鍵のかかる部屋を持つ必要があるといいました。2005年に行われた住まいに関するアンケート結果をみると、「女性の書斎」が必
要であると70%以上の人が答え、それをリヴィング、ダイニングに隣接した場所に求める人が70%を占めています。(P.P nLDKの間取り2)鍵のかかる部
屋よりも、家族とのコミュニケーションや家族の気配を感じる場所を好んでいるのです。それは、家族の中に足場をしっかりと築いた女性の社会との関わ
り方のひとつのかたちといえるのではないでしょうか。


参考文献

青木俊也 『再現・昭和30年代 団地2DKの暮らし』 河出書房 2001
柏木博 『肖像の中の権力』 講談社 2000
鈴木成文 『51白書』 住まいの図書館 2006
宮田登 『女の霊力と家の神―日本の民俗宗教』 人文書院1983
モース、エドワード・S 『日本の住まい・内と外』 八坂書房 1991
住まいづくり研究所 「女性の書斎」アンケート 2005
ベネッセ 若者の仕事生活実態調査報告書 2006
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木村 信子

世界に直面した近代日本のアイデンティティ形成

高群逸枝の思想をとおして

日本は過去何回かグローバル化の波にみまわれましたが、その歴史的流れを把握しつつ、ここではとくに近代に焦点をあて、そのとき形成された国家アイデン
ティティがジェンダー問題にどう関わったか、高群逸枝の思想をとおして見ていきたいと思います。高群逸枝は、日本ジェンダー論の創始者ともいうべきひとで、
彼女を肯定的にせよ批判的にせよ継承することで、現代のジェンダー研究は成り立っていると言っても過言ではありません。それではまず、日本が最初に世界
と直面した時の状況から見ていきたいと思います。

日本が国家形成するために世界というものをまず意識したのは、6~8世紀頃のことでした。その世界とは、当時の超大国だった中国の皇帝と、朝鮮半島をは
じめとする周縁諸国の君主が名目上の君臣関係を結ぶことで外交秩序が保たれているものでした。日本もかつてその体制のなかの一国として、中国に貢物を
献上し文化を摂取していました。しかし、5世紀ころには、日本は中国との対等的外交へ転換していました。やがて白村江(はくすきえ)の戦いが勃発します。朝
鮮半島において、新羅(しらぎ)に倒された百済(くだら)と結んだ日本は、新羅・中国連合軍と戦い、敗れます。この敗戦で危機感を共有した日本の天皇と支配
階級の豪族たちは、中国と同レベルになるべく国家づくりを始めることになります。国家統一が急務で、まだ国家アイデンティティを考える以前の段階でした。
最重要課題は、国防力を増強することでした。そこで、挙国的な諸制度を整備し、その統率を中央権力、すなわち天皇に集中させるために、日本は中国の中
央集権体制(律令制régime Ritsuryô)を取り入れることになります。律令制の大きな特徴として、まず軍資金となる租税をもれなく徴収するために民衆一人ひ
とり(ほとんどが農民)の所在を確認する戸籍制度がこのとき初めて制定されました。これにより、一般農民には租税とさらに重い労働税が課されるようになっ
たのです。つぎに、私有地を廃止し、身分制度を厳格にしました。たとえば、豪族の先祖伝来の姓名を天皇があらためて上から承認する制度を設け、両者の
上下関係を明確にしました。こうして中央による地方統治体制が整えられたのです。

しかし、大陸中国が長年かかって築き上げたこの制度を急速に取り入れようとしても、そう簡単にはいきませんでした。そのことに婚姻制度の研究から言及した
のが高群逸枝でした。当時の中国は家父長制下の嫁取婚だったのに対し、日本は母系(matrilinéaire)と父系(patrilinéaire)の混ざった双系制(système 
birilinéaire)で、妻と夫は比較的に独立した関係にありました。天皇が父系の姓名を公認するようになったため、多くの者が父系につくようにはなりました。しか
し、実際には母系的生活形態が隠然たる力をもち、律令制の浸透を阻む要因の一つとなっていたのです。律令制をもとに制定された当時の「男女の法」であ
る、子は父につくという父系的原則、および身分制度にもとづく同身分婚、はいずれも従来の婚姻慣習をしばる拘束力をもつことはできなかったと高群は指摘
しています。ジェンダー関係は中央権力が画策したようにはすぐに変わらず、その完成を見るには14世紀まで待たなければなりませんでした。この時に発見し
た律令制と婚姻形態のこうしたずれを、高群は近代日本のアイデンティティ考察につなげることになります。

さて、日本の近代は西欧を中心とする世界に直面した時から始まります。ここからは、お手元の資料で年号を確認しながら進めていきたいと思います。1868
年、明治維新 Restauration de Meijiによって長い鎖国状態に終止符を打ち、世界に門戸を開いたとき、日本は、かつて日本にとって世界だった中国がいまや
西欧に植民地化されていることを知ります。日本は西欧列強の植民地争奪戦の只中に開国したことに気付かされたのでした。帝国主義というグローバル化に
直面した日本は、遅れを取り戻し、植民地化されないよう急いで西欧に向けて国家アイデンティティをつくらなければなりませんでした。そのためにまず、武士
階級支配による地方分権体制を廃止し、天皇を中心とする中央集権体制を強化しました。そして、ヨーロッパ文明を摂取しそれと同レベルになることを目指し
たのです。こうした状況の中で、思想家であり教育家でもあった福沢諭吉の「脱亜論」は生まれました。その主旨は、日本はアジアが西洋文明を受け入れるの
を待っている余裕はもはやなく、アジアから抜け出て、西欧列強と同じように動こうというものでした。この「脱亜論」は、その後日本のアジア侵略の論理として
一人歩きしていくことになります。

まず日本は朝鮮半島の支配権をめぐって中国の清と日清戦争をおこし、勝利します。この勝利によって、アジアは遅れているという認識が日本人一般にも根
づき、アジア侵略に大きく踏み出していくことになります。ついで韓国と満州の支配権をめぐりロシアとの間に日露戦争が勃発します。この戦争に勝利し、韓国
を植民地化した日本に、列強の一員になったという大国意識が芽生えます。日本は謀略によって中国内に満州国を樹立し、やがて日中戦争が始まります。こ
うした一連の状況のなか、日本は脱亜入欧をアイデンティティ形成の手段としていきます。一国独立した日本が西欧に対しては下位だった上下関係を、アジア
においては上位に置こうとする二重の上下関係をつくりあげようとします。 

高群による日本の婚姻制度に潜む母系の研究は、満州国樹立の頃からの日本の一連の動きと重なっていました。そしてその期間の研究成果である『母系制
の研究』(Etudes sur le système matrilinéaire)を出版した1938年には国家総動員法が発令(promulgation du décret de mobilisation générale)、その前年
には『国体の本義』Kokutai-no-hongi が刊行され、日本は父系に貫かれた天皇をいただく一大家族国家(Grand Etat-Famille)であると謳われていました。母
系の混在を主張した『母系制の研究』の発禁を恐れた彼女は、このとき国家思想に自らの思想を合わせようとします。

高群は言います。日本は、中央貴族の男たちが地方豪族の女たちのもとに通い、その結果できた血縁一族を自分たちの血族に結成した結果、全国統合が成
り立った。父系こそは進歩的・抱擁的な婚姻団体であり、母系はその下支えとしての役割を終えるといずれ滅びゆくものであると。そして、その自分が発見した
婚姻形態をそのままアジア諸国に拡大して、一大家族国家建設を幻視することにより、日本へのアジア統合という国家思想に共犯的に同一化したのです。し
かし血縁による和合という発想は、その時点での国家思想を通り越し、後に日本が打ち出す大東亜共栄圏( une Grande Asie)の構想をすでに先取りするも
のでした。

そして、大東亜戦争(=太平洋戦争)が始まります。開始を前に、『臣民の道』Shinmin-no-michiが刊行され、国家は臣民(しんみん)すなわち人民にこう呼びか
けます。アジアは、総力戦体制によって西洋支配による旧秩序から脱し、慈愛に満ちた天皇の愛のもと上下一体となって世界新秩序を打ち立てよう、と。そし
て、その新しい東亜の共栄圏(une Grande Asie)では精神的にも血統的にも皆が一体となれると謳われ、ここで高群の思想と共通していることに気づかされ
ます。この大東亜戦争は、欧米列強(puissances occidentales)の帝国主義に対する日本およびアジアからの抵抗と、アジアに対する日本帝国主義の侵略と
いう二重構造をもっていました。実は、西欧を急速に取り入れようとした日本の近代化は、日露戦争後から行き詰まりを見せ始め、地方の疲弊や農業の衰退
などを招き、「近代の超克(デパスマン)」が唱えられるようになっていたのです。米英に対する戦争は、この近代つまり欧米を超えることにみずからのアイデン
ティティを見出そうとする日本の、いわば聖戦(ジハード)だったのです。この大東亜戦争には、それまでの戦争に懐疑的だった多くの知識人たちも積極的意義
を見出すことになります。しかし、この戦争の二重構造を透視できた者、あるいはそれに敏感だった者は少なく、「近代の超克」という大儀名分は圧倒的な力
をもって総力戦を支えることになったのでした。

この頃、高群の論調も急速さを加えていきます。たとえば、「どんな異民族同士でも、一たび祭祀下に入れば、それだけで血縁のある同胞となれる」と。戦時
中、アジアの各所には日本の皇祖神アマテラスを祀る神社が建てられました。その神社に参拝するだけで血縁ができ、迅速に、順調に家族化は進むという
のです。古来日本において血縁とは必ずしも本当の血のつながりを意味せず、親子関係以外に、共同体の成員だれをも子とする考え方がありました。しかし
いずれにしても、血縁・同胞は幻想上のものでしかなく、愛と新秩序樹立の名のもとにアジアを侵略していくのが現実でした。

こうした戦時中の高群の言論は、戦後厳しく批判されます。帝国主義の植民地支配は、支配する側も、ときに支配される側でさえも、いつのまにか共犯的に
協力する構造をもってしまいます。これは、後知恵的な論議では及ばない非常に複雑な問いであると私は思います。帝国はおそらくは消えてなくならないで
しょう。その兆しは、いつでもどこにも、ただいま現在この瞬間にも見え隠れしています。帝国主義が常に掲げるのは、恩恵を施す文明化の旗印です。しかし
植民地化された文化は切断され、いかなる場合でも永久に変えられてしまいます。その侵略行為にいつのまにか協力してしまう罠が、侵略する側にもされる
側にも張り巡らされていることに、私たちは警戒し、敏感でいなければならない、それが、高群のこのテーマに私がこだわる理由のひとつです。

さて敗戦後、世界に直面した高群のスタンスは、著書『女性の歴史』の書き方に表われています。まず、日本の文化は、その地理的条件により、大陸的性格
と太平洋諸島的性格を併せ持っている点に注目したこと。つぎに、西洋や中国、インドの女性史を視野に入れ、日本女性史を相対化したこと。そして、世界史
の発展段階を日本女性史も、ずれはあるが必ず踏襲し、世界の歴史に連なると強調したことです。たとえば、日本では15世紀以降に家制度が完成し、男女
分業化が始まります。この状況下の日本女性の類型は、紀元前の古代ギリシャ・ローマの婚姻制・家族制下にあった女の類型とほとんど同じであると高群
は言います。日本女性史はこのように、時期にずれはあっても世界史につながっていることを読者に印象づけたい一念が彼女にはあるのだといいます。そ
して、「特殊は大いにありうるが、それが世界史の基本的原則である進化の原則までをくるわせるような特殊はありえない」として、日本女性史の流れが「原
則」通りにいかない場面であれこれ悩み考察します。そこに垣間見えるのは、戦時中の閉塞状況から脱し、戦後開けた世界を目の当たりにして、歴史の直進
的な発展段階論と格闘する高群の姿です。それは戦後のいわゆる近代主義者たちのとった視点でもありました。しかしその発展史観を取り払って高群の『
女性の歴史』から見えてくるものは、このずれを遅れとは捉えない、むしろ発展史観との格闘から、日本文化の特性、すなわち、日本もその一部である太平
洋諸島域に広がるゆっくり持続する文化と、大陸から新たにやってきた速く進む文化との共存を明確にしたことです。たとえば、すでに示したように、8世紀
に律令制を取り入れたときもそれまでの婚姻形態が浸透し、すぐには家父長制が成立しなかった。また、19世紀に西洋を摂取したときは、前時代の父権的
儒教思想がそこに浸透する。おまけに、西洋の個人主義は排除したが、明確なジェンダー化は取り入れられた。そのために、妻は子どもとともに夫の下に従
属する家制度がさらに重く女にのしかかるようになる。このとき日本の女の地位は最も地におちた、と高群は言います。つまり、西欧化=文明化=進化が女
の地位向上につながるわけではなく、むしろここでは後退しているのです。

ジェンダー関係は日本女性史上もっとも劣悪なものとなったのです。
こうして高群は、世界史の時間の流れを認め、日本を相対化しつつも、一方でその「進化」の流れに抗い、抗うことで日本女性史の特性を浮き彫りにし、その
アイデンティティを、それはすなわち日本のアイデンティティを、ということにつながりますが、示そうとしたのでした。その論理的整合性を図ることは高群には
できませんでした。しかし、彼女があくまで女性史に視点を据えることで見出したものは、西洋中心的な歴史観によるアジア停滞論を否定する一つの論証と
もなっています。戦後グローバル化の渦中に、高群は女性史学というみずからの専門領域をとおして飛び込みました。そして、日本を相対化しつつ、さらにそ
の特性を明らかにしようとしました。それは、戦前、西洋とのずれを遅れと捉えた国家思想に同一化してしまった高群が、戦後精一杯の格闘をして示した姿で
あり、同時に戦後近代主義者としての自分をも結果的に乗り越える視点を萌芽させてもいたのでした。

最後につけ加えますと、高群が南太平洋文化圏に視点をめぐらせたことは、速く進む文化への警鐘を含んでいましたが、その危惧は、今となってみれば、き
わめて具体的に地球温暖化という、一国のアイデンティティ問題を越えて、全地球規模で共有しなければならない大問題となってあらわれていると言えるで
しょう。かつて南太平洋は、速く進む文化によって植民地化されました。そして今また、その同じ文化によって消滅させられようとしているのです。
とはいえ、グローバル化は、このように発せられている警告を受け流し、多くのものを巻き込んで、さらにつきすすんでいるように見えます。今の世界の動き
を見ているとそのように思われてなりません。こうした問題にはさまざまな角度から考察がなされていますが、ここでは、高群が提起したように、文化の質は
ジェンダー関係に深く結びついていることをさらに確認して、私の発表を終えたいと思います。
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田所 光男

現在の西欧化モデルに従う以外に
モダンはないのであれば
-〈グリーン・ペリル〉と〈イエロー・ペリル〉を貫くもの-

はじめに
主タイトルに掲げたのは、タリク・ラマダンの著作『イスラム』から引用した条件節である。グローバリゼーションの中の日本とフランスを主題にするセミナー
において、西欧の若いムスリムたちの精神的指導者の一人であるタリク・ラマダンを引き合いに出すことはやや唐突な印象を与えるかもしれないが、普遍
の西欧と特殊の日本、という強力な二項対比の図式から距離をとるためには、ここで第三項としてタリク・ラマダンを視野の中に入れておくことはそれなり
に意味があると思われる。

表題に掲げた条件節に対しては、二つの帰結節がすぐ頭に浮かぶであろう。一つは、〈西欧化して行くしかない〉という西欧化論であり、もう一つは、〈モダン
など必要ない〉、という反モダン論である。しかし、ラマダン自身はそのどちらもとらず、現在の西欧化モデルは「議論の余地があり、恐らく間違っている」の
で、それによるモダンは拒否しなければならないが、しかし、別のモデルによる別のモダンがありうると主張し、現代の多くのムスリム女性の志向も、「西欧
人であることなしに、モダンであること」にあると断言する。こういう主張を、西欧対イスラムという対決の枠組みで聞くと、〈グリーン・ペリル〉の本領発揮とも
聞こえてしまうが、かつて〈イエロー・ペリル〉と嫌われた日本の状況を踏まえて聞くと、こういうラマダンの主張は、さほど耳新しいものには聞こえない。19
世紀後半から現在まで日本に一貫して続いている一つのナショナリズムの思想傾向と、ラマダンの考えは強く共鳴している。西欧的モダンのグローバル化
に直面して、それをすべて拒絶するのではないが、しかしそれとは別のところに自分たちの根本を据えて、新しい別の世界を開こうとする。それは、一種の
オルター・グローバリズムにおける一致とさえ言うことできると思う。

1.日本主義の発出
さて、19世紀に日本が直面した西欧は、もはや16世紀にはじめて直接交渉に入った西欧ではない。この三世紀の間に、科学革命、産業革命、それにブル
ジョワ革命という三つの革命を経て、西欧は人類史上特異な文明を築きあげ、地球的規模で一つのシステムを完成しつつあった。その圧倒的な文明力を
前にして、明治日本には二つの相互背反的な勢力が生み出された。一つは、西欧の達成した偉業を認め、その普遍性も容認し、それを目的として進歩して
行こうとする勢力である。その代表的な存在が、現在日本円の最大紙幣の肖像となっている福沢諭吉であり、彼は『文明論之概略』の中で、「野蛮」・「半開
」・「文明」の単線的な発展段階を設定し、「半開」の位置にある日本・中国・トルコなどは、最上階の西欧文明を目的として進歩して行かなければならない
と、日本国民を鼓舞した。こうした西欧主義に対し、ほかの非西欧地域と同様明治日本にも、それを批判する勢力が生まれた。ただしここで注意が必要で、
この対抗勢力は決して一様ではなく、もちろん自分たちの源泉にひたすら回帰しようとする反モダンの伝統主義もあったが、しかしそうした完全に後ろ向き
で排外的な傾向をとるのは、むしろ少数派であった。「王政復古の大号令」のように明確に「復古」を宣言する場合でさえ、西欧的モダンを取り込んでいる
のであり、明治日本の反西欧主義の主要な傾向は、西欧的モダンを取捨選択しつつ、日本の伝統的特性を軸に立国して行こうとする動きであったと言え
る。1880年代、陸羯南はその名もずばり新聞『日本』を創刊して、この傾向の代表的存在となり、のちに丸山真男はこれを「日本主義」と呼んでいる。陸自
身は自らの立場を「国民論派(ナショナリズム)」と呼んでいるが、呼称はいずれにしても、この段階で、第二次世界大戦中を含め現在までずっと続く、対西
欧的な、近代日本のナショナリズムの基本的な態度が決定されたように思う。もう少し具体的に見てみたい。

国民を広く動員しようとするナショナリズムは、一般に、思想として複雑な構成をとるよりは、シンプルだが求心力を発揮しうる少数の価値やイメージ―肯定
的なものであれ否定的なものであれ―が、決定的な役割りを果たすような形をとるように思う。ヒトラーの『わが闘争』の中の、ユダヤ人イメージはその典型
であろう。日本の場合、すでに江戸時代から一つの選択がなされており、それは、西欧文明を物質文明と規定して、精神的な領域に自分たちの本領を認め
ようとする傾向である。佐久間象山の「東洋道徳、西洋芸術」、横井小楠の「世界第一等の仁義の国」という言葉はその先駆であろう。陸羯南の日本主義も
この方向にあり、立憲君主国の体裁が整った時期に、ほぼ次のような形にまとめられた。すなわち、〈諸国民はそれぞれ世界の文明に貢献するべく固有の
使命を天から賦与され、またその使命を果たすために、それぞれ歴史的に形成された固有の国民的特性をもっている。日本の場合それは、一視同仁の天
皇と忠愛なる臣民の道義的調和である。西欧は確かに文明の先進政体である立憲政体を作り出したが、それは抗争や衝突を経てのことであり、先のよう
な国民的特性によって立憲政体を産み出した日本は、その稀有の美点を核にして、世界に立国して行かなければならない。〉陸羯南のこのようなナショナ
リズムは、確かに20世紀前半の「近代の超克」論などとは異なり、日本を世界史の頂点に位置づけようとする志向は顕著ではなく、丸山真男の言うように
、「日本型ファシズムの実践と結びついた段階とはいちじるしくちがっ」ているかもしれない。しかし、戦後生まれの前首相安倍晋三の『美しい国へ』のナショ
ナリズムまで視野に入れて俯瞰すると、やはり際立つのはその一貫性である。最近の国際的な世論調査によると、日本国民は平和主義を自任しているも
のの、中国や韓国は日本をむしろ正反対の国に見ている。それにはいろいろな原因が考えられようが、新憲法の制定や民主化などの変化よりも、日本を作
るものの一貫性が隣国では強く感じとられているからではないか。いずれにしても、1880年代に形をとった日本主義は、現在までほぼ一貫して続く、対西欧
的なアイデンティティの基層となったように思う。その全体的な特徴はほぼ次のような三点にまとめられる。

第一に、「国粋」・「国体」・「国柄」等様々に呼ばれるが、日本の核心は神話時代から永続する天皇にあり、その皇統の連綿性には、神聖な君主と忠臣との
道義的調和が表現されている。第二に、西欧は確かにモダン文明を先導し、学ぶべきものをもっているが、それは多かれ少なかれ物質的側面であり、過剰
な自由主義と個人主義により衝突や抗争を常とする西欧は、社会的には病んでいると言えよう。従って、そしてこれが第三のポイントであるが、日本の使命
は、西欧が中心化した現代世界に固有の道徳性によって輝き、世界の道徳化に貢献することにある。

このような日本のナショナリズムは、軍事力・経済力の増大に養われ、また同時にそれを促進してきたことは間違いない。しかし、そうしたつながりが仮にな
かったとしても、持続しえたことであろう。と言うのも、このナショナリズムは、何よりも、西欧に対する民族的アイデンティの表明であり、上述の第二の特徴、
すなわち、西欧的モダンの功罪を把握したという意識がそのアイデンティティ構成に決定的な役割りを果たしているからである。特にそのことは、いまだ日
露戦争も戦ってはおらず、また西欧諸国との間で不平等条約も撤廃されてはいない時期の、陸羯南の場合にはっきりと現れている。よく知られているよう
に、18世紀のフランス革命や啓蒙思想は自由民権運動の支えとなった。これに反し、あまり知られてはいないが、それらを批判する思想や運動も明治日本
では為政者層を中心に理解が広がっていた。司法省法学校でフランス語を修めた陸羯南は、サヴォワの政治家ジョゼフ・ド・メストルの著作を学び、その
『主権についての研究』を翻訳刊行している。ド・メストルのフランス語と陸の翻訳の言葉、それに陸自身の後の論説の言葉を検討すると、陸の日本主義
思想は、その伝統主義的な見かけに反し、西欧の反革命思想に根幹で支えられていることがはっきりする。簡単にまとめると、ド・メストルはもともとルソー
の著作に親しみ、隣国フランスに発生した革命の動きにも共感を抱いていた。しかしそれが、治癒しようとした病毒以上の害悪を産み出すのを目の当たり
にして転向する。ド・メストルは、革命の実行者とその思想的指導者フィロゾフが「個人的理性」を絶対化して人間の共同性を破壊してしまったことを批判し、
各国民は神と歴史に基づく「国民的理性」に依拠することで、共同社会を建設することができる、と主張するに至った。陸羯南は、儒教、とりわけその四書
の一つ『中庸』の天性論などを介してド・メストルのこうした反モダン思想を摂取し、これに自信を得て、「世界の君子国たらん」という日本の「天賦の任務」
を掲げえたのである。

2.西欧的モダン批判の公分母
ド・メストルと陸羯南は言うまでもなく全く異なる文化的伝統の中にあり、陸はドメストルの信仰を共有しているわけではない。しかし西欧的モダンに対して
は、上述のように共通の批判的な立場に立っている。そして、西欧的モダンに対するこの抵抗ラインには、日本のナショナリズム全般、さらにはタリク・ラマ
ダンらのイスラム主義も連合しうるであろうと思われる。このことについてもう少し理解を深めたい。

「人間は自由なものとして生まれた、しかし至るところで鉄鎖につながれている」という、『社会契約論』の根本観念から距離をとって、ド・メストルは次のよ
うに書いている。

私たちは皆、柔軟な鎖によって永遠なる神の玉座に結ばれている。その鎖は、神の支配と自由な人間の自律とを調和させるものである。

西欧的なモダン化は、それを推進しようとする人々にとって、人間を束縛する様々な鉄鎖がことごとく断ち切られて、平等な個人の自由に活動する社会が
実現される過程である。しかし、こうしたモダン化過程が進行した果てに、20世紀になって、その理想とは正反対の全体主義体制がヨーロッパ内部に産み
出されてしまう。エーリッヒ・フロムはこうして、人を縛る鎖の両義性を考慮するに至り、モダン化は聖俗両方の絆を断ち切って個人を解放しようとしたもの
の、それは同時に、人が拠り所を喪失して、不安な孤立状態に置かれてしまう過程でもあった、ととらえた。またそれよりもずっと早く、ギリシア生まれのア
イルランド人ラフカディオ・ハーンは、日本の伝統的な家長として明治社会を内側から生きて、やはり人を縛る鎖の両義性を把握した。自由主義の代表的
な学者で、社会進化論を主唱したハーバート・スペンサーの説を斥けながら、ハーンは徳川社会について次のように書いている。

250年間平和を強制し、産業を奨励したのは決して恐怖政治ではなかった。国の文明は幾多の方法で拘束され、切り詰められ、刈り込まれたけれども、そ
れは同時に養われ洗練され強化された。長い平和はかつて決して存在しなかったものを帝国の隅々まで打ち立てた。すなわち、遍く行きわたった安心感
である。個人は法律と慣習によって従来以上に束縛された。しかし彼は保護も受けた。つまり彼は鎖の長さまでは不安なしに動くことができたのである。

この「鎖」は『社会契約論』の「鉄鎖」ではない。ド・メストルのいう「柔軟な鎖」、まさしく命綱のような拠り所であろう。
しかし、科学革命にはじまる脱宗教化、脱神聖化が西欧的モダンの主流だとしても、やはりそこでも、超越的な次元との絆はしばしば求められている。西欧
的モダンの象徴である、18世紀の二つの宣言、アメリカ独立宣言とフランスの人権宣言は、絶対者へのレファレンスを欠かしてはいない。また、明治日本
にそうした普遍主義を導入する際にも、伝統的世界観の聖なる原理〈天〉が持ち出されている。明治初年のベストセラー、福沢諭吉の『学問のすすめ』の
冒頭の一文「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」は、アメリカ独立宣言前文の翻案になるものであるが、キリスト教における絶対者の
役割りを、ここでは「天」が引き受けている。またこれも当時盛んに読まれた、サミュエル・スマイルズの『セルフ・へルプ』の訳書の場合も、中村正直によっ
て「天は自ら助くる者を助く」と訳されている。明治という歴史の大きな転換期、この「天」への依拠は頻繁になされ、新しい文明への転換を促進している。

このように確かに西欧的なモダンにおいて、神や天へのレファレンスは持続している。しかし、何も変わったことはないのであろうか。スマイルズの『セルフ
・ヘルプ』が19世紀のイギリス社会で成功した理由は、「天」がまさに、資本主義社会で先行き不安の個人の勤勉努力を励ましているからであろう。マック
ス・ウェーバーはプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神の間に因果関係を見出そうとしたが、しかし、両者がまさにそういう風につながってしまうこ
とで、神はもう以前の神ではなくなってしまったのだと考える必要はないのであろうか。西欧的モダンにおける神は、競争社会に奮闘する個人の、必然的
に増大する不安をかき消す、いわば個人契約保険のようになってしまったのではないか。それを神の死とさえ言うことができるのではないか。
こういう反省に導かれるのも、例えばタリク・ランダンが、西欧化モデルとは別のモダン化の原理として提示する、イスラムにおける神と人の関係に思いを
向ける時である。

「神は僕(しもべ)がその同胞を助ける限りにおいて僕(しもべ)を助ける」という預言者の言葉は、宗儀の実践者であろうとなかろうとムスリムの心に特別な
力をもって共鳴を起こし、どんな発展のプログラムも期待し得ないような連帯のダイナミズムを起動させることができる。そこに政治的な或いはポピュリズ
ム的な策謀を見ることをやめなければならない。そこではイスラムの根本的な教えが問題なのであり、今日あれほど語られる「覚醒」とは何よりも、そして
大半の場合、当局者を非常に恐がらせる「社会的イスラム」の覚醒なのである。イスラムに典拠をおくとは、まずいっそうのヒューマニティと友愛を求める
ことなのである。

この「神」は、競争原理に奮闘せざるをえない不安な個人を助けはしないであろう。たとえどれほど禁欲的であっても自分の利益しか考えないような個人を
助けはしないであろう。タリク・ラマダンは、西欧的モダンのジャングル的性格を拒否し、イスラム教の聖なる次元に依拠して、倫理的な共同性を生きるよ
う呼びかけるのである。
ラマダンの言うこうした「ムスリムの抵抗」、それに日本のナショナリズム、両者は確かに依拠するものは異なる。一方は普遍主義的な神であり、他方は、
神話的次元を含む民族的伝統である。しかし、西欧的モダンにおける個人主義の弊害への批判の眼差しでは一致している。破壊される共同性を救うため
に、どちらも、固有の聖なる次元に結びつくモラルを復権しようとする。この限り、一神教か多神教か、という違いは重要ではない。

3.内部の差異の問題
しかしながら、やはり、固有の宗教や民族伝統にアイデンティティの根拠を求めることのはらむ問題性も指摘しなければならない。アルベール・メンミのよ
うに「本質的に」と言うことは躊躇するが、宗教やナショナリズムは人間を分離し、しかも、他者を「ペリル」や敵として表象する面がある。実際、歴史の中
にその証拠は欠けてはいないし、特に、内部のマイノリティに目を向けるならば、それは明らかである。メンミは、チュニジアがフランスから独立する戦い
に参加した数少ないユダヤ人であるが、しかし、独立後のチュニジアがアラブ化、イスラム化を強めるなかで排除されてしまった。また日本主義も異質な
要素を抱え込むことが難しい。朝鮮併合の後、朝鮮半島からの移住者が増加した1930年代、広く警察組織も関わって、「皇国臣民」を強制的に作り出そう
とする同化政策が進められた。また現在、総務省が中心となって、グローバル化に対応する「多文化共生」政策が推進されている。ふつうに考えると「多
文化共生」は、これまで見てきた日本主義と齟齬するであろう。確かに、そのプログラムでは日本主義は主張されてはいない。フランスの「受け入れ・統
合契約」が、居住しようとする外国人に、まず何よりも国の原則を示すのとはきわめて異なり、国体はもちろん、何も国の原則にかかわることは提示され
ない。この不在はどういうことなのであろうか? 総務省の「多文化共生」は、住民数の面からも歴史的な面からも、まず何よりも対象になるはずの、植民
地体制の残した問題を抱える在日韓国人・朝鮮人を枠外に置いてしまい、実質、日本語のわからない外国人の支援策になってしまっている。この種の「多
文化共生」がいくら進んでも、日本主義は無傷のまま、不文律として日本人社会の基層に持続し、見えない壁を作って無視や排除に働いてしまうように思
う。

こうして、宗教であれ、民族的な伝統であれ、集団的な自己に帰属しようとすることは、解決しようとした、まさにその他者の拒否と不公正を再び生み出し
てしまう恐れがある。タリク・ラマダンや現在の日本主義者は、西欧的モダンに対して距離をとるために、しばしば複数性の原則や文化相対主義などを持
ち出しているが、それは、こうした内部の他者の問題に対して十分な解答になっているのであろうか。

いずれにしても西欧的モダンの普遍性と正当性に対して、地球の様々なところで、西欧の内でも外でも、プロテストの声が上がっている。それらは結局の
ところ自分たちの伝統だけに価値を認める、閉鎖的な動きなのだと全否定されてしまうには惜しい内容を含んでいるように思う。これまで見てきたことから
明らかなように、文化的にはつながりのないイスラム主義と日本主義の間に、世界の別の選択肢を求めて、少なくとも共通了解の場が設定できるからで、
これはやはりひとつの希望のように思える。
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Mitsuo Tadokoro

S’il n’est de modernité que selon le modèle de l’occidentalisation actuelle

ce qui traverse le «péril vert» et le «péril jaune»

Introduction
Le titre principal que je donne ci-dessus, c’est une supposition relevée d’un livre de Tariq Ramadan, Islam. Évoquer ce dirigeant intellectuel de 
jeunes musulmans en Occident dans un séminaire traitant du Japon et de la France dans la mondialisation, cela doit donner une impression 
saugrenue. Mais il me semble qu’il est d’une certaine importance de le maintenir comme troisième repère dans notre horizon de recherche, afin 
de prendre nos distances avec la puissante dichotomie : France universelle et Japon particulier.

Envers la présente supposition, il peut venir à l’esprit les deux prises de position suivantes. D’une part, celle des occidentalistes : «on n’a pas 
d’autre moyen que d’être occidentalisé» ; d’autre part, celle des anti-modernistes : «on n’a pas besoin d’être modernisé». Quant à lui, Ramadan 
n’opte ni pour l’une ni pour l’autre. Estimant le modèle de l’occidentalisation «discutable et sans doute erroné», il affirme qu’il faut le refuser 
pour proposer une autre modernité selon un autre modèle. De fait, d’après lui, aujourd’hui des musulmanes de plus en plus nombreuses désirent 
être «modernes sans être occidentales». Mises dans un cadre habituel du duel Occident-Islam, ces affirmations révèleraient le véritable «péril vert», 
mais, pour ceux qui se rappellent la situation du Japon tel qu’il avait fait l’objet d’horreur comme «péril jaune», la pensée de Ramadan serait 
plutôt familière : celle-ci est en forte résonnance avec un courant de nationalisme qui se continue depuis la seconde moitié du XIXe siècle au Japon. 
Face à la mondialisation de la modernité occidentale, ces deux pensées ne la refusent pas totalement, mais, en se fondant sur un autre principe, 
cherchent à construire un autre monde. On pourrait dire qu’elles convergent sur une sorte d’altermondialisme.

1. Émergence du «japonisme»
L’Occident auquel le Japon a fait face au XIXe siècle n’était plus celui avec lequel il avait entamé ses relations directes au XVIe siècle. Au cours 
de ces trois siècles, à la suite des trois révolutions (scientifique, industrielle et bourgeoise), l’Occident construisait une civilisation spéciale dans 
l’Histoire humaine en l’élargissant à l’échelle planétaire. Devant ce tsunami occidental, il se produisait deux forces opposées dans le Japon de l’ère 
Meiji comme dans d’autres régions non-occidentales. D’un côté, c’est celle qui appréciait les exploits de la civilisation occidentale, admettait son 
universalité et se proposait de faire un progrès en vue de l’Occident. Dans son Traité de la théorie de la civilisation, Yukichi Fukuzawa, représentatif 
de ce courant et figuré aujourd’hui sur le plus gros billet de yen, a expliqué les étapes du développement linéaire : «sauvage»-«demi-civilisé»-«civilisé», 
pour encourager le peuple japonais, qui demeurait à la seconde étape comme les Chinois et les Turcs, à avancer en vue de la civilisation occidentale 
située au plus haut degré. De l’autre, se formaient des courants qui s’opposaient contre un tel occidentalisme. Nous pouvons distinguer diverses 
tendances parmi ces forces de résistance. Certains traditionalistes anti-modernes visaient évidemment au retour aux sources. Mais ceux qui 
prenaient des attitudes complètement rétrogrades et xénophobes étaient plutôt minoritaires. Même la «Proclamation de la Restauration» adoptait 
en partie la modernité occidentale, quoi qu’elle se prononce littéralement pour le «retour au passé». En triant au tamis la civilisation occidentale, les 
courants principaux anti-occidentaux de l’ère Meiji en appelaient à la tradition nationale pour établir les bases du Japon. Ayant fondé un journal, 
dont le nom est d’ailleurs symbolique, Le Japon, Katsunan Kuga s’est fait un leader intellectuel de ces tendances dans les années 1880. Si Masao 
Maruyama appellerait plus tard ce courant «japonisme», Kuga lui-même l’a nommé «nationalisme». De toute manière, nous pouvons dire qu’à cette 
période-là, il s’est formé, face à l’Occident, le fond du nationalisme moderne du Japon, qui subsiste encore à présent, en passant par l’époque de la 
Seconde Guerre mondiale. 

     En général, tout nationalisme qui cherche à mobiliser largement le peuple n’est pas de structure complexe comme pensée, mais il est façonné en 
sorte qu’un petit nombre de valeurs ou d’images, simples mais ayant une grande force centripète, jouent un rôle déterminant, qu’elles soient 
positives ou négatives. L’image des Juifs dans le Mein Kampf d’Hitler en est un cas typique. Au Japon, une position avait été déjà prise à la période 
d’Edo, celle qui recherchait sa propre quintessence dans le domaine spirituel contre la supériorité matérielle de la civilisation occidentale, comme 
nous le rappellent les paroles précurseurs telles qu’«Orient éthique, Occident technique» de Syozan Sakuma et «le premier pays du monde en morale» 
de Syonan Yokoi. C’est dans cette orientation que Kuga a lancé son «japonisme». A l’époque où l’État Meiji instaurait un régime de monarchie 
constitutionnelle, il affirmait en substance : “Pour contribuer à la civilisation mondiale, les nations sont toutes dotées d’une mission par le Ciel et 
aussi d’une qualité propre formée au cours de l’histoire. Pour la nation japonaise, c’est la solidarité entre le monarque Tenno tout charitable pour 
tous et ses sujets tout loyaux. L’Occident avait inventé un régime constitutionnel, qui était d’ailleurs le plus avancé, mais c’est à la suite des 
conflits ou des guerres. Puisqu’il a réussi à créer ce régime en recourant à sa propre qualité nationale, le Japon se doit de s’imposer par ce rare 
exploit parmi les pays du monde.” Il est vrai qu’à la différence de «la théorie du dépassement de la modernité» de la seconde moitié du XXe siècle, la 
pensée nationaliste de Kuga ne cherche pas à situer le Japon au sommet de l’Histoire mondiale. Masao Maruyama a bien raison d’estimer que 
celle-là est remarquablement différente de celles fortement liées à la poursuite du fascisme de type japonais. Et pourtant, à voir en perspective 
toutes sortes de discours nationalistes au Japon, jusqu’à celui du livre Vers un beau pays de l’ex-premier ministre Shinzo Abe né après la Défaite 
de 1945, ce qui frappe d’abord, ce serait une continuité. Selon un sondage international récent, si les Japonais se font une image pacifiste 
d’eux-mêmes, les Chinois et les Coréens ont une opinion plutôt contraire de leur voisin. N’est-ce pas que les victimes de l’expansionnisme japonais 
ressentent ce qu’il y a d’inchangé dans la mentalité japonaise, malgré les changements dus à la Défaite et à l’Occupation américaine? En tout cas, 
le «japonisme» né dans les années 1880 constitue, me semble-t-il, une strate de fond de l’identité nationale vis-à-vis de l’Occident qui continue 
jusqu’à nos jours. En voici les traits caractéristiques :
1º Qu’on l’appelle «kokutai», «kokusui», «kunigara», la quintessence du Japon consiste dans le Tenno, censé prendre sa source dans les temps 
mythiques. Et la pérennité de sa lignée révèle une forte solidarité morale entre le monarque sacré et ses sujets toujours loyaux.
2º L’Occident est évidemment un leader de la modernité à suivre, mais son fort consiste plutôt dans le côté matériel et il est pour ainsi dire malade 
en matière sociale à cause d’un excès d’individualisme et de libéralisme. 
3º La mission du Japon est donc de briller par sa propre moralité dans le monde moderne, dont l’Occident occupe le centre, afin de le moraliser.
Cette strate de fond n’a cessé aussi bien de se faire alimenter par les croissances militaire et économique du pays que de les promouvoir, mais, 
même sans ces liens, elle aurait toujours subsisté. Car ce nationalisme japonais est avant tout l’affirmation d’une identité nationale braquée sur 
l’Occident et le deuxième trait mentionné ci-dessus, c’est-à-dire la prise de conscience d’avoir saisi le fort et le faible de la modernité occidentale, 
joue un rôle déterminant dans la structure de l’identité. Cela est d’autant plus clair chez Kuga que la Guerre russo-japonaise n’a pas eu lieu et 
que les traités inégaux conclus avec les pays occidentaux n’ont pas encore été abolis. Comme on le sait très bien, les mouvements en lutte pour la 
liberté et les droits civiques à l’ère Meiji s’appuyaient sur la Révolution française et sur les Lumières, tandis que, et c’est un fait peu connu, les 
connaissances de la pensée contre-révolutionnaire européenne se répandaient aussi, surtout parmi la classe dirigeante. Ayant appris le français à 
l’École du droit attachée au Ministère de la Justice, Kuga travaillait sur des œuvres de Joseph de Maistre, homme politique savoisien, et il a traduit 
son Étude sur la souveraineté. Quand on compare en détails l’œuvre français de Maistre, la traduction japonaise de Kuga et ses propres articles 
postérieurs, on ne pourrait pas douter que le «japonisme» de Kuga repose solidement sur la pensée maistrienne, contrairement à ses apparences 
traditionalistes. Bon lecteur de Rousseau, de Maistre éprouvait de la sympathie envers la Révolution du pays voisin dans un premier temps, mais 
il s’est converti face au fait qu’elle produisait plus de mal qu’elle voulait y remédier. C’est ainsi que de Maistre accuse les dirigeants de la 
Révolution et les philosophes, leurs maîtres à penser, d’avoir détruit la solidarité humaine en sacralisant la «raison individuelle» et qu’il en vient à 
affirmer que c’est en se fondant sur sa «raison nationale» soutenue par Dieu et sa propre histoire que chaque nation parvient à reconstruire une 
union ferme. Ayant apprécié profondément la pensée anti-moderne de Maistre par l’intermédiaire du confucianisme, en particulier des idées de «Ciel» 
et de «nature» dans la Doctrine du Milieu, Kuga proclame la «mission octroyée par le Ciel» au Japon : «Qu’il soit un pays de vertu dans le monde.»

2. Le dénominateur commun des critiques de la modernité occidentale
De Maistre et Kuga appartiennent évidemment à des traditions culturelles tout-à-fait différentes, encore plus en matière de religion. Mais, comme 
nous l’avons vu, ils partagent la position qui résiste à la modernité occidentale. Il me semble que le nationalisme japonais tout entier ainsi que 
l’islamisme de Tariq Ramadan peuvent se rejoindre dans cette position de résistance.
Pour bien se démarquer d’une idée directrice du Contrat social : «L’homme est né libre, et partout il est dans les fers», de Maistre écrit : 

L’homme est libre sans doute ; l’homme peut se tromper, mais pas assez pour déranger les plans généraux. Nous sommes tous attachés au trône 
de l’Éternel par une chaîne souple qui accorde l’automatie des agents libres avec la suprématie divine.

Pour ceux qui s’emploient à la faire avancer, la modernisation occidentale est un processus dans lequel les chaînes ligotant les hommes se tranchent 
les unes les autres pour que se réalise une société où des individus égaux déploient leurs activités libres. Et pourtant, au bout de ce processus, on a 
vu naître au sein de l’Europe du XXe siècle des régimes totalitaires qui étaient à l’opposé de cet idéal. C’est ainsi que certains intellectuels, tel Erich 
Fromm, parviennent à bien saisir l’ambiguité des chaînes et à affirmer que la modernisation serait un processus d’ambiguïté qui libère les individus 
en coupant les liens sacrés et profanes, mais, en même temps, qui isole les hommes pour les laisser tomber dans l’inquiétude et dans l’insécurité. 
Plus tôt, Lafcadio Hearn, irlandais et né en Grèce, avait compris lui aussi l’ambiguïté des chaînes après avoir vécu le rôle d’un chef de famille 
patriarcale à l’ère Meiji. En réfutant la pensée de Herbert Spencer, libéraliste ferme et inventeur d’un évolutionnisme social, il écrit sur le régime 
féodal des Tokugawa :

It was in no sense a reign of terror that compelled peace and encouraged industry for two hundred and fifty years. Though the national civilization 
was restrained, pruned, clipped in a thousand ways, il was at the same time cultivated, refined, and strengthened. The long peace established 
throughout the Empire what had never before existed, -a universal feeling of security. The individual was bound more than ever by law and 
custom ; but he was also protected : he could move without anxiety to the length of his chains. 

Ces «chains» ne sont pas «les fers» du Contrat social, mais une «chaîne souple» de Maistre, qui serait une source profonde de la sécurité et de la 
liberté.
Or, si la laïcisation ou la désacralisation, déclenchée surtout par la révolution scientifique, constitue un des processus principaux de la modernité 
occidentale, nous y rencontrons souvent des cas où l’on cherche à sa manière un lien avec une dimension transcendante. Il ne manque ni à la 
Déclaration de l’indépendance des Etats-Unis, ni à la Déclaration des droits de l’homme de France, lesquelles sont les symboles de la modernité 
occidentale, de références à l’Absolu. Et, lors de l’introduction de ces pensées universalistes au Japon, on a invoqué le principe sacré de la 
conception traditionnelle du monde, le «Ten (Ciel)». La première phrase de l’Encouragement à l’étude de Yukichi Fukuzawa, un best-seller des 
premières années de l’ère Meiji, est : «Il est dit que le Ciel ne crée un homme ni au-dessus ni au-dessous d’un autre.» Cela vient d’une traduction 
libre de la Déclaration de l’indépendance des Etats-Unis. C’est justement le principe traditionnel «Ten» qui remplace l’Absolu chrétien. Il en est de 
même pour la traduction du Self-help de Samuel Smiles qui a fait aussi un grand succès : Masanao Nakamura a traduit «Heaven helps those who 
help themselves» en utilisant le mot «Ten». A l’ère Meiji, un grand tournant de l’Histoire, on n’a cessé de recourir à ce «Ten», qui encourageait les 
Japonais à se convertir à une nouvelle forme de vie.

Nous pouvons certes constater de multiples cas qui témoignent des références faites aux dimensions sacrées aux Temps modernes. Mais n’y a-t-il 
vraiment rien de changé? Si le livre de Samuel Smiles, Self-help, a fait un grand succès en Grande Bretagne du XIXe siècle, ce serait justement que 
le «Ciel» encourageait des individus s’inquiétant de leur futur à faire des efforts dans une société nouvelle, à savoir capitaliste. Max Weber aurait 
bien raison d’avoir trouvé une causalité entre l’éthique protestante et l'esprit du capitalisme, mais, les deux ainsi liés, Dieu est-il tel qu’il était? 
N’est-il pas devenu pour ainsi dire une assurance conclue à titre individuel ayant pour but d’effacer une inquiétude croissant sans cesse chez des 
individus qui étaient forcés de se lancer dans les concurrences débridées de la société moderne? Ne pourrait-on pas en dire même la mort de Dieu? 

C’est surtout quand on tient compte de la relation Dieu-hommes dans l’islam, présentée par Tariq Ramadan comme principe d’une autre modernité 
que celle réalisée selon le modèle occidental, qu’on est invité à cette réflexion : 

Les mots du Prophète : «Certes Dieu vient en aide au serviteur dans la mesure où ce serviteur vient en aide à son frère.» résonnent avec une force 
particulière dans le cœur des musulmans, pratiquants ou non, et sont à même de mettre en branle des dynamiques solidaires qu’aucun programme 
de développement ne pourrait espérer. Il faut cesser d’y voir de la manipulation politicienne ou populiste : il s’agit là de l’enseignement fondamental 
de l’islam et le «réveil» dont on parle tant aujourd’hui est avant tout, et très majoritairement, le réveil de «l’islam social» qui fait si peur aux 
pouvoirs. Faire référence à l’Islam, c’est d’abord appeler à plus d’humanité et de fraternité.

Ce «Dieu» n’aiderait pas les individus qui, inquiets ou stoïques, se donnent à poursuivre leurs intérêts personnels sous prétexte de suivre le principe 
de concurrence. Tariq Ramadan appelle à vivre une solidarité éhique basée sur la dimension sacrée de l’islam, en refusant une culture de la jungle 
que présente une modernité occidentale.

Le «japonisme» et ce que Ramadan appelle «résistances musulmanes» reposent évidemment sur des principes différents. Mais, que l’un ait recours à 
la tradition nationale et l’autre au Dieu universaliste, ils convergent sur la critique des méfaits de l’individualisme moderne. Pour remédier à une 
solidarité humaine détruite, ils cherchent l’un et l’autre à réhabiliter une moralité liée à leur propre dimension sacrée. Dans cette mesure, qu’ils soient 
monothéistes ou polythéistes, cela importe peu.
 
3. Question des différences internes
Et pourtant, fonder son identité sur sa propre religion ou sur sa propre tradition nationale, est-ce légitime sans condition? Les religions et les 
nationalismes risqueraient de séparer les hommes, même si on hésite à y ajouter comme le fait Albert Memmi «par essence». De plus, ils 
représenteraient les autres même comme «périls» ou ennemis. Il ne manque pas de preuves dans l’Histoire, surtout quand on porte son regard vers 
des minorités internes. Bien qu’il soit un des rares Juifs ayant participé aux luttes pour l’indépendance de la Tunisie, Memmi a été exclu au cours de 
l’islamisation ou de l’arabisation de son nouveau pays. Il en est de même du «japonisme». Il n’arrive pas facilement à contenir des éléments 
différents. Dans les années 1930 où se multipliaient des immigrants en provenance de la péninsule coréenne à la suite de l’annexion, le gouvernement 
japonais avait poursuivi une politique d’assimilation forcée, en engageant un réseau de police, dont le but était de fabriquer de manière sommaire 
des sujets fidèles au Tenno. À présent, le Ministère des Affaires internes et des Communications mène une politique de «la symbiose multiculturelle» 
face à la mondialisation. Normalement, «la symbiose multiculturelle» serait en contradiction avec le «japonisme» tel que nous l’avons vu. Il est vrai 
que le programme ne mentionne pas le «japonisme». À la différence du Contrat d’accueil et d’intégration de la France qui précise avant tout les 
principes de l’État à tous ceux qui veulent s’y installer, la politique multiculturelle du Japon ne présente rien de ce genre. Que signifie ce silence? 
C’est avant tout aux Coréens résidents qu’une politique multiculturelle devrait viser tant sur le plan du nombre des habitants que sur le plan des 
problèmes dus à la colonisation. Mais ceux-là sont mis à l’écart. La politique multiculturelle menée à présent n’est donc qu’une politique d’aide 
destinée aux étrangers qui ne parlent pas japonais. Même si ce genre de «symbiose multiculturelle» se déploie largement, le «japonisme» resterait 
intact. Il continuerait à constituer la strate de fond de la mentalité japonaise, qui servirait à produire les «autres» et à les exclure. 

S’appliquer à appartenir à un soi collectif, que ce soit une religion ou une tradition nationale, cela risquerait de causer de nouveau le refus des autres 
et les injustices que l’on a justement voulu résoudre. Le principe de la pluralité et le relativisme culturel, invoqués souvent par Ramadan ou certains 
nationalistes japonais, pour se protéger contre la mondialisation actuelle, suffiraient-ils à permettre de résoudre les problèmes que leur posent leurs 
différences internes ? 

De toute façon, des protestations s’élèvent en Occident aussi bien qu’ailleurs contre l’universalité et la légitimité de la modernité occidentale. Il est 
dommage que ces mouvements soient catégoriquement niés pour la raison qu’ils ne s’estiment qu’eux-mêmes ou qu’ils se replient sur eux-mêmes. 
Car, comme nous l’avons vu, il est possible de trouver un terrain d’entente mutuelle, même entre l’islamisme et le «japonisme» qui ne partagent 
pas la tradition culturelle, pour chercher une alternative au monde. Ce serait quand même un espoir.
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棚沢 直子

グローバル化時代の国家アイデンティティ ―日仏比較―

はじめに
およそアイデンティティの必要性は、対外的なものを強く意識したときに生まれてくる。現代のように、さまざまな分野が地球規模で瞬時のうちにグローバル
化していく時代には、国家アイデンティティなるものを、あらためて考えてみるのも悪くないかもしれない。
国家アイデンティティの形成・再形成は、歴史の記憶から引き出されてくる。日本での国家アイデンティティ形成は、江戸後期からの国学とくに水戸学を発信
地にして、1868年以降の明治期から国家の一大事となった。アイデンティティなる語は当時の語彙になかったから、大正、昭和期を経るうちに「国体の明徴
」という言い方でその必要性が表現されていく。フランスでは18世紀の啓蒙思想を発信地にして、大革命以後の共和国形成期に、そのアイデンティティをめ
ぐって論議されることになる。ただし、フランスでは現在でも国家アイデンティティなる語はあまり使用されず、その代わりに、共和国が重視する「精神的価
値」(valeurs morales)という言い方をする。

ここでは、フランスの場合1789年以後から、日本の場合1868年以後から、国家アイデンティティの形成を超スピードで概観し、現代におけるその風化をみつ
めながら、それぞれの問題点を探りたい。

I.フランスの近現代史
フランスでは1789年革命勃発の年に、「人間と市民の諸権利宣言」いわゆる人権宣言が発せられた。第一条の「人間は、生まれながらに自由で互いに平
等である権利を有する」は、カトリック教会と連携したそれまでの絶対君主政から抜け出すために謳われた。この宣言は、19‐20世紀のナポレオン帝政、
王政復古、七月王政、第二帝政、ヴィシー政府などの紆余曲折を経て、21世紀までフランス共和国の「精神的価値」として生命を保っている。確認すべき
第一点:フランス共和国の「精神的価値」たる「自由」と「平等」は、カトリック教会と政教分離する方向で選ばれた。

このふたつに加えて三番目の「精神的価値」を何にするか。革命初期には、「所有」(propriété所有する権利)や「安全」(sûreté安全と健康が保障される権
利)なども「フラテルニテ」とともに候補に挙がった。「所有」はこの革命がブルジョワ革命である所以を示しており、「安全」はそれでもブルジョワだけでなく
フランス人民すべてを救済する生存権にも関わるとされる。結局は、1848年の憲法の前文に「フラテルニテ」(fraternité仮に「兄弟愛」と訳すが後述)が明
記されて、ようやく共和国の三つの標語として定着する(1)。現行憲法の前文にもこれら三つが記載され、現大統領の就任演説でもこれらの標語が掲げら
れている。確認すべき第二点:フランスの国家アイデンティティの基本をなす「精神的価値」は、現在まで「自由・平等・フラテルニテ」である。

なぜ三番目の標語が「フラテルニテ」になったのか。さまざまな理由があるが、ここでは「自由」と「平等」が両立しがたいという発想から考えてみる。同じ民
主主義でも「自由」が第一で「平等」は二の次であるイギリスやアメリカとちがって、フランスは共和政の出発点で「自由」と「平等」を並んで掲げた。ところ
で、個人が自由を追求すれば格差が生まれ不平等になるのは避けられない。この両立しがたい「自由」と「平等」を同時に成立させるために「フラテルニ
テ」が必要となったのである。

では「フラテルニテ」の正確な意味は何なのか。もともとはラテン語fraternitas「兄弟などの家族内の関係」が語源であり、やがて「キリスト教徒同士の関
係」、さらに1769年には「武器を取ってともに闘う仲間の絆」の意が加わる。つまり「フラテルニテ」の含意には、1)女が排除された関係、2)異教者・異端者
を排除したキリスト教徒同士の関係、3)敵味方に分かれて闘う味方意識、などがある。要するに、排除する者たちが大勢いてようやく成立する少数派の
仲間意識と考えてよい。事実、革命期では革命に賛同する仲間の絆であり、ブルジョワ支配が定まったときにはエリート同士関係を成立させるのが「フラ
テルニテ」というわけである(2)。

ところが、産業革命が進展する19世紀半ばに普通選挙権が男性すべてに与えられ、「フラテルニテ」の仲間は労働者も含め人民へと広がっていく。19世
紀後半には、ヴィクトリア朝のイギリスからの影響もあり、ブルジョワ支配階級の女たちが貧苦にあえぐ人民の慈善活動を始める。こうして「フラテルニテ」
には「philanthropie慈善、博愛」的ニュアンスも含まれ始めた。しかし、さすが「平等」を標語としたフランス。階級格差を保持するために行うような慈善的
・博愛的「フラテルニテ」の意味は長続きせず、やがて「相互の連帯solidarité mutuelle」のニュアンスに戻っていく。1945年に女に選挙権が与えられ、「フ
ラテルニテ」の仲間に女たちが加えられた。確認すべき第三点:「フラテルニテ」は、19-20世紀に意味内容の変遷をたどったが、あくまでも「相互」の仲間
意識という含意を保持したままで現在に至っている。

ついでに翻訳について言えば、「博愛」の含意があった時期に日本が開国したせいで、「フラテルニテ」を「博愛」と訳し、フランス共和国の標語は「自由・
平等・博愛」だとして現在に至ってしまった。「フラテルニテ」が少数派の仲間意識の意から出発したことを思えば、万人向けの「博愛」ひいては「人類愛」な
どの訳は正確ではない。「フラテルニテ」の訳語は現在でも「兄弟同士関係」「兄弟愛」せめて「友愛」ぐらいが妥当だろう(3)。しかも、フランス語では兄と
弟の区別はなくあくまでも平等である。

II.日本の近現代史
フランス革命から約80年後に日本近代が始まった。当時の国際状況といえば、ペリーが戦闘態勢をとって開国を強要したように、西欧はすでに帝国主義
・植民地主義の時代に突入していた。まだ金銀その他を産出していた日本が植民地として狙われないように、明治初期には西欧に追いつくための文明化
つまり西欧化が急務になる。しかし、西欧化といってもフランスと同じ道を歩んだのだはない。1789年以後のフランスと次の二点でちがった。第一点。日
本近代は民主政でなく立憲君主政から出発したこと。当然、国家アイデンティティは天皇制に関わる。第二点。政教分離の方向を模索したフランスとちが
って、天皇自身が現人神とされたこと。大日本帝国憲法(1889年)には「天皇は神聖にして犯すべからず」と明記された。天皇制を単なる政治制度だと捉
える研究者もいるが、国民に対して政府が天皇制を宗教として強要したのは明白である。確認すべき第一点:日本近代は現人神たる天皇を国家アイデン
ティティ形成の基礎にした。

1894-95年の日清戦争、1904-05年の日露戦争、1914-18年の第一次大戦と続くうちに、国家アイデンティティ形成への拍車がかかる。1931―45年の十五
年戦争へ向けて国民統合が叫ばれ始める。「国体」の語は、江戸後期の水戸学がすでに使用していたが、1935年に文部大臣ならびに内閣が「国体明徴」
の訓令や声明を出し、以後日本近代の国家アイデンティティは「国体」の語で表現されていく。

「国体」とは「国の成り立ち」とか「お国がら」のことである。その意味内容には、日本近代の宿命だった西欧化とこれと一見対立する古代回帰とが奇妙なか
たちで詰め込まれた。まず天皇が神孫たる根拠として古代からアマテラスという太陽神・皇祖神が呼び出される。日本古代には八百万の神がいたはず
なのに、アマテラスが西欧的な唯一神に仕立て上げられる。そして、この性別が不明確なアマテラスは天皇の父母であるとし、これを範にするように天皇
と国民の君臣関係を親子で表現したのである。これが古代から不変とされた万世一系の天皇制なる「世界無比の国体」の要だった。確認すべき第二点:
日本近代が行き着いた国家アイデンティティの要は、アマテラス-天皇の親子関係ならびに天皇-国民の君臣関係にあった。

そうした日本近代が重視する国民統合のための「精神的価値」は何だったのか。日本の場合には「精神的価値」より「道徳的価値」の表現の方が適確であ
る。文部省思想局が1937年に発行した公定本『国体の本義』(参考文献(6))から拾えば、「君臣一体」つまり「上下一如」や「忠孝一本」あたりだろうか。今
でも政府は「国民一丸となって」などとけしかけるではないか。

1945年の敗戦後、民主政になった日本はこれまで述べてきた国家アイデンティティのすべてを失った。天皇は日本国の単なる「象徴」と現行憲法で規定
された。アマテラスと天皇が親子関係だとされたことなど、現在の日本人はほとんど知らない。そもそも性別が不明確だがどちらかと言えば女とされるア
マテラスの存在など、大部分の日本人は気にしていない。どれほど無理して、日本近代が、後進国の自覚から、国民統合とアジア侵略のために、国家ア
イデンティティをつくり上げたか、今となってはよくわかる。現政府やその周辺がどう動こうとも、現在の日本に国家アイデンティティに関わる「道徳的価値」
は公式には何もない。確認すべき第三点:日本近代がつくり上げた国家アイデンティティは現在では消滅し、国家が重視する「道徳的価値」は公式には存
在しない。

おわりに
地球規模で加速していくグローバル化の時代にあって、国家アイデンティティの問題は風化している。とくに日本では、「西欧も日本もみな同じ」であり先進
諸国は均一化していくと考えることが多い。こうしたポスト国家アイデンティティの時代ではあっても、フランスと日本が抱えている国家の「精神的価値」に
関わる問題にはちがいがあると思う。それぞれの問題点を探ってみる。

フランスは日本のようにグローバル化に直接的に向き合ってはいない。欧州統合がある。現政府は、さまざまな分野で欧州の諸基準と国内基準とをすり
合わせ、フランスのとるべき道を探っている。欧州統合内の一国家としてフランスはグローバル化に対応している。
しかし、これまで述べてきたフランス共和国が重視する「自由・平等」について言えば、話はちがう。これらの「精神的価値」は、1789年の出発のときから、
フランスの国家アイデンティティやヨーロッパ内部にとどまらずに、世界中に伝播すべき普遍的価値valeurs universellesであると定められた。フランスの
植民地主義は、未開国に「自由・平等」を伝播するという目的で、正当化された。2001年に出版された書物で思想家デリダは次のように述べた。「ヨーロッ
パから継承できるのは精神的価値の全体(…)だけではない。非ヨーロッパは(…)ヨーロッパ中心主義に対して(…)強力な異議を展開しているが、(…)帝
国主義や植民地主義のやり方をはるかに越えたところで、ヨーロッパ化されるがままになっている」(参考文献(4)p.19、(7)p.289)と。彼はヨーロッパに異
議を唱えるやり方まで非ヨーロッパがヨーロッパに学んでいると言う。デリダにとって文化の流れは西欧から非西欧への一方通行であり、西欧が非西欧
の諸文化を学ぶ必要はないのだ(4)。ここには西欧の「自由・平等」だけでなく西欧の自己批判までも世界に向けて発信するからこそ、それと表裏一体を
なすように、非西欧に学ぶことはないとする自己充足的な「排除の思想」がある。

こうした彼の態度は三番目の精神的価値「フラテルニテ」の意味内容に関わると思われる。繰り返すが、「フラテルニテ」はすでに「自由・平等」を保持する
仲間同士の絆であって、たとえば被植民者はその仲間でなかったことはホーチミンが「ヴェトナム独立宣言」に記載したとおりである。現在のフランスでも
移民などの「排除された者たちles exclus」が国内問題になっている。ましてや、国外に「フラテルニテ」意識を広げることは、フランスにとってなかなか難
しい(5)。

日本近代の国家アイデンティティは、一国家だけに関わる天皇制を基礎にして形成された。フランスのように世界に向けて植民地主義を正当化する論理
はなく、アジア侵略は「同一血族・同一精神」(参考文献(5)p.41)の名目で行われた。あるいは「人種が同じだから」と言って正当化した秘密裡の会合も戦
中にあった(同p.62)。
現在の日本に世界に向けて発信できる「精神的価値」はあるだろうか。ある研究者は、非核保有国の自負と憲法9条に見られる「平和のうちに生存する権
利」(参考文献(10)p.83)とが、世界に向けて日本から発信できるものだと言っている。たしかに、これら以外に世界に働きかけられるものはないかもしれ
ない。これらを「精神的価値」として練り上げていくことが必要だろう。

注:
(1)第二次大戦時の親独ヴィシー政権は、これらに代えて「祖国・家族・労働」を標語としたが、それでも「政府支配のもとで」という条件つきで「自由・平
等・フラテルニテ」はいつの日か到達すべき理想とした。ただし、ナチス占領下の正式国名は、単なる「フランス国」(普通選挙なし)であって、共和国では
ない。
(2)「ニーチェによれば、「法は男女関係を解決するために制定されたのではなかった」、そうではなく「強者たちが互いに尊重し合うのを守り、彼らが死闘
をしないようにそれぞれ権力の一部を放棄させるためにあった」、(…)法とは、強者・弱者の関係でなく、むしろまさに強者同士の、兄弟同士の関係を解決
するものなのだ。」(参考文献(8)、p.20.)。原文は:《…selon Nietzsche, « le droit n’a pas été établi pour régler les rapports entre les sexes” mais “
pour sauvegarder le respect réciproque des forts entre eux et évieter, en leur faisant renoncer à une partie de leur puissance, qu’ils ne se fassent
 une guerre à mort.”…le droit ne régule pas les rapports entre les forts et les faibles mais bien plutôt les rapports des forts entre eux―les rapports 
des frères.》(Françoise Collin, “L’impossible diététique”, Sarah Kohman, Les Cahiers du Grif 3, printemps 1997, Descartes & Cie, Paris, p.14)
(3)「フラテルニテ」を「友愛」と訳す流れも戦前から日本にある。これは宗教的・非宗教的な団体(たとえばフリー・メイソン)を指す語として英語fraternityか
らきており、友愛会などを設立したりする。この流れは20世紀に英語からフランスへ逆輸入された(『ロベール・フランス語歴史辞典』参照)。
(4)原文は以下のとおり。《 En conséquence, l’héritage européen n’est pas un ensemble de valeurs, de biens spirituels, un héritage de richesses 
mobilières ou immobilières. Ce serait plutôt un potentiel inépuisable de crise et de déconstruction. Il est difficile aujourd’hui, pour cette raison même, 
pour cette double raison de la raison qui a raison d’elle-même, de penser les rapports entre l’Europe et ses autres, les “aires culturelles” non 
européennes. Celles-ci, tout en développant une puissante et irrécusable contestation de l’eurocentrisme, sont en train de se laisser européaniser 
bien au-delà des formes impérialistes ou colonialistes que nous connaissons. Nous assistons donc, nous participons, que nous le voilions ou non, à 
ce double mouvement: mondialisation de l’européanité et contestation de l’eurocentrisme. Que nous soyons européens ou non, nous avons à penser 
cette double solicitation. 》(参考文献(7)p.289) 
(5)現大統領が「国境なき医師団」の創立者を外務大臣にしたことは「フラテルニテ」を国外にも広げる表明だとも解釈できる。しかし、同じ大統領が2007
年7月26日にアフリカのChelkh Anta Diop de Dakar大学で「アフリカの問題はいまだに子ども時代の失楽園へのノスタルジー的な中に生きていることだ。
アフリカはまだ世界史の入り口にしかいない」という主旨の演説した(参考文献(2)p.32)。「フラテルニテ」の仲間に入れてアゲルから早く文明人になれと
アフリカの若者たちを激励したらしい。どこまでも無理解で傲慢だとカメルーンの知識人Achille Mbembeがこの演説をコメントしている。cf. «Je suis venu 
vous dire que la part d’Europe qui est en vous est le fruit d’un grand péché d’orgueil de l’Occident, mais que cette part d’Europe en vous n’est 
pas indigne. Car elle est l’appel de la liberté, de l’emancipation et de la justice et de l’égalité entre les femmes et les hommes. Car elle est l’appel 
à la raison et à la conscience universelles. Le drame d’Afrique, c’est que l’homme africain n’est pas assez entré dans l’Histoire. (…) Le probleme
 de l’Afrique, c’est qu’elle vit trop le présent dans la nostalgie du paradis perdu de l’enfance. »(Extrait du discours). 〝Ce que nous comprenons 
en somme sous le nom d’Afrique, c’est un monde anhistorique non développé, entièrement prisonnier de l’esprit naturel et dont la place se trouve 
encore au seuil de l’histoire unverselle. “ (extrait du texte d’Achille Mbembe).
   
参考文献:
(1)Ozouf, Mona 1993,“ Liberté, Égalité, Fraternité”, Pierre Nora (sous la direction 
de ), Les Lieux de Mémoire, III. Les France, 3. De l’archive à l’emblème, Gallimard, Paris, 3 vol, pp.583-629
(2)Courrier international 2007, no.878 du 30 août au 5 septembre
(3)関口すみ子2007『国民道徳とジェンダー』東京大学出版会
(4)棚沢直子2004「新しい日仏比較方法を求めて:デリダとルディネスコの対話から」『女性空間』日仏女性資料センター(日仏女性研究学会)第21号
pp.18-21
(5)棚沢直子2006「《フラテルニテfraternité》―翻訳の問題から「比較思想」の研究へ―(その1)」『東洋大学人間科学総合研究所紀要』第5号pp94-100
(6)棚沢直子2007「『国体の本義』読解―西洋の世界性・日本の特殊性―」『フランスから見る日本ジェンダー史』(棚沢直子他編) 新曜社pp.36-64
(7)Jacques Derrida, Elisabeth Roudinesco 2001, De quoi demain…Dialogue, Fayard/Galilée, Paris
(8)F.コラン2005「ほどよい食事は無理」『サラ・コフマン讃』(棚沢直子他訳)未知谷pp.16-40
(9)Furet/Ozouf 1992, Dictionnaire critique de la révolution française, ChampsFlammarion (2007参照), Paris, 5 vol (F.フュレ、M.オズーフ『フランス革
命事典』(河野健二他監訳)みすず書房 1998-2000年、全7巻)
(10)渡辺洋三1999『世界及び日本の情勢と民衆の視点』日本評論社
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辻山 ゆき子

本報告では、グローバリゼーションの影響を強くうけた1990年代以降の在日コリアンの状況の変化に注目し、日本社会の在日コリアンの統合について考えた
いと思います。在日コリアンとは、1910年以降の日本による朝鮮半島の植民地化の時代に朝鮮半島から日本に渡ってきた人々とその子孫で、いまも日本を
根拠地とする人々を指します。

多くの在日コリアンは、日本国籍を持っていません。日本の国籍法は血統主義にもとづいているからです。さらに帰化は、日本社会への同化とみなされてき
たので、在日コリアンのコミュニティの規範では長い間さけるべきものと考えられてきました。帰化者は、民族的出自を否定したものとされ、在日コリアンのコミ
ュニティとの関係が疎遠になり、一方でほんとうの日本人とは扱われずに社会的に差別されると、考えられてきました。在日コリアンは、植民地時代は日本
国籍を持っていましたが、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効と同時に、日本政府はそれを一方的に無効とした、という歴史があります。

ところで、現在の在日コリアンのおかれた状況は、1990年代以降におおきな変化がありました。
ひとつの変化は、在日外国人人口の増加、出身国の多様化によって、在日コリアンの外国人人口にしめる重要性が相対的に減少しました。以前は、在日外
国人問題とは、在日コリアンのことでしたが、今はそうではありません。これは、グローバリゼーションを背景とするものです。 1986年から2005年の20年間
に、日本の外国人の総人口は2倍以上になりました。約87万人から201万人に増加しています。しかし、この20年間に韓国・朝鮮人の人口は約68万人から約
60万人にまで減少しました。1986年、在日コリアンの外国人人口全体にたいする割合は、78.2パーセントでしたが、2005年には、29.8パーセントにまで減少
しました。増加した外国人は、中国人とブラジル人です。ブラジル人の場合は、「出入国管理および難民認定法」(入管法)が、1990年に改正されて以降、日
系2世なら「日本人の配偶者等」という在留資格を取得することができるようになりました。この資格があれば、たいていの場合3年間の在留資格が取得でき
ます。実質的には、合法的に就労できるように設けられた資格で、この改正によって、在日ブラジル人の人口が急増しました。これは安価な外国人労働力
を必要とする経済の要請によって行われたといわれています。

さらに、在日コリアンの国籍や在留資格のありかたが、大きくかわり、帰化者が増加しました。1985年の日本の国籍法の改正によって、父母の一方が日本人
の場合、子どもは日本国籍を認められるようになりました。それ以前は、父親が日本人の場合に限り、日本国籍でした。在留資格も1991年にすべての在日
コリアンに「特別永住」が認められるようになり、以前と比べると安定したものになりました。このことは、帰化の増加を促し、1985年には年間約5000件だった
帰化が、1995年以降、年間平均10000件を超えています。

もうひとつの変化は、かれらの反差別解放運動や、アイデンティティのあり方の変化です。 
帰国せずに日本で生きることを前提とした、在日コリアンの反差別解放運動が始まったのは、1970年代からです。1970年の日立就職差別をめぐる裁判が
最初の大きな事件でした。さらに1980年代は、指紋押捺拒否の運動が、全国的な盛り上がりを見せました。14歳以上(時代がくだってからは16才以上)の
外国人は、外国人登録のさいに指紋押捺が行われていました。指紋押捺拒否の運動は他の外国人のあいだにも多くの運動参加者が現れ、ついに1989年
に外国人登録のさいの指紋押捺は廃止されました。

こうした運動を進めた2世の人々は、民族的な出自を強く意識しているひとが多いです。多くは、1940年代、50年代生まれの人々です。コリア語を話せず、
朝鮮の文化をしらず、韓国の民主化の行われた1980年代までは、あまり故国へいったことがありません。それにもかかわらず、その民族的な出自を強く意
識し、エスニックアイデンティティをもっているのは、日本社会の差別によるものでした。かれらは、民族的相違を主張しながら、日本人との平等を同時に求
めていました。かれらの運動は、また、雇用差別の是正、たとえば公務員の国籍条項の撤廃などについても全国的に繰り広げられました。1990年代からは
、外国人地方参政権をもとめる動きも強くなりました。

反差別解放運動における在日コリアンの人々のアイデンティティの主張にかんして、ひとつつけくわえておきたいことがあります。それは、通名の問題です。
これは1940年、植民地時代の創氏改名にさかのぼりますが、現在でも、雇用契約、学籍簿、銀行通帳などの公的な書類で使用が認められ、大多数の人々
が日常的に使用しています。しかし、いま述べた反差別解放運動に参加した人々の大半は、自分たちの民族名をなのりはじめました。これは、在日コリアン
のエスニックアイデンティティの主張に他ありません。

1990年代の後半、在日コリアンの反差別解放運動は、大きな転機を迎えました。それまで、おおきな力をもっていた全国組織「民族差別と闘う連絡協議会
(民闘連)」が、ばらばらになってしまいました。民闘連は地域で活動する在日コリアンの団体、多くは日本社会における生き方を模索し、差別の撤廃をもと
める団体の緩やかな結びつきの全国組織でした。この組織が力を失った後、あとを引き継ぐ大きな団体はありません。

1990年代以降、反差別解放運動の性格も大きく変りました。この背景には、担い手が2世から3世へと代替わりしたことと、先に述べた状況の変化がありま
す。地域の在日コリアンの諸団体は、社会的差別の撤廃を求める活動だけではなく、音楽、舞踊、言語などの文化を通して、アイデンティティを発見する活
動に重点をおくようになりました。また、このような団体は他の在日外国人の問題にも関心をひろげています。たとえば、川崎の「ふれあい館」では、フィリピ
ンの子どもたちがエスニックアイデンティティを維持できるように、かれらの活動の場を提供し、援助しています。さらに、市民団体「ワンコリアフェスティバル
」のように、在日の枠を越えて、東アジアにおけるコリアンネットワークの形成をめざす動きが現れる一方で、「在日コリアンの国籍取得権確立協議会」のよ
うに、多文化多民族化してゆく日本社会内でのコリア系日本人としての生き方の模索も大きな力を持つようになっています。

最後に、日本社会の統合、同化のあり方についてひとこと述べてわたしの報告を終えたいと思います。在日コリアンへの日本社会への統合は、血統にもと
づく日本民族への同化によって行われてきました。在日コリアンは、出自の民族的相違を捨象し、(擬似的な)共通の血統にもとづく日本人へ、同化するこ
とを求められてきました。この報告で紹介した在日コリアンの反差別解放運動は、こうした日本人への同化の強制を差別として拒否するものでした。これは
、1990年代の大きな変化にもかかわらず、ひき続いてみられる特徴でした。

しかし、このような日本社会の統合の血統主義は、現在急増する他の外国人の統合にもみられます。たとえば、日本人との血のつながりを重視し、日系2
世にのみ特別な資格をみとめて単純労働の就労を可能にする1990年の入管法改正などはそのよい例です。このような血統主義にもとづく日本社会の統
合は、差別的なものではないでしょうか。外国人を外国人としてみとめることの重要性を、在日コリアンの日本社会での歴史から読み取るべきではないか
ということを指摘して報告を終えたいと思います。
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Yukiko Tsujiyama

Changement de la situation des résidents coréens
au Japon, dans les années 90

Introduction 
Nous allons nous intéresser ici au changement de la situation des résidents coréens au Japon, depuis la seconde moitié des années 90. Les résidents 
coréens sont appelés au Japon « Zainichi coréen ». Ce terme désigne les résidents d’origine coréenne qui vivent au Japon et qui, ou dont les ancêtres, 
furent expatriés de Corée vers le Japon lors de la colonisation de celle-ci par le Japon en 1910 . Ces personnes vivent toujours au Japon.

La situation, l’identité culturelle et les mouvements sociaux anti-discriminatoires des zainichi coréens ont subi des modifications à partir des années 
90. Pour expliquer cela on peut avancer deux explications :
--Une augmentation du nombre d’étrangers vivant au Japon ainsi qu’une diversification de leurs nationalités, ceci pouvant être expliqué par le 
phénomène de mondialisation.
--Le changement de nature des discriminations envers les zainichi. Par exemple, aujourd’hui, ils ne sont plus victimes d’actes racistes aussi durs 
qu’avant.
Les groupes ethniques, comme dans le cas des « Zainichi coréen », sont composés d’une population de personnes dont les membres s’identifient 
entre-eux sur la base de caractères ethniques, d’une généalogie ou d’une ascendance commune présumée, de la langue, du mode de vie, de la religion, 
etc.  On peut définir l’ethnicité comme l’ensemble des caractères que les membres d’un groupe ethnique se reconnaissent en commun. Les 
caractères ethniques ne sont pas seulement objectifs mais aussi subjectif. Le plus important dans la définition de cette ethnicité est le sentiment 
d’être membre du groupe ethnique, c’est-à-dire l’identité ethnique. L’identité est à la fois un système et une dynamique, processus et structure qui 
demeure en construction permanente. Elle est interne et également en interaction avec l’extérieur, s’accordant à l’environnement. Elle est influencée 
par la reconnaissance ou non-reconnaissance de son existence par la société. De même, la définition subjective de l’ethnicité, « le sentiment d’être 
membre d’un groupe ethnique » se base sur des critères objectifs comme une généalogie ou une ascendance commune présumée, la culture 
commune, la langue, le mode de vie, la religion, etc… 

Dans cette optique il est intéressant de se pencher sur le cas de la deuxième génération de Zainichi coréens qui, à la différence de son aînée, n’a en 
général pas hérité des référents ethniques tels que la langue coréenne, le mode de vie coréen ou la culture traditionnelle coréenne. Chez cette deuxième 
génération les caractères ethniques mis en avant ne sont parfois plus que la simple nationalité coréenne, le nom coréen ou l’origine coréenne. 
Cependant, malgré ces critères objectifs faibles, la deuxième génération de zainichi se caractérise par un fort sentiment d’appartenir  à l’ « ethnie» 
coréenne. Ce phénomène est souvent interprété comme une réponse à la discrimination que la société japonaise leur a fait subir. 

Recherche de l’identité chez la deuxième génération de Zainichi coréens 
Un bon nombre de zanichi coréens ne possède pas la nationalité japonaise, principalement parce que son obtention repose sur le droit du sang. De 
plus, la naturalisation étant synonyme d’assimilation à la société japonaise, elle a longtemps été mal accepté aussi bien par la communauté coréenne 
qui ne reconnaissait plus les naturalisés ayant renoncé à leur passé coréen comme de « vrais coréens » que par les japonais qui ne considéraient pas 
les naturalisés comme de « vrais japonais ». Durant la période de colonisation, les coréens possédaient la nationalité japonaise. Ils continuèrent à 
garder ce statut même après la défaite du Japon en 1945 mais, suite à l’entrée en vigueur du Traité de paix de San Francisco en 1952 mettant fin à 
l’occupation américaine du Japon, le gouvernement japonais redevenu indépendant décide de le leur retirer. 

La deuxième génération de zainichi est caractérisée par une forte conscience de leur origine coréenne. Nous appelons ici « deuxième génération » les 
gens qui sont nées dans les années 40 et 50. Ils sont peu nombreux à parler le coréen, à bien connaître la culture coréenne, ou même à s’être rendu 
en Corée, en tout cas jusqu’aux années 80, période de démocratisation de la Corée du Sud . Toutefois, s’ils cultivent leurs identités coréennes, c’est 
avant tout à cause de la discrimination émanant de la société japonaise . 

Les mouvements anti-discriminatoires menés par la deuxième génération débutent dans les années 70, avant d’atteindre leur apogée dans les années 
80.
En 1970, Park Chong Sok朴鐘碩, zainichi de deuxième génération, est victime de discrimination à l’embauche dans une fabrique de la firme Hitachi 
en raison de sa nationalité coréenne. Suite à cela il intente un procès contre Hitachi qu’il gagna en 1974 au tribunal de Yokohama, Hitachi n’ayant 
pas fait appel. Ce procès reste dans l’histoire comme l’événement qui releva la première vague de mouvements citoyens luttant contre la 
discrimination de zainichi coréen. C’est aussi à cette époque que cette deuxième génération prit conscience qu’elle ne pouvait plus ou ne voulait plus 
revenir s’établir en Corée, commença à réfléchir sur sa place dans la société japonaise.  

Dans les années 80, la deuxième et la plus grande vague de mouvements sociaux anti-discriminatoires de zainichi coréens s’est principalement 
développée sur la campagne d’opposition à la prise d’empreintes digitales des étrangers. Depuis 1952 la prise d’empreintes digitales était obligatoire 
pour tous les résidents étrangers au Japon de plus de 14 ans  alors qu’elle ne l’était pas pour les japonais. En 1980, le mouvement commence à 
Tokyo, par le refus de Han Jong Sug 韓宗碩 de laisser leurs empreintes qui réclament l’abolition de ce système. Cet épisode fait boulle de neige et 
les zainichi refusant la prise d’empreintes se multiplient formant le cœur de la deuxième vague du mouvement anti-discriminatoire. Ce mouvement 
social se répandit dans tout le pays et même parmi les autres étrangers aboutissant à l’abrogation complète de cette fut complètement abrogée en 
1989 .

La deuxième génération de zainichi qui prit la tête de ces mouvements revendiquait les mêmes droits que pour les japonais, tout en affirmant leur 
différence ethnique. Ils s’attaquèrent aussi aux problèmes de discrimination à l’embauche comme par exemple la revendication du droit de travailler 
dans les établissements publics sans avoir la nationalité japonaise. Dans les années 90, ils militèrent aussi pour le droit de vote des étrangers. 
Je voudrais ajouter quelques explications sur leurs affirmations identitaires à travers ces mouvements sociaux.  Il est intéressant de noter que 
généralement les zainichi coréens utilisent dans la vie quotidienne un nom de famille et un prénom japonais qui effacent leur origine. Leurs noms 
japonais datent de 1940, et est dû à la politique coloniale. Ces nom sont toujours utilisés dans divers documents officiels : contrat d’embauche, 
inscription scolaire, contrat bancaire, etc.  Cependant la plupart des zainichi engagés dans les mouvements anti-discriminatoires redécouvrent leur 
nom coréen d’origine, et décide de ne plus utiliser leur nom japonais. Ce n’est rien d’autre que l’affirmation de l’ethnicité de zainichi coréens. 

Le changements de société japonaise dans les année 90
Dans les années 90, la situation des zainichi a largement évolué. En effet, on assiste à une augmentation de l’immigration, et à une diversification de 
celle-ci (confer tableaux 1,2 et 3). Le nombre total d’étrangers vivant au Japon a plus que doublé en vingt ans, passant de 867 237 en 1986 à 2 011 
550 en 2005. Par contre, le nombre de coréens a beaucoup diminué durant cette même période, passant de 677 959 personnes en 1986 à 598 687 en 
2005. En 1986, la proportion des zainichi par rapport au nombre total d’étrangers vivant au Japon était de 78,2%, or en 2005, elle est passée à 
29,8%. Les étrangers en augmentation étant les chinois et les brésiliens.

 De plus, suite à une modification en 1985 de la loi sur la nationalité permettant aux enfants dont un des deux parents est japonais d’obtenir la 
nationalité japonaise, le nombre de japonais d’origine coréenne a augmenté. Enfin depuis 1991 a été accordé un « droit de résidence-à-vie »  à tous 
les zainichi. Ces deux mesures entraînèrent une augmentation des naturalisations. En 1985, il y avait environ 5 000 naturalisations de zainichi coréens 
par an mais depuis 1995 cette moyenne est passé à 10 000. 

Depuis la seconde moitié des années 90, on assiste à un grand tournant dans les mouvements anti-discriminatoires. En effet, en 1995, la principale 
organisation nationale de lutte contre les discriminations, nommée Mintoren 民闘連 se scinda. Cette organisation avait pour fonction de coordonner 
les différentes actions régionales des mouvements anti-discriminatoires menés par les zainichi. Depuis cette dissolution, aucune organisation 
d’ampleur nationale ne sut prendre le relais.

La nature même de ces mouvements évolua aussi en ne se limitant plus aux revendications sociales mais aussi à la redécouverte de leur « identité 
d’origine » à travers la musique, la danse, la langue etc.  De plus, ce mouvement, prenant de plus en plus en considération les autres minorités 
s’étend dans un mouvement de (re)découverte des autres cultures ethniques. Pour ne citer que quelques exemples représentatifs, dans la commune 
de Kawasaki, le local associatif zainichi, Fureai-kan ふれあい館 (Maison d’entente) accueille un club culturel philippin, Dagatto kurabu ダガット・クラブ 
(Club Dagat ) afin de garder l’identité d’origine des enfants philippins . 

Conclusion 
L’évolution de ces mouvements s’explique surtout par le fait que la communauté zainichi en est désormais à sa troisième voir quatrième génération. 
Ces deux dernières générations n’ont pas eu à subir de discriminations aussi sévères que celles de leurs aînées. Si la deuxième génération a construit 
son identité sur la lutte anti-discriminatoire, la troisième diffère donc sur ce point, et ouvre de nouveaux horizons à la définition de son identité. La 
dissolution d’organisation nationale telle que la Mintoren s’explique donc par le renouvellement de génération au sein de la communauté. Nous 
pouvons donc voir que ces mouvements anti-discriminatoires ont beaucoup changé depuis la seconde moitié des années 90. Ces évolutions sont 
largement liées au phénomène de mondialisation qui touche la société japonaise, ainsi qu’aux changements au sein de la communauté des coréens 
vivant au japon.  

Je voudrais ajouter un dernier point pour finir en comparant  les systèmes japonais et français d’intégration. Malgré de grands changements dans 
les années 90, la logique d’intégration dans la société japonaise se résume toujours à une assimilation à la population d’accueil: intégration à 
l’ethnicité japonaise. La troisième génération continue à affirmer et à militer pour préserver leur identité de zainichi en luttant contre la disparition 
de leurs origines. C’est un point commun avec les générations précédentes. 

Pour conclure, en comparant les sociétés japonaises et françaises, on pourrait dire que cette méthode d’assimilation culturelle particulière à la société 
japonaise diffère de la logique d’intégration ayant lieu dans la société française, cette dernière se résumant à une assimilation aux principes 
républicains. Cependant ces logiques se rejoignent sur la tendance à ignorer toute revendications ethniques où, dans le cas de la France elles sont 
considérées comme préjudiciable à la République au nom même du principe républicain.

1 L’occupation japonaise de la Corée débute en 1905 par l’établissement d’un protectorat, et fut renforcée par la signature d’une traite 
d’annexion en 1910.  Elle dura jusqu’à la reddition du Japon le 15 août 1945.  La Corée fut alors divisée en deux zones d’occupation administrées, 
le nord par l’URSS et le sud par les Etats-Unis, qui donnèrent naissance en 1948 respectivement à la République populaire démocratique de Corée 
(Corée du Nord) et à la République de Corée (Corée du Sud).

2 Concernant les réflexions sur la définition du terme « d’ethnicité », on peut se reporter aux articles suivants :
Frederik Barth, 1969, Introduction, Ethnic Groups and Boundaries: The Social Organization of Culture Differences, F. Barth (ed.), Boston: Little Brown 
and Company, pp.9-38.
Wsevolod W. Isajiw, 1974, “Definitions of Ethnicity”, Ethnicity, vol.1, no.2, pp.111-124.
Anya P. Royce, 1982, “Neither Christian nor Jewish”,  Ethnic Identity, Strategies of Diversity, Indiana University Press, Bloomington, pp.17-33.

3 La Corée du Sud se démocratise suite au « Mouvement Démocratique du 10 juin 1987 » qui met fin au cycle de gouvernement dictatoriaux qui 
ont régit le pays depuis les années 60 notamment par l’instauration d’une nouvelle constitution et d’un système d’élection directe du Président. 

4 Ecrit par le premier avocat de la « deuxième génération », ce livre retrace le parcours de construction de cette identité coréenne en réponse aux 
discriminations subies : Kim Kyong Duk金敬得, “ Identité et situation juridique des résidents coréens au Japon. Nouvelle édition”. 『新版 在日コリアン
のアイデンティティと法的地位』, Akashishoten明石書店, 2005.

5 L’âge de la première prise d’empreinte monte à 16 ans en1982.
 
6 En mai 2006 fut approuvée “la Loi pour l’amendement partiel de la loi du contrôle de l’immigration et de l’identification des réfugiés” (loi numéro 
43 du 24 mai 2006 adoptée lors de la 164ème session de la Diète), selon laquelle la prise des empreintes digitales ainsi que d’une photo d’identité 
doivent être effectuées lors de l’examen d’entrée sur le territoire, des étrangers (à l’exception des « résidents permanents particuliers, Tokubetu 
eijû », statut notamment accordé aux zainichi coréens).

7 Tokubetsu eijû 特別永住 (résident permanent particulier): Ce droit est accorde quel que soit le statut professionnel du zainichi et se transmet par 
le lien du sang.

8 Dagat signifie “la mer” en Tagalog.
 Site Internet :  http://www.taminzoku.com/news/kouen/kou0306_bae.html

9 Le Fureai-kan se trouve dans la ville de Kawasaki, préfecture de Kanagawa. 
Un autre exemple significatif de ce genre de lieu est le Tokkabi kodomo kaiトッカビ子ども
会 (Association pour enfants Tokkabi) situé dans la ville de Yao à Ôsaka. 
Site Internet :  http://www.taminzoku.com/news/kouen/kou0503_park.html

Bibliographie
Barth, Frederik, Introduction, Ethnic Groups and Boundaries: the Social Organization of Culture Differences, F. Barth (ed.), Boston: Little Brown and 
Company, 1969, pp.9-38.
FUKUOKA, Yasunori and Yukiko TSUJIYAMA (translated by John G. Russell), “MINTOHREN: Young Koreans against Ethnic Discrimination in 
Japan”, The Bulletin of Chiba College of Health Science, vol.10 (2), 1992, pp.147-62.
Isajiw, Wsevolod W.,  “Definitions of Ethnicity”, Ethnicity, vol.1, no.2, 1974, pp.111-124.  
Royce, Anya P.,  “Neither Christian nor Jewish”, Ethnic Identity, Strategies of Diversity, Bloomington, Indiana University Press, 1982, pp.17-33.
TSUJIYAMA, Yukiko (traduction par Olivier SOMMET), “Recherche de l’identité chez les jeunes coréens nés au Japon ”, Espace des Femmes, no.23, 
2006, pp.104-107.
青柳まちこ編、監訳『「エスニック」とはなにか――エスニシティ基本論文選――』東京、新泉社、1996年
金敬得『新版 在日コリアンのアイデンティティと法的地位』東京、明石書店、2005年
福岡安則、辻山ゆき子『同化と異化のはざまで――「在日」若者世代のアイデンティティ葛藤』東京、新幹社、1991年
Immigration Control 2006 Ministère japonais de la justice, bureau de l'immigration
http://www.moj.go.jp/NYUKAN/nyukan54.html  (2007/03/30)
多民族共生人権教育センター/講演 朴洋幸(トッカビ子ども会)
http://www.taminzoku.com/news/kouen/kou0503_park.html  (2007/03/30)
多民族共生人権教育センター/講演 裵重度(ふれあい館)
http://www.taminzoku.com/news/kouen/kou0306_bae.html   (2007/03/30)
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鶴巻 泉子

地域音楽から全国、ワールド・ミュージックへ

1990年代以降のブルターニュ音楽・沖縄音楽の流行に見る、マイノリティ文化と国民国家の変容

それぞれの国民社会の中でマージナル化されてきたブルターニュと沖縄は、1990年代以降に国内で一種の流行となる。この流行の音楽的側面に着目
することを通じて、流行の背景となった地域内的要因、国民国家の文脈の違いをそれぞれ分析することが本報告のねらいである。

ブルターニュと沖縄にはいくつかの共通性がある。まず、両地域ともそれぞれの国民経済の近代化の過程で取り残された、歴史的に貧しい地域である。
貧しいが故に、両地域とも、多くの移民を他地域・海外へ送り出してきた。国民国家の枠内で見れば地理的・社会的に「辺境」にある両地域は、他方では、
その文化の広がりという観点から見れば、国際的・越境的transnationalな場として現れる。沖縄の琉球音階はインドネシアのペロック音階と共通性があり
、三線は中国の三弦楽器が変形したもので日本の三味線の原型となったと言われる。ブルターニュのbombardeやbiniouもケルト圏を超えて広く普及した
楽器であるし、地域で話されるブレイス語はケルト語の一種である。沖縄やブルターニュ出身の移民コミュニティは、音楽文化を育み続けたことが多く、そ
の移民が地域に戻って地域音楽を刷新するということもあった。地理的辺境性故の近隣国文化へのアクセスと開放性、そして海外に広がるディアスポラ
文化という点で、両地域は二重に越境的である。

そもそもフランスと日本に併合される前は、両地域とも独立した国であった。19世紀半ば以降、両地域は国民の形成という名の下に支配文化culture 
dominanteへの同質化を強制された。「後進的」「二級国民Français / Japonais de seconde zone」という表象は、両地域に共通する表象であり、そこでは
特に言語と文化が非日本的/非フランス的とされスティグマの対象となった。両地域の住民はさらに「人種研究」の対象ともなっている。

第二次大戦の経験は両地域が支配文化と異なるが故の悲劇を生み出した。ブルターニュでは、第二次大戦中に一部の地域主義者によって対独協力が
行われたため、その独自性を主張することはすなわち反フランスであるとする雰囲気が生まれ、戦後しばらくはダンスや音楽はおろか、ブレイス語を話
すことも非難の対象となった。しかし、タブーがやわらぎ始める1960-70年代になると、フランス全土に起こる地域主義の高まりと共に、ブルターニュ文化
の見直しの気運が生まれる。この時代に全国シーンに登場する音楽家に、Alan Stivell, Tri Yann, Gilles Servat, Soeurs Goadecなどがあげられる。ブレ
イス語を使う歌が全国に流行ると共に、他方では伝統音楽が現代的にアレンジされ、ポップ・ソングに生まれ変わる。

それに対して沖縄では、第二次大戦中に多くの戦争の犠牲者を出し、戦争の経験がその後の本土との関係を深く規定することとなる。「本土防衛の捨て
石」とされ、大規模な地上戦が行われた沖縄では、日本語がうまく話せない故に、あるいは沖縄語を話していたために、住民はしばしばスパイである疑い
を日本兵にかけられて虐殺された。沖縄の民間人94000人の犠牲を出したこの大戦後、沖縄は米国の支配下に置かれ、1972年の日本への復帰以後も、
面積の3分の1を占める米軍基地に囲まれての生活を強いられる。音楽についてはといえば、60年代を通じて民謡クラブがあちらこちらに生まれ、沖縄
音楽ブームが地域内に起こる。嘉手苅林晶(かてがるりんしょう)、知名定繁(ちなていはん)、登川誠仁(のぼりかわせいじん)といった民謡歌手が大人
気を博した後、70年代を通じて伝統的な音楽をポップ・ソングにするアーチストが現れた。喜納昌吉とチャンプルーズ、知名定男がその代表格である。し
かしこの人気はブルターニュのように全国規模になるには至らず、1970年代後半以降になると、沖縄社会のヤマト化は急速に進む。

この2つの地域に1990年代以降になって再び「地域への着目」が生まれる。地域内から、そして国民国家の側から、地域の文化を見直し再評価する動き
が顕著になる。その背景として両地域に共通するのが、まず世界的なワールド・ミュージック・ブームや「オリジン」に関する関心の高まりである。両地域
の音楽は「内なるエキゾチスム」と「オーセンティシティ」を求める全国の聴衆に歓迎される。またこの時代には両地域は一定の経済的発展をとげ、移民
流出への歯止めがある程度かかった。同時に地域内ではヤマト化とフランス化が確実に進展、そしてそれが逆に、特に都市部と若者層において、自分
たちの地域文化についての関心を高めた。都市化された生活様式を持つ新しい世代は、セカンドゾーンのフランス人・日本人としてのスティグマを前の
世代のように内面化していない。地域の音楽は若い世代にとっても新しい、エキゾチックなものとして現れ、身についた日常の一部というよりは意識的に
選び取られる対象となる。選択されたブルターニュ的なもの、沖縄的なものが意識的に主張される。その一方で、60-70年代の中央文化に対抗的なメッ
セージソングは力を失い、むしろ地域的な要素を自由に詞や曲に用いた創作が中心となる。60-70年代に伝統音楽を基調とした歌手(沖縄の民謡歌手、
ブルターニュのSoeurs Goasdec など)を第一世代とし、それを近代的にこの時代にアレンジした歌手(喜納昌吉やA.Stivell)を第二世代と呼ぶと、1990年
代の新しいミュージシャン、第三世代は、地域出身であるコンプレックスから解放され、音楽の多様化を進めた。ポップやロックに限らず、ヒップホップ、レ
ゲエ、テクノ、ワールドと伝統音楽が組み合わされることになった。

都市的・ポストモダンな視点、そして中央との「対立関係」に歌の中でこだわらないアーチストの世代の登場が共通点だとすると、アーチストと音楽市場
との関係に関しては両地域には大きな違いがある。沖縄では、確かに地域音楽の流行は存在するものの、全国市場で現代の沖縄音楽の代表のように
位置づけられるジャンルである「ウチナーポップ(伝統音楽を基礎に、それを明確に残しながらポップにアレンジした作風)」は、地域市場では陰が薄い。
伝統要素をふんだんに取り入れたグループはむしろ全国市場で評価され、地域内では、伝統を踏襲する民謡歌手を除き、沖縄性を全面に出す(例えば
琉球音階を使う、ほとんど沖縄語で歌う)アーチストはむしろ「観光客向け」として敬遠される。若い世代はこのような「ウチナーポップ」からも、伝統的な
民謡からも遠ざかり、沖縄色を差異化要素として一部にのみ使う「J-Pop(日本的ポップ)」に偏る傾向がある(例えばリフレインの中に一言沖縄語を入れ
る、リフレインのベースに三線の音を使うなど)。それに比べてブルターニュでは、全国市場と地域市場の「ジャンル的乖離」は存在しない。伝統音楽の
ポップ音楽化はむしろ地域からも歓迎され、決して「観光客用」と位置づけられることはない。「ブルターニュ性」を全面に出すかどうか、は地域からのア
ーチスト評価基準ではないのである。

この違いが生まれる背景には60-70年代に発展した地域主義のあり方とその国民国家におけるコンテキストの違いがあるように思われる。ブルターニュ
では、60-70年代からの地域主義の時代に、音楽家の中にブルターニュ文化を同質化の波に抗して守ろうという気運が生まれた。この時代を通じて、
Coop BreizhやKeltiaに代表される地元音楽産業が根付き、大小含め現在200を超える地元フェスティバルが育っていく。多くの音楽制作・流通会社やフ
ェスティバルは、地域文化に関わる活動家やアーチストが下から支えて育てあげたものである。このような地元ネットワークが、流行が下火になった80年
代の暗黒の時代に音楽を支えてきた。

したがって、1990年代になって、ワールド・ミュージック・ブームとケルト・ブームが起こると、地域の側からそれに応える基盤はできていたといえる。1990
年初期からはさらに地域文化と経済を結びつけようという動きが起こり、地域の文化関係者達はプロフェッショナル化やネットワーク化を模索するように
なった。その努力が結実したのが、例えば一ヶ月ほど前にシャンゼリゼを始めとしてパリ何カ所かで行われたブルターニュの合同フェスティバルである。
このように、ブルターニュでは地域に根付いた音楽資源を、いわば内発的に活性化するためのインフラ基盤が整っていた。それを支えたのはミュージシ
ャン、音楽関係者、地元音楽産業が中心となった「ミリトンティズム」であった。ブルターニュでは現在でもブレイス語を教えるディワンDiwanという学校を
支援するためや、極右勢力や暴力に抗議するために、ミュージシャンが結束して署名運動、合同コンサートを行ったりする。ブルターニュという共同体の
名の下に共通のユートピアを投影しそれを模索する動きはアーチストに根付いている。

それに対し沖縄では、72年の日本復帰の後、内地で活躍するタレントや音楽家が増えるが、本格的な沖縄音楽への注目が始まるのは90年代以降であ
る。 ブルターニュに比べればずっと早くから地元の音楽を普及するビジネスが芽生えたにもかかわらず、60-70年代を通じて10あまりに増えた地元音楽
会社は成長せず、またアーチスト間の連帯も生まれなかった。90年代になって沖縄音楽が全国ブームとなったきっかけも、まずNHKやJALなどの本土の
企業が打ち出した沖縄キャンペーンに負うところが大きかった。

ブルターニュでは地域主義への音楽家や文化関係者のアンガージュマンが音楽復興の大きな原動力となったと述べたが、それは70年代には支配文化
へのラジカルな抗議という形を取った。A. Stivellは70年代に出したアルバムの中で、「フランス民族からの解放の時が来た」と歌っている。ブルターニュ
が反中央的な政治運動を発展させたこの時期、沖縄でも1975年に 戦争遺跡(ひめゆりの塔)を訪ねた当時の皇太子に火炎瓶が投げられる、そして87年
の国体では日の丸が焼かれる、などの事件が起きている。日本復帰に対する失望、米軍基地への不満などは長く沖縄の世論に支配的だった。現在も本
土との違いを感じるという世論が世代間の差異無く多い沖縄で、ではなぜ文化的ミリトンティズムが育たなかった、育たないのだろうか。なぜ地元のレー
ベルやアーチストをネットワーク化させるような動きは起こらなかった、あるいは少なくとも成功しなかったのだろうか。そしてブルターニュでは、70年代の
政治的にラジカルな地域主義はどれほど現在音楽の中に意味を持つのだろうか。

ブルターニュの文脈と比較した沖縄の特徴として、まず地域の記憶やアイデンティティの問題が第二次大戦や米軍基地の問題と直結してしまう可能性が
あること、つまり地域の過去と未来を語ることがすなわち直接的な政治問題となることがあげられる。他方では、現在も沖縄住民の生活に深くのしかかる
基地の存在は、産業基盤のない沖縄経済の動脈でもあり、住民の間にも深い対立を起こす問題であるという事情がある。それに対し、ブルターニュのケ
ルト性の主張は、ケルトブームの後の文脈においては文学的、詩的な含みこそあれ、民族的現実性を持って現れない。

第二に、本土からの沖縄ブームの仕掛けの大きが指摘できる。本土では、沖縄の音楽とは、聞いていると「ほっとする」「癒しの音楽 musique de relaxaion
」のジャンルに位置づけられ、異国風exotiqueの「無国籍」な音楽であるか、あるいは「日本の民謡の一種」でしかない。 本土から「沖縄らしい」音楽が探
され、評価されると同時に、沖縄が日本社会に突きつける基地の問題や差異の問題は、商業的成功を通じて無化される。この売り込みと宣伝、仕掛けの
洗練化を、ブルターニュの運動家達はプロとなるにつれて学習していった。90年代の初め以降、広告代理店との協働がブルターニュではすでに始まって
いた。

沖縄からの積極的な全国市場への「売り込み」の欠如は、沖縄の人々が証言する本土との「距離感」とも関係していると思われる。ブルターニュのアーチ
ストが成功するためにすぐにパリを目指すのに対し、沖縄のアーチストの本土での成功志向は相対的に弱く見える。実際、戦後60年以上たった現在もな
お、沖縄と本土をつなぐ溝の深さは、例えば多くの沖縄の人が本土を呼ぶ言い方、「内地」にも現れる。「内地 Japon de l'intérieur / Terre de l'intérieur」
あるいは「ナイチャー Japonais de l'intérieur / gens de l'intérieur」という言い方を通じて、沖縄とアルザス地域が置かれた状況の類似点を指摘できるか
もしれない。アルザスにおいて歴史的な記憶の問題が未だ未解決の部分があるように、沖縄では日本に「理解されていない感覚」、支配文化の「犠牲者
であった、犠牲者であり続けている感覚」が、本土との距離感を増幅させている。2002年の世論調査では、「本土の人は沖縄を理解しているか」という項
目に対し、実に6割近くの人がノーと答えている(49.2%があまり理解していない、8%が全く理解していない)。沖縄の人が「観光客のための音楽」を拒否す
るとき、それは沖縄を理解しないまま、上っ面だけを見つめて観光用のイメージを消費しようとする本土の態度自体の拒否でもある。

ブルターニュの方ではミュージシャンや音楽関係者の中に共有されたアンガージュマンが音楽の内発的発展のためのインフラを用意したとはいえ、地域
主義/民族主義と表現される思想が一般の人々にまで信条として共有されたわけではない。それよりはむしろ、ブルターニュの音楽は消費の枠の中に取
り込まれて政治的紛争性conflictualitéを失ったようにも見える。沖縄の問題が「内地」対「沖縄」という二項対立を常に内包するのとは対照的に、現代の
ブルターニュは対抗する相手をもたない。中央文化との対立がなくなったということではなく、ブルターニュというレファレンス自体がコンテキストに応じて
自由自在に変化を遂げる、可変性と順応性を獲得したと考えられる。ケルト性celtitudeという主張は「我らゴール人」というフランスのアイデンティティ主張
にもなりうれば、あるいはブルターニュの固有性ー非フランス性の強調にもなる、あるいはまたケルト文化を持つ近隣諸国との提携の正統化、そして国家
を持たないマイノリティ同士の連帯の可能性をも開くものである。

ブルターニュでは、レファレンスの可変性を通じて、音楽の中に思わぬ政治性を持ち込むことも可能である。例えばアーチストがブレイス語学校を救うた
めに結集するとき、あるいはA. StivellやTri Yannが移民のベルベル・アーチストと合同コンサートをし、ケルト音楽に欠かせないcornumuseはアラブ世界
で生まれたのだと主張するとき、ブルターニュの音楽はあくまでも国民国家へ完全に取り込まれることのないマイノリティ文化として自らを主張するので
あり、観光イメージとして消費されることを拒む。領域に根付くのではなく常に移動し続け、その場その場で所属を自由に変えるグローバル時代の文化と
して、ブルターニュはその地域の二重の越境性(近隣諸国との文化共有、ディアスポラと地域の象徴的地域イメージ)を最大限に生かしているように見え
る。それに対して沖縄に文化の越境性と複数性は現実として存在するものの、沖縄は領土への新たな根付きと地域自身が内側に抱える国際性の中で
選択を迫られるように見える。
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中嶋 公子

グローバル化における高学歴専業主婦の未来
                 
 はじめに
この発表では、グローバル化の文脈において、日本のジェンダー関係が、国家アイデンティティや社会格差とどう関わっているかを明らかにしたい。そのため
に、フランスには存在しなくなった「高学歴専業主婦」層の存在を取り上げる。このテーマは、ジェンダーに関する日仏比較の視点から生じたものである。

1.「高学歴専業主婦」層の存在
まず、女性の年齢階級別労働力率から、日本における「高学歴専業主婦」層の存在を確認する。
・図表1は、女性の年齢階級別労働力率の国際比較である。日本の2004年以外は2003年のデータである。欧米は台形だが、日本と韓国はM字型である。
・図表2は、フランスの女性の年齢階級別労働力率の推移である。1950~2003年まで、フランスは、1970年にほぼ台形になり、その後は台形が全体にボト
ムアップしていった。この背景のグレーの部分は、2004年の日本の女性の年齢階級別労働力率をあらわしている。
・図表3は、日本の女性の年齢階級別労働力率の推移をあらわしている。日本は少しずつM字型のボトムアップが進んでいるとはいえ、いまだM字型のま
までる。この二つの図表から、フランスは2003年で25~50歳の女性の80%前後が働いている。日本は、一番ボトムアップしている2003年でも、とくに30歳
台では、就労を継続する女性は60%に落ち込みます。
・図表4は、女性の学歴、年齢階級別労働力率の推移である。少子高齢化の進行の中で、潜在的能力が高い高学歴の女性の労働力に対する関心が高く
なった結果、1999年に初めて出てきたデータである。学歴は、高卒(高校・旧制中学)、大卒(4年制大学・大学院卒)と分け、1989年と1999年を比較してい
る。その結果明らかになったのは、大卒の労働力率のカーブはM字型にもならず、きりん型―首の部分(若年層)が極めて長く、背中(中高年層)が平坦で
ある―となっている。大卒は卒業後、1999年でみても、93%余りが労働市場に出るにもかかわらず、それは35~39歳層まで低下し、その後60%前後で横
ばい状態となる。この90%から60%を引いた約30%近くを「高学歴専業主婦」層とみなすことができるのではないか。
・図表5は、25~64歳の女性の学歴別労働力率の国際比較である。日本は、欧米先進国と比較して高学歴の女性の労働力率が低いことが特徴である。    
以上の図表から、日本には、「高学歴専業主婦」層が存在すると言える。女性の高学歴化の進行は日仏同じにもかかわらず、なぜ、日本では女性の高学
歴化とキャリア形成が同時進行しなかったのか。それには、国家政策が関わっている。

2.国家政策における「高学歴専業主婦」モデル-1980年代 
1)日本型モデルの構築 
1973年オイル・ショックによって高度経済成長は終了した。しかし、飛躍的な高度経済成長を遂げた日本は世界第2位の経済大国となった。1979年、自民
党政府は、21世紀に向けての新たな国家像(『田園都市国家構想』)、社会像(『日本型福祉社会』)、家族像(『家庭基盤の充実に関する対策要綱』)を示
す一連の構想を打ち出した。新たな国家像はもはや西欧型モデルはとらないと宣言する。「日本は、明治維新以来、欧米先進国に一日も早く追いつくため
に、…近代化、産業化、欧米化を国家目標として掲げ、積極的にこれを推進し、…僅か100年間で、<近代化>を達成し、高度産業社会の仲間入りを果た
した…追いつくべき目標のなくなった日本は、これからの100年にどのような途を志向すべきか、…<近代を超える>時代にどう対応すべきかを各分野か
ら検討した」。こうして見出されたのが、「日本文化の特質」の再評価である。日本文化の特質は次のように定義される。「欧米の<個人主義>や<個>を
否定する全体主義に対し、日本は<個と全体の関係>などを大切にする<間柄主義>ともいうべき文化的特質をもつ。…日本文化の特質を生かしつつ、
脱工業社会文明への転換に対応する」。こうして、日本文化の特質を基礎とする日本型モデルの国家像が生まれた。この国家像にもとづく社会像は、「日
本型福祉社会」であり、その中核となるのが、子育て・介護を担う自助努力の家庭像である。この自助努力の家庭は、明治以来の急激な変化に耐え、「自
助努力の精神と人間関係を大切にする日本文化の特質を生かし」ながら、現代において「活力にみちた新しい家庭を形成しつつある」とされる。
2)日本型モデルにおける家庭像-A氏夫人モデル
この新しい日本型モデルにおいて、女はどう位置づけられたか。それは、『日本型福祉社会』の第六章に、A氏とA氏夫人というモデル夫婦の一生として示
される。
A氏は「大学卒業後、企業に就職し、結婚して家庭をもち、子どもをつくり、退職後は年金を受け取って老後の生活を送り、75歳で生涯を終える平均的男性」
とされる。A氏夫人は、大学卒の高学歴の設定。大学に行く目的は、教養や知性を身につけるためとされる。彼女は、企業に勤めた後、25歳でA氏と結婚
して退職。二人の子を産み、35歳で子どもが学校に入学。A氏夫人は、「給料運搬人である」「夫から財布(給料袋)を預かり、<家計あるいは所帯>を管
理することを委託された<家庭長>あるいは<家庭株式会社>の<経営者>」とされる。これは、アメリカ型の家庭の妻が<雇われ経営者>」であるの
に対して、「<オーナー経営者>に近い」。こうして、A氏夫人は、「家庭株式会社」の大事業である、「教育ママ」の役割を一任され、日本の伝統に連なり、
「家庭を守る」。子育てが一段落した後は、趣味に生きる、あるいはかつて習得した技能、資格を生かして収入を得るのが理想とされる。しかし、今後はパ
ートに出る人が増えるだろうと予測する。女性のキャリア形成の視点は一切ない。むしろ、「男子専用につくられた終身雇用制と年功序列に挑戦して…一
定の役割と地位を要求するより、いったん家庭の主婦となった上でパートタイムで働く方が無理がない」とされる。
こうして、高学歴は、企業の「日本的経営」に生かすより「家庭経営」に直接生かすように求められる。A氏夫人には、「家庭経営」と子育てに加えて、期待さ
れるのが高齢化社会に向けての老親の介護と扶養である。A氏夫人は福祉の含み資産でもあるのだ。

3)専業主婦優遇策
 1980年代後半、専業主婦が家庭責任を全面的に担う、その見返りと雇用調整策として、一連の専業主婦優遇策がとられた。
 ①年金法改正:サラリーマン家庭の専業主婦を対象とした第3号被保険者枠の設置(1985)
  ②税制上の優遇措置:配偶者控除の範囲内の年収103万以下は、専業主婦とみなされ、配偶者控除と特別控除(1987)が適用され、非課税。
 ③社会保険上の優遇措置:年収130万円未満であれば、社会保険の第3号被保険者として保険料が免除。健康保険で夫の家族として医療給付が受け
られる。
  ④企業からの配偶者手当:年収130万円未満であれば、配偶者手当が支給される。
 以上、日本型モデルの構築は、西欧モデルに対する日本の国家アイデンティティの主張であり、グローバル化を生き残る戦略である。そして、性別役割
分業にもとづく「高学歴専業主婦」モデルは、日本型モデルにおけるジェンダー関係の要となっている。

3.日本型モデルにおけるジェンダー関係の微調整-1990年代~
1)国際基準への対応-『女子差別撤廃条約』の批准(1985)
日本政府は、1985年、国連の『女子差別撤廃条約』を批准した。ジェンダー平等を推進する同条約は、日本型モデルにおけるジェンダー関係の解消を求め
るものだ。同条約の批准にあたり、日本は、『男女雇用機会均等法』の制定、家庭科の男女共修、国籍法の改正を行った。そして、同条約や世界女性会議
の行動綱領を理念とする国内行動計画を策定し、推進してきた。
2)少子・高齢化社会への対応
①『介護保険法』の制定(1997)
保険方式により、これまで家族、とくに女性に委ねられてきた高齢者の介護の社会化をはかる法律である。
②『男女共同参画社会基本法』の制定(1999)
1990年代に入り、『男女共同参画社会基本法』が制定された。以後、国、県、市町村において、男女共同参画政策が展開されていく。男女共同参画政策
では、「男は仕事、女は家庭」という性別役割分業を土台とする家族モデルではなく、性別役割分業体制の解消が含意され、男女が対等に社会参画でき
る、「男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響をできるかぎり中立的なものにするような」社会制度と慣行の構築がめざされている。この基本
法の制定は、女性運動の成果であると同時に、グローバル化、バブル崩壊、少子・高齢化の急速な進行の中で、女性の労働力の活用が必要になったか
らである。 
 
以上、国際的なジェンダー平等推進の流れ、1990年代の日本社会の構造変動の中で、日本型モデルにおけるジェンダー関係は、修正をはからざるをえ
なくなった。しかし、ごく部分的な修正にとどまった。それは、専業主婦優遇策の見直しがごく一部(配偶者特別控除の廃止(2003))にとどまっていることに
もあらわれている。 

4.「高学歴専業主婦」の未来
では今後、日本型モデルは根本的にモデル・チェンジし、「高学歴専業主婦」はいなくなるのだろうか。現在の政治、経済の流動的な状況の中では、予測
はむずかしい。たしかに、高学歴女性のうち、就労を継続する女性も増えている。しかし、それを支えているのは未婚者が多い。当面は、「高学歴専業主
婦」層はなくならないだろう。
なぜなら、専業主婦優遇策そのものは継続し、「男稼ぎ主」型のジェンダー関係は維持されたままだからである。このジェンダー関係を基盤に社会政策、
社会保障政策は継続しているからである。男性の長時間労働も解消されていない。むしろ、フルタイム就労を継続する高学歴の女性は、男性並みの長
時間労働をこなさなければならない。昇進等においても男女の均等待遇は実現されていない。
また、ニュー・エコノミーといわれる市場、雇用構造の変化(終身雇用、年功序列の現象、非正規雇用の増大)の中で、社会格差が進行している。稼ぎ手
として労働市場に出て行かなければならない専業主婦も増えるだろう。しかし、夫の収入だけで暮らせる、一部の高賃金階層のエリート男性社員の高学
歴の妻たちは、結婚・出産で退職したのち、相変わらず「高学歴専業主婦」として残るだろう。夫の不在の中で、家事・育児・教育・介護を一手に引き受け
ながら。それが、階層の再生産、あるいは上昇という階層幻想と連動している限りは。
 
以上をまとめると、「高学歴専業主婦」モデルにもとづく日本のジェンダー関係は、グローバル化の中で、西欧モデルに対抗して日本型モデルとして作ら
れた。
この日本型ジェンダー関係は、さらなるグローバル化による市場、雇用構造の変化が生み出した社会格差の拡大においても、まだ機能している。それは、
日本国家のアイデンティティ、日本の伝統・文化を口実として、真の問題、男女の不平等、社会格差などを覆い隠す作用を果たしている。しかし、現在の
日本の政治状況は、日本の国家アイデンティティをめぐる抗争になっている。政治状況の変化によって、日本型ジェンダー関係が大きく変化する可能性
を期待したい。
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布施 哲

保田與重郎と「イロニーとしての日本」―失われた世界と政治的現実との狭間で

『グローバル化と国家アイデンティティ』と題されたセクションのなかで私がこれからお話しするのは、国家的/民族的アイデンティティがもっとも先鋭化された
はずの「国家の危機」の時代において、その当の「国家アイデンティティ」なるものをまったく信用しておらず、しかし、にもかかわらず、戦後、知識人としての
その“戦争責任”を問われた文芸評論家、保田與重郎についてであります。
保田はいわゆる“大東亜戦争のイデオローグ”という烙印を押され、戦後は公職追放にもあった人物ですが、彼の思想が戦前・戦中の超国家主義的イデオ
ロギーの類と同列に論じられるものであるかといえば、少なくともそこにはいくつもの留保が必要となります。彼がたとえ「民族の不滅」や「神ながらの道」を
生涯にわたって信じていたとしても、そのことによって即座に保田を戦時中の“悪玉思想家”としてのみ扱うのは甚だ正確さを欠くだけでなく、問題とすべき
ことを見誤らせることにもなるでしょう。保田の思想は、むしろ、政治的、道徳的、あるいは宗教的理念のもとにおこなわれる野蛮な強制や殺戮に対する徹
底的な不信や反発に彩られていたという点を忘れるべきではありません。しかしにもかかわらず、そうした理念を標榜する軍部をはじめとした権力機構に従
わざるを得ない「国民」―とりわけ真っ先に戦地へと送られる若者たち―に対して、保田はある非常に複雑な理由から崇高さを感じ取り、戦場で無駄に命を
落としてゆく彼らを賛美していました。20分間という短い時間で保田の思想のすべてを語ることは到底できないでしょうが、彼が語ったことを暴力的に簡略
化して述べることにします。

保田の思想は二つの知的遺産を受け継いでいます。ひとつは、このプレゼンテーションに先立つ『概要文』のなかでも触れましたが、18世紀の国学者、本
居宣長の宗教・哲学批判、そしていまひとつは、同じく18世紀ドイツのフリードリヒ・シュレーゲルのロマン主義、とりわけ彼の「ロマンティッシュ・イロニー」の
概念です。

このプレゼンテーションではシュレーゲルのロマン主義にまで言及する時間的な余裕がありませんので、とりあえずは宣長の国学を概観してみることにい
たします。「国学」というのは英語で“Study of Nation”などと訳されますが、これは文字通り、国家/民族に固有の知的・文化的伝統を、主に古典的文学作
品のなかに見出してゆこうとするもので、真言宗の僧であった契沖や宣長の師である賀茂真淵の古典研究(『万葉集』研究)などがよく知られています。しか
しながら、“国家/民族に固有の知的伝統”の追究などというものが自発的、自生的に出てくるはずもありません。国学は、当時この日本列島を支配してい
た徳川家の統治下で、御用学問として幅を利かせていた大陸の学問、つまり儒教、とりわけ朱子学(“Neo-Confucianism”)に対する反発を、その大きな学
問的動機のひとつとしていました。

すでに12世紀には日本に伝来していたとされる朱子学は、宇宙の摂理から政治制度、はたまた医学、養生法などにいたるまで、森羅万象を包摂する壮大
な理論体系として展開され、東アジアの諸地域で広く知られていました。日本では、朱子学はながきにわたり主に学僧たちの教養のひとつにすぎませんで
したが、17世紀末になると、当時の支配者層であった武家のみならず、裕福な町人や豪農たちにも好んで学ばれるようになっていました。しかし、その頃
になると一部の学者たちのあいだでは朱子学に対する異論や批判も見られるようになってきます。道教や禅学といった非儒学的要素を多分に吸収しつつ
体系化された朱子学は、学問体系としては比類なき完成度を誇っていましたが、儒学者たちのなかには『六経』や『論語』といった儒教の古典を再度直接
解読しようと試みる者たちもでてきます。つまり、幕府の官僚のための退屈な学問体系に堕した朱子学ではない、いわば“真の”儒学を追究しようという試
みでありました。伊藤仁斎の古義学や荻生徂徠の古文辞学はその典型ですが、儒教への反発から始まったはずの国学は、実はそうした、儒学者たち自
身による儒教批判からその多くの果実を受け取っていました。詳細な説明は省きますが、たとえば徂徠の古文辞学は、儒教というよりは儒教(朱子学)批
判であり、その批判の仕方を宣長の宗教・哲学批判が引き継いでいたのです。

徂徠は、古代中国において政治・社会制度を構築した先王と呼ばれる七人の偉大な君主と孔子への留保なき信仰が希薄になってしまったことを嘆いてい
ました。そしてそれは、後代の学者たちが孔子の教えに対して不必要な注釈を加え続け、それをペダンチックな“理論体系”としてまとめてしまったからだ、
と彼は主張します。徂徠にとって『論語』とは、いわばマキアヴェッリの『政略論(Discorsi)』のようなものであって、そこで記されているのは、なにがしかの
哲学や宗教的な教義の類ではなく、春秋時代の戦乱期の直中に身を置いた孔子の革命の記録、より正確には、革命の失敗の記録にほかなりませんでし
た。そこから徂徠は、あるべき世の秩序を求めた孔子の悪戦苦闘を、そうした失敗の記録である『論語』のうちに読み取ることこそが孔子の教えを学ぶこと
であると主張したわけです。言い換えれば、テクストの表面に隠れた孔子の革命のエートスを可能な限り我が物にする、我有化(appropriate)することこそ
が、徂徠の古文辞学が目指したものでありました。そこに見られる基本的な構えは、ある意味において徹底的な原典主義ともいえますが、ただし徂徠にと
っての原典とは、『論語』それ自体のことではありません。オリジナルの古代中国語で書かれた『論語』ですら、孔子の革命のエートスをそこから読み込め
なければ、徂徠にとってはただの紙くずでしかなかったのです。

徂徠の古文辞学同様、宣長の国学も、原典のテクスト、たとえば『万葉集』のテクストそのものではなく、そこから滲み出てくる古代人の情感を無媒介に感
受することのほうに重点を置くものでした。宣長によれば、『古事記』や『万葉集』といった日本の古典には、人智を超えた自然現象に対する畏怖といったも
のから、あるいは男女の仲の機微にいたるまでがありのままに描かれているということになっています。それらの情感を宣長はひとことで「もののあはれ」
という概念でもって表現しているのですが、この「もののあはれ」という言葉は、おそらく何語にも、現代日本語にさえも翻訳不可能な言葉です。宣長は、人
間の感情の微妙な機微である「もののあはれ」について、宗教的な正邪、道徳的な善悪の基準であれこれ解釈することは無意味なことであり、彼自身の
言葉でいえば「猿の体毛」のごとく余分なものと見なされるべきことであると考えていました。

このように、徂徠と宣長は、一方が儒学者、他方が国学者(=反儒教者)であったにもかかわらず、それぞれが最も重要なものであると考えることが根本的
に理論化不能であると信じていた点において一致していたわけです。すなわち両者は、理論による媒介性を極力排除しようとするという点で共通していた
のですが、他方、両者には決定的な違いもありました。それは端的に、それぞれの政治的な姿勢に現れます。徂徠は、古代中国の先王がその鋳型を創っ
た人間社会の制度は、必要なときにその都度更新されねばならない、つまり、必要なその都度改革なり、場合によっては革命なりを通じてリニューアルさ
れねばならないと考えていたのに対し、宣長は、人間が人為によって社会秩序を構築してゆくということ自体が、「猿の体毛」のように余分なことであると考
えていたのです。ふたたび宣長自身の言葉を用いれば、人間が自身の生活環境を思うがままに変更し、操作し得るなどというのは「人智のさかしら(=小
賢しさ)」にほかならない、というわけです。

しかも宣長においてさらに重要なのは、そうした人間の小賢しさは外からもたらされたのだ、と主張した点にあります。すなわち、たかだか人間ごときが宇
宙の摂理を言語や理論によって説明し、それを理念化したかたちで政治社会を構築するなどという発想は、インドや中国からもたらされた悪癖であるとい
うわけです。宣長はそうした外来思想を「漢意」と呼んで軽蔑します。元来、人間が神や自然と一体となって暮らしていた日本には、そのような「漢意」はな
かったにもかかわらず、徐々にそれは、宣長によれば神の生まれた国であるこの国に、余分なもの、「人智のさかしら」として流入してゆき、とりわけ12世紀
に武家が覇権を握り、「もののあはれ」をよく理解していた公家階級を圧倒して以来、かなりの範囲で定着してしまったのだ、と宣長は主張します。

宣長にとって、日本の古き良き伝統的な美意識や神・自然と一体化した生活様式は、いまや失われたものとして一部の文学作品のなかにのみ沈潜してい
るのであり、それを救い出すとともに、外来思想としての「漢意」を際限なく否定し、攻撃してゆくことが、宣長の国学の特徴となるわけです。

さて、ここでようやく、今回の主役である保田の「日本浪漫主義」に触れることができるようになりました。徂徠と宣長が抱いていた宗教的、哲学的体系や法
制度への嫌悪は、保田が掲げる「浪漫主義」によって、きわめて先鋭化されたかたちで20世紀の帝国日本によみがえったのですが、宣長が生きていた徳
川の世とは異なり、保田が身を置いていたのは、ひとりの知識人が人為的な構築物としての政治社会に対する呪詛を表明していれば済む時代ではありま
せんでした。それは、「国民」と称して均質化された1億の人間が例外なく死と隣り合わせであるような、そんな異常な時代であったのです。

保田は戦後、一方で息を吹き返した進歩派知識人たちから、かつての「官憲の犬」として指弾されつつ、他方では連合国軍総司令本部(GHQ)から軍国主義
を先導した知識人のひとりと見なされて公職追放を受けもしました。また彼の著作物も、戦後20年近くにわたって事実上封殺されてきたのです。しかし戦中
の保田は、マルクス主義者や無政府主義者たち同様、軍部によって監視され、ときに投獄されたことさえあったという事実は無視するわけにはゆかないで
しょう。つまり保田は、戦中・戦後を通じて、体制派からも反体制派からも標的とされてきたわけであり、それはまさに、保田自身が体制派も反体制派も、と
もに批判の対象にしてきたことと並行していました。

宣長同様、保田にとっても、遠い“日本”の伝統、美意識そして生活様式は、それを担っていた公家階級が武家階級によって圧倒されて以来、失われたま
まただ古典のテクストのなかにのみ沈潜しているものとして理解されていました。保田は明治期以降の知識人たちが競って受け入れてきた欧米の学問一
般、とりわけマルクス主義をその頂点とする(と彼が見なしていた)近代主義、啓蒙主義、進歩主義の諸前提を否定しましたが、同時に、当時の日本のファ
シズムを下支えしてきた政治的イデオロギーとしての農本主義や皇国史観などに対しても不信感を隠しませんでした。それらはともに、彼が「植民地の知
性」と蔑んではばからなかったものであり、“失われた日本”の姿からは限りなく遠い「漢意」であったのです。宣長の国学においては、人為的に構築された
政治社会システムも、それを下支えする宗教的、哲学的、道徳的、あるいは文化的理念も、ともに大陸から持ち込まれた悪しき過剰であったわけですが、
保田もまた、人間があたかも神の意思を代弁するかのごとくに大仰な理念を積極的に語ったり掲げたりすることは、外国の「さかしら」なる思想に日本が汚
染された証左にほかならなかったわけです。
では、現実の世界における戦禍が拡大の一途をたどり、国民の生活はますます疲弊し、したがって遠い「神の代」からはますます遠ざかってゆく当時の日
本の状況に対し、知識人としての保田はどのように応答したのでしょうか。たとえばフライブルク大学学長就任時のハイデガーのように、軍事教練と労働
キャンプへの参加を通じた民族への奉仕を国民に向かって声高に説いたりしたでしょうか。あらゆる体系的な知と知の体系とに、そしてあらゆるまことしや
かな政治的理念に対して激しい嫌悪を示していた保田が、具体的な政治活動のための説法などをすることなどあり得ませんでした。代わりに保田が語っ
たのは、悲惨な現状をありのままに認識し、それを受け入れる、というある種の諦念でした。保田の言葉を引用してみます。

僕には文藝評論の使命も、文藝の利用法もわからない。僞りのない告白である。まして他人の問題に關與し、あなたはどうするがいいといふ社會關心を教
へることなどもつての他と考へてゐる。今日の知識階級を導く文學など考へやうもないし、ただ一途に現在の沒落と古典の光榮の間にあちゆきこちゆきし
てゐる己を示せば足りると分に安じてゐる。

ここには保田の重要な認識的構えが表明されています。つまり、「現在の沒落と古典の光榮の間」という認識です。保田は日本が、まったく異なる二つの
力によって引き裂かれており、それら二つの力の間で、いわば宙吊り状態になっていると考えていました。そして保田によれば、そうした宙吊り状態を正確
に認識することこそが、真のリアリズムであったわけです。「現在の沒落と古典の光榮の間」とは何かというと、それをいま少しだけ具体的にいえば、こうい
うことです―『古事記』や『万葉集』から『新古今和歌集』へと継承された偉大なる「文藝」の伝統と、外来思想に汚染された“植民地の知性”が跋扈する近
代日本の知的情況との「間」であり、皇祖神天照大神が生まれた国である“日本”と、欧米列強の植民地支配にかつて脅威を感じ、しかし今やそれに対抗
するために自ら大陸の植民地化を企てる帝国日本との「間」であり、そしてとりわけ、その頂点に鎮座する「神」の直系の子孫である天皇と、アジアを戦渦
に巻き込む軍国主義国家の大元帥との「間」であります。繰り返せば、日本と日本人はこの「間」に立たされている。そしてその「間」の認識、「間」にある、
という認識こそが、リアリズムと呼ぶに値するものだと保田は考えたわけです。そして保田は、そうしたリアリズム、現状認識を、フリードリヒ・シュレーゲル
に倣って「イロニー(=アイロニー)」と呼びました。

本来であればシュレーゲルのイロニー概念と保田のそれとを比較する必要があるのですが、冒頭で述べましたように、ここではとてもそのような時間があ
りませんので、話を強引にまとめなければなりません。保田によれば、そうした「間」において宙吊りになっている日本の姿をもっともリアルに表現している
のは、戦場の名もなき兵士たちでありました。ふたたび保田の言葉を引いてみましょう。

我らの文學史そのものの考え方さへ、今日では西歐の植民地状態に近いものにすぎぬのではないか。それを考へるとき、私は傅統の詩が、今日の姿であ
らはれてゐる唯一のものを思ふのである。それらは今は兵士らの會話やひとりごとの中にあるものかもしれない。それは戰場から送られて、けふの文藝の
眼で選ばれてゐる詩歌以上に壮大なものかもしれない。

兵士たちは、戦争が本当に命を賭して戦う価値があるものなのかを疑わしく思っており、また、八紘一宇やアジアの開放などという大仰な標語とは裏腹に、
実際の自分たちの行動がアジアへの侵略であり、また、かの地の人々の凄惨な大量殺戮でしかないという矛盾に薄々気づいている。彼らが戦場で生々
しく直面するそうした矛盾は、しかし、彼らにあの「間」の認識、つまり保田がいうところのイロニーに目覚めさせる究極の現実であり、「宙吊り状態」であった
のです。あるいはむしろ、保田の考えでは、兵士たちは保田自身のイロニーさえをも凌駕していました。なぜなら、兵士たちが戦場で纏うことになるイロニ
ーは、もはやひとりの文芸評論家が文芸作品に接して想いを馳せるところの思弁的なそれではなく、経験され、実践され、そして体現されたイロニーだから
です。言い換えれば、兵士たちは戦場においてイロニーを実際に生きているのだ、と保田は考えたのでした。

すでに敗色が濃厚となり、行き着く先の死が決定的であるにもかかわらず無言で戦地に赴く名もなき兵士たちに、保田はまさに「人智のさかしら」を超越し
て現状をありのままに受け入れる古の日本人、神と一体化しつつ自然を生きていた遠い昔の人々の姿を幻視し、それを称揚したのでした。遠く海を隔てた
戦場で粛々とただ無駄に命を落としてゆく兵士たちは、保田にとって、いかなる文学作品よりも“日本”の喪失を見事に体現していたのであり、勝利が不可
能であればあるほど、それは古の“日本”の回復不可能性を哀れなほど美しく表象したわけです。多くの若者たちが熱病に浮かれたかの如くに接した保田
の思想は、兵士となる彼らを鼓舞する類のものではあり得ませんでしたが、彼らの玉砕に審美主義的な色彩を確実に与えていました。宣長から引き継が
れた徹底的な主知主義批判は、保田によって死の美学化へと転化されたのです。

私が保田與重郎という人に興味を持ったのは、もう10年以上も前のことです。しかし近年、私は保田の思想にある種の現実味を感じています。つまり、6年
前の9月11日の事件や、その後の一連のテロ事件に接するたびに、あのような自爆テロを起こした人物たち―実行犯はおそらくほとんどが若者でしょうが
―のことを、たとえば戦中の保田ならばどのように評価しただろうかということを、思わず考えてしまうのです。それは、世界中の誰もが理解に苦しむ自殺
的攻撃を正規の軍事作戦として採用した旧日本軍が、後世に最悪の先例を残してしまったからということだけではありません。もとよりあのようなテロリズ
ムを起こした犯罪者たちに同情の余地などありませんが、しかし、彼らはわれわれが思っているほどに気の狂った者たちでもなければ、ましてや自分の命
と引き換えに多くの罪もない人々の命を奪うことで、本当に世界を変えることができるなどとさえ、実は思っていないのではないかという疑念を、私はどう
にも払拭することができないからでもあります。何か積極的な理想や大儀のために命を落とすということではなく、むしろ、そうした理想や大儀を喪失して
しまった絶望的な情況こそが、実はあのような犯罪の背景としてあるのではないかと思うのです。

保田の「浪漫主義」は、宗教的、道徳的、あるいは倫理的な命令が一切無効になり、しかし、にもかかわらず、もはや回避しようのない自らの死に対して、
なにがしかの理由ならざる理由を与えてくれるものとして多くの人々に受け入れられました。非常にしばしば「イスラム原理主義」という特定の宗教の名と
結び付けられる現代のテロリズムが、宗教的な価値観などではなく、実はむしろ絶望や諦念、そして非常に冷たい、氷のように冷え切った怒りによって縁
取られているのであるとしたら、保田の思想を詳細に分析することは、思いのほか現代的な意義があるのかもしれないと思う次第です。
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松田 道男

	
現代グローバリズムの超国民国家的性格と
世界新秩序構築の必要性

(Abstract)
The Search of New Global Order in the Age of Contemporary Globalism:

Globalism is not a new concept in the present-day world. It dates back to the early days of colonialism in the 15th century when the Europeans 
recognized the world was spherical and started exploring it with their then state-of-the-art technology: the art of navigation and weaponry. The 
ensuing imperialism and the Industrial Revolution caused nation-states to struggle for territorial and economic gains, and global hegemony in conflict 
among them leading to a disastrous end: the World War II (1939-1945). The post-war era is characterized by the following three global trends:
-the creation of the United Nations and UN-centric bodies 
-the emergence of the Third World 
-the dominance of the Cold War 

The fall of the Berlin Wall in 1989 symbolized the shift from the abovementioned post-war globalism to contemporary globalism as part of the 
dialectical conclusion of the long-standing confrontation between capitalism and communism. It also should be differentiated from its preceding 
globalism by its dual supporting infrastructure: universal market economy that has facilitated free, borderless flow of trade, money, information 
and human resources, and ubiquitous information technology (IT) that has made the world totally integrated and simultaneously interactive. This 
progressive development of globalization has significantly impacted every aspect of human activities not only economical and financial, but also 
political, technological, environmental, social, and cultural in both positive and negative ways. More importantly, we have to deal with a vast 
variety of new problems arising out of globalization with clear recognition that its process is intrinsically irreversible and historically inevitable.

While such  “new” problems pertaining to contemporary globalism as  new inequalities, global warming and negative ramifications of 
multinational corporations’ activities have yet to be adequately addressed, the world is still tackling the “old” ones like poverty, disease, 
hunger, regional/ethnic conflicts and international terrorism, part of which the process of contemporary globalization has helped to exacerbate. 
While the United Nations and its affiliated organizations were designed to provide solutions to these old and new issues based on global 
consensus, it has become evident that these intergovernmental organizations are not always able to function as originally designed because of 
deficiencies in their decision-making procedures, out-dated bureaucracy and internal and inter-organizational competition.  Furthermore, it has 
proved that such intergovernmental organizations as the IMF, World Bank and WTO operating upon the theory of neo-liberalism cannot fully 
respond to such new issues as global financial crises; the IMF has lost the effective means to monitor and control rapid development of financial 
capitalism propagated by multinational and sovereign funds; the WTO has faced a serious stalemate around the Doha development round 
negotiations primarily because of its inherent weakness associated with the asymmetry and inequalities between developed and developing 
nations. 

In order to foster a balanced advancement of the world’s peace and welfare by coping with the “old” and “new” problems , we have to 
create new democratic, equitable global order through revamping the existing United Nations and the UN-centric bodies; For such a purpose, 
new action need be taken to ensure democratic and equitable representation of all the participant nation-states, change their decision-making 
systems to avoid the stalemates they seem to prone to, secure equitable allocation of members’ funding obligations, and reengineer their 
organizations for smooth operation and the efficient recruitment of competent staff and experts; Those intergovernmental organizations 
should be equipped with adequate mechanisms to accommodate NGOs and corporate entities as “global citizens” so that they can operate 
in an open, transparent and accountable manner. In addition, information technology must be fully utilized to interact with civil organizations 
and individuals on a global scale.  

In order to cope with and rectify the ramifications due to contemporary globalization, a “New Global Order” should be created by forming a 
supra-state consensus with the reengineered framework of cogent UN-centric intergovernmental organizations. Concurrently, the following 
three actions are to be implemented urgently:

-To perpetuate the spirit of the UN Millennium Development Goals beyond the original deadline of 2025 by forming a more efficiently coordinated 
network that should consolidate the existing UN organizations in charge of fighting extreme poverty and inequalities, and by securing stronger 
contributions of the richer UN countries.
 
-To create a new integrated organization to deal with the global warming problem, able to cover all of the associated activities ranging from 
research, which the IPCC is currently performing, to implementation of programs.

  -To formulate and establish mechanisms to accommodate multinational corporations and international NGOs as global citizens within the 
framework of UN-centric organizations in order to make them more accountable, responsive, and efficient by utilizing external resources.

[論文]

第1章 現代グローバリズムの歴史的位置付け
現在では、グローバル(global)という言葉が、internationalやworldに代わって使われているのであるが、なぜわれわれがinternational ではなく、global
という言葉を必要とするのであろうか。internationalとは、“国家と国家の間で”が原義であり、一方globalは、全地球的という意味である。日本語では、
グローバルと英語をそのままカタカナ語にして使用しているが、中国語では“全球的”と翻訳している。internationalという言葉で,世界を言及する際の
視点は、国民国家の中に置かれていて、他の国民国家を見ているが、globalという言葉で,世界を言及する際の視点は、あたかも月から地球を見るよう
に、国民国家を超越したところに置かれていることが最も重要な相違点である。

そしてglobalが動詞化しさらに名詞化したglobalizationという概念は、人類が自分の回りの世界とは別次元の地球全体を経済活動の場として意識し
て行動を始めたときに、さかのぼることができるのである。すなわちグローバリズムの原点は、西欧社会が‘地球が丸い’という事実を認識しつつ、世界
を探検しその領土を拡大させ始めた時代にすでに存在したのである。南北アメリカや、アフリカ、アジア・太平洋というすでに人が住み存在していた世
界を、西欧各国が“新世界として再発見”した大航海時代こそグローバリズムの黎明の時代である。こうした植民地化過程において17世紀初頭に英国
やオランダに設立された東インド株式会社という軍産複合体的企業の存在には特に注目しておく必要がある。その経済活動は植民地域に対する、奴
隷貿易を含む収奪的な交易であり、それを支えたのは、航海術と鉄砲という当時のイノベーションに支えられた軍事力であったのである。そして17世
紀後半には、ロンドンにできた多数のコーヒーハウスのひとつが、ロイド保険会社に発展し、ロンドンはこれ以降、情報・金融センターとして機能し始め
たのであるが、これはまさに現代のグローバル企業活動の原型である。

次いで18世紀から勃興した産業革命によって、飛躍的な技術革新と経済力の爆発的拡大がもたらされ、国力と軍事力の基盤を固めた国民国家群が、
植民地と経済的利権の獲得競争にしのぎを削り、そしてついには第一次(1914-1918)、第二次(1939-1945)の両大戦という人類史上未曾有の破壊を
経験することになるのである。一方先進工業国内においては、資本主義のもたらした労働者階級と農民層の貧窮化という社会矛盾を解決せんとする
新しい社会主義思想が時代の一大潮流を形成するに至り、その結果第一次世界大戦に前後してロシアに共産主義国家が出現し、国際共産主義運動
が起こったことは20世紀のグローバリズムの展開の観点から、極めて重要な意味を持つのである。

15世紀の植民地主義の誕生から1945年の第二次世界大戦終了まで500年間を、大きく帝国主義的膨張政策の時代と総括して、“歴史的グローバリズ
ム”の時代と仮に呼ぶことにする。
世界中に苛烈な人的損害と富の破壊を引き起こした第二次世界大戦が、ドイツ・日本・イタリアというファシズム枢軸側の敗北という形で1945年に終
結した。戦後世界の再構築にあたって、軍備拡張と帝国主義的利害の衝突が二度の世界大戦の原因となったことと、国際連盟がその期待された機
能を発揮できなかったことへの反省から、新たな国家間の利害調整と協調の実現を目指し、国際連合1)が設立された。そして従来から存在していた
専門機関に加えて新しく設立された多数の関連機構が国際連合のもとに再編成された。さらに戦後の世界経済の中心的な役割を果たすことになる
IMF、世界銀行、GATT(現在のWTO)が設立され、いわゆるブレトン・ウッズ体制が米国の主導の下に形成されたのである。

また戦後は、歴史的グローバリズムの時代にすでに始まっていた植民地における抵抗運動がさらに激化し、民族独立が世界各地で実現した
時代でもあった。新しく独立したインド・エジプト・インドネシアなどのアジア・アフリカの多数の新興国は第三世界を形成して先進国に対抗し、いわゆ
る南北対立の構図が形成された。一方、最も重要な歴史的展開は、米国を中心とした資本主義・自由主義圏と、国際共産主義運動を推進したソ連を
中心とした社会主義・計画経済圏との厳しい東西軍事対立の時代となったことである。この冷戦と呼ばれた状況下で、世界はいわゆる“鉄のカーテン”
によって東西二つに分極したために、グローバルな活動は大きく制限されたのである。そして何にもまして、記憶しなければならないことは、科学技術
の発展がもたらした恩恵と裏腹な核戦争の恐怖が国際政治に暗い影を落とし、人類史上初めて人類の全滅の危険性を現実の問題として正面から考
えねばならなくなったことである。

こうした状況下で、国際連合をはじめとする諸機関は、平和維持、通貨安定、自由貿易拡大、発展途上国への経済支援の面で大きな貢献をしたが、
次第に東西冷戦下の米ソ対立に阻まれて、その意思決定メカニズムや組織構造上の欠陥を露呈することがしばしば発生した。このため地域紛争の
多発局面で十分その機能を発揮できなかったり、調整能力が弱体化したりする事態が目立つようになった。

この1945年の第二次世界大戦の終結から、次に述べる現代グローバリズムの時代に入る1990年代の半ばまでの約50年間は、科学技術の発展と経
済成長を基礎構造にした、植民地解放から第3世界の形成と南北問題の深刻化、資本主義と共産主義のイデオロギーの衝突による東西対立の深刻
化を二つの特徴とする時代であった。この時代をこの小論の中では“戦後グローバリズムの時代”と仮に呼んでおく。

さて、この戦後グローバリズムの終焉を引き起こした種々の原因のすべてを一点に象徴しているのが、1989年に起こった“ベルリンの壁の崩壊”であ
る。ここからは、その後1990年代に入って、地球的規模の強い影響力を持ち始めた新しいグローバリズムを“現代グローバリズム”と呼んで論を進め
る。現代グローバリズムは、政治的、経済的利得を求める国民国家の帝国主義的な意思を出発点とすることにおいては、歴史的グローバリズムや戦
後グローバリズムと本質的に変るところはない。しかし現代グローバリズムは、その源を経済活動に発しながら政治・軍事・社会・文化・言語(特に英
語のグローバル化)などの人類の活動分野すべてにおいて、過去にはまったく無かった規模とスピードで、国境と時間差なき一体化と平準化を引き
起こしていることに大きな特徴がある。

現実世界では、ベルリンの壁崩壊に象徴される一連の激変の過程を経て、ソ連をはじめとする東側諸国の計画経済体制が自壊し、資本主義と共産
主義の対立は、資本主義への収斂という形で新時代へとaufhebenされたのである。この間に、資本主義経済体制は、市場経済体制と言いかえられ、
旧ソ連諸国、東欧諸国、中国などの計画経済を信奉してきた国々が競うように、この市場経済体制へ移行したのである。さらに、21世紀になって、全
世界人口66億人のうち約28億人を占めるBRICs諸国(ブラジル、ロシア、インド、中国)が市場経済国民国家として、経済的実力をつけたことによっ
て、市場経済体制はさらに地球的規模の堅固な普遍性を確立したのである。

ITは、90年代から急速に発展し、特にインターネットは、簡単な訓練で誰でも使える“道具”となった。さらに地球全体を包み込むグローバル・ネットワ
ークの完成による、“ITの遍在化”によって、ヒト、モノ、カネ、情報という経済を支える重要な要素が移動するための時間が、飛躍的に短縮された。そ
の結果国民経済のグローバル化とグローバル企業活動の、”国境無き自己増殖的拡大“が実現したのである。

このプロセスは時間の経過とともにますます加速されている歴史上の必然であり、不可逆過程であるが、それが引き起こす問題はすでに、地球規
模で顕在化している。その結果、グローバリゼーションが本来もたらすべきはずであった公平な分配という平準化に逆行する、最貧国の固定化、途
上国間の成長格差、途上国国内の所得格差の拡大、先進国国内の新しい貧困層の発生という深刻な事態が発生しているのである。

また21世紀に入って、米国による軍事的優勢と市場原理主義による一極的世界支配構造に対して、イスラム教原理主義者側から、国際テロリズム
と内戦という形での異議申し立てが激化している。そして、2007年は、米国の世界経済に占めてきた圧倒的な地位に重大な変化が生じた年として記
憶されることになるかもしれない。その象徴的な事象は、原油価格の急上昇とドルへの信任の崩壊である。世界はグローバリゼーションの進展により、
かつて途上国といわれた国や資源産出国へ、富と生産力の急速な移転を起こしているが、こうした経済力の再配置によって、新たな国際政治のバラ
ンスが必ず創出されるはずである。現代グローバリズムは、すでに、一極集中から多元化と分極化の方向に弁証法的ベクトルを定めたのである。

第2章	現代グローバル企業の超国民国家行動

現代グローバリズムが創出した、地球規模の自由化された市場経済体制のもとで、グローバル企業は、貿易・金融・投資に関して国民国家の枠組み
を超えた大きな自由度を与えられて活動を展開することができるようになった。そしてグローバル企業にとって、最も高品質で最も安い製品を製造す
るには世界のどこに製造拠点を置けばよいか、最も低賃金で訓練度の高いサービスはどこに委託すればよいかという経営上の選択は、ITも駆使して
きわめて容易に行うことができるようになった。この結果、発展途上国の労働力は、国境を越えた仮想的なひとつのプールの中に囲い込まれて、発
展途上国の労働者の賃金は、“途上国群の労働力プール”の中のもっとも低いレベルに収斂していく。また中国のように国内に大きな地方格差があ
る国では、地方の10億人の人口プールから、3億人の発展地域に向かって、恒常的に低賃金の労働力が常に供給されるので、発展地域における賃
金上昇も長期にわたり抑制される。一方先進国の国内においてもグローバル企業は、最も安い製品が途上国から調達できるだけでなく、従来は海外
への移転が難しかった種々のサービスも途上国にほぼ瞬時に外注できるので、雇用機会が時間差なく移動するだけでなく、先進国内の賃金も発展
途上国側の低い水準に向かって常時引き下げ圧力を受けることになる。さらには、労働市場全体が供給過剰となって、非熟練労働者や非正規労働
者の賃金水準はさらに下がり、結果的にワーキング・プア階層の出現の原因を作っている。また発展途上国側では、多国籍企業の下請け工場にお
いて、劣悪な労働条件で長時間働く労働者や、未就学児童の使役の問題が、ILOなどの国際機関や多数のNGOによって厳しい指摘を受けている。こ
れらは、マルクス経済学がすでに理論的に解明した19世紀的な労働者階級搾取という古い問題のグローバリズム下での再浮上にほかならない。現
在世界経済は、長期にわたる成長と物価安定を享受しているが、それはグローバル化した低賃金労働市場がもたらす製品とサービスの低価格化に
負うところが大きいのである。こうした矛盾の上で、先進国の多国籍企業や、発展途上国の新興企業が、高収益を上げることのみを追求し続けること
は許されない。このことは、企業の社会的責任(CSR: Corporate Social Responsibility)の観点から、環境破壊問題への責任の自覚とともに、次第に
企業家の自覚するところとなってきているが、今後さらに、グローバルな規制の枠組みを形成していくべきである。

いまひとつの、グローバル企業の超国民国家行動の顕著な例は、国際金融の場に見出される。今や、金融と投資の自由化とITの進展により、巨額資
金を瞬時にグローバルに集め、瞬時にグローバルに運用することが可能になり、シドニー、東京、シンガポール、上海、香港、ムンバイ、ドバイ、ロンド
ン、パリ、フランクフルト、ニューヨークの株式や商品の市場は、時差を越えて継ぎ目無しに一体化されるようになった。そしてこの巨大なグローバル
市場を動かしているのは、ITを駆使するファンドと称されるあたらしいプレーヤーである。彼らが運用するグローバル・マネーは、短期的な収益の極
大化のために、瞬時にかつ大規模に移動しうるので、彼らによって投資対象として選択された市場や商品は、その思惑で大きく乱高下することとな
る。このようにグローバル・マネーは、国民国家の枠組みを超えたところで、その独自の意思決定を行い、世界経済や各国の金融・財政政策に非常
に大きな影響を与える行動をとる超国民国家的存在となってきている。

本年中半になって欧米の金融市場が混乱した原因を作ったサブプライム・ローン問題がいみじくも証明したように、現在のところ、IMFや各国の金融
規制機関は、グローバル・マネーの行動を監視し、規制する有効な手段を持っていないため、危機対応は常に後追いの形とならざるをえないのであ
る。サブプライム・ローンに関する金融危機は、必ず発生するものと予測されながら、実態把握と修正措置が放置されたという事実そのものが、超
国民国家企業行動の問題の典型として、われわれに教科書的知識を提供しているのである。

この章では、グローバル企業の超国民国家的活動について二つの側面を観察したが、いずれも現代グローバリズムのもとにおいて、“見えざる手”
に依存する楽観的自由放任主義が深刻な問題をもたらし始めていることに留意しなければならない。

第3章 新たな国際機関の集合体構築によるNew Global Order形成

これまで見てきたように、最貧国がいつまでも貧困から脱却できない事実や、新しい貧富格差が地球規模で拡大している問題、世界の急速な経済
成長によって加速されている地球温暖化問題、そして規制を受けず膨張するグローバル企業の超国民国家行動の弊害は、貧困・疾病・飢餓・地域
紛争などの“古くからある”問題とも深く相互連関しているので、それぞれ個別に対策を講じるのではなく、古い問題も新しい問題も包括的に取り組
み、そしてそれぞれ専門的に解決するというアプローチが必要となる。

こうした急速に世界のあり方を変化させている現代グローバリズムのもたらす事態に対処するには、超大国によるイニシアティブ、個々の国民国家
の対処行動、EU・ASEANのような地域国家連合による行動だけでは不十分であり、国際的な機関の集合体による、いわゆるグローバル・コンセン
サスによる解決が必要となる。しかし国連を中心とした現在の国際機関の集合体では、すでに戦後グローバリズムの概説のところで見たように、問
題解決の機能を十分発揮できない局面が多発している。その主たる原因として、戦後グローバリズム体制のもとで形成された意思決定メカニズム
があげられる。その誕生から60年を経たこれら国連およびその関連組織は、その組織DNAに組み込まれた設計寿命に達したとも言うべき状態にあ
り、硬直化、官僚主義化、組織間の機能重複や競合といった老化現象が目立っているので、徹底的な組織改革と再活性化が必要である。具体的な
構造改革にあたっては
①	正しい最新の情報を共有する仕組みの上に立って、解決案を人類全体に提示し、有効かつ公正なコンセンサスを形成し、迅速かつ実効の
ある行動に取り組むことのできる機関の集合体へと国際連合を再構築すること。人類全体と地球全体を視野に収める思考を問題解決の原点に置く
べきことは論を待たない。
②	こうしたグローバル組織の中核を形成する国際連合の、民主的にして、透明な意思決定と政策実行のメカニズムを確立すること。参加国
数が190を超える国連という国際機関を、公正にそして民主的に運営する仕組みの導入が今こそもっとも必要とされているのである。特に国連総会
の常任・非常任理事国制度と、五大国の拒否権の存在は、まさに戦後グローバリズムの遺制であり、抜本的に修正しなければならないのである。国
連や、既存の国際機関の不合理な規約(たとえばドイツや日本に対する敵国条項)の改正や、不十分な運営状況に関して、機能不全の理由を個々に分析
して改善策を講じること。参加国間の公正な分担金割り当てと、十分な資金拠出の確保、それに均衡する参加国の権利・義務関係の刷新、円滑な
業務執行を保障する組織とすること、必要な人材確保手段の抜本的改革ことが必要である。
③	国連を中心とするこれら関係諸機関の、役割分担の合理性を担保し、機能の重複や競合を除去する作業を確実に行い、協調の取れた集
合体として常に機能させる監視制度も国連内部に設置することも必要となる。
またIMF、世界銀行、WTOグループにおいては、これらの機関が拠って立ついわゆる“ワシントン・コンセンサス”3)と呼ばれるネオリベラリズム4)の政
策がもはや有効かつ公正に機能しえないことが、いくつかの経済危機において、とりわけIMFが無力であったことで証明されている。WTOが発展途上
国に対して非対称で不利な条件を押し付けながら、先進国やその国の超国民国家企業すなわち多国籍企業の利益を擁護しているとの抗議が1999
年のシアトルにおけるWTO閣僚会議の際、NGOによって行われ暴動にまで発展したことは記憶に新しいところである5)。そしてこれらの3機関のすべ
てが、グローバル企業の超国民国家的行動が惹起する世界経済問題への対応能力を喪失し始めていることは、前章で見たように明白であるので根
本的な改革が必要となっている。従って、これら3機関は、各機関の最高トップを欧米で独占するという戦後グローバリズムの遺制をただちに廃止した
上で、
①	何よりもまずネオリベラリズムから脱却し、本来の使命である世界の公正にして効率的な経済開発と経済システムの安定化の観点から行
動原理を根本的に見直すという改革が必要である。特に世界の貧困と格差の問題を最優先課題として取り組むこととが必要であり、
②	グローバル企業の超国民国家的行動に関する有効な規制能力の創生を新しい任務として認識することが必要である。
また、上記のような国連を中核とする国際機関の集合体に対する中・長期的観点からの構造改革への取り組みと平行して、特に次の3点を喫緊の政
策課題として取り組むべきと考える。

①	貧困対策の強化と加速:
現時点で世界では今なお10億人が一日の所得1ドル以下で、40億人が一日2ドル以下で暮らしているが、貧困そのものとそれに付随する疾病と飢
餓の追放は、単なる一時的・局所的な物質的・金銭的援助のみでは達成することはできない。それは援助の量と質の問題もさることながら、受入国
側の民族対立や民族紛争による混乱、政治家、官僚、軍部の腐敗によって援助物資が必要なところには届かないという現実、配給を確実に実行で
きる官僚機構の不在の問題などが、援助の効果を阻害するからである。そして初等教育や職業訓練、医療援助、そして小さなビジネスを起こすた
めの小額の貸し出しなどの制度なくして物質的な援助を続けても最貧国の人々を永続的には救済できない。またいま適切な援助を行わぬと最貧国
は、永遠にその状態を脱することができないという現実問題に対してただちに対策を強化すべきである。この意味で、“2015年までに一日1ドル以下
で暮らす人の数を半減させる”ことなどを盛り込んだ、2000年の国連決議“ミレニアム開発目標(MDG)2015”6)は、貧困対策の基本理念とすべきも
のである。目標期限の2015年までの達成は必ずしも楽観を許す状況ではないので、このMDGを再度俎上に載せて、国連の恒久的な政策に組み入
れ、新たな達成目標と行動計画を可及的速やかに再設定することが必要である。また、最貧国の救済手段としての無償援助や、Jubilee 20007)の
ごとき債務免除の国際的な施策は繰り返し重点的に実施する必要がある。貧困こそが、児童虐待・乳幼児と妊婦の死亡率の高さ・疫病の蔓延・地
域紛争の直接原因となることを考慮すればこの問題への世界の関心をもっと高め、各国のMDGへの公的支援の強化を図るべきである。

②	地球温暖化問題対処のための総合的国際機関創設
2012年に期限が到来する現行の京都議定書については、1997年に調印されて以後米国が離脱し、中国・インドが規制の対象からはずれているなど
の問題点を抱えている。また先進国と発展途上国間の利害相反がますます強くなっているうえに、2012年の二酸化炭素発生抑制目標が達成不可
能であることが明確になってきた。しかるに本年に入って、地球温暖化問題の深刻さへの認識が高まった結果、6月のG8首脳会議、9月のAPEC首脳
会議・国連総会などの場で、この問題が真剣に中心議題として取り上げられた。そして米国が京都議定以後の新しい枠組みへの復帰を宣言したい
まこそ、この問題を全人類的課題として取り組む国際機関を、国連を中心に再編すべき時期であると判断する。具体的には、国連全加盟国が参加
する新組織を、WMO(国連気象機関)および国連環境計画(UNEP)と本年度ノーベル平和賞受賞が決定したIPCC(Intergovernmental Panel for 
Climate Change)の両組織を母体として、2012年までに立ち上げることである。その新組織は二酸化炭素排出抑制を図るための調査研究機能のみ
ならず、政策提言や政策実行を行う総合的かつ恒久的な国際機関としなければならない。
特に政策面では二酸化炭素排出権取引の公正さと有効性両面での議論を根本的にやり直し、市場原理重視のあまり排出権取引に二酸化炭素発
生の抑制効果根拠の薄いプロジェクトを不公正に対象にふくめたり、取引が投機対象とされて制度そのものを歪ませたりせぬようにしなければな
らない。

③	NGOとグローバル企業の国際機関への参画の定式化 
グローバル企業は、国家主権を超えたグローバルな場における行動の自由を得て、自己の利益の極大化を行動原理としてその事業を展開している
が、現時点においては、その活動に対してわれわれは公正にして有効な監視と規制の手段を持っていないことをすでに述べた。中でも国際金融に関
する監視と規制は、IMFや各国の金融規制機関の能力を超えているのが現状であるから、早急に新しい国際的な規制の仕組みつくりが必要となって
いる。
一方、企業の社会的責任を軸にしたアナン前国連事務総長の提案によって採択された“グローバル・コンパクト”8)の10か条からなる精神は地球市
民としての企業の位置づけを行うという意味で極めて価値のあるものである。したがってグローバル企業行動の及ぼす負の影響を効果的に制御し
ていく仕組みを作るベースとするために、それをいわば“憲法”として生かし将来は国際条約とするべきである。その準備のためにも、グローバル企
業を、国連組織体の各機関の活動に広く参加させる仕組みを作ることは、企業の持つ知識と知見が活用できるだけでなく、その活動への積極的参
加を通して、企業に地球市民としての自覚と責任を促すことができるという大きな意味がある。

一方、1999年のシアトルにおける暴動以後も、NGOによる反グローバリゼーション運動は各方面で、粘り強く続いているが、G8やWTOの運営にも強
い影響を与えてきた。NGOと国際機関との協調という観点からすると、現在では、NGOも暴動という強硬な手段を行使する段階を脱し、関係国際機
関や、国家・企業と対話を行う時代に入ってきたことは注目に値する。また国際機関側でも、NGOと対立するばかりでなく、NGOの主張や知見を前向
きに取り入れ始めている。たとえば国連事務局には、1,533団体が現在登録されている。しかしNGOの国連組織体への参加メカニズムや、その意見
を取り入れるルールは各機関で、確立しているとは言いがたく、NGOを地球市民として、これらの国際機関で有効に機能させるためにはなお、議論
と検証を必要としている。

いずれにせよ国際機関にとって、グローバル企業とNGOともに、地球市民としての参加を求めることは、国際機関自身の運営の透明性を高めるだけ
でなく、彼らの知見と意見を組織的な仕組みを通して取りいれることができるという大きなメリットがある。そしてインターネットをはじめとしたITはその
流れを進めるにあたり、大きな助けになることは疑いの無いところであるゆえ、ITの活用も大いに図るべきである。

(まとめ)
現代グローバリズムの問題を克服し、弁証法的に新たな世界の秩序に向かって世界を変えていくためには、国連を中心とした国際機関を、合目的
的な、公正かつ民主的な組織の集合体へと、組み替えて、それが有効に機能するようにしていくことが人類的課題である。換言すれば、現代グロー
バリズムの不可避にして、不可逆な進行がもたらしている多岐にわたる問題点に対処し、制御するためには、そのような国際機関の集合体に依拠
して、超長期の歴史的視点に立つ超国民国家的合意に基づき、世界新秩序(New Global Order)を形成することが最良の選択であると信じる。

「注」
	
1) 国連の設立前後の経緯に関しては下記参考文献10)の第一部「起源」の項を参照。
2) 2007年現在、インターネットのユーザーは全世界で11億人を超えている。
3) ワシントン・コンセンサスについては、下記参考文献9)の55-56頁の脚注を参照。
4) ネオリベラリズムについては下記文献5)第1章を参照。
5) 1999年のシアトル暴動に端を発するNGOによる反グローバリゼーション、反ネオリベラリズム運動の展開については下記文献8)の1-10頁を参照。
6) ミレニアム開発目標の詳細は、国連開発計画のHP(www.undp.org/)を参照。
7) 最貧国を含めた開発途上の重債務国救済のための、対外債務帳消しの実施を推進する国際的運動としての、Jubilee 2000に関しては、各国組織
が開いているHPを参照。
8) 国連グローバル・コンパクトに関しては、下記参考文献9)の69-70頁を参照。


「参考文献」

1)アダム・スミス『国富論』、山岡洋一訳、 日本経済新聞出版社、 2007 
2)Paul A. Samuelson, Economics, An Introductory Analysis, McGraw-Hill, 1964
3)ジョン・K・ガルブレイス『悪意無き欺瞞』、佐和隆光訳、ダイヤモンド社、2004
4)スーザン・ジョージ『WTO徹底批判』、杉村昌昭訳、作品社、2002
5)デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』、渡辺 治監訳、作品社、 2007
6)  Milton & Rose Friedman, Free to Choose, Avon Books, 1979
7)デイヴィッド・K・シプラー『ワーキング・プア アメリカの下層社会』、森岡孝二ほか訳、岩波書店、2007
8)ジョセフ・スティグリッツほか『フェアトレード 格差を生まない経済システム』、浦田秀次郎監訳、 日本経済出版社、2007
9)David Held, Global Covenant, Polity Press, 2004 
10)ポール・ケネディ『人類の議会』、古賀林幸訳、日本経済新聞社、2007
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松本 伊瑳子

work life balanceを考える
ーー21世紀型人間・社会の構築に向けてーー

初めに
1980年代後半にアメリカでwork life balanceなる主張がだされ 、およそ20年後の2007年7月には日本でも「男女共同参画会議・仕事と生活の調和(ワ
ーク・ライフ・バランス)に関する専門調査会報告」  が内閣府から出されました。work life balanceとは、「老若(ろうにゃく)男女(なんにょ)誰もが仕事、家庭
生活、地域生活、個人の自己啓発など、様々な活動について、自らが希望するバランスで展開できる状態」  のことであり、その必要な理由として、少子
高齢化・人口減少時代に対処し、個人、企業・組織、社会全体が持続可能となるようにwork life balanceを変革しなければならないことが挙げられていま
す。これは男女関係から言えば、ようやく日本政府が、<夫が外で仕事、妻が内で家事・育児>という役割分担型から、<男女が共に仕事も家庭生活も
担う>いわゆる<両立型>へ方向転換したといえるでしょう。

長い間、西欧の女性たち以上に家事育児の全責任を一人で負ってきた日本女性から見た場合、内閣府のwork life balanceなる提言を実践しようとすると
きの問題点は何か、また内閣府の提言に書き込まれていないことは何か考えてみたいと思います。ここから、21世紀の新しい人間や社会のあり方が展望
できるかもしれません。

第1章: Workと、<対自己責任>および<対他者責任>の自覚
1983年にアメリカ教育研究出版賞を受賞した『もうひとつの声』という本の中で、アメリカの心理学者のキャロル・ギリガンは、父は仕事、母は家事育児と
いうジェンダー役割に基づく両親に育てられると、少年・少女の心理的発達にどのような差異が表れるかについて研究しています。その中で、大学4年生の
クレアという女性が、自分はキャリアの道を進むのか、あるいは母親と同じように専業主婦となって家事・育児という家族ケアの道を選ぶべきか悩む中で、
母親が夫や子どもの世話をするという<他者に対する責任>を果たしていることに敬意を払いながらも、母親は母親自身の人生を生きるという<自己へ
の責任>を怠っていたのだと母親を批判するに至ります 。

人はある時、ある所で、自分の意思とは関係なくその生を与えられます。しかも生れたときには、動物の赤ちゃんと違って一人で立つことも、母親の乳を
求めて自ら歩くこともできません。必ず誰かに世話をしてもらわなければ生きていけない依存者です。人は依存者として生れ、だんだんと自立し、主体的
人間となってその生を生きることになります。そして人生を歩む中で、自分が生んだ子どもという依存者と、年を取って依存者となった両親、この両方の
依存者の世話をし、そして自分自身もやがて年を取って再び依存者と成って人生を終わっていきます。家族構成員依存者の世話をするというのが他者
に対する責任、<対他者責任>であるなら、自分に与えられた人生を生きるということ、つまり自己実現を果たすことは自己の人生に対する責任、<対
自己責任>と捉えることができると思います。私たちは<対他者責任>と、<対自己責任>の2つの責任を負っているのです 。

人は誰でも高齢者という依存者になったり、事故や病気で障害者という依存者になる可能性がありますが、<対自己責任>とは、高齢や障害を理由に、
自分の人生を生きることをあきらめないということです。そして自分の人生を生きるために援助=他者依存が必要なら、その援助=他者依存を受ける権
利があるということです。この権利は、もちろん社会的に認知され、そして保障されなければなりません。

そして<対自己責任>としての自己実現を可能にするべきもの、これがWorkであってほしいと思います。かつてボーヴォワールは『第二の性』において、
西欧男性を主体、西欧女性を客体と定義し、主体とは、何かの企画projetをたてそれを遂行(すいこう)する人のことだと言いました。仕事において主体的
に企画を立てそれを遂行できるなら、仕事に価値があるといえます。仕事は主体性と切り離せません。主体性は自己中心的なものですが、自己中心的
だからといってもそれ自体は悪いことではありません。内閣府は、仕事Workを定義していませんが、理想的に言えば、主体としての自己実現を可能にす
るべきものであってほしいと思います。

しかし現在の日本人男性は、企業戦士、働き蜂と揶揄され過労死 に至るほど過酷な労働をしていて、自己実現のための仕事、Workの理想的な姿とは
程遠いところにいます。年間1万人ほどの過労死があるそうです 。マルクス主義者の指摘を待つまでもなく、仕事をすることで、自己疎外に陥っていま
す。自己実現を果たすことは、心が豊かになることでもあるのですが、心の豊かさが置き去りにされ、豊かさが経済的豊かさに置き換えられ、その結果、
経済至上主義になり、長時間労働がはびこっています 。今日フランスでは労働時間は、1500~1600時間であるのに対し、東京近郊の働き盛りの男
性会社員の多くは、サービス残業・持ち帰り残業を含め、年2800-3000時間、つまりフランス人の倍近く働いていると推定されるそうです 。1993年
の世論調査では、国民の2人に1人が「過労死の不安を感じる」と答えています 。2001年の総務省の調査によれば、3人に1人の男性が1日10時間以
上働いています。現在の日本では、一方では正規雇用者に見られる長時間労働と高賃金、他方ではパート・アルバイト・派遣・契約社員等の非正規雇
用者に見られる短時間労働と低賃金の二極分化が進んでいます 。正規労働者が過労死に至るほど長時間働かざるを得ない状況や、非正規雇用労働
者のワーキング・プア状態という日本の現状では、仕事に就いている男性は、主体的に生きることが不可能状態にあるという意味で、<対自己責任>を
果たすことのできない状況に置かれていると言えます。Workには自己実現と自己疎外の両面があり、現実の日本の男性のWorkでは、経済的に自立し
うるとしても、自己疎外の面が強く出ているといえるでしょう。

そして日本の男性は長時間労働のために家庭をないがしろにして、過労死にまでは至らないまでも、家族と一緒にすごせず、趣味が持てず、有給休暇さ
えも満足に取れず、一生懸命働いた結果、普段コミュニケーションの取れない年頃の娘からは一緒に下着を洗濯することを拒否され、厚生年金分割が可
能となるのを待っていた妻からは離婚を宣言されるという悲しい結末に至るか 、良くてぬれ落ち葉と揶揄される定年後が待ち受けているのです。

このようなことを考えるなら、日本の男性は自分の労働条件を見直し、企業に対して労働時間短縮を要求できるよう、自主性を持ち、自分の人生を自分
で設計し、自分の人生に責任を持たねばなりません。そしてまた、男性は、自分ひとりで生きているのではなく、家族という他者に支えられて仕事ができ
ているという現実に、もっと目を向け、家族とのきづなをもっと強く結ぶためには、何をしなければならないか、何をしてはならないかを考える必要があり
ます。自己実現としての<対自己責任>のみならず、家族に対する<対他者責任>は、経済的なもののみではなく、もっと心理的・精神的なものを含
んでいるということに目を向けなければなりません。従って<対自己責任>とは、自分の人生を歩む中で、正にその時々に応じてのwork life balanceを
自分で決定することでもありますが、「自分で」決めるというときに、ただ自分の人生のみを考えるのではなく、家族という他者への目配り、気配りも必要
なのです。<対自己責任>と<対他者責任>の両方を考えて、work life balanceを決める必要があるのです。

第2章:長時間労働からの解放
では次に、正規雇用労働者にとって一番の問題である長時間労働の原因とその対策について、work life balanceの観点から考えてみたいと思います。
長時間労働は個人の選択の問題ではなく、グローバリゼーション下での労働者に対する日本の企業システムそのものが生み出している問題です。例え
ば機械を使う工場経営の場合、最新鋭で、より高性能の機械に絶えず入れ換えるために、現在の機械の稼働率を早める必要があり、そのために交替
勤務制や深夜労働を要求するようになります 。また消費者としての私たちがよりよい製品やサービスを求める結果、生産者としての私たちは絶え間な
く生産性を向上する努力をし続け、「顧客を維持するためにも、スピードについていくためにも、コストを引き下げるためにも、より長時間、よりハードに、
そしてパートや派遣などのより不安定な身分で働くように仕向けられる」 のです。

アメリカのwork life balanceを論じた森岡孝二氏は、work life balanceで「意図されているのは労働時間の標準化ではなく、多様化、分散化、個人化で
ある。その結果、労働時間の個人差が大きくなり、社員が勤務形態を選択する余地を拡大することにはなっても、社員全体の労働時間を短縮し働きす
ぎを防止することにはならないだろう」といっています 。日本のように長時間労働に歯止めがかからない社会である限り、work life balanceという<労
働時間の個人化>は、起こりようがないといわねばなりません。

人生の段階に応じてwork life balanceを可能にするためには、長時間労働の規制と共に、フルタイムやパートタイムを自由に選択しなおすことが可能
でなければなりません。現在の日本では、いったんパートタイムの道を選択すると、再びフルタイムへ戻ることは事実上不可能であり、低賃金のワーキ
ング・プア状態に陥って二度と回帰できなくなります。この点で非常に参考になるのは、フルタイムとパートタイムの区別なく時間当たり同一賃金を実現
し、年金、保険、社会保障、昇進等における差別を禁じ、労働者がいつでもフルタイム、パートタイムの働き方のいずれをも選択可能にした、いわゆる「オ
ランダモデル」です 。オランダはこのシステムを導入することで、労働時間をEU平均より300時間も下回る1350時間まで短縮することに成功しました 。
したがってwork life balanceを「自らが希望するバランスで展開できる状態」にするためには、同一労働同一賃金の実現が不可欠です。長時間労働も
ワーキング・プアも同一労働同一賃金も、その人の能力の問題ではない社会制度の問題であり、ましてや「自己責任」などではありません。このような
雇用契約・労働条件・賃金条件に関することは、work life balanceを実現可能にするために政治的・社会的視野に立った上で、立法措置によって解決
しなければなりません。

第3章:Lifeを主体的に生きることの重要性と対他者責任
では次にWorkに対するLifeとは何かを見てみましょう 。Lifeとは、家事・育児・介護といった家庭生活と、地域活動、そして余暇活動の3つに区分できる
と思います。女性の家庭生活で一番の比重を占めているのは家事・育児・介護で、その合間に、地域活動や余暇活動を行っています。なぜ日本の高学
歴女性の多くは結婚や出産を機に仕事をやめてしまい、二度と再び仕事に就かない人生を送るのでしょうか。長時間労働を強いられる労働環境の中で、
夫婦が共にキャリアの道を進めば家事・育児・介護が困難になるというのがその大きな理由のひとつです。また、子どもを持つことを放棄してキャリアの
道に進めば、長時間労働という非人間的生き方になるので、それよりは家庭という狭く限られた範囲内とはいえ、その中で、子どもを育てたり、カルチャ
ーセンターで自己啓発したり、友人とランチを食べながらおしゃべりする余暇のある生活のほうが、より人間的だと考えているからです。経済的豊かさの
保障は夫に任せて、妻たちは心のゆとりや生活の質のほうにもっぱら関心を向けたのです。

ここではLifeの中で一番の比重を占めていてかつ重要な、家庭生活、つまり家事・育児・介護を中心に考えてみたいと思います。育児・介護とは、主に自
立のできていない子どもと老親の世話、つまり他者の世話がなければ生きていけない依存者の世話です。こういった家族構成員依存者に対する責任、
<対他者責任>を、日本女性は主に一人で負っています。そして家事とは炊事・洗濯・掃除などを指しますが、注目すべきは家事をする過程で、例えば
「家族と食べる肉や野菜は安全か?」という家庭内部だけでは解決できない極めて社会性の高い疑問を抱くことになることです。このような主婦の消費
者としての意識の高まりは、営利目的の企業活動に対する批判となり、企業活動をより社会性のあるものへと変化させる運動へと発展する可能性を秘
めています。事実、中嶋さとこ;公子さんが言及されているように、日本の高学歴専業主婦の社会活動、つまり生協や生活クラブ活動は、この依存者家
族構成員の世話をするという<対他者責任>と大いに関係があるのではないでしょうか。企業は営利目的なので、安価な製品を大量に短時間に生産
するなどの制約があるために、種々の問題が生じます。ミートホープによる牛肉偽装事件、赤福の製造年月日虚偽記載など記憶に新しいところです。生
協は、営利目的ももち論ありますが、それより本当に買いたいもの、使用したい商品を自分たちでそろえるという意味では自己疎外から程遠く、社会性の
ある仕事ができるのです。子どものアレルギー(アトピーや喘息)を機に無農薬・無添加物の食品を求める、子どものハウスシック症候群を機に化学薬
品を使用していない家材を求めるといった行動が出てくるのです。おもに男性が携わっている利潤追求一辺倒の経済活動から、高学歴専業主婦たちが
示したオルターナティヴな社会建設へと社会批判を強める側面 は、家事・育児という対他者責任と、大いに関係があるのです。主婦による他者のため
の活動は、自己実現を制限し不可能にする危険性を秘めてはいますが、同時に他者の世話をすることが、社会とのつながりの端緒ともなるのです。日
本の主婦たちは、他者存在を契機として社会とのつながりを積極的に、それこそ主体的に構築していくという主体のあり方、つまり自己中心的主体では
なく、他者をその視点の中に組み込んだ主体のあり方を示しています。この様な主体のあり方の存在価値をも積極的に認める必要があるでしょう。

日本の主婦たちが、このように、自ら、自分のしたいことを選択する主体的活動を行いえたのは、限定的であったとはいえ、私的空間であればこその自
由な空間にいたからです。自分の自由になる家庭という私的空間を、自らの望むような空間にデザインするために、自ら行動したのだといえるのです。
Lifeを自由に、それこそ主体的に生き、企業批判ができたのです。よりよい社会構築を目指すのであれば、現在の日本のような、男性がWorkの場にお
ける利潤追求型経済活動にのみ専念して、専業主婦が「消費者の視点から安全で環境にやさしい製品を生産する「もう一つの経済活動」を生み出す」 
という二元的社会で終わらせてはならないのです。男性は、長時間の自己疎外をもたらすWorkから自らを解放し、男女共に対自己責任と対他者責任と
いう視点を取り入れて、仕事と家庭生活を主体的に生きなければなりません。

第4章:将来の社会設計に向けて
冒頭で述べた内閣府の「男女共同参画会議・仕事と生活の調和(ワーク・ライフ・バランス)に関する専門調査会報告」では、「個人、企業・組織、社会全
体が持続可能となるように」と謳っていますが、どのような姿で持続させようとするのか、肝心なヴィジョンについて何も触れていません。そこで最後に、
work life balanceが実現された場合に可能となるであろう、21世紀の新しい人間や社会のあり方を展望したいと思います。

<対他者責任>を果たすことは、<他者のあるべき姿・こうあってほしい姿>を模索することにつながり、生協活動のみならず、例えば保育園や老人施
設の運営に参画することにつながるでしょう。国や企業が設立した保育園や老人施設に<入れてもらう>のではなく、保育園や老人施設が家庭にいるの
と同じくらい快適な場所でありうるように、どのような保育園や老人施設であってほしいかという要望を、それら施設の利用者が話し合って決定していくシ
ステムを作る、<参画する>ということです。すなわち、国や地方公共団体などの行政が一方的にトップダウンで物事を決定するやり方から、生活者とし
ての我々が、自由な個人として複数集まって構成するヨコ組織を作って、ボトムアップでサービスの設計・運用に主人公として提言・参画するのです。こ
うした社会参画はwork life balanceを実現したときに初めて可能となるのではないでしょうか。なぜなら生活者としての視点から社会を見直し、それを地
域社会で実現できる時間を確保するためには、work life balanceが必要だからです。今後は男女ともに、このような社会参画を果たすべきです。

そして、男性は長時間労働から解放され、Lifeに参加することにより、自己を取り戻し、主体的生活を送ることと、対他者責任を学ばなければなりません。
他方女性は、Workに進出して、経済的に自立する場を、確保するべきです。そのために育児・介護の社会化が一層推進され、いつでもそれが利用可能
になるように行政が必要な施策(しさく)を実行しなければなりませんし、企業がその行動を変化させるように立法措置を講じなければなりません。

育児という対他者責任を果たしていると、とりわけ次世代と関わる環境問題への関心や、段々と安全神話が崩れかけている日本社会や、地域紛争の耐
えない世界が抱えている暴力化への懸念が強くなってきます 。老齢者、子どもという依存者のみならず、世界には、自由でも平等でもない他者、戦争や
地域紛争で手足をもぎ取られた人々や難民キャンプで暮らす人々もいるのです。また企業の営利目的のためにリストラされ、ワーキングプアの非正規
雇用労働者となるか、あるいは失業し、生活保護を受けざるを得ない人々、このような人々も広い意味で、依存者です。なぜなら彼らの問題は、個人で
解決できるものではなく、社会や世界のあり方に「依存」しているからです。

私たちは、主体的に自分の人生を生き、自己実現をするという<対自己責任>を負うと同時に、依存者という他者に対する責任も持っていることを忘れ
てはなりません。21世紀は、この2つの責任のバランスをとる人々からなる社会であってほしいと思います。そしてこのバランスを取るために、人生の段
階に応じてwork life balanceが自由に選択できるように、正規雇用労働者と非正規雇用労働者の間に賃金差別を設けず、オランダモデルに従った同一
労働同一賃金と、すべての人に等しい社会保障を実現するインフラ整備を行ってほしいと思います。そして1日8時間、週40時間労働の標準化はあくま
で遵守(じゅんしゅ)されるべきで、その範囲内のことでなければ、<労働時間の個人化>としてのwork life balanceは絵に描いた餅に終わることを、肝
に銘じておく必要があるでしょう。

注

ジャック・ウェルチ、ス-ザン・ウェルチ著、斉藤聖美訳『ウィニング 勝利の経営』、日本経済新聞出版社、p.365、2005年 
「男女共同参画会議 仕事と生活の調和(ワーク・ライフ・バランス)に関する専門調査会、<ワーク・ライフ・バランス>推進の基本的方向 報告」、
http://www.gender.go.jp/danjo-kaigai/wlb/index-wlb1907.html
同上、p.2
キャロル・ギリガン著、岩男寿美子監訳『もうひとつの声』p.93参照、1986年、川島書店
<対自己責任>とは、イラクに行き捉えられ、殺された若者に対して使用された自己責任というような意味ではない。彼は自分の人生を生きる、自己実
現をするという意味で、対自己責任を果たしていたが、政府は国民を保護するという責任を放棄し見殺しにしたのである。
過労死:この言葉は「1988年に弁護士たちが「過労死110番」を開設して以降広がり、新聞・テレビ等の報道で用いられて定着した」と述べられている。
加藤哲郎「過労死とサービス残業の政治経済学」http://homepage3.nifty.com/katote/Karoshi-J.html、p.3
加藤哲郎、同上、p.9
同上、p.12参照。
同上、p.13、p.21参照。
同上、p.27
総務省の労働力調査によると、2007年1~3月期平均で、非正社員は、労働者全体の33,7%を占め、過去最高になっている。また非正社員の平均年収
は正社員の約5割にとどまっていて、06年の労働力調査では、年収200万円未満の非正社員は非正社員全体の77%を占めている。(毎日新聞、2007年
7月20日社説参照)
株式会社第一生命経済研究所「潜伏する離婚予備軍」(2005,11,22)によると、2007年4月から離婚時に老齢厚生年金分割が行われることになったが、
この制度改正導入が決められた2003年は、まさに1991年以降一貫して増加してきた離婚件数が、約6000件の減少に転じた年である。さらに2004年に
は、前年比1万7千件減少した。離婚予備軍は2万3千件あり、年金分割制度が実施される2007年以降、一気に顕在化すると予想されている。
森岡孝二『働きすぎの時代』(岩波新書)p.54参照。2005年
同上、p.92
同上、p.159
同上、p.167参照。
同上、p.168参照。
総務省の「社会生活基本調査」によると、生活時間は次の3つの活動に大別されている。「一次活動」は睡眠・食事など生理的に必要な活動である。「二
次活動」は家事・育児・買い物などと、就業者の仕事を含む「社会生活を営む上で義務的な性格の強い活動」である。「三次活動」は余暇活動である。ち
なみに、就業者の仕事を生活時間に含めるのであれば、WorkとLifeの区別が定かではなくなるので、内閣府と総務省は、互いに言葉を厳密に統一・使
用する必要があると思われる。またこの「社会生活基本調査」では、無償労働の時間として、炊事、掃除、洗濯、縫い物・編み物、家庭雑事などの家事と、
介護・看護、育児、買い物、社会的活動が挙げられている。しかし総務省の3つの活動区分は、家庭にいて家事育児等の責任を担っている女性の目から
は、違和感があり、本論中に分けたように①家事・育児・介護、②地域活動、③余暇活動の3つに区分した方がより適切だと思われる。
中嶋公子「『高学歴専業主婦』のゆくえ」、棚沢直子・中嶋公子編『フランスから見る日本ジェンダー史』、新曜社、pp.234―235、2007年
同上、p. 235
毎日新聞の2007年8月17日の「くらしナビ」の「憲法9条、改憲に賛成?反対?」に寄せられたメール(有効票数3068、うち男性1318、女性1750)のうち、
男性は賛成43,5%、反対56,4%に対し、女性は賛成17,1%、反対82,9%と、男女でずいぶんと差が出ている。これは男女の本質的差というより、、ジェン
ダーに大いに関係があると思われる。
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米山 優

日本的なポリフォニー

集団を構成する諸単位を基に成立する日本的なポリフォニーという出来事があります。それについての考察が、グローバル化という現代世界の動きに対処
するための新たなアプローチを可能にすると私は考えています。日本的なポリフォニーというもので具体的に私がイメージしているのは、まずは、四人前後
の参加者で詩をつないでいく連歌・連句という営みにおいて成立する、<開いた作品>とでも言うべきものです。それは、日本古代の『万葉集』(806年完成)
にまで遡る歴史を持つ文芸で、ごく短い前の句(五七五)に、これまた短い句(七七)を継ぎ、さらに五七五の句を継いでいくという仕方で次々に展開するもの
です。最初は貴族が嗜(たしな)み、そして最盛期を迎えた室町時代(1336-1573)には武士に必須の教養となり、江戸時代(1600-1867)には連句というもの
へと変貌しながら商人にまで拡がった文芸です。この文芸の特質として重要なこと、それは、主題や内容の上で、一貫した秩序や統一もなければ、一貫した
思想や気分・情緒も見出せず、むしろ、一句ごとに主題を移動していくことが求められることです。  それでも、付けられていく一句一句は紛れもなく個
(individu)による制作であり、前の句の詩情を受けついで、それを生かしながら、さらに新たな詩情を構成します。  他者の立場を尊重しながら、自己(soi)を
主張するのです。 

さて、私はここでわざわざ日本的な(・・・・)ポリフォニーという言い方をしているわけですが、そもそもポリフォニーのもともとの意味はどういうものでしょうか?
ポリフォニーとは、周知のように、もともと音楽用語です。ポリフォニー音楽をめぐる西欧音楽史的な展開が、日本の連歌・連句といった詩的創作活動との対
比で、今回の共同セミナーのテーマと興味深い関連を持ってくることを以下で私は示したいと考えています。そこで、まず、ヨーロッパにおけるポリフォニーを
めぐる歴史的展開を確認しておきましょう。

ポリフォニーはホモフォニー(あるいはモノフォニー)と区別されます。ルネサンス期のポリフォニー音楽にはいくつもの声部、後期になれば10を超える声部
があり、それら各声部における楽音(le son musical)の連なりは、自由に、独立して、自己を主張します。何か或る唯一のものに支配されないという意味で、
それは開放的とも言えましょう。しかし、こうしたポリフォニー音楽は、プロテスタントに対する反宗教改革を代表するトリエントの公会議(1545-1563)で正式
に禁止されます。<主たる旋律>を立てなければならないというわけです。こうしてバロック以降の音楽の大勢はこの<主たる旋律>がまさに主導権を握っ
て、伴奏を従えるという音楽、すなわちホモフォニーになってしまいます。もちろん、この<主たるもの>は、宗教的な場面では、ローマ・カトリック教会でしょ
うし、社会・歴史的な場面でも、この時期を境にして、絶対王政や啓蒙専制君主といった形で具現してくるものです。

さて、では、なぜポリフォニーをあえてここで主題化するのかについて述べましょう。それは、ひとことで言うなら<開放性を確保しつつ物事を比較し、相互
作用させるための方法論>を提示したいからなのです。

そもそも比較というものが<主たるもの>との離れ具合でなされれば、当の比較そのものがその<主たるもの>の支配する普遍主義に呑みこまれてしまい
ます。そうなってしまうと、例えば現代におけるグローバル化についての考察も、唯一の超大国アメリカの支配といった様相で展開するのは避けられそうも
ありません。さらに一般化して言うなら、欧米中心主義や理性中心主義を超えることなどできそうにないのです。そこでは、最先進国を基準にして種々の発
展段階にあるものが、順序づけられた上で認められるに過ぎないのです。そこにさらに何らかの動きというものを見ようとするなら、多くの場合、その<主た
るもの>へと向かう弁証法的発展の様相を以て、それは具体化されることになります。それに対して、私が考えたいのは<差違を認めた上で共存し、相互
作用するという意味でのグローバル化>です。それは、社会について考察する場合にも、今申し上げたような使い古された枠組、例えば経済学における新
古典派やマルクス主義経済学といった枠組だけで処理されるものであっていいはずはないのです。

こうした前提の上で、まさにこの別の仕方でグローバル化というもの自体を理解し構想する手立てがあるとすればどんなものなのかと問う必要があるでしょ
う。グローバルな世界を語るとき、<主たるもの>を置かないというポリフォニーのあり方から私たちはまず学ぶべきだと思います。もちろん、事実として発
展しているインフラであるインターネットやグローバルなマーケットを頭から拒絶することなど不可能であるという認識は保持された上での話です。ただ、そ
うしたインフラの見事な活用を、納得のいく形で私たちは構想しなければなりません。より具体的には、そのグローバルなインフラを、ポリフォニックな調和
の成立する「場」として構想する必要がある。言い換えれば、欧米中心主義や理性中心主義やマーケット至上主義を、解毒し、再布置する(reconfigurer)必
要がある。開放性を取り戻すためにです。

しかし、その際に、なぜ連歌・連句が問題となるのでしょうか?
それは、連歌・連句では「作品」そのものが<開いている>という理由からです。言い換えれば、そこには「作品」というものに関わる重大な問題提起の機縁
があるのです。世界を<閉じた作品>化する意図がない。作品を貫く一定の主題というものもないことは先に述べました。要するに、連歌・連句の営みは参
加者各人の個性(originalité)を可能な限り大切にするのであって、作品というまとまりを楯に各人を超越して支配してしまうような視点を置かないのです。そ
の意味でホモフォニーでなくポリフォニー的な営みと言っていい。しかし、実を言えば、西欧的なポリフォニーをさらに先に進めるヒントもまたそこにはあるの
です。なぜなら、連歌・連句が営まれる場である「座(Za)」において、ただただ自己を主張するのは「野暮(Yabo---inélégant)」であるとされるからです。そこ
には世界を<閉じた作品>化する意図がないのみならず、個(individuel)を<閉じた作品>化する意図もないのです。要するに、作品の中で、ひたすら維
持されるような自我(moi)はない。それに対して、ルネサンス・ポリフォニー音楽では、各旋律が、自己(soi)を独立した形であくまで保持しようという意図がま
だ強い。ルネサンスにおける人間の自覚は、後の個人主義的思想を用意する形で、このように先取りされたのでしょう。まるで、各旋律は、近代的自我の典
型とされることもあるあの<モナド>のように閉じたものに見えるのです。実際、ライプニッツは「モナドには、それを介して何ものかがモナドに入ったりある
いは出たりしうるような窓はない(Les Monades n’ont point de fenêtres, par lesquelles quelque chose y puisse entrer ou sortir.) 」と述べています。デカ
ルトが心と身体という二つの実体間に物理的な実在的影響説を認めたのに対して、モナドの相互間には直接的影響がないとライプニッツは考えているの
です。これを解釈して、モナドとは、他のものどもが決して入り込むことのできない孤立した実体であるかのように考えるのが普通なのです(私はそういう解
釈に全面的に同意するわけにはいきません)。ところが、いずれにせよ、連歌・連句の営みの中では、そういう近代的自我風のものは言わば破壊され、場
の中で別のものとして生まれ変わります。<我(が)(ego)の強さ>は否定され、<個性(originalité)の強さ>として甦ります。他から独立して存在しうると考
えられた<実体としての我(われ)(moi)>そのものが破壊され、それにもかかわらず取り戻される<出来事としての私(moi)>の振舞いが個性として輝き出
るのです。連歌的振舞いとは、こうして、個と個、個と全体が、孤立した実体間の関係としてではなく、まさに出来事として激しいインタラクションに曝されな
がら互いに変化していく営みを最大限に受け入れたものなのです。我を張ることなく、個性を発揮するということが、そういう場でこそありうると私は考えて
いるのです。

ここまでくれば、インターネットの現状とその連歌・連句的再構築の可能性について議論する準備はできたでしょう。まず、インターネットをマスメディアと誤
解してはならないことは殆ど自明です。マスメディアの目的は、キツイ言い方をすれば、そのメディアを牛耳っている者たちの意向によって視聴者を変えて
しまうことです。それに対して、インターネットは、相互作用の下にお互いが変わることの可能性を拓いたのです。相互作用が新たなものを創り出す可能性
です。ここにはコミュニケーションに焦点を当てた姿勢(ICT:Information and Communication Technology)からクリエーションに焦点を当てた姿勢(それを私
はPhilosophy of Informationだと考えています)への移行が展望されるでしょう。旧来型のマスメディアは一方的な<伝達の道具>でしかないけれども、イ
ンターネットは相互的な<創造の場>になりうるということです。

情報についてのこれまでの学問は、<すでにどこかに存在しているデータを、可能な限り迅速に忠実に、別のところに移動させること>にしか注目してきま
せんでした。ヴィデオ・オン・ディマンドへの世間の注目にそのことは容易に読み取れることでしょう。実を言えば、そういうものに注目して、多くの人々はイ
ンターネットをマスメディアに近いところで考えてきたのです。しかし、コミュニケーションが成立する場で起こる新たな情報の創造という事態に注目する学
問として私は「情報学(Inforamtics)」というものを構想してきました。  言葉の遣り取り中で、新たな言葉が、そして新たな思想ができあがってくる。決まり文
句(cliché)の遣り取りを超えた次元が成立する事態に注目しなければなりません。連歌・連句は、そいういうことを座という場で古代から実践し続けてきた
のでした。連歌にヒントを得て、インターネット上で絵画制作をする「連画」という現代ネットワーク・アートの実験もそういう試みの一つです。

では、そういう試みや創造的営みを成功させるために私たちに必要なのは何なのでしょうか?
私はそれを新しい市民性(la civilité nouvelle)だと言いたい。コスモポリタニズムを超えるためにです。なぜならコスモポリタニズムはまだ<堅固な「私
(moi)」>と<堅固な普遍的「都市」>を前提にしているからです。私たちのアプローチからすれば、その堅固な実体性(substantialité)は抜き去られなけれ
ばなりません。そうでなければ、<真のインタラクション>は無い。新しい市民性とは、日本的な言葉を使うなら、もっと<しなやかな[souple]>、<かろみ
[légèreté]を帯びた>市民性なのだと思います。

では、そういうことを実現するための方法はどのようなものでしょうか?
<言葉の使い方を、開いたものにすること>だと私は思います。蜘蛛の巣(web)のように、地下茎(rhizome)のように、自分の使う言葉をグローバルなネット
ワークの中の結節点(ノード)としてダイナミックに位置づけることです。もう少し具体的に言いましょう。自分の使う言葉が、ソシュールの言う[国語という意味
での]ラングに則(のっと)ったものでなければ、そもそも通じないことは当たり前なのですが、そのことに留まっているだけでは、自国語という意味でのラング
に閉じているだけに終わります。自分の使う単語・言語の傍らに、常に外国語が佇んでいることを意識し、可能ならばそれとの関わりすら付けようとしながら
言葉を使う必要があるのです。ですから、英語だけが支配的な位置にあったのでは、こういう<言葉の位置づけ>は実現しません。異なった言語間の翻
訳という重要な活動をも含めた、言わば<知のポリフォニー>の実現する必要があるのです。

もちろん、こうした翻訳は異なる言語間だけに起こることでもありません。実をいえば、他者の言葉を理解し、自分の言葉を理解してもらおうという場合には
いつも起こっていることだと言っていいでしょう。他人の語る言葉を、自分の生きてきた人生の全体を基礎にして理解しようとする。しかし私は、その他人そ
れ自身ではないがゆえに、当のその人が私の言葉をどのように理解しているかについては、金輪際、知ることができない。確かめる手段がない。壁がある
のです。同じ国語を話していてもこうした事情なのです。それでも人々は言葉を使いながら、その意味しているところを推測し、遣り取りによって摺り合わせ
ていくのです。日常的に顔を合わせる「家族」なら、それも比較的容易でしょう。少し拡げて「地域社会」でも、方言を含めて、さほど難しくなさそうです。(も
ちろん「地域社会」に外国人が存在する場合は例外となります。) 異民族をも含む「国家」となるとどうでしょう。難しさが出てくると思います。一つの国家で
いくつもの言語が話されていることなど珍しいことではないのですから。それでも政治的な理由から、共通語を設定し、無理やりにでも言葉の摺り合わせを
可能にするはずです。経済的な理由は、さらにそんな国境をも超えてしまいます。例えば多国籍企業の職員であった場合、国家が遂行するのと似たよう
な摺り合わせを多国にまたがって進めるでしょう。問題は、その場合、今現在進行中の事態は英語への共通化だということです。血縁的な集団で話される
言語から、国語へ、そして国際共通語へという動きがグローバル化という名にのって進行しています。しかし、それはあくまでも共通化され、平準化された
英語圏という<拡大された領土>での話です。そのような領土に閉じてしまう思考法なしに、人々が言葉を交わしうる環境が必要なのだと私は思います。
その環境こそ、私が<新しい市民性>と言ったものが成立する場でしょう。私たちは、そういう姿勢で自分の言葉を使う必要がある。日本人なら日本語を
使いながら、同時に外国語へと開かれた姿勢を持つ必要があるのです。外国語に親しんでいる教養人ならなおさらです。むしろ、そこに教養人のなすべき
ことがあるとさえ言えるでしょう。なぜなら、そういう態度によって成立する場においてこそ、一つのものに支配されない<知のポリフォニー>が響くにちが
いないからです。

思えば、連歌という貴族的な芸術が連句という庶民的な芸術に変容するとき、そこには、貴族的な詩作の世界での言葉遣いとは異質な、庶民の言葉や漢
語などを作品に織り込み、そのぶつかり合いの際に生じる<おかしみ[bouffonnerie]>を人々は楽しんだのでした。連句とは、実は俳諧連歌のことであり、
俳諧とはまさにこの<おかしみ>を意味しています。連句は、連歌によって用意された言葉の連想ネットワークを駆使しながら、その上にさらに独自の「知
の空間」を構築しようとしたものなのです。言葉のぶつかり合いが意識され、それが利用される。新たなものを産み出すためにです。この知の空間に踏み
だす者たちに、新たな社会的な絆が創られるようにするための努力がそこにはあります。その際、血のつながりによるアイデンティティも、同国人であると
いうアイデンティティも、多国籍企業の同僚というアイデンティティも、それにこだわることが重要なのではないという意味では、超えられてしまいます。もち
ろんそうしたアイデンティティが棄てられるのではありません。ただ、具体的な生活の場を構成している血も国も企業も放っておけば閉じていこうとしてしま
いそうなそのときに、あえてそれを開くことが必要なだけです。

確かに、個人間にも、国家間にも、言語に典型的に表れるような壁があるには違いありません。それでも共に生きてみようという意志が成立させる絆こそ
が求められるべきものだと思います。

そういうものをめざし、行動をする人々をあなたは歓待できるでしょうか?
連句のように開いた営みを作品と認めることができるでしょうか?
それはまさに私たちの意志に掛かっていることでしょう。
連歌や連句とは、そういうものを積極的に認めていく対話の芸術なのです。ディベートとは似ても似つかぬものなのです。

Références

Octavio Paz et al., Renga, Paris, Gallimard, 1971
René Sieffert, Le haïkaï selon Bashô, L'Aigle, Publications Orientalistes de France, 1990
Masakazu Yamazaki, Muromachi-ki, Tokyo, Shuppannsha Asahi, 1976 (en japonais)
Hiroyuki Inui et Teizô Shiraïshi, Shinpan Renku eno Shôtaï [Invitation au renku, nouvelle édition], Osaka, Izumi Shoin, 2001 (en japonais)
Kinjirô Kanéko, dans Recueils de renga et de haïkaï, éditions Shôgakukan, coll. Shinpen Nihon koten bungaku Zenshû, vol. LXI, 2001 (en japonais)
Minoru Horikiri, dans Matsuo Bashô Shû 2 [Recueil de Bashô Matsuo n°2], éditions Shôgakukan, coll. Shinpen Nihon koten bungaku Zenshû, au vol.
LXXI, 1997 (en japonais)
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Masaru Yoneyama

	Il est un événement qu’on pourrait appeler la polyphonie à la japonaise et dont le processus se fonde sur l’autonomie des unités d’un groupe. 
Réfléchir sur cet art permet, me semble-t-il, de donner les moyens de faire face aux tendances actuelles du monde moderne, et notamment de 
repenser la mondialisation. Ce que j’entends concrètement par polyphonie japonaise, c’est d’abord l’idée de ce qu’on peut appeler une œuvre 
ouverte, celle que réalise le travail poétique du Renga (poème lié) et du Renku (versets liés), ces poèmes composés par un groupe d’environ quatre 
personnes, où chacun, enchaînant sur le précédent, prend à tour de rôle la parole. Il s’agit d’un genre littéraire historique qui remonte au Man.yô-shû 
(achevé en 806) de l’époque antique du Japon. Le premier verset très court (5, 7, 5 syllabes) est suivi d’un verset aussi court (7 et 7 syllabes), puis 
d’un autre de 5, 7, 5 syllabes; c’est ainsi que se développe progressivement le poème. Ce genre, d’abord pratiqué par les nobles, fit partie de la 
culture indispensable pour la classe guerrière à l’époque de Muromachi (1336-1573) qui voit l’apogée de ce genre poétique. Il gagnera encore les 
classes marchandes à l’époque d’Édo (1600-1867) en prenant la forme du Renku (versets liés). Le propre de ce genre est la totale absence de 
cohérence et d’unité aussi bien du point de vue des thèmes et pensées développés que du point de vue de la tonalité émotive ou affective. Au 
contraire, le règle veut que l’on déplace le thème à chaque nouveau verset.  Même si le verset ajouté au précédent est la création incontestable d’un 
individu, il accueille l’émotion poétique de la formulation antécédente, la met en valeur et l’enrichit d’une émotion nouvelle.  Ainsi, chacun des auteurs 
affirme son soi, tout en respectant les points de vue des autres. 
Je parle ici à dessein de polyphonie japonaise; mais que signifie originairement le mot «polyphonie»?

	La polyphonie est, comme chacun le sait, un terme musical. Son développement dans l’histoire musicale occidentale prend un sens particulier 
quand on le compare à la tradition poétique japonaise du Renga ou du Renku, et j’aimerais montrer que cette comparaison peut porter un éclairage 
intéressant sur le thème de ce séminaire collectif. Mais, tout d’abord, il me faut retracer le développement historique de la polyphonie en Europe.

	La polyphonie se distingue de l’homophonie ou de la monophonie. À la Renaissance, la musique polyphonique se compose de plusieurs voix 
différentes, et jusqu’à plus de dix voix dans la deuxième moitié de cette époque. Chacune des parties musicales se manifeste de manière libre et 
indépendante. On peut qualifier d’ouverte cette musique, car elle n’est pas dominée par un pôle unique. Mais ce type de musique polyphonique s’est 
vu officiellement interdit au Concile de Trente (1545-1563), événement emblématique de la Contre-Réforme, en lutte contre le protestantisme. Il fallait, 
selon cette logique, que la musique fût dominée par une voix principale. La plupart des pièces, depuis la musique baroque, reviennent ainsi à 
l’homophonie, soit à une musique que domine une voix principale accompagnée d’un ensemble concertant. L’affirmation d’un élément musical principal 
peut se comprendre comme l’analogue de l’affirmation, dans le domaine religieux, de la primauté de l’Église catholique romaine, et, dans le domaine 
socio-historique, du rayonnement de la monarchie absolue, que concrétisent, à partir de cette époque, les figures du despotisme éclairé. 

	Mais pourquoi s’interroger ici sur la polyphonie? C’est, en un mot, pour présenter un mode de comparaison et d’interaction où chaque 
élément vaut dans sa capacité d’ouverture. 

	Si l’on compare des choses individuelles en fonction de leur écart par rapport à un élément principal, chacune de ces choses se verra vite niée 
dans sa singularité et engloutie dans l’universalisme attaché à l’élément principal qui domine l’ensemble. C’est ainsi que toute réflexion sur, par exemple, 
la mondialisation actuelle ne peut se développer que sous l’ascendant exercé par les Etats-Unis, la seule «hyper-puissance». Ou disons, plus généralement 
parlant, qu’on ne peut dépasser ni l’occidentalo-centrisme ni le logocentrisme. Car, sous leur loi, toutes les étapes intermédiaires du développement ne 
peuvent être reconnues que par rapport aux pays les plus développés. Si dynamisme il y a, il se concrétisera la plupart du temps sous l’aspect d’un 
développement dialectique orienté vers un élément principal. Pour ma part, je voudrais penser la mondialisation comme coexistence et interaction des 
éléments individuels reconnus dans leur différence. Tout interrogation sur le monde actuel a besoin de sortir des cadres usés, comme ceux du 
néo-classicisme ou de la théorie marxiste de l’économie.

	Ce préambule m’invite à proposer une autre conception de la mondialisation. Et je pense que, pour cela, on doit d’abord méditer le fait que la 
polyphonie n’a pas d’élément principal. Mais s’il est impossible de nier d’emblée les infrastructures déjà massivement développées comme l’internet ou 
le marché mondial, on doit inventer des façons plus intelligentes et plus convaincantes de les utiliser. Concrètement, il serait bon de concevoir ces 
infrastructures planétaires comme le «lieu» d’une harmonie polyphonique, en d’autres termes, de confectionner un antidote qui permette de reconfigurer 
l’occidentalo-centrisme, le logocentrisme ou la primauté du marché. C’est ainsi qu’une ouverture pourrait se produire.

	Pourquoi alors convoquer le Renga ou le Renku?
	Précisément parce que leurs «œuvres» sont ouvertes. Entendons qu’elles offrent l’occasion de mettre en question la notion même d’«œuvre». 
C’est que dans le Renga et le Renku, il n’est aucunement question de constituer le monde d’une œuvre fermée, car, on l’a déjà dit, aucun thème 
cohérent ne traverse l’œuvre. En un mot, l’activité poétique implique le plus grand respect de l’originalité de chacun des participants, et ne présuppose 
pas un point de vue transcendant qui imposerait une unité aux variations de chacun. En ce sens, le Renga ou le Renku peuvent être considérés comme 
relevant d’une pratique polyphonique, et non homophonique. En outre, leur polyphonie va plus loin que celle mise en œuvre en occident. Dans le Za (lieu), 
où se déroule cette activité poétique, on estime «inélégant (Yabo)», de la part des participants, d’affirmer leur propre singularité. Parce qu’il ne s’agit pas 
de constituer le monde d’une œuvre fermée, ni davantage de faire d’un individu une œuvre fermée. Autrement dit, il n’y a pas de «moi» qui persévère 
dans son être tout au long de l’œuvre. Cette forme de polyphonie se distingue donc de la musique polyphonique de la Renaissance, où chaque partie tend 
à se maintenir en tant qu’un soi indépendant. On peut y voir la prémisse de la conscience humaine de la Renaissance, qui prépare les pensées 
individualistes des époques à venir. Chaque partie semble un élément fermé, une monade, que l’on peut considérer comme le type même de la conscience 
moderne. Leibniz, en effet, affirme que «les Monades n’ont point de fenêtres, par lesquelles quelque chose y puisse entrer ou sortir ». Et tandis que 
Descartes reconnaît l’influence concrète et effective entre deux substances, l’âme et le corps, Leibniz considère qu’il n’y a pas d’influence directe entre 
les monades. On considère d’ordinaire (c’est une idée que je ne partage pas entièrement) la monade leibnizienne comme une substance close sur elle-même, 
qui ne peut être affectée par une autre. Quoi qu’il en soit, l’élément évoquant la conscience moderne sera détruit, en quelque sorte, par l’activité poétique 
du Renga et du Renku, pour renaître métamorphosé dans le lieu où se déroule cette activité. La force de l’ego meurt pour ressusciter comme force de 
l’originalité créatrice. Le moi comme substance, indépendant de tout autre, est remplacé par le moi comme événement, brillant par sa seule puissance 
créatrice. Les opérations poétiques du Renga ne procèdent donc ni des relations interindividuelles, ni de celles associant les individus et la totalité, ni de 
celles reliant des substances isolées; elles figurent un événement qui naît d’une interaction intense, dans l’entière acceptation par chacun de sa 
métamorphose qui se joue dans ce lieu. Seul ce type de lieu, me semble-t-il, permet à l’originalité de chacun de se déployer, sans que personne cherche à 
conserver son ego.

	Le moment est venu d’envisager la possibilité de repenser l’internet actuel sur le modèle du Renga et du Renku. Il ne s’agit pas, cela va de soi, 
de confondre l’internet avec les mass media. Car l’objectif des mass media est, si j’ose dire, de plier l’opinion du public aux intentions de leurs dirigeants. 
L’internet, en revanche, offre la possibilité d’une évolution à base de réciprocité, autrement dit la possibilité d’une interactivité créatrice. On peut alors 
passer d’une attitude centrée sur la communication (Information and Communication Technology, ICT) à une autre privilégiant la création (qui implique, selon 
moi, non une technologie mais une philosophie de l’information). C’est que les mass media traditionnels ne sont qu’un outil de transmission, tandis que 
l’internet peut devenir un lieu de création interactif.

	Jusqu’ici, les sciences de l’information ne se sont intéressées qu’à la transmission de données, qui existent déjà quelque part, vers un autre endroit 
le plus vite et le plus fidèlement possible. En témoigne l’attention accordée au téléchargement de la vidéo sur demande. À vrai dire, en se concentrant sur cet 
aspect-là, la plupart des gens ont considéré l’internet comme une variante des mass media traditionnels. Pour ma part, j’ai conçu une «science de 
l’informatique» visant la création d’informations au sein d’un processus de communication , en ce sens que ce sont les échanges qui engendrent des paroles 
et des pensées nouvelles, au-delà de la simple circulation des clichés. Ces échanges méritent attention. Au fond, le Renga et le Renku n’ont cessé de pratiquer 
ce type de création depuis l’Antiquité à partir d’une pensée du lieu (Za). Ils ont aussi inspiré une création récente, celle expérimentale de l’art contemporain 
du réseau sur l’internet qu’on appelle «tableaux liés». 

	Que faut-il alors pour réaliser une telle activité créatrice?
	Il nous faut, selon moi, ce que j’appellerai une civilité nouvelle qui dépasse le cosmopolitisme habituel. Car le cosmopolitisme présuppose la 
persistance du «moi» solide et de la «ville» universelle et solide. Dans ma perspective, il faut opérer la dissolution de ce type de substantialité solide, si l’on 
veut qu’il se produise une véritable interaction. Il me semble que cette civilité nouvelle sera, comme on le dirait en japonais, plus souple et teintée de légèreté. 

	Mais par quels moyens pourrait-on la susciter?
	Je répondrai qu’il s’agirait d’apporter aux paroles une ouverture. Il faudrait inscrire la dynamique de nos propres paroles dans le réseau mondial, 
comme un simple nodule sur la toile d’araignée (le web) ou au sein des rhizomes. Je vais tenter d’être plus concret. Il va de soi que les mots qu’on utilise 
doivent obéir aux lois de ce que Saussure appelle la langue (au sens de langue nationale); sinon la communication serait impossible. Mais si l’on en reste à 
ce stade, on s’enferme dans sa langue, maternelle ou nationale. Il faut par contre utiliser les mots en étant conscient qu’ils avoisinent toujours ceux de 
langues étrangères, et, si possible, en les mettant en relation avec celles-ci. Ce nouveau positionnement de soi dans sa langue ne sera pas possible sous 
l’empire de la seule langue anglaise. Aussi faudrait-il réaliser ce qu’on peut appeler une polyphonie des savoirs, dont l’une des tâches les plus importantes 
serait la traduction des langues entre elles.

	La traduction, en fait, n’est pas seulement exigée entre langues différentes. Elle entre en jeu dès qu’on veut comprendre les paroles d’un autre 
et lui faire comprendre ses propres paroles. Car je ne comprends autrui qu’à partir de mon expérience propre. Et réciproquement, je ne peux rien savoir 
de ce qu’autrui comprend effectivement de moi. De lui à moi, il n’y a aucun moyen de vérifier absolument le sens des mots qui circulent. Le mur reste 
infranchissable. Et cela, même si l’on parle la même langue. On ne manque toutefois pas d’user des paroles, de deviner ce qu’elles signifient et de tenter de 
les comprendre dans les échanges. C’est relativement facile au sein de la «famille» quotidienne. Ce n’est encore pas trop difficile, même si on élargit un peu 
l’échelle, dans la «société régionale», avec son propre patois (sauf quand il y a des étrangers dans cette «société régionale»). En va-t-il de même dans 
l’«État» qui contient plusieurs ethnies? Ici surgissent les difficultés. Il n’est pas du tout rare que plusieurs langues soient parlées dans un même État. Mais, 
pour des raisons politiques, on impose une langue commune, pour que se comprennent ceux qui pratiquent des idiomes différents. En outre, les impératifs
économiques amènent à transgresser les frontières. L’employé d’une entreprise multinationale fera en sorte d’être compris, à l’instar d’un État, à travers 
de nombreux pays. Le problème, c’est que l’anglais sert le plus souvent de langue commune. Au nom de la mondialisation, on assiste au passage de la 
langue parlée à l’intérieur du groupe parental à la langue nationale, puis de la langue nationale à la langue commune internationale. La langue anglaise s’est 
trouvée un territoire élargi, et le monde est devenu une zone anglophone standardisée et normalisée. Je pense, à l’inverse, qu’il faut créer un espace où les 
gens puissent échanger et échapper à un tel territoire. C’est dans un tel espace que se formera ce que j’ai appelé la civilité nouvelle. Nous devons parler 
sous le signe d’une telle civilité; un japonais doit, parlant le japonais, adopter une posture qui le rend réceptif aux langues étrangères. Cela est d’autant plus 
vrai pour les personnes cultivées, habituées à pratiquer des langues étrangères. Disons même que c’est en cela que consiste le devoir de l’homme cultivé; car 
la polyphonie des savoirs, échappant à la domination d’un seul savoir, a des chances de résonner dans un lieu que fonde une telle posture d’ouverture.

	Quand le Renga, art aristocratique, s’est changé en Renku, art populaire, il a incorporé des mots populaires et des termes chinois étrangers à ses 
manières poétiques traditionnelles, et a ainsi amusé les lecteurs par une bouffonnerie née de la collision des deux langues. Le Renku signifie au fond le Haïkaï 
lié, et Haïkaï signifie justement bouffonnerie. Le Renku constitue donc la tentative de construction d’un «espace des savoirs» singulier, tout en utilisant les 
réseaux d’association des mots familiers du Renga. Prenant conscience de la collision des mots, on l’utilise pour engendrer des choses nouvelles. Ainsi se 
dessine un effort pour créer un nouveau lien social entre des gens qui s’avancent dans cet espace des savoirs. Dans cette tentative, les identités définies par 
les appartenances familiales, professionnelles et nationales, et même multinationales seront dépassées, en ce sens qu’elles ne sont plus déterminantes. Certes, 
elles ne seront pas rejetées, mais il faut oser les ouvrir pour éviter d’être pris au piège de leurs clôtures (familiales, professionnelles ou nationales) de la vie 
concrète. 

	Subsistent, il est vrai, des obstacles entre les individus comme entre les États, et en particulier celui de la langue. Mais il faut désirer, je le crois, que 
s’établissent de nouveaux liens entre les êtres reposant sur une volonté de vivre ensemble.

	Voulons-nous accueillir ceux qui agissent pour concrétiser l’idée d’un tel lien? 
	Pouvons-nous accepter comme œuvre véritable cette activité ouverte qu’est le Renku?
	La réponse dépend de notre volonté.
	Renga et Renku fondent un art de dialogue qui accueille activement une telle volonté, loin du jeu du débat occidental. 

Références

Octavio Paz et al., Renga, Paris, Gallimard, 1971.
René Sieffert, Le Haïkaï selon Bashô, L’Aigle, Publications orientalistes de France, 1990.
Masakazu Yamazaki, Muromachi-ki, Tokyo, Shuppansha Asahi, 1976 (en japonais).
Hiroyuki Inui et Teizô Shiraïshi, Shinpan Renku eno Shôtaï [Invitation au renku], nouvelle édition, Osaka, Izumi Shoin, 2001 (en japonais).
Kinjirô Kanéko, dans Recueils de Renga et de Haïkaï, éditions Shôgakukan, coll. Shinpen Nihon koten bungaku Zenshû, vol. LXI, 2001 (en japonais).
Minoru Horikiri, dans Matsuo Bashô Shû 2 [Recueil de Bashô Matsuo no 2], éditions Shôgakukan, coll. Shinpen Nihon koten bungaku Zenshû, au vol. LXXI, 1997 
(en japonais). 

1  Minoru Horikiri, dans Matsuo Bashô Shû 2 [Recueil de Bashô Matsuo no 2], éditions Shôgakukan, coll. Shinpen Nihon koten bungaku Zenshû, au vol. LXXI, 
1997, p. 601.
2  Ibid., p. 600.
3  Ibid.
4  Leibniz, Monadologie, § 7.
5  Cf. Masaru Yoneyama, Les Fondements philosophiques de l’informatique, Tokyo, Ômura Shoten, 2002 (en japonais).
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Stéphane Heim

トヨタ株式会社のヨーロッパにおける生産発展と企業文化

賃金―労働関係、部品メーカーとの関係、コーポレート・ガバナンスの調査

「The basic tenet of TPS is that people are the most important asset, and, for that reason, management must have a shop-floor focus」Garis 
Convis(Toyota Motor Manufacturing Kentucky工場長)。

導入

本日は、トヨタ自動車株式会社のヨーロッパにおける生産発展と企業文化について発表を行う。そこで、まずトヨタによる生産の世界化を概観した後、
企業文化に関する重要な三つの点(賃金―労働関係、部品メーカーとの関係、コーポレート・ガバナンス)について、私が行った調査を取り上げる。トヨ
タによる生産の世界化は次の三つの段階に分けられる。第一段階:1959年から1987年までの海外における少量生産時代。第二段階:1988年から20
06年までの海外での現地生産の本格的な発展。そして第三段階である現在から将来にかけては、海外の生産量(427万台)が国内生産量(420万台)
を初めて上回る予定である。そこで、このような生産世界化の流れの中で、これまで日本で培われてきたトヨタの企業文化がどのように変化していく
のかを検討しよう。

「トヨタは、日本で形成されたこのような企業文化を、生産世界化の流れの中でヨーロッパ工場に適用することができるのであろうか?」
トヨタは1970年ヨーロッパ市場に進出し、その同じ年、ベルギーのブリュッセルにトヨタ株式会社の子会社“Toyota Motor Europe”を設立、1992年には、
ヨーロッパで初めての生産兼組立て工場をイギリスのBurnaston、Birminghamの近くに建設した。その後、2001年に北フランスのValenciennesに生産
拠点を設置、2002年にはヨーロッパの二つの新工場としてポーランドにエンジン製造工場を、トルコに組立工場を建設した。さらに、2005年、トヨタはプ
ジョーと共同でチェコに小型自動車の組立て工場を開設している。トヨタの決算によると、2001年から2005年の間で、ヨーロッパでの生産量がほぼ三倍
になった(20万台から60万台まで)が、これはアメリカや日本での生産量に比べると、まだほんの少量に過ぎない。

I. 賃金-労働関係

私が調査を行った、トヨタ生産モデルにおけるあるマネージャーの言う所によると、トヨタでは人間が一番重要とされている。ここでは、労働者にはトヨタ
生産モデルの教育に重点を置いている。彼らの生産モデルの中で、従業員は作業改善を通し、コストと原価の低下に協力している。これは従業員にと
って厳しい条件であったが、1993年4月の日本における賃金体系の改革により、仕事環境が改善された。生産量に基づく給与は、全給与の60%から4
0%に下がり、二つの新しい査定を取り入れた。一つは、有能さに基づく査定、もう一方は業績に基づく査定である。ここで問いが立てられる(清水耕一、
Le toyotisme、1999年、ページ87)。すなわち、トヨタはヨーロッパではどのように人事管理を行うのであろうか。

そこで、フランスでの事例を見てみよう。フランスの工場では、人事管理制度は行動的能力の原理に基づいている。1998年、Toyota Motor 
Manufacturing France SASが確立された。町はOnnaing Valenciennesと決定された。なぜなら、フランスの一番北の Picardie Nord Pas De Calais と言
う地方に位置するからである。このPicardie Nord Pas De Calais 地方は、イギリス・ドイツ市場に近く、戦略上重要な場所にあり、その上フランスの
中で重要な工業地帯である。5万5千人の労働者、七つの自動車製造業者、そして多くの部品メーカーを持つ、フランス自動車分野の中では二番目に
重要な地方である。フィールドワークにあたり、面接を行ったある人事管理コンサルタントが述べたように、この地方の他の特徴は失業率である。フラン
ス全体の平均に比べ失業率が高く、2006年のこの地方の失業率は12,1% であったが、それに比べ全国的な失業率平均は8,6% であった。 

 Valenciennes工場「Toyota Motor Manufacturing France (TMMF)」の選抜プロセスは、1999年から始まった。目標は約二千人の雇用であったが、200
6年末には、約四千人を雇用するに至った。トヨタは、業務契約 を結んでいる人事管理コンサルタント事務室に、この選抜プロセスの共同建設を依頼し
た。そこでの基準は、ここで採用される労働者は経験・資格がほとんどなく、免許もないにもかかわらず、トヨタのチームメンバーの職に就ける、というこ
とである。この事務室のあるコンサルタントによると、この選抜プロセスの特異性は、行動的能力である。トヨタメンバー就任に必要なのは特別な能力で
あり、労働者の査定は彼らの熟練に基づくのではなく、人格に基づいている。

この選抜プロセスは行動的能力に重点を置かれているので、トヨタメンバーは学習し、フレキシブルな労働者になる必要がある。この人事管理方針は、
現在の自動車分野における人事管理制度の傾向の中にあり、先に述べた日本における1993年の賃金体系改革と、フランスのAgence Nationale Pour 
l’Emploi (ANPE)の新しい選抜プロセスに関係がある。このフランスのプロセスは、権限に重点を置き、プジョー・シトロエンPSAが2005年からこの
「Habilité」に基づいて新しい賃金体系を組んでいる。

II. トヨタとヨーロッパ部品メーカーの産業関係

人事管理の論題を考察すると、部品メーカーの管理方法に辿り着く。トヨタと部品メーカーとの産業関係は、日本型資本主義に基づいており、その特徴
を色濃く出している。日本では系列と言う特別な企業ネットワークがあるが、さらにトヨタは1939年、部品メーカーのうち20社を協力会に集めた。それらを
通して、トヨタは部品メーカーを組み込み、生産と生産企画を協力して行っている。生産世界化の中で、トヨタは外国の部品メーカーと事業を行うことにな
った。さて、トヨタはこれらヨーロッパ企業と、どのようにしてさらなる産業関係を築いていくのであろうか?

私が行った、あるヨーロッパ部品メーカーへの調査に焦点をしぼると、以下にこう分析できる。トヨタは2002年からヨーロッパ市場向けに、二種類の車のあ
るインテリア部品の開発と生産をあるヨーロッパの会社に注文し、日本市場向きの同じ部品は、日本の企業に注文した。このヨーロッパの会社のエンジニ
アとマネージャーによると、トヨタは三つの特徴をもっている。

― 一つ目に、プロジェクトの開発期間は非常に短く、海外でも4年間おきにモデルチェンジに基づくプロジェクトの全改正を行い、2年間おきには部品の
修正を行う。	
― 二つ目に、トヨタは品質管理に大変関心を抱いている。特別な手順でプロジェクトの展開を管理している。それにより、トヨタは部品メーカーの4年前
の生産プロセスの欠点を見出した。これがトヨタの現地現物方法の実際の適用である。
― 三つ目に、トヨタは相手の部品メーカーと信頼関係を結んでいる。プロジェクトの初めの段階から、トヨタは相手の部品メーカーとこの会社の部品メー
カーとの長い関係を作るために、この会社についての深い分析を行う。調査を行ったあるエンジニアによると、この関係は他の日本の自動車メーカーに比
べるとより深いとのことである。
この部分の結論として言えることは、ヨーロッパの自動車メーカーと部品メーカーの産業関係、そしてトヨタと部品メーカーとの産業関係には相違点がある。
調査を行ったあるヨーロッパのプロジェクトマネージャーによると、彼の会社で一般自動車会社向けの部品を生産しているグループに比べ、同じ部品をトヨ
タ向きに生産しているプロジェクトグループでの産業関係は全く異なり、全社員がトヨタの生産システムを把握できるわけではなく、この会社の中でトヨタ
と関係がある社員のみ学ぶことができる。これは独特で日本的な部品メーカーとの関係であり、それをヨーロッパの企業に適用すると、ヨーロッパの習慣
と矛盾する可能性がでてくる。

III. コーポレート・ガバナンス

その矛盾を解消するにあたって生じるリスクは、世界化を背景にしたトヨタのような多国籍企業にとって、その組織が崩壊すると言うことである。さて、ヨー
ロッパにおいてトヨタは、そのコーポレート・ガバナンスをどのように展開していくのであろうか。
トヨタにおいては海外と関係がある人物は重要であり、Sebastien Lechevalier(Toyota peut il sauver le Japon、2005年、ページ 22)が述べたように、海外
勤務の経験がある社員が、昇進していく(奥田碩-現在の名誉会長-は1973年から1979年までフィリピンにて勤務、張富士夫-Toyota Motor 
Corporationの社長-は1980年代に米国にて勤務した)。2003年にトヨタの重役会議が再編された(会社役員数が58人から27人に削減された)際、Gary 
Convis(Toyota Motor Manufacturing Kentucky工場長)、Alan Jones (Toyota Motor Manufacturing United Kingdomの議長)と Jim Press(米国の売
却担当、2007年9月Chrysler社に移転)が重役会議の会社役員に就任した。ここで出てくる問いは、ヨーロッパにおけるコーポレート・ガバナンスは日本本
社から独立したのであろうか、ということである。

まず、ヨーロッパにおけるトヨタの会社構造を検討しよう。2006年の段階で、トヨタはヨーロッパに8つの生産拠点を保有している。2007年12月にはロシア
で9番目の生産拠点が建設される予定である。コーポレート・ガバナンスの面では、2005年10月にはToyota Motor Marketing EuropeとToyota Motor 
Engineering and Manufacturing EuropeはToyota Motor Europe (TME)に組み込まれた。こういった構造の中で、Toyota Motor Europe(TME)、Toyota 
Motor Corporation(TMC)、そしてヨーロッパの工場は、どのように関係を作るのであろうか?トヨタはこの問題に注目し、以下に述べるように、外界企業
と直接にコミュニケーションのあるネットワークを築こうとしている。

―第一に、人事管理として、新しい育成システムが2006年に編成された。2006年までは、日本の工場一つ一つは海外構造と関係を持っていたが、この
再編成で、地域ごとに四つの新しいグローバル生産推進センター(GPC)が開設された。それにより、日本工場のグローバル生産センター拠点となった元
町センター(2003年7月)は、米国のGeorgetownセンター(14工場のコーディネーター)、タイのBangkokセンター(アジアの22工場のコーディネーター)、
そしてイギリスのBurnastonセンター(ヨーロッパの8工場のコーディネーター)と連携をとることになった。このセンターで、トレーナーはトヨタ生産方法論、
プロセス経営とプロジェクトの改革経営の面において育成され、そのノウハウを海外のチームメンバーに伝達する。
―第二に、ヨーロッパの部品メーカーとの産業関係責任は、Toyota Motor Corporation(TMC)とToyota Motor Europe(TME)双方にある。部品開発プロ
ジェクトとその展開の際、部品メーカーはTMEとではなく、日本のトヨタ本社と技術問題についてやり取りを行うが、販売の際はToyota Motor Europe(TME)
と取引を行う。部品展開・販売双方において、部品メーカーの中には日本語能力の高いマネージャーが存在する。調査を行ったあるヨーロッパの部品メ
ーカーのゲスト・エンジニアは、検討した部品の展開プロセス時、トヨタ本社でチームリーダーの下、日本の部品メーカーのゲスト・エンジニアと机を並べ
て勤務した。すなわちここで見て取れることは、この部品メーカーはトヨタと金融関係が無いにもかかわらず、日常業務を直に見ることでトヨタの産業シス
テムに適応していく、ということである。
この部分の結論として言えることは、ヨーロッパのコーポレート・ガバナンスが2000年代に改革された、ということである。しかしそれでも尚、Toyota Motor 
Europe(TME)とヨーロッパの工場が日本本社から独立したわけではない。公式な階級構造の背後にある非公式な構造を検討すると、品質管理や労働者
の育成、工場の建設などの際は、日本のトヨタ本社が経営戦略における決断を下している。

結論

冒頭で述べた命題「日本で形成されたこのようなトヨタの企業文化を、生産の世界化の流れの中で、トヨタはヨーロッパ工場に適用することができるの
であろうか?」、この問いは重要である。なぜなら、この「トヨティズム」に基づいた企業文化こそが、トヨタの利益性の源だからである。トヨタの企業文化
の中では、賃金-労働関係に関する深い緊迫感がある。というのは、先に述べたように、一方でこの生産システムはコストと原価の低下という目的の
為、労働者の協力が必要であるが、同時に、この目的は労働者を圧迫している。1990年代の日本の「失われた10年」危機の際、トヨタは人事管理争点
に焦点を絞った。トヨタがヨーロッパで成功を望むのなら、人事管理とマネジメント面おいて、どんな変容が必要なのだろうか。

クライアントは、ヨーロッパの競争的な自動車市場において高品質の車を期待するので、トヨタは日本市場におけるように品質が高く、しかも値段の安い
車を生産する必要がある。その際、日本型資本主義に基づく生産モデルが、最も適している。そしてトヨタは、このモデルを用いた生産をヨーロッパで行
っている。また、1990年代の賃金体系の改革に続いて、労働者が仕事し易くなるよう、行動的能力に基づいた人事管理を行っている。これらは、トヨタの
企業文化が順応的であることを示しているが、同時にこの生産システムは、ヨーロッパ部品メーカーに対してはフレキシブルではない。
結論として、トヨタが世界における生産を成功させたいならば、文化背景の多様性を重んじ、人事管理に対して企業文化を適応させ、改善を図ることである。
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Marie-Claude Rebeuh

Les services aux personnes à domicile : vers une nouvelle domesticité ou une professionnalisation?

Dans les trente dernières années, les services aux personnes à domicile, ont connu, en France, une très forte croissance ce secteur a encore un 
potentiel important de développement.

En effet, les changements démographiques et sociaux, avec le développement du travail des femmes conjugué au vieillissement de la population ont 
contribué à dynamiser la demande de services à domicile. Ces services dits de proximité, directement délivrés au domicile de l’utilisateur, permettent 
de remplacer le travail effectué habituellement et gratuitement dans le cadre domestique principalement par les femmes ; il s’agit d’activités 
familières, comme les tâches de ménage, d’entretien du linge, de la garde des enfants, de l’aide aux personnes âgées ou handicapées ou encore de 
l’aide aux devoirs ou du jardinage. Nous n’aborderons pas les services aussi effectués à domicile qui relèvent d’activités professionnelles bien 
identifiées et plutôt de la santé telles les médecins, infirmières ou assistantes sociales.

Mais de quels emplois s’agit-il ? Qui occupent ces emplois ? Les situations d’emploi actuelles sont en fait très diverses Il reste aussi une part non 
négligeable, difficilement évaluable, « d’emplois » qui relèvent encore de l’économie informelle largement alimentée par l’immigration.

Les services à domicile ont mis longtemps à être considérés comme un vrai travail qui mérite salaire mais celui-ci s’exerce principalement dans des 
conditions de forte précarité. Ces dernières années, un certain nombre d’avancées en terme d’organisation de ce secteur attestent d’une volonté 
d’amélioration de la qualité des services rendus et de reconnaissance professionnelle des personnes travaillant à domicile. L’objectif et l’enjeu du 
dernier Plan pour les Services aux personnes de 2005 sont de structurer ce secteur qui passe par la professionnalisation du secteur et des 
personnes qui y travaillent et de proposer de « vrais emplois » attractifs.

Une croissance soutenue des services à domicile

Durant la période postérieure à la deuxième guerre mondiale, on s’attendait à ce que le progrès technique (équipements ménagers…) élimine le 
besoin de services domestiques au sein des ménages. Or au seuil du vingtième siècle, le nombre des aidants familiaux est très semblable à ce qu’il 
était il y a un siècle. Mais depuis, les services domestiques se sont féminisés ce qui a contribué à détériorer leurs conditions. En 2005, ce sont près 
de 2 millions de personnes presque exclusivement des femmes qui travaillent dans le secteur des services à la personne à domicile en incluant les 
assistantes maternelles qui gardent des enfants à leur domicile.


Une externalisation des tâches domestiques

Le développement de ces services, dans un contexte général d’amélioration des conditions de vie, est le résultat de l’évolution structurelle de 
l’activité professionnelle des femmes depuis trois décennies (les femmes représentent aujourd’hui 47% de la population active) avec le maintien 
d’un taux de fécondité soutenu, et a généré des besoins très importants de garde d’enfants. L’aide pour les travaux ménagers se développe pour 
les ménages aisés et les femmes de qualification supérieure (les tâches familiales et éducatives reposent principalement sur la femme, pour les 
personnes handicapées et surtout celles qui avec l’âge, ne sont pas ou plus en capacité de réaliser toutes les tâches quotidiennes. D’autre part, le 
vieillissement de la population accentue la nécessité de proposer aux personnes âgées dont les besoins liés à la dépendance croissent, une alternative 
à l’hébergement en institution (dont les coûts sont très élevés) dans des services qui permettent le maintien à domicile.

Ces évolutions socio-démographiques ont contribué à accroître, l’externalisation de services qui ont toujours été assurés, et ils le sont encore, 
mais gratuitement dans le cadre des liens familiaux ou de voisinage et ce presque exclusivement par les femmes. C’est ce que, à la fin des années 
soixante-dix, a été conceptualisé comme le « travail domestique » (Delphy, 1978) et qui comprend toutes les tâches, comme faire le ménage, 
préparer les repas, entretenir le linge mais aussi s’occuper des enfants, des personnes âgées…

Cette externalisation du travail domestique a consisté à faire faire par des femmes, désormais salariées, chez d’autres, les tâches qu’elles ont 
l’habitude d’effectuer gratuitement chez elles. On peut s’interroger sur la qualité et les perspectives d’insertion de ce type d’emplois. En fait la 
qualité de l’emploi n’est pas la préoccupation de l’époque face à l’urgence de la lutte contre le chômage et tout particulièrement des femmes au 
moment où les mutations industrielles s’annoncent dévastatrices en matière d’emplois surtout pour les femmes ouvrières non qualifiées. 
L’aubaine va permettre de mettre en relation des femmes peu qualifiées et considérées comme peu employables mais disponibles avec ces postes 
de travail n’exigeant aucune qualification autre que l’expérience de tâches domestiques. Les structures créées pour insérer les publics en difficulté 
(associations intermédiaires) vont trouver dans les services à domicile un secteur d’insertion privilégié pour les femmes, les particuliers 
correspondant à une grande partie de leurs clients.

Des politiques publiques qui génèrent un secteur peu structuré

La demande en services aux ménages est caractérisée avant tout par son insolvabilité. De nombreux usagers ne sont pas prêts ou non pas les 
moyens financiers pour payer ces prestations à leurs prix coûtants, et ce encore plus aujourd’hui d’ailleurs qu’elle s’est étendue à des activités 
de d’assistance et d’aide plus coûteux (garde des enfants et aide aux personnes âgées). Or le service public ne peut pas satisfaire tous ces 
besoins.

La volonté de l’Etat de ne pas intervenir dans les choix des consommateurs a conduit, depuis les années quatre vingt, à privilégier des mesures de 
solvabilisation de la demande, plutôt que d’intervenir directement pour structurer l’offre de ces services. Désireux aussi de limiter le travail au noir 
qui caractérise ce secteur, les pouvoirs publics ont accordé des exonérations de charges sociales pour les personnes de plus de 70 ans, des 
réductions fiscales pour les emplois familiaux mais aussi des aides spécifiques pour la garde des enfants ou plus récemment pour l’autonomie des 
personnes âgées dépendantes. Ils ont simplifié les procédures administratives de recrutement et de gestion des salariées en créant les chèques 
emploi service mais, les utilisateurs devaient aussi être les employeurs des salariées. Ils ont ainsi largement privilégié le « gré à gré », relation directe 
entre l’usager-employeur et la salariée qui va exploser ne serait-ce que par la légalisation d’une partie des emplois qui s’exerçaient au noir 
auparavant, laissant libre cours à un marché officiel certes mais occulte, difficile à réguler.

Les pouvoirs publics cherchent à organiser les interventions à domicile par un système d’agrément par la Direction du Travail aux organismes 
salariant des intervenant auprès des personnes de plus de 60 ans ou handicapées ; principalement des associations à buts non lucratifs qui relèvent 
du modèle de l’économie sociale. Afin de réguler aussi l’emploi direct par des particuliers, sont institués un agrément personnel dans le cas des 
assistantes maternelles par la Caisse d’Allocations Familiales et un système de médiation d’« organismes mandataire » qui se chargent de la mise 
en relation d’une salariée avec un particulier-employeur, réalisant pour lui toutes les formalités liées à son statut d’employeur. Les associations 
d’aide à domicile en plus des bénévoles gèrent maintenant des salariées et compte tenu de leurs coûts de structures, proposent des prestations à 
des prix supérieurs au gré à gré. Afin de ne pas perdre leurs clientèles, les associations d’aide à domicile vont aussi proposer des services 
mandataires en plus de leurs prestations de services

On assiste alors à un brouillage total des situations d’emploi (Causse, Fournier, Labruyère, 1998). Une personne peut concrètement effectuer le 
même travail et pourtant être à la fois salariée d’une association « prestataire » et relevée de la convention collective de l’aide à domicile et être 
salariée d’un particulier–employeur, en gré à gré (gérée par le particulier) ou en mandataire (gestion par une association) mais relevant là de la 
convention collective des particuliers employeurs. 

L’intervention des associations intermédiaires qui ont pour mission d’insérer des personnes en difficultés amplifie la confusion. Les AI « mettent à 
disposition » des utilisateurs leurs salariées mais comme les particuliers, elles bénéficient d’exonérations de charges et de réductions fiscales leur 
permettant de proposer des services à un coût moindre. 

Plus récemment se développent des entreprises (individuelles, Sàrl…) qui proposent des services dans un rapport marchand de prestations à client. 
Elles s’adressent plutôt aux ménages d’actifs Mais c’est le gré à gré qui reste la règle. Actuellement, celui concentre plus de 80% du total des 
heures de travail à domicile avec 3,5 millions d’employeurs et 1,5 millions de salariés.

Des conditions d’emploi difficiles

Les emplois de services à domicile sont des « emplois de femmes » peu valorisés qui s’exercent dans des conditions de très forte précarité, marqués 
par un travail au noir persistant.

Des emplois très précaires

Cette précarité n’est pas liée comme dans d’autres secteurs à l’importance des contrats à durée déterminée (CDD) ou de l’intérim. La majorité des 
emplois relèvent d’un type de contrat de travail spécifique, le gré à gré. Le « contrat de travail » (tâches, horaires, rémunération) le plus souvent 
oral, se négocie entre la salariée et le particulier qui est l’employeur mais aussi l’utilisateur du service. Or ce besoin de service est réversible, et la 
personne peut à tout moment décider de refaire elle-même ces tâches. Le contrat peut aussi être remis en cause du fait de l’évolution des moyens 
ou d’événements personnels de l’employeur utilisateur ne justifiant plus le service (personne âgée hospitalisée voire décédée). Souvent ni l’employeur 
ni même la salariée ne sont conscients qu’il s’agit bien d’un licenciement et l’activité s’arrête tout simplement avec l’obligation pour la salariée 
de retrouver un autre 

D’autre part, ces emplois ne sont pas considérés comme qualifiés dans la mesure où il ne consisterait qu’à faire chez d’autres ce que l’on sait très 
bien faire chez soi. La grande majorité de ces emplois sont accessibles sans aucune formation, seule l’expérience de tâches domestiques est 
demandée et les critères relèvent plus des qualités personnelles de la salariée (confiance, disponibilité, ponctualité). Les services à domicile sont très 
peu considérés et valorisés. Seule l’assistante ou l’auxiliaire de vie qui assiste les personnes âgées ou handicapées doit être en possession du 
diplôme correspondant (Diplôme d’Etat d’Auxiliaire de Vie) mais que dans les structures d’aide à domicile. Dans le gré à gré, il est très rare que 
l’employeur l’exige 

Ces emplois n’offrent que des niveaux de salaires très bas accentués par la faiblesse des temps de travail. Car le temps partiel est la règle : de 
quelques heures (une dizaine en moyenne) par semaine au mi-temps qu’il ne dépasse que rarement. Comme les personnes limitent ces services à 
leurs stricts besoins (3 à 4 heures par semaine), la salariée est obligée de trouver autant de contrats avec des employeurs différents pour travailler 
le nombre d’heures souhaité et combiner les horaires et gérer les déplacements.

Qui sont ces travailleurs domestiques ?

Les conditions actuelles de fonctionnement de ce secteur permettent un accès facile à l’emploi que ce soit pour des femmes pas ou peu formées, 
chômeuses, ouvrières licenciées sans autre possibilité ou des femmes restées en marge du marché du travail pour élever leurs enfants « peu 
employables » qui se tournent vers ce secteur d’accueil. Ce sont aussi des femmes qui se retrouvent seules avec des enfants Rares sont les 
femmes qualifiées, disposant d’un diplôme pour les interventions auprès des personnes âgées et handicapées. Enfin, la moyenne d’âge de ces 
femmes est en moyenne plus élevée que celle des femmes actives en général dans la mesure où ces emplois ne sont pas des emplois de premier 
choix. 

Quelques soient la situation sociale de ces femmes, les travailleurs « domestiques » sont de plus en plus souvent d’origine étrangère (voire en 
situation irrégulière) avec une grande variété de nationalités (d’Afrique surtout du Nord, d’Afrique noire, d’Asie, d’Amérique latine et plus 
récemment d’Europe de l’Est qui émigrent vers les pays « riches. Cette tendance reflète la féminisation internationale des migrations et la 
globalisation internationale du marché du travail depuis une vingtaine d’années. Les migrants ne sont pas nécessairement tous dans des 
situations illégales ou d’exploitation économique mais une grande partie sert à alimenter des segments spécifiques du marché de l’emploi. 
Certains secteurs comme les Services à domicile, mais aussi la Construction, l’Agriculture ou l’Hôtellerie Restauration qui offrent des emplois 
de proximité, non délocalisables, utilisent abondamment cette main d’œuvre et constituent des appels à la main d’œuvre étrangère. La précarité 
des conditions de travail des travailleurs domestiques peut être renforcée par les stéréotypes reposant sur les hiérarchies ethniques.

Si le phénomène du service domestique s’est développé à partir d’un rapport de classes seulement (les domestiques de la bourgeoisie du XIXème 
siècle), il se caractérise aujourd’hui par un phénomène où la classe, le genre mais aussi l’appartenance ethnique et la nationalité se mêlent. La 
dynamique du service est dominée par ces diverses catégories de l’inégalité. Les femmes qui exercent ces emplois sont des travailleurs « pauvres » 
ne leur conférant pas l’autonomie financière qu’on est en droit d’attendre en exerçant une activité professionnelle. Ce sont aussi des 
travailleuses isolées ayant peu de possibilités de communiquer entre elles ou avec le reste du monde du travail. Elles ignorent très souvent leurs 
droits.

Un travail au noir persistant

Une caractéristique importante de ce secteur est la place persistante du travail au noir. Les usagers cherchent au maximum à minimiser le coût 
des services dont ils ont besoin et souhaitent rémunérer les personnes qui les dispensent aux niveaux les plus bas voire inférieurs aux conditions 
du marché (SMIC). C’est une des raisons pour lesquels un circuit informel du travail domestique persiste malgré les mesures pour l’emploi prises 
pour le résorber. Le « travail au noir » peut être intéressant pour l’employeur puisqu’il lui donne un pouvoir de négociation des conditions 
d’emploi inférieures à celles déjà limites du marché, mais il prive le travailleur de toute protection sociale et juridique, tout en pouvant donner 
lieu à toute forme d’exploitation. 

Le travail au noir reste une opportunité pour des non actifs qui recherchent une activité rémunérée, des chômeurs qui n’exercent que quelques 
heures mais ne voulant pas perdre leurs indemnités de chômage ou les personnes qui cherchent à compléter une activité professionnelle, une 
retraite insuffisante dans un statut soit subi (contrainte de l’employeur) soit souhaité. Mais il est aussi particulièrement alimenté par le 
développement des travailleurs domestiques migrants dont nous avons déjà parlés. Certains dénoncent même une politique de tolérance vis-à-vis 
des étrangers en situation illégale pour répondre aux exigences de ces secteurs économiques avec convergence entre illégalité de séjour et fraude 
sociale. Les statuts irréguliers permettent le recours à cette main d’œuvre dans des emplois non déclarés et sous payés qui fait parti du 
processus de dérégulation de la condition salariale d’autant plus que l’espace de travail privé laisse le travail dans un isolement total par rapport 
aux nationaux.


Vers une nouvelle domesticité ou une professionnalisation ? 

Doit-on considérer que le cadre domestique de production de services conduit en fait à des formes de « néo-domesticité » ? (Clergeau, Dussuet, 
2005) ou ces conditions d’emploi précaires permettent-elles, comme le font les responsables politiques ou associatifs, de parler de « 
professionnalisation » de ce secteur. Le travail à domicile s’effectue dans un contexte très particulier, la sphère privée du bénéficiaire et il 
conserve une spécificité qui porte l’empreinte de son histoire. C’est en effet une pratique ancienne même si ses conditions d’exercice ont 
changé. Ainsi, on peut en observer deux formes distinctes : Celle de la tradition des « gens de maison » (et dont on a encore en tête les figures 
avec la femme de chambre, la nourrice, la cuisinière ou le cocher ….) se caractérisait par une disponibilité totale et une quasi absence de 
régulation des conditions de travail, à la discrétion de l’employeur. Les besoins ont certes évolué et se sont étendus au travail d’assistance 
(enfants et personnes âgées) mais l’on peut rapprocher cette première forme du contexte du particulier employeur d’aujourd’hui. Celle de 
l’économie sociale relevait, quant à elle, du bénévolat des œuvres de charité et des solidarités de voisinage ou des associations familiales ouvrières 
des années cinquante autour des « travailleuses familiales » positionnées sur le soutien aux personnes en difficulté à domicile (malades, jeunes 
mères, personnes isolées, âgées…) et dont la forme actuelle sont les associations d’aide à domicile.

La première s’inscrit dans une logique de relative soumission domestique avec du personnel d’exécution, alors que la deuxième relève de l’action 
sociale et morale avec les notions de bonne volonté d’apporter une aide (Dussuet, 2005) et qui subsiste. Depuis, les bénévoles ont été remplacées 
par des salariées qui sont, cependant, aussi occupées massivement à des tâches relativement simples. Seule une part réduite des emplois dans ces 
associations sont un peu plus qualifiés, les auxiliaires de vie qui effectuent en effet, des tâches sur les personnes elles-mêmes. Mais ces 
associations ont, ces dernières années, fait évoluer leurs modes de fonctionnement et de gestion de leur personnel qui les distinguent du modèle 
de la domesticité et sont dans une phase d’amélioration de la qualité des prestations et de professionnalisation de leurs salariées.

Une néo-domesticité massive

Dans la forme « domestique », les emplois s’inscrivent sur le strict modèle des tâches exécutées dans le cadre de la sphère privée et sur l’exigence 
de disponibilité en fonction des besoins de l’utilisateur. Le contenu du travail est rarement bien défini et les tâches à réaliser ne sont pas 
déterminées avec précision. Elles relèvent de l’ensemble des travaux manuels d’ordre ménager, mais aussi de plus en plus d’aide apporter aux 
personnes et la liste peut être rallongée à l’appréciation de l’employeur, c’est lui qui détermine l’objet du travail.

Les tâches ne sont donc pas prescrites a priori. On est dans le registre de la transposition salariée du travail « domestique » qui rappellerait la 
situation des domestiques du 19ème siècle. Les caractéristiques telles que la subordination personnelle, la proximité avec la famille employeuse et 
l’implication dans son intimité, la flexibilité des tâches subsistent. La disponibilité totale (les domestiques vivaient chez leurs employeurs) 
s’exprime aujourd’hui en une adaptation des horaires aux exigences spécifiques de l’employeur. Les durées de travail souvent très courtes, 
voire en discontinu dans une même journée intensifient la dépendance de la salariée de par ses multiples employeurs. La spécificité de l’habitation 
privée en tant que lieu de travail complique l’instauration de règles obligatoires aussi bien pour les salariées que pour les employeurs.

La mauvaise qualité des emplois de services à domicile en a fait des emplois de serviteur (Gorz, 1988) qui ne peuvent guère fournir une insertion 
« professionnelle » aux femmes concernées, les engageant seulement dans un retour à la domesticité (Dussuet, 2006). C’est bien ce modèle 
domestique qui caractérise la majeure partie des emplois du gré à gré et dans un moindre mesure ceux des entreprises commerciales. Même si les 
AI et les entreprises offrent une structure, intermédiaire entre l’employeur et la salariée qui sort la salariée de la relation directe avec l’employeur 
particulier et qui n’a plus à trouver les personnes chez qui elle intervient, les conditions d’emploi proposées dans ces entreprises relèvent 
principalement du modèle domestique.

Une professionnalisation souhaitée mais encore timide

Le modèle professionnel implique une prise de distanciation avec l’univers domestique même si l’intervention se fait toujours au domicile des 
personnes. Le service doit être objectivé, les tâches définies et délimitées grâce à l’élaboration de processus type à partir desquels les compétences 
nécessaires sont identifiées et permettent la reconnaissance d’une qualification acquise grâce à une formation attestée par un titre ou un diplôme. 
Les objectifs de la professionnalisation de ce secteur sont multiples et ambitieux. Ils consistent à organiser l’offre de services, améliorer la qualité 
des services rendus et les conditions d’emploi et repérer les métiers et les compétences correspondantes, et former et qualifier les personnes.

La reconnaissance du travail à domicile est récente même si les premières conventions collectives datent des années 1970 et 1980 c’est l’image 
de « petits boulots » qui prévalait. Ce n’est qu’au début des années 2000 que l’extension de la Convention Collective des Particuliers employeurs 
et surtout l’Accord collectif de branche de l’aide à domicile en 2002, marquent une profonde volonté, au moins déjà dans les textes, d’améliorer 
les conditions d’exercice des emplois à domicile. Le processus de professionnalisation est entamé, même si aujourd’hui il n’en est qu’à des 
prémices car la confrontation avec la réalité du terrain met en évidence l’ampleur du chemin à parcourir mais aussi les difficultés de mise en 
œuvre et tout particulièrement dans le gré à gré. Il correspond aussi à un souhait de reconnaissance des intervenantes en quête d’identité 
professionnelle.

Une professionnalisation balbutiante dans le gré à gré

La professionnalisation dans le secteur du « gré à gré » a beaucoup de mal à démarrer. Si elle est souhaitée par la branche, les particuliers 
employeurs sont encore loin de s’en préoccuper et sont rares à se référer à la convention collective pour « qualifier » leur personnel.

Dans le cadre de la Convention collective, la branche a en effet identifié deux métiers (avec une qualification et une rémunération correspondantes) 
dans le cadre de CQP (certificat de qualification professionnelle) avec l’« employé familial polyvalent » qui effectue des travaux ménagers avec une 
spécialisation « garde d’enfants » et l’« assistante de vie » qui a assure l’assistance des personnes âgées ou handicapées. Chaque CQP peut être 
obtenu soit par la formation continue, soit par une procédure de validation des acquis. La branche a aussi défini des priorités d’action de 
formation et les prises en charge financières, mais très peu de salariées ont suivi les stages proposés. En 2006, 9000 salariés seulement pour 2 
millions se sont formées

Il n’est pas facile de sensibiliser les millions d’employeurs et de salariées à la nécessité de se former et il est encore plus difficile qu’en entreprise 
d’organiser concrètement une formation et de laisser partir son unique salariée. D’autre part, l’éventualité d’une reconnaissance salariale d’un 
accroissement de compétences n’est pas incitatif pour l’employeur. La professionnalisation dans le secteur du gré à gré est loin d’avoir fait écho 
si ce n’est pour les assistantes maternelles dont le processus a démarré depuis quelques années avec une convention collective spécifique qui a 
encadré cet emploi (horaires, rémunération, congés) et l’agrément par la Caisse d’Allocations Familiales qui régule le nombre d’enfants à garder 
et impose une centaine d’heures de formation.

Une professionnalisation encourageante mais limitée dans les organismes

Les organismes d’aide à domicile par contre, et surtout lorsqu’ils sont agrées « qualité » (associations et entreprises) c'est-à-dire qu’ils ont choisi 
de proposer des prestations à des personnes dites fragiles (personnes âgées de plus de 60 ans, handicapés, enfants de moins de 3 ans) se doivent 
de garantir la qualité des services rendus aux usagers mais aussi de développer la professionnalisation de leurs salariées.

L’accord de branche de 2002 modifie fondamentalement le cadre afin d’améliorer les conditions de travail, revaloriser les emplois et les 
rémunérations et développer la formation des personnes. Il a retenu quatre métiers hiérarchisés : l’« agent à domicile » qui effectue des travaux 
courants d’entretien de la maison, l’« employé à domicile » qui aide les personnes dans les actes essentiels de la vie courante, l’« auxiliaire de vie
 » qui assiste et prend en charge la dépendance des personnes, et la « technicienne de l’intervention sociale et familiale » qui effectue des actions 
éducatives et préventives mais qui sort du champ de notre analyse. A chaque métier correspond un référentiel avec des tâches bien identifiées, des 
techniques mobilisées, des outils ou équipements utilisés, des compétences requises et un niveau de qualification. Cet accord crée le DEAVS, Diplôme 
d’Etat d’Auxiliaire de Vie niveau de qualification supérieur, seul niveau qui fait référence à un titre ou un diplôme accessible soit par la voie de la 
formation, soit par celle de la validation des acquis par l’expérience.
L’accord a aussi revalorisé les salaires et redéfini la rémunération avec un salaire 20% au dessus du SMIC pour les diplômées DEAVS et des 
indemnités de déplacement.

La prestation et les modes de fonctionnement ne sont plus imposés par l’usager. La prestation est de plus en plus le résultat d’une négociation 
où les principes de fonctionnement de la structure peuvent s’affronter aux exigences des personnes aidées. (Dussuet, 2005). Un diagnostic des 
besoins, qui laisse encore une place à l’expression de l’usager, est élaboré par une personne en capacité d’évaluer les tâches retenues pour situer 
le niveau d’intervention et donc la qualification nécessaire. Les formes de la prestation comme la durée, le rythme, les horaires sont déterminées 
en fonction des caractéristiques du personnel des règles de fonctionnement qui limitent l’amplitude horaire ou les services délivrés le week-end. 
L’intervention d’un tiers qui impose sa médiation dans la relation salariée-utilisateur permet d’éviter la soumission à la pression des besoins de 
celui-ci. Il s’agit de faire pénétrer les règles professionnelles dans l’espace domestique.

Cette objectivation du service permet une interchangeabilité des intervenantes et une nette amélioration des conditions d’emploi, avec des temps 
de travail qui peuvent aller jusqu’au plein temps même si ce n’est pas encore la norme mais qui en moyenne dépassent le mi-temps et une nette 
amélioration des salaires Les organismes sont sous une double contrainte : d’un côté contenir les coûts et de l’autre répondre aux exigences de 
qualité des services qui légitiment leur position sur le modèle professionnel mais qui suppose des personnels compétents.

L’accès à des emplois « professionnels » repose sur une qualification reconnue et donc les personnes doivent avoir la formation. Les organismes 
sont là dans une situation fragilisée. Le paradoxe de ce secteur est dans la multiplicité des diplômes et titres professionnels qui visent l’aide à 
domicile et le si petit nombre d’intervenantes qui les préparent. La majorité des femmes travaillant actuellement dans les organismes ne 
possèdent aucun diplôme (moins de 10% des femmes ont le DEAVS). L’enjeu de la professionnalisation du personnel passe par la formation de 
tout le personnel mais surtout, par la validation de leur acquis d’expérience afin d’obtenir le diplôme qui attestera leur qualification. Le DEAVS 
est le premier diplôme préparé par la VAE ce qui atteste aussi d’une réelle et forte volonté d’une reconnaissance professionnelle des 
intervenantes elles-mêmes car l’investissement est conséquent. Cependant, il reste encore beaucoup de tâches simples mais qui nécessitent tout 
de même qu’elles ne se réfèrent plus seulement à des savoir faire domestiques et qu’elles soient effectuées par des salariées compétentes. Les 
organismes doivent pouvoir attester de la qualité des emplois afin de les rendre plus attractifs. Ils se sont pour la plupart engagés dans des plans 
de formation conséquents mais ils ont souvent du mal à motiver les personnes. La professionnalisation passe aussi par les recrutements favorisés 
par le contexte de croissance de l’activité mais sont aussi importants pour le remplacement de départs (les salariées étant relativement âgées). 
Mais les conditions actuelles sont difficiles pour permettre à ces flux externes non seulement de se doter de nouvelles compétences mais aussi de 
rajeunir un secteur qui n’a pas encore réussi à revaloriser son image et attirer des femmes jeunes et moins jeunes mais formées.

Conclusion

Le secteur des services aux personnes à domicile reste largement dominé par des emplois de femmes dans des conditions précaires, 
principalement dus à l’importance de la forme d’emploi de gré à gré particulièrement difficile à réguler mais aussi à la persistance d’une économie 
informelle voire clandestine toujours alimentée. Ce contexte contribue à maintenir un modèle qui de réfère à la domesticité. Les politiques publiques, 
en privilégiant les mesures de soutien de la demande ont plutôt jusqu’à présent contribué à façonner ce paysage.
Même si tous les organismes d’aide à domicile ne sont pas tous au même degré de professionnalisation, celle-ci est en marche mais son 
aboutissement est fragilisé si les politiques publiques ne soutiennent pas plus clairement une offre qui semble pourtant bien répondre aux besoins 
croissants de population dites fragiles.
 Le secteur se développe dans un contexte concurrentiel. L’objectif et l’enjeu du dernier Plan pour les Services aux personnes de la fin 2005 et 
mis en œuvre courant 2006, sont d’assurer le développement de ces services (dont il a élargi la liste des services éligibles aux mesures fiscales) 
qui passe par la professionnalisation du secteur et des personnes qui y travaillent afin d’en faire de « vrais emplois » attractifs. La « feuille de 
route » de décembre 2006 donne les mesures à adopter et les actions à entreprendre pour mettre en œuvre la démarche de professionnalisation 
: analyser des métiers, de leurs conditions d’exercice, la négociation collective, l’acquisition et le développement des compétences: Il est encore 
trop tôt pour pouvoir apprécier les effets de ce plan.
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Cobus Van Staden

アルプスの金色の輝き:文化的グローバル化とヨーロッパのイメージ

はじめに
最近の学会で、ドイツから来た建築家が韓国の大都市における公衆空間のデザインについて口頭発表した。特に彼は広告板の使い方を中心に、さまざま
な広告板の写真を見せながら議論をした。その中のひとつはヨーロッパ系と思われる金髪のカップルの写真であった。「経済的に発展した東アジアの国々
では、なぜ国民が国民に何かをアピールするためにヨーロッパ系のモデルを使うのであろうか」、「東アジアの人々は自分の文化に自信がないのか」とこ
の建築家が疑問を投げかけた。彼は「東アジアの文化は西洋に作られたイメージに支配されすぎているのではないのか」と自身の見解をほのめかしてい
た。私はそこでやはり彼はドイツ人だと思った。すぐ自分を非難してしまうからである。

それは冗談だが、私はこの問題は重要な問題であると思っている。非ヨーロッパの国において、ヨーロッパの文化はいかなる力を持つのであろうか?欧米
以外の文化で作られたポップカルチャーにはヨーロッパのイメージを表す人物や背景が見られる。それらを我々はどう理解するべきなのだろうか?この小
論では、そのひとつの例を考察したい。日本の「ズイヨー」というアニメーション制作会社が、スイスのヨハンナ・スパイリーの小説を原作にして『アルプスの
少女ハイジ』というアニメシリーズを制作した。このアニメシリーズは70年代後半に日本国内でヒットして、それらの吹き替版が世界中のさまざまな国で放
送された。それゆえに『アルプスの少女ハイジ』はヨーロッパと日本の文化的な遭遇の象徴としてだけではなく、文化的なグローバル化の一例としても考え
ることができる。ヨーロッパの景色や文化はアニメーション化され、そのおかげで世界中に流行した。しかし、それらが一度世界各国で放送されたら、それ
ぞれの国において微妙に違う意味合いを持つようになった。この小論では私が体験したそのひとつの例も含めたいと思っている。

最初に『ハイジ』を見たのは私が子供の頃であった。それは80年代前半の南アフリカにおいてであったのだが、当時の南アフリカはアパルトヘート体制の
軍事国家であった。海外から痛烈な批判を浴びせられていた南アフリカに対して、様々な国々が経済制裁を加えた。制裁を加えていなかった国はアメリカ
と日本であった。その影響から、南アフリカ国内で放送されるテレビ番組はだんだんとアメリカ製の作品が中心となり、また子供向けの番組は日本アニメ
が増えていった。

最初に放映された『ハイジ』はアフリカーンス語(17世紀半ば以降移住したオランダ人の話すオランダ語を基礎に、現地語などの影響をうけて18世紀末
に形成された言語)を話している子供たちにヒットした。テーマ曲も大人気となり、私自身も主題歌のレコードを持っていた。調べてみると日本版のテーマ
曲も、新しく作られたアフリカーンス語版のものも、スイス風のヨーデルが含まれている。では、そのヨーデルはどのような意味を持つのであるか?テレビ
用アニメーションにとり入れられ、日本でも南アフリカでも消費されることとなったヨーデル。日本のアニメの中のヨーロッパ文化とそれをアパルトヘート下
での南アフリカで消費することは、文化的グローバル化に関して、何を教えてくれるのであろうか?

ここで『アルプスの少女ハイジ』のストーリーを紹介させていただきたい。この作品の背景は19世紀のヨーロッパである。孤児であるハイジはアルプスに
住んでいるおじいさんの家へ送られることとなったのだが、そのおじいさんは村から離れ一人で暮らしている。それまでハイジの世話をしてくれていた伯母
さんがフランクフルトで仕事をすることになったので、ハイジの世話をすることができなくなりそのためハイジはアルプスに行くこととなったのだ。ハイジは
アルプスに着くやいなやすぐにその環境に慣れ、アルプスでの生活もおじいさんの家も大好きになる。近くに住むヤギ飼いのペーターとも友達になり、毎日
一緒にヤギの世話をしながら山の中で遊び新しい生活を楽しむ様になる。しかしその3年後、伯母さんがアルプスに戻ってきてハイジをフランクフルトへつ
れて行きたいと言いだすのだ。伯母さんはハイジをフランクフルトに連れて行き、富裕な家に住まわせた。ハイジはその家の娘、クララという体が不自由な
少女の話し相手になった。ところがハイジはフランクフルトの生活にはなかなか慣れることができず憂鬱な日々を送っていた。特に家庭教師のロッテンマイ
ヤーさんと相性が合わなくて、ハイジはアルプスでの楽しい生活を思い出しては、メランコリックになってしまった。幸運な事に一緒に暮らすクララの父が、
毎晩夢遊状態で歩くハイジを見て「すぐにハイジをアルプスに帰らせないと彼女は病気になってしまう」と心配し、彼女をアルプスに戻してくれたのだ。ハイ
ジはアルプスですぐに元気を取り戻した。その一年後、クララはハイジに会うためにアルプスを訪問したのだが、健康によい山の環境のおかげで奇跡的に
歩けるようになる。

「ヨーロッパさ」のイメージ
この小論ではスパイリーの小説がどのように日本でアニメーション化されたかという過程ではなく、どのように画面上でヨーロッパが象徴的に描かれている
のかという問題に焦点を当てたい。『アルプスの少女ハイジ』を見る子供たちにとって「その原作が実はヨーロッパ小説であった」という事実には興味を持
たないかもしれないが、彼らにとって「アニメ上に展開するヨーロッパの背景」は大事な要素として記憶されるであろう。では『アルプスの少女ハイジ』におけ
る「ヨーロッパさ」は一体何であろう?

このシリーズにおける最も重要なヨーロッパの表象は「アルプス」であると言える。それらは視覚的にも感情的にも中心的な象徴となりえる。さらに、特に印
象的なシーンにおいては、いつも「アルプスの山々」が何かしら映し出されている。ハイジが最初におじいさんの家に着くシーンでも、ペーターと一緒に日没
の光に燃える山を眺めるシーンでも、そして騙されていると知りながらもフランクフルトへ向かうこととなるハイジが、電車の窓からアルプスの山々を見つ
めるシーンでも、山は象徴的に現れる。ハイジがフランクフルトにいる間でさえも「アルプスの山々」は象徴として使われる。クララの家で山の絵が飾られ
ているのだが、その絵は物語の中でハイジがアルプスへ帰ることを切望しているという象徴となる。最後にハイジが願っていたアルプスでの生活を手に入
れたら、ペーターと一緒に日没の光に燃えているアルプスを見るというシーンがある。本物の景色としてのアルプスから、風景画としてのアルプス、そして
本物の景色として、という一つのサイクルがここで展開する。

「アルプスの山々」以外にも、「ヨーロッパさ」はさまざまなところに見ることが出来る。アルプスでの場面では、ハイジは例えばダーンドルという伝統的なド
レスを着、ヤギと遊び、干草置き場で寝て、チーズとパンを食べヤギのミルクを飲む。フランクフルトでの生活の場面では、背景のデザインは「ヨーロッパさ
」とコミュニケートし、4輪馬車や、シャンデリアや、フォーマルに用意した食卓などに見ることができる。レースの帽子をかぶっているお手伝いさんや制服を
着ている従僕も19世紀のヨーロッパというイメージを充分に思わせる。しかし、そういうイメージが放つ意味合いはそれぞれ放送される国によって違う。次
にそのひとつの例を考えたい。

アフリカにおけるハイジ
前にも述べた様に、『アルプスの少女ハイジ』は南アフリカで放送された時は、アパルトヘートの時代であった。国家は世界から孤立した状態にあり、国際
社会からふんだんに批判されていた。反アパルトヘート運動がヨーロッパで特に進んでいた。アフリカーンスの国粋主義はヨーロッパと複雑な関係を保っ
ていた。第一に、アメリカにおいてと同様、アフリカーナーは「ヨーロッパ人とは違って、アフリカで生まれた原住民」になりすまし、アフリカ系原住民もヨーロ
ッパの植民地者も土地から締め出そうとした。一方、アパルトヘート政策はオランダとイギリスの植民地法から発展したもので、それは植民地的なイデオ
ロギーも引き継いでいた。そのひとつの例は、「ダークアフリカに光を運んだ」というイデオロギーであった。したがって、ヨーロッパと深い関係があるという
イデオロギーは植民地時代が終わった後、アパルトヘート政府にとって大事であった。アパルトヘート政策下のポップカルチャーには、「ヨーロッパの継承
者である」というイメージも「ヨーロッパと平等である」というイメージも同時に表れていた。「正当な国々の一つである」と証明したい欲望はアパルトヘート体
制下の国家そして社会がずっと持ち続けていた。彼らにとって「最も正当な国」とはやはりヨーロッパの国であった。

アフリカーンス語で話しているハイジを考えると、こういうヨーロッパの継承者と平等なものというイデオロギーのために使われていないとは言えない。主
に、吹き替えに使われたアフリカーンス語は19世紀のアルプスの環境に入れられることになった。ヨーロッパ人の立場から見ると、こういうパフォーマンス
はホミ・バーバが論じた「模倣」という概念に近づく。バーバによれば、植民地された人々が植民者の文化を模倣すると、その文化における主体の立場があ
いまいになり、微妙に文化自体も権威のないものとなる。しかし、当時の南アフリカの場合、状況はさらに複雑になる。アフリカーナーの声優たちがアルプ
スへの憧れを演じるのを見たヨーロッパ人は、神経質な笑い声を発した。アフリカーナーたちはアフリカにおける半・植民者としての略奪者であるだけでは
なく、ボーア戦争での「植民者の犠牲者」にもなった。アフリカーナーが19世紀の「山メロドラマ」を演じると、20世紀のヨーロッパのポスト・コロニアルな左
翼的な人類愛の源には、実は植民地主義が存在することが明らかになる。もちろん反アパルトヘート活動に参加している左翼ヨーロッパである。日本で作
られたヨーロッパのイメージを使い、アフリカーナーたちが「ヨーロッパと血族関係がある」と主張すると、ヨーロッパはアフリカーナーたちとの関係を取り除
くことはできなくなるのである。

日本におけるハイジ
外国人の僕は日本人がヨーロッパとどのような関係があるかを論じる自信がないので、その代わりに時間的なコントラストを議論したい。『アルプスの少女
ハイジ』におけるヨーロッパのイメージとそれ以前に制作された作品を比べたいと思っている。
1927年に、さらに1947年と1957年の再上演も含めて、宝塚歌劇団が『モン・パリ』というレビューを三回にわたり上演した。それは旅行談のストーリー
であり、東京からパリまでさまざまな国がパフォーマンスの背景になった。ジェニファー・エレン・ロバートソンによると、こういうパフォーマンスに「日本のオ
リエンタリズム」を見ることが出来る。スリランカやエジプトなどは社会としてより、「変わらない本質的なもの」、として描写された。その「本質」とは時間に
影響されない、エキゾチックなアイデンティティーであった。例えば、エジプトのシーンにはクレオパトラを思い出させる女王がいた。パリに着いたら、登場
人物は大都会の喧噪を体験し、「パリのエネルギーとモダンな生活」と「眠る永遠的なアジア」はコントラストをなしていた。旅行者という設定の人物がパリ
の劇場を通ったら、『モン・パリ』がパリでも上演されていると気づき、フランスが宝塚を輸入したと思うのだ。ある人物は、「フランスは宝塚に似て、みんな
をうっとりさせる国、子ども時代からくすぶっている夢の国だ」とまで言う。

『モン・パリ』と『アルプスの少女ハイジ』を比べると、時間的な違いが見える。「ヨーロッパ」は「未来」から「過去」になる。『モン・パリ』では登場人物がパリ
の混み合う大通を散歩し、「日本人はフランスから学ぶことがいっぱいある」と言うシーンがある。これはパリで宝塚を見つけるシーンの裏面として考えるこ
とができる。これは「ヨーロッパ諸国のメンバー」となったという幻想で、「日本は過去のアジアより、未来的なヨーロッパに近付くために努力しないといけな
い」という意味を含んでいる。ある程度、南アフリカとヨーロッパの関係と同様なところが見えるかもしれない。日本は世界でどの役があるのかという不安
も含んでいると考えることができる。ロバートソンによれば、時間に変えられないアジアとより、日本は近代化されたヨーロッパと同一視するべきだというイ
デオロギーである。

しかし、『アルプスの少女ハイジ』のヨーロッパのイメージを見ると、時間の変化を受けない永遠な国というイメージはアジアから西の方に移動した。『モン・
パリ』と違い、『ハイジ』のヨーロッパは未来より過去のイメージになる。現代ヨーロッパは『ハイジ』の世界と関係がない。その世界が時間から切り離されて
いるからというより、『ハイジ』の未来が現代ヨーロッパより現代日本だからである。ヨーロッパは保存されている史跡と同じように描かれ、日本は進歩、未
来への歩みを表し、アニメを作った日本でもある。結局、『ハイジ』では、ヨーロッパの景色や人物は日本観客の快楽のために使われたと言える。植民地
時代には、ヨーロッパの文化は流通され、非ヨーロッパ人に知られることになり、その文化製作はヨーロッパに支配された。『ハイジ』とほかのヨーロッパを
背景にしたアニメは、ヨーロッパが支配することなく、視覚的に記された。そのうえ、記す過程はヨーロッパ人のためにではなく、非欧米人のためである。

宝塚の『モン・パリ』では、日本とヨーロッパは平等になったというメッセージが非常に読み取りやすく、ある程度の劣等感を含んでいないとは言えない。一
方、『ハイジ』の世界には、日本は存在していないと言えるが、その世界はアニメに作られる世界だから、全部日本であるとも言える。人物はある程度まで
はヨーロッパ人だが、根本的にアニメの人物である。その人物はアルプスに帰りたいというセリフを言うが、そのセリフは敬語や日本語の表現を使ってい
る。『モン・パリ』より、日本の存在をはっきりさせる必要がないのは、アニメ制作において「日本らしさ」を内側から注入しているからである。ユーロセントリ
ズムというヨーロッパ中心主義があれば、ヨーロッパが現実で、ほかの国はこの現実を基準に考えられることになる。しかし、『ハイジ』の場合、日本が現
実で、ヨーロッパは夢になる。夢見ているのはヨーロッパ人ではない。

しかし、そうなら、ヨーロッパを背景にする理由はまだ不明だと言える。さらに、作品を理解するためにヨーロッパについての知識を持つのも条件にならな
い。例えば、小学校の頃の僕がフランクフルトとスイスのアルプスは別な国にあると知らず楽しめた。ヨーロッパとの触れ合いは知識より感情のレベルに
おいて行われる。特に、「過去」という意味が含まれているヨーロッパのイメージと出会うことになる。

そうすると、アルジュン・アパデュライが論じた「記憶なしのノスタルジア」という概念に近づく。アパデュライは、体験や記憶が元になっていないノスタルジ
アは現代広告とマーケティングに作られる感情だと論じた。それは資本主義的な主体性やアイデンティティーにも影響を及ぼす。メディアがますますひろ
がると、こういうノスタルジアは消費者というアイデンティティーも可能にすると言える。

したがって、『ハイジ』のヨーロッパが記憶なしのノスタルジアであるなら、アニメに見られる江戸時代の背景や古代中国の背景と根本的に違わないと論
じることができる。日本アニメに使われている江戸時代のイメージは必ずヨーロッパのイメージより真正であるとは論じがたい。いずれにしろ記憶なしのノ
スタルジアがこの場合強く働いている。もしそうなら、観客とヨーロッパとの実際の関係は作品の理解とは無関係になる。むしろ観客の資本主義的な主体
性を分析法の元にすれば作品のアピールは理解しやすくなる。さらに、文化中心主義的な立場からより、フレッシュな立場から作品のグローバルの流通
も論じることができるようになると思っている。

金色の輝き
 『アルプスの少女ハイジ』における資本主義はどのような特色を持っているかを考えることが必要になる。表面的には、アルプスとフランクフルトという
伝統的な「自然」対「大都市」という区別の設定だと思えるが、私は、あえてそれはアニメだからその様な区別は矛盾であると論じたい。モノはアニメに表
れると、同時に商品になってしまうのである。写真家は、人体/モノ/場所を商品化されやすく、大量生産可能な対象にしてしまうように思われるが、ア
ニメの場合は二重にそうなのだ。そこでは、人体/モノ/場所は、市場に受け入れられやすいものに変質してしまう。アニメ化されたウサギや人物が商
品化されるのは、驚くべきことではないのだ。本物の鳥や山やウサギはアニメ化されたら、商品に近づいてしまうので、『ハイジ』に表れている自然を自
然として読むのは矛盾となる。

「自然」対「大都市」というより、ハイジは、互いに対立する二つの資本を設定していると主張したい。アニメ化されたアルプスは、大都市よりすぐれている
ことを表している。なぜなら、クララが歩けるようになるというシーンはシリーズのクライマックスであるが、それはクララがアルプスで時間をすごしたあと
に起こるからである。体が不自由な状態から歩ける状態まで変化するという過程は自然の力の証明になるが、その自然は商品化されたものである。さら
に、その過程は同時に訓練を受けて、仕事をできるようになるという資本主義らしい過程と似ている。観客は体の不自由なクララに同情するが、映画を
楽しむためには、同情だけではなく、同一視もしなければならないのだ。物語に意味を与え、主人公と自分を同一視するに至る過程においては、文化的
裏打ちが必要だが、それはヨーロッパの文化でも日本や南アフリカの文化でもない。それは全世界に広がった資本主義という文化そのものなのだ。
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Cobus Van Staden

The Golden Glow of the Alps: Cultural Globalization and Images of Europe

Introduction
I recently attended a conference where a German architect spoke about the use of public space in South Korea. Specifically, he referred to the 
plethora of billboards and other forms of outdoor advertising in Seoul. Flipping through a collection of images on his laptop he came to one of a 
beaming blonde couple towering over Seoul. Isn’t it disturbing, said the architect, that despite the economic success of East Asia, they still feel the 
need to use images of Europeans to appeal to their own fellow Asians? Don’t they have confidence in the power of their own culture? His implication 
was clear. Europe is overrunning the world again – only this time in the form of images. Wow, I thought. So German of him – so ready to take the 
blame.  

I’m being flippant, but the core question is serious. What is the power of Europe in the culture of the non-European? More specific to this paper – 
how should one interpret the use of European images, settings and characters when they are employed in pop culture from non-European countries? 
To focus the discussion, I want to look at one such example. During the late 1970s a Japanese company called Zuiyo produced an anime version of 
Johanna Spyri’s novel Heidi. Arupusu no Shoujo Haiji (Heidi, a Girl of the Alps) became a hit in Japan and ended up dubbed and shown in many 
countries around the world. The anime-Heidi can therefore not be read simply as a Japanese encounter with European culture, but as a form of 
cultural globalization. An anime version of European culture and landscapes came to be circulated around the world and caused a subtly different 
impact wherever it was shown. I therefore want to extend the range of this paper to deal with one of these encounters, one in which I participated. 

I am a Heidi veteran. I first fell in love with her when I was about her own age. During the early 1980s South Africa’s apartheid regime was still 
entrenched. However, international opposition to the racist regime was also mounting and had led to waves of sanctions. Of the few first world 
countries that didn’t install severe sanctions against South Africa was Japan and the United States. As a result, the South African TV palette 
changed from European to American, with children’s programming increasingly made up by Japanese animation.

So, when I first met Heidi, she was speaking Afrikaans. She was extremely popular among Afrikaans children. The Afrikaans version of the theme 
song became a hit in its own right – I owned an LP of it. Both the Japanese original and the new Afrikaans theme tune featured Swiss yodeling. 

In this paper I want to ask what is the power of a yodel? What does the use of European culture in Japanese anime and its consumption in apartheid 
South Africa tell us about cultural globalization? 

Before we start, a quick recap of Heidi’s story. Europe; the nineteenth century. An orphan called Heidi is taken from her adoptive home in a Swiss 
village to stay with her grandfather, He lives in a small cabin in the Alps. The aunt who has taken care of Heidi up to now has to go to the city to 
work. Heidi immediately falls in love with the Alps. She accompanies the local goatherd Peter on his daily outings. Three years later, her aunt returns. 
She has found a position for Heidi as a companion to Clara, the wheelchair-bound daughter of a wealthy family in Frankfurt. Heidi finds it difficult to 
settle into her new position. She clashes with the housekeeper Miss Rottenmeier and gradually she is overcome by a deep melancholy. Her longing for 
the Alps starts affecting her health. Recognizing that Heidi’s increasingly frequent bouts of sleepwalking are the symptom of her yearning for 
Switzerland, the head of the family decides that it is time for her to go back to the Alps. After her return, Heidi is rejuvenated. A year later, Clara 
comes for a visit. Thanks to the salubrious mountain lifestyle and Heidi’s support, she manages to start walking again.

The Communication of “European-ness”
When I refer to anime’s use of European culture, I refer less to the adaptation of Spyri’s novel into anime form. Rather, I want to focus on the traces 
of Europe that appear on the screen. I suspect that the majority of the children around the world who enjoy Arupusu no Shoujo Haiji don’t know or 
care that it is based on a European novel. The relative position of Heidi as European cultural goods is less relevant to this discussion than the 
representation of Europe in the series itself. So it might be useful to start by outlining what form “European-ness” takes in the series. 

Perhaps the most powerful European symbol in the series is the image of the Alps. It not only creates an emotional focus, but that emotional power is 
manifested in visual appeal. The mountain is the dominant visual motif of the series and it punctuates many of its most moving scenes. These include 
Heidi’s arrival at her grandfather’s home, her first view of the snow-clad mountains lit by the setting sun, her realization on the train to Frankfurt 
that she had been tricked by her aunt into leaving the mountains permanently – she rushes to the end of the speeding train only to see the mountains 
receding in the distance. Even in Frankfurt, the Alps retain their power. Heidi’s yearning to return to the mountains is focused by finding an Alpine 
landscape in a disused room, a scene that echoes one mentioned above where she stares at the mountain at sunset, When she returns from Frankfurt, 
the approaching mountain is again a key communicative element. After her return, Heidi and Peter return to the slopes, lit by the setting sun. The circle 
from Alps to Alpine landscape painting back to Alps has been completed. 

   The appealing European-ness of the Alpine background is intensified on the level of detail. Heidi wears a dirndl, she plays with goats, she sleeps in a 
hayloft, they eat cheese and bread, and drink goats’ milk. When one turns to Heidi’s time in Frankfurt, one sees European-ness manifested in the 
background design – cobblestone streets, neo-classical facades and the curved banister that awes her aunt when they first arrive at Clara’s house. 
Clothes and accoutrements also communicate this European setting. We see carriages, chandeliers and formally set tables with candlesticks. Europe of 
the past is also invoked by the presence of servants in lace caps and Sebastian, the footman. 

While the series beams out Europe, how those signals are interpreted and used will differ from country to country. To make this distinction clear, I would 
like to examine the meaning of Heidi’s European-ness in two different contexts.

Heidi in Africa
As I mentioned above, Heidi arrived in South Africa during the height of apartheid, when the country was increasingly facing cultural isolation and 
international criticism. Much of this criticism was coming from European countries. Afrikaans nationalism’s relationship with Europe is a complicated one. 
On the one hand Afrikaner nationalist self-definition echoed that of settlers in the United States. Appropriating the native position in a fake Native vs. 
European contest, the settlers managed to undermine both colonial European and native (-American, or in the case of South Africa, indigenous African) 
claims to the land. On the other hand, apartheid also grew from Dutch and British colonialism and retained certain colonial tropes, including the myth of 
settlers bringing light to a dark continent. Claiming a special relationship with Europe was therefore an important self-legitimating strategy in apartheid 
culture, especially once the colonial era had passed. Apartheid pop culture maintained an unstable mix of claiming a direct European inheritance (a trope 
which also fit into the cold war mythology equating anti-colonial struggles in Africa with communist encroachment) while also claiming equivalence with 
Europe. So for example I remember recipe books celebrating the cuisines of the world, with chapters on France, Germany, Sweden, Belgium and South 
Africa. An anxiety to prove one’s membership to the club of legitimate countries or cultures ran through much of mainstream apartheid culture, and the 
most legitimate cultures out there were European cultures..

   What to make of the Afrikaans-speaking Heidi? I have argued above that images of Europe were used in South Africa to both claim a European lineage 
and to claim parity with Europe. It seems to me that Heidi was more influential in the former sense, because the latter necessitates a formal depiction of 
South African culture to stand in line with France, Germany and all the others. In addition, the distinction is also temporal. The claim to equivalence with 
Europe is strongly related to what Benedict Anderson has referred to as the ‘homogenous empty time’ of modernity and progress. What happens instead 
is that via dubbing, Afrikaans is inserted into the landscape of vaguely nineteenth century Europe. Seen from a European point of view, this might 
approximate what Homi Bhabha has described as the emotional destabilization induced when the colonized mimic the colonizer – a destabilization which 
results from the way that mimicry denaturalizes the speaker position: “The menace of mimicry is its double vision which in disclosing the ambivalence of 
colonial discourse also disrupts its authority” (88) (emphasis original). But what we have here is closer to triple vision. The spectacle of apartheid-era 
Afrikaans voice actors playing out Heidi’s longing for the Alps can’t but have produced a nervous laugh from an actual European. Afrikaners were after 
all not only semi-colonialist predators hunting in Africa, they were themselves the objects of European predation during the Anglo-Boer war. Their claiming 
and acting out of nineteenth-century European mountain kitsch exposes the colonial origin of post-colonial leftwing philanthropy in Europe – exactly the kind 
of left-wing Europe that led the sanctions campaign against apartheid. Apartheid South Africa therefore uses a Japanese recreation of European landscape 
and culture to claim their kinship to a Europe that was desperate to get rid of its association with them. 

Heidi in Japan
I want to move away from the ironies of Heidi’s international reception and focus more on its origin in Japan. I don’t feel confident to speak about how 
Japanese people relate to European culture. I would however like to point out an interesting contrast between Heidi’s representation of Europe and one 
from several decades before. 

In 1927 and in again in 1947 and 1957 revivals, the all-female Takarazuka theatre troupe put on a revue called Mon Paris. A travelogue, with song and 
dance stops in many exotic locales from Tokyo to Paris epitomized what Jennifer Ellen Robertson has characterized as Japanese Orientalism. Most of the 
scenes were set against exotic backgrounds such as Ceylon (Sri Lanka) and Egypt, portrayed less as societies than as a series of static essences (Egypt, 
for example, features a Cleopatra-like queen.). When the travelers reach Paris, they find bustling crowds, the dynamic modernism contrasted with sleeping 
Asia. They decide to take in a revue, only to find that Mon Paris is also on in Paris – the French have imported Takarazuka. One of the travelers remarks 
that Paris and the whole of France is like Takarazuka – “everyone’s beautiful, enchanted country; a country of dreams smoldering since childhood” 
(Robertson, 108) 

There seems to have occurred an interesting evolution from this eruption of Takarazuka in Europe to the kind of fantasies about Europe we see in Heidi. 
On a very basic level, the Europe’s role changes from the future to the past. In the Takarazuka revue the characters walking in the bustling boulevards 
of Paris remark that “Japan has much to learn from the West” (107). The flipside of this sentiment plays itself out in the discovery of Mon Paris in Paris, 
the fantasy of not only being admitted into the European club, but having already been admitted without the need to lobby for the position. (A very similar 
desire is visible in the aspirational ‘cuisines of the world’ mode of self-representation I discussed in relation to South Africa). Both seem to reveal a sense 
of unease about Japan’s status in the world, As Robertson points out, this unease translates into positioning Japan with the mythology of modern 
Europe’s trajectory through time and apart from Asia, where Asia is portrayed as somehow seperate from time. 

  However, when one looks at the images of Europe in Heidi and also certain of Miyazaki Hayao’s films, one sees that here the site of timelessness has 
shifted westward. Unlike Mon Paris, Heidi carries no suggestion of Japan catching up to Europe. What we see here is a Europe of the past. Contemporary 
Europe has no place in the Heidi universe, not because Heidi is cut off from time (there are suggestions for example of Heidi growing up and hints of 
changes in the social stratification) but because the past represented by Heidi stands in contrast not to contemporary Europe but to Japan. Japan here 
represents progress, normality –  that is reality. Japan is the one striding into the future and Europe represents the past lovingly preserved. In effect, what 
we see here is a Japanese mapping of European landscape and even of Europeans themselves for its own ends. It is interesting to contrast the position of 
Japan itself in these fantasies. In the Takarazuka revue the position of Japan has to be asserted, the desire for full membership nakedly visible. In Heidi, 
there is no explicit Japanese presence. None is necessary. The European landscape and characters might be coded as European, but they are more 
powerfully coded as anime characters. They might speak about their yearning for the Alps, but they do so in idiomatically correct Japanese. Even the very 
European class divisions between the characters are principally expressed through the use of different politeness registers in spoken Japanese. Heidi doesn’t 
represent the power of Europe in Japan, it represents the power of Japan in Europe. What is ostensibly “European” in Heidi has been literally remade into 
anime form. There is no need for an explicit Japanese presence in Heidi because it is infused with “Japaneseness” from the inside. 

A central aspect of Eurocentrism is the way the European standard sets a standard for reality and everywhere else departs from this standard to a greater 
or lesser degree. Greenwich becomes the origin of time and everywhere else is Greenwich plus or minus a certain amount of hours. However, in the case of 
Heidi, this reality standard lies in Japan. Japan is the real and Europe becomes the dream, but it is clear that the person dreaming is not European. 

However, if that is so, why use European settings, characters and source material at all? Watching Heidi shows us that the appeal of Europe does not lie on 
an idea that European source material is superior. As I mentioned before, the representation of Europe in the text counts for more than its origin. At the 
same time, the representation of Europe does not demand that the audience possess much real knowledge about Europe either. For example, in order to 
follow the story, one doesn’t need to know that Frankfurt is in a different country than the Swiss Alps. The audience’s interaction with Europe doesn’t 
take place on the level of knowledge, but on that of perception. 

More specifically, I would like to argue that the non-European audience’s encounter with this onscreen Europe is less related to our knowledge of actual 
Europe than with our perception of these Euro-tinged images as “past”. This is a version of what Arjun Appadurai has called ‘nostalgia without memory’. 
The power of Europe in this series lies not on the level of intelligibility but on the level of appeal. It functions by building atmosphere and providing a 
background. Appadurai has argued that this nostalgia – not driven by actual experience but rather by its lack – is fundamental to contemporary marketing:
Rather than expecting the consumer to supply memories while the merchandiser supplies the lubricant of nostalgia, now the viewer need only bring the 
faculty of nostalgia to an image that will supply the memory of a loss he or she has never suffered. This relationship might be called armchair nostalgia, 
nostalgia without lived experience or collective historical memory (78).    

In this sense, one might say that Heidi’s European setting is not so different from the way Edo-era Japan is frequently used in anime. Conversely, it 
becomes diffecult to argue that the Japanese use of Edo-era imagery in anime is any more “real” or authentic that its use of European imagery. Nostalgia 
without memory remains powerful in either case. If this is true, one cannot assume that an audience’s grasp and enjoyment of a piece of pop culture set in 
Europe is fundamentally driven by their relationship (however negative or positive) with Europe itself. Rather I want to argue that when enjoying pop culture 
from cultures other than our own, our understanding is crucially underlain by our experience under capitalism itself.  

The Golden Glow of the Alps
But how does capitalism feature in Heidi? On the surface, it seems to set up a classic city-country dichotomy between the Alps and Frankfurt. Yet, this 
distinction is complicated by the fact that we are watching an anime universe. It seems to me that the representation of anything as animation also brings 
it closer to the realm of commodity. While any photograph can arguably be seen as the remapping of a body/object/place onto a commodifiable and 
mass-produceable object, this becomes doubly so in the case of animation, where the body/object/place is remade into a version of itself that is infinitely 
more ameable to the market. It is no surprise that animated characters remain the most frequently merchandized. So the anime-ic character of the nature 
imagery on the screen problematizes its reading as nature. 

So instead of contrasting nature and culture, I would argue Heidi sets up two realms of capital against each other. Via its commodified anime-ic vision, we 
come to see the Alps not as an escape from capital but as a different and more advanced version of capital. The entire arc of the story isn’t only centered 
around the distinction between the Alps and Frankfurt – it also proves that the Alps are superior. This is made clear by the climax, where Clara, hitherto 
confined in a wheelchair, manages to walk after spending time in the Alps. 
This is perhaps the most famous scene of the series, one that I’ve seen parodied by comedians in Japan. It is also a scene that friends both in South Africa 
and Japan remember the most vividly. I would like to argue that following the characters up to this point, making sense of the story and sympathising with 
the characters are processes that are culturally underlain. However, this culture is not European, Japanese or South African culture. Instead I want to argue 
this culture is capitalism itself. 
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Roland Pfefferkorn

Des outils sociologiques pour l’analyse de la structure sociale : Classes sociales et catégories socioprofessionnelles (Nagoya - 2007) Cette communication vise à présenter de manière critique la nomenclature des catégories socioprofessionnelles (CS), mode de représentation de la société le plus fréquemment utilisé en France. La quasi-totalité des statistiques sociales utilisent ce code. Le souci de l'INSEE (Institut national de la statistique et des études économiques) a été de constituer des catégories ayant une forte homogénéité sociale. Le regroupement vise à faire apparaître des corrélations significatives entre milieux sociaux et différentes caractéristiques économiques, sociologiques, démographiques, etc. Par ailleurs, son objectif est de proposer une classification standard apte à satisfaire des utilisateurs variés (administrations, organismes de recherche, entreprises de marketing, etc.) qui étudient diverses questions. La notion d'homogénéité sociale renvoie à l'idée que les membres d'un groupe sont présumés avoir des caractéristiques communes (comportements, opinion, etc.), ou se considèrent comme appartenant à un groupe et sont considérés comme tels par les autres. La construction d'une telle nomenclature repose à la fois sur une méthode abstraite qui consiste à définir des catégories à partir de différents critères et sur une démarche plus empirique qui procède par assemblage de professions voisines. Les nomenclatures des CS combinent les grandes oppositions qui découpent notre société : l'opposition patron / salarié, l'opposition monde agricole / monde urbain, et l'opposition professions à fort capital culturel / professions à faible capital culturel. Malgré ses limites, une telle construction a contribué puissamment à la légitimation des représentations en termes de classes sociales au sens fort du terme dans les décennies d’après la Seconde Guerre mondiale en France et en Grande-Bretagne. La variable « classe sociale » s’est en effet imposée dans le champ des sciences sociales empiriques comme dans le débat public par le biais de la construction et de l’utilisation systématique de nomenclatures de catégories socioprofessionnelles. Il existe schématiquement deux traditions dans la production de nomenclatures de CS : l’approche française qualifiée le plus souvent de « constructiviste », en rapport avec une sociologie qui va très schématiquement de Durkheim à Bourdieu, et l’approche dominante sur le plan international, d’origine anglo-saxonne qui se rattache à une perspective plus individualiste. La première tradition renvoie à une vision plus « holiste », élaborée collectivement dans le cadre de négociations des statisticiens avec les syndicats ouvriers et les organisations professionnelles afin de prendre en compte « l’intuition des milieux sociaux » selon l’expression de Jean Porte (Desrosières, Thevenot, 2002). Cette vision correspond aussi à une tentative d’objectivation des rapports sociaux. La seconde tradition conçue par les seuls statisticiens de façon plus parcellaire et très nominaliste vise simplement à classer des individus. Dans ce second modèle on part de listes de professions établies a priori par les spécialistes sans confrontation avec les acteurs sociaux concernés, alors que dans le premier modèle les nomenclatures ne répondent pas seulement à une demande des statisticiens mais aussi à celles, contradictoires, du monde social. Ainsi, la construction des CSP françaises après la Libération est en rapport étroit avec les grilles de classification professionnelle Parodi et les conventions collectives qui elles-mêmes résultent de négociations collectives. Les différences entre ces deux conceptions expliquent par exemple que Alain Desrosières puisse dire : « Pour être franc, la statistique m’intéresse plus par son rôle dans la société, que dans les sciences » ; alors que John Goldthorpe, qui se situe lui-même dans le sillage de Weber et de Popper et en affinité avec Boudon, affirme exactement l’inverse (Goldthorpe, 2001). Pourtant, malgré ces différences d’orientation théorique, selon ce dernier, et pour l’essentiel du XXe siècle, les classifications britanniques ont été produites selon les même lignes directrices et le même type de négociations avec les acteurs sociaux que les nomenclatures de CS françaises quoique de manière moins systématique et moins institutionnalisée. Reste à savoir si la construction de la future nomenclature européenne à partir du class scheme élaboré au départ par Goldthorpe se fera en intégrant de telles négociations ou si au contraire elle résultera uniquement de discussions entre spécialistes de nomenclatures ? (Kieffer, 2000 ; Goldthorpe, 2002 ; Chauvel et alii, 2002). Dans tous les cas, les difficultés liées à la fois aux méthodes mises en oeuvre par les spécialistes et aux parcours originaux de chacun des pays ne manquent pas. Comme le note Marco Oberti au terme d’une analyse du cas italien : « Les dimensions sociales, politiques, symboliques sont constitutives des façons de se représenter les professions et leur position dans les différentes sociétés » d’autant plus qu’ « il ne faut pas être dupe des raccourcis et des procédures de simplification qu’implique une harmonisation européenne des nomenclatures » (Oberti, 2002 : 72). Dernière remarque introductive : nous ne procéderons pas ici à une comparaison avec les catégories statistiques en usage au Japon . Nous aborderons successivement trois points : - les CS ne sont pas des classes - hétérogénéité des groupes, dénominations problématiques et invisibilité de la bourgeoisie. - pourtant les CS contribuent à légitimer les analyses en termes de classes 1. Les catégories socioprofessionnelles ne sont pas des classes Les CS visent à dénombrer et à classer des individus ou des ménages. Les difficultés ne manquent pas vu qu’il faut construire des catégories à différents niveaux de finesse permettant de ranger de manière univoque tous les individus ou tous les ménages. Une première difficulté tient au fait que pendant des décennies le travail des femmes était essentiellement abordé sous l’angle de la sphère domestique et de l’inactivité (Maruani, 2001, 2003 ). Très tôt, des chercheuses féministes ont montré que la procédure utilisée était loin d’être neutre suivant les sexes (Delphy, 1977). Les critères de catégorisation ne sont en effet pas les mêmes, notamment quand il s’agit de classer les ménages (Amossé, 2004). « En attribuant systématiquement à la femme sans emploi la profession de son mari on occulte une variable dichotomique essentielle, le fait d’avoir ou non une indépendance économique » (Delphy, 1977/1998 : 160). Comme si la dépendance ou l’indépendance économique était une variable accessoire. De plus, en raison des consignes données, par exemple lors du recensement, il arrive fréquemment de classer les femmes par leur profession « si elles sont célibataires, mais par la profession de leur mari si elles sont mariées » (Idem : 155). C’est pourquoi il y a plus de 25 ans déjà, en raison de ces inconséquences méthodologiques, Christine Delphy remettait en cause « l’utilisation pour le classement des femmes mariées (…) d’un critère totalement étranger à la théorie de la stratification sociale, nommément le critère de l’association par alliance matrimoniale » (Idem : 160). Une seconde difficulté a elle aussi été pointée dès les années 1970. En effet, les groupes de CS sont divisés en deux grandes catégories : les groupes d’actifs et les groupes d’inactifs. Quand les statisticiens ont définit l’activité (professionnelle) ils ont en même temps inventé l’inverse : l’inactivité. Or les catégories d’inactifs comprennent beaucoup de femmes « au foyer » qui loin d’être « inactives » sont occupées à des degrés divers par le travail domestique. Ce travail sera ainsi défini et construit comme ne relevant pas de l’activité et il sera par conséquent longtemps invisibilisé (Barrère-Maurisson, 1985 ; Barrère-Maurisson, Rivier, 2001 ; Fouquet, 2004). Ajoutons enfin qu’avec le développement de la flexibilité ce sont principalement les femmes qui se retrouvent repoussées aux marges de l’activité professionnelle (Battagliola, 1999). Ces catégories socioprofessionnelles ne sont certes pas de simples agrégats statistiques, comme tentent parfois de les présenter les tenants de l'approche stratificationniste. En témoignent les « cohérences locales » le long du « grand axe » de la hiérarchie sociale qu'elles ont permis de mettre en évidence et qui est un de leurs principaux bénéfices théoriques (Desrosières et Thévenot, 1979). Il en résulte la possibilité de « rassembler des données statistiques cumulatives dans différents domaines sur les différences et inégalités entre les catégories » (Chauvel et alii, 2002 : 159). Notre propre étude des inégalités sociales a permis d'éprouver ces cohérences (Bihr, Pfefferkorn, 1995a, 1996b,1999a). Mais, contrairement aux CS, le concept de classe ne vise pas à ranger des individus ou des ménages, il a un tout autre objectif. Il vise à de saisir les dynamiques sociales à partir de déterminations matérielles et de leurs contradictions. Les CS ne sauraient donc être l’expression directe des classes et de leurs rapports pour trois ordres de raisons, même si elles peuvent faciliter indirectement la saisie de ces rapports : a) Ces catégories ne constituent pas des classes sociales, pas même des fractions ou des couches à l'intérieur de classes. D'une part, elles regroupent essentiellement des individus, parfois des ménages, sur la base de la possession de certains attributs sociaux communs, dont en premier lieu une position socioprofessionnelle. Or l'appartenance d'un individu à une classe sociale est doublement médiatisée, par son appartenance à une famille, voire à un ménage, et par l'ensemble de sa trajectoire sociale, par son origine sociale et par ses positions sociales successives, plus significatives quant à son appartenance de classe que la position occupée ponctuellement au moment d'une enquête, d’autant que cette position peut n'être que transitoire : c’est notamment le cas des jeunes ou des jeunes adultes. Par conséquent, le classement d'un individu dans telle catégorie socioprofessionnelle pour les besoins d'une enquête ne préjuge pas de son appartenance de classe, même s'il en constitue un indice important, parmi d'autres, dont on devra évidemment tenir compte. D'autre part, du fait même des principes qui président à leur constitution, les catégories socioprofessionnelles sont forcément plus ou moins hétérogènes. En procédant à des regroupements sur la base de différenciations professionnelles, elles amalgament nécessairement des individus, des familles, des ménages appartenant à des classes sociales différentes. C'est que la profession n'est pas un critère d'appartenance de classe : dans une même profession se côtoient des individus dont les positions dans les rapports de production (pour ne parler que d'eux) peuvent être extrêmement diverses, voire franchement opposées ; et inversement, des individus exerçant des professions différentes relèvent pourtant d'une même position dans les rapports de production, et partant de classes. Autrement dit, ce sont les classes qui à la fois divisent et regroupent les professions, et non pas l'inverse. b) La seconde raison pour laquelle l'étude de la structure de classes ne saurait se réduire à l'analyse des inégalités entre catégories socioprofessionnelles tient au changement essentiel de perspective qui intervient dans le passage de l'une à l'autre. Le tribut que les analyses en termes de catégorie socioprofessionnelle continuent à payer à l'approche stratificationniste se manifeste dans le fait qu'elles ne permettent pour l’essentiel de saisir les inégalités sociales qu'en termes de répartition : d'inégal accès des individus à ces « biens rares » que sont la fortune, le pouvoir ou encore le prestige, en les classant selon cette triple dimension. L'analyse en termes de classes, celle du moins qui est d'inspiration marxienne, dépasse au contraire le stade de l'analyse des simples rapports de répartition de ces « biens rares », pour s'intéresser aux rapports que les agents sociaux nouent entre eux dans la production de ces mêmes biens. Par exemple, elle n'en reste pas à la simple opposition descriptive entre riches et pauvres, mais tente de saisir la dynamique contradictoire du procès de valorisation du capital qui engendre à la fois richesse et pauvreté, en distribuant inégalement la valeur produite entre les différents agents de la production. La spécificité mais aussi la supériorité de cette approche en termes de classes résident bien, en définitive, dans cet approfondissement de l'analyse qui nous fait passer des rapports de répartition aux rapports de production (en donnant ici, d'ailleurs, à chacun de ces deux concepts un sens plus large que celui qu'ils reçoivent en économie, au-delà de la seule production et répartition de biens et services, incluant par exemple la production sociale, institutionnelle ou symbolique). C'est d'ailleurs la principale limite de la quasi-totalité des approches sociologiques des inégalités sociales, y compris de celles qui opèrent formellement à partir du concept de classe sociale, que de s'en tenir à l'analyse des seuls rapports de répartition, omettant ainsi l'enseignement essentiel de la critique marxienne de l'économie politique. Bourdieu et son école par exemple n’échappent pas à cette limite. Ils tentent d'expliquer les pratiques sociales des différents agents par la combinaison de différentes espèces de « capitaux » (économique, social, culturel, symbolique) que les individus peuvent s'approprier dans le processus de répartition, occultant du même coup les rapports de production et le processus d'exploitation qu'ils impliquent, responsable des clivages sociaux les plus décisifs. Cela explique la grande faiblesse de leur analyse de la structure de classes de la société française, qui se réduit en définitive à un regroupement plus ou moins arbitraire des catégories socioprofessionnelles, et aboutit par exemple à classer les professeurs du secondaire dans la classe dominante, les « employés » dans la classe moyenne et les agriculteurs et les artisans et petits commerçants, dans la « classe » populaire. Le regroupement de la CS « employés » avec la CS « cadres moyens » ou « professions intermédiaires » se justifie-t-il quand on sait par exemple que les femmes employées épousent en premier lieu des hommes ouvriers et partagent le même logement et les mêmes conditions d’existence ? Ce choix est d’autant plus discutable que les conditions de vie, de travail et de rémunération d’une fraction majoritaire et croissante des employé(e)s ressemblent de longue date à celles des ouvriers, même si la conscience d’appartenir au même ensemble est loin d’être partagée. De ce point de vue aussi, l’opposition construite par Bourdieu (1979) entre un « goût du nécessaire » caractérisant les catégories populaires, et plus particulièrement les ouvriers, et une « bonne volonté culturelle » qui serait l’apanage des employés, en tant que fraction de la petite bourgeoisie, n’emporte pas la conviction, même si la vision du monde des deux groupes de CS n’est effectivement pas identique. c) Les analyses en termes de catégories socioprofessionnelles et celles en termes de classes se séparent enfin sur un troisième point important. C'est que la genèse de la structure de classes comme celle des classes sociales elles-mêmes met en oeuvre des processus qui échappent totalement aux analyses des inégalités entre catégories socioprofessionnelles. Ces dernières permettent au mieux d'illustrer la manière dont les rapports de production génèrent la division de la société en classes : la manière dont ils objectivent les classes en assignant à leurs membres une communauté de condition, mais aussi la manière dont ils leur font assumer cette condition, la leur font « intérioriser » en quelque sorte sous la forme d'un ensemble de pratiques matérielles, institutionnelles et symboliques communes. Mais les classes sociales résultent tout aussi bien des luttes entre elles qui les conduisent à se composer (à s'unifier et à s'organiser par delà la concurrence interindividuelle qui les émiettent et leurs divisions en fractions et couches), mais aussi à se décomposer et à se recomposer en des blocs sociaux rivaux (donc en des systèmes d'alliance médiatisés par des représentations politiques). Elles résultent enfin d'un travail d’appropriation et d'autoproduction (d'autodéfinition à la fois pratique et symbolique) au cours de leurs luttes les unes avec/contre les autres, qui leur permettent notamment de construire et d'affirmer leur conscience de classe. Toutes ces considérations sortent totalement du champ des études menées à partir de la nomenclature des catégories socioprofessionnelles. 2. Hétérogénéité des groupes, dénominations problématiques, invisibilité de la bourgeoisie. La structure de classes d'une société définit sur la base de l'analyse des rapports sociaux (et tout d'abord des rapports de production) un certain nombre de positions ou de places abstraites, par rapport auxquelles la situation d'une catégorie sociale donnée (quel que soit son mode de définition) et a fortiori celle d'un groupe (une famille ou un ménage) ou d'un individu demande à être déterminée à chaque fois empiriquement, sans d'ailleurs que les études empiriques puissent toujours réduire toute incertitude ou ambiguïté les concernant. Cela revient tout simplement à constater qu'une société concrète ne se réduit pas à sa structure de classes. En un mot, il en est en sociologie comme en toute science : la structure n'est pas le phénomène. On peut aisément à partir de là comprendre l’hétérogénéité des catégories socioprofessionnelles. Cette hétérogénéité se retrouve dans les groupes de CS rassemblant les « inactifs », ils se caractérisent même par une hétérogénéité extrême. On éprouve déjà quelques difficultés à classer les retraités, « anciens actifs » dès lors qu'ils ont occupé différentes positions au cours de leur vie active. Quant aux « autres inactifs », ce groupe de CS constitue un véritable fourre-tout, dans lequel se mêlent le haut et le bas de l'échelle sociale, les plus défavorisés font partie du sous-prolétariat (le « quart-monde »), les plus fortunés, ces rentiers capable de bien vivre des seuls revenus de leur patrimoine, sont des membres de la classe capitaliste ou des descendants de l'aristocratie foncière. On remarquera aussi que, de toutes les classes que nous avons distinguées, c'est bien la classe capitaliste qui est la moins facilement repérable dans et par la nomenclature des CS. D'une part, elle s'y trouve éparpillée entre plusieurs groupe de CS (« exploitants agricoles », « artisans, commerçants, chefs d'entreprise », « cadres et professions intellectuelles supérieures », « inactifs ») ; tandis que, d'autre part, à l'intérieur de chacun de ces groupes, elle ne représente qu'une minorité camouflée par la masse elle-même hétéroclite des agents d'autres classes. Les évaluations du nombre ou de la part de la classe capitaliste varient selon les auteurs, ils s’accordent cependant sur une fourchette allant de 0,7 à 2 % de la population. Inversement la construction des groupe de CS a aussi pour effet de découper l’ensemble formé par les personnes dépendant de la vente de leur force de travail en catégories à statuts et conditions de travail différents. Evoquons encore brièvement deux autres difficultés. Il faut d’abord revenir sur la confusion fréquente entre « classe ouvrière » et CS « ouvriers » qui aboutit à une définition restrictive de la classe et à un certain nombre de brouillages de sens gênants. Cette confusion se rencontre à un niveau théorique et politique, mais aussi de façon plus banale quand, par exemple, des articles de presse consacrés à des études de l’INSEE traitant de la CS « ouvriers » titrent systématiquement sur la « classe ouvrière ». Faut-il rappeler la définition du prolétariat de Marx ? Celui-ci n’a jamais été limité au seul prolétariat ouvrier, même si ce dernier a été largement prédominant pendant les premières phases du développement capitaliste. Le prolétaire est celui qui ne possédant pas de moyens de production est contraint pour pouvoir vivre de vendre sa force de travail. Rappelons aussi qu’en France, le syndicalisme cégétiste d’avant 1914, n’envisageait pas le mouvement ouvrier dans une perspective étroitement socio-économique mais de manière indissociable d’un projet d’émancipation susceptible aussi d’unifier tous les « prolétaires », qu’ils soient travailleurs manuels, intellectuels, industriels ou agricoles. Dans le cadre du syndicalisme révolutionnaire du début du XXe siècle, la dénomination « ouvrier » renvoyait en fait à l’ensemble des agents exploités, quelles que soient les modalités de leur subordination aux détenteurs des moyens de production ou les tâches concrètes de leur activité de travail (Cours-Salies, 2003). Il n’en reste pas moins que cette dénomination « ouvrier » a aujourd’hui un sens plus étroit dans la langue française. Cette restriction est absente dans d’autres langues. Par exemple les termes anglais worker et working class ou allemands Arbeiter et Arbeiterklasse mettent directement l’accent sur le travail en général (work, Arbeit) et non sur le seul travail ouvrier ou manuel et ils renvoient de manière plus large au « travailleur », voire à la « classe des travailleurs ». Se pose ici au moins implicitement la question des contours de cette « classe des travailleurs » et, partant, celle de son unification éventuelle, au-delà des seuls ouvriers au sens strict du terme. En raison des profondes transformations qui ont affecté le salariat ces questions sont évidemment décisives pour aujourd’hui et demain. Peut-on regrouper dans le même ensemble ouvriers, employés et salariat intermédiaire ? Dans quelle mesure un tel regroupement a-t-il ou non du sens vu les différences observées en termes d’emploi, de conditions de travail, de revenus et de styles de vie ? Une conscience d’appartenance commune à la même classe peut-elle se développer à l’avenir en raison des importants changements en cours (extension du nombre de membres du salariat intermédiaire ; féminisation croissante ; dégradation des conditions de travail, d’emploi et de rémunération des employés, voire d’une fraction des professions intermédiaires et des cadres ; déclassement de surdiplômés parmi les employés, voire parmi les ouvriers, etc.) ? Déjà en 1981, Danièle Kergoat posait la question à propos de la salarisation croissante des femmes : « Parce que les femmes sont de plus en plus souvent salariées, peut-on, sans risques, dire que la classe ouvrière va se renforçant ? Du reste, ajoutait-elle, même ouvrières de production, les femmes font-elles partie de la classe ouvrière au sens où celle-ci est habituellement décrite et vécue ? » (Kergoat, 1981 : 6). La même question se pose aussi à propos de l’extension du salariat intermédiaire. Faut-il distinguer deux classes au sein du salariat (classe ouvrière et classe de l’encadrement – ou salariat intermédiaire) en raison des antagonismes qui les opposent qui seraient considérés comme fondamentaux ? Mais dans ce dernier cas la question de l’alliance entre ces deux classes ne sera-t-elle pas alors une question politique décisive ? 3. Les CS contribuent à légitimer les analyses en termes de classes En France, les CS ont été utilisées massivement à partir du recensement de 1954. La nouvelle classification utilisée à partir de ce moment succède à d’autres nomenclatures antérieurement en usage dans la statistique publique (Noiriel, 1986 ; Topalov, 1999) et très tôt mobilisées par les sociologues (Halbwachs, 1912). La nomenclature des CS légitime les approches de la structure sociale en termes de classe sociale, malgré les problèmes théoriques et pratiques considérables, même si elle ne tranche pas forcément en faveur de tel ou tel courant sociologique. C’est ce que soulignait déjà Jean Porte, l’un des créateurs de la nomenclature de 1954 dans un article publié dans le Traité de sociologie du travail de Georges Friedman et Pierre Naville (1963) : « Il y a analogie, mais non identité, entre le concept de catégorie socioprofessionnelle et celui de « classe sociale ». En effet, tous les sociologues sont d’accord pour admettre que les individus appartenant à des classes différentes, ont, au moins statistiquement, des comportements différents. Mais la classification par catégorie socioprofessionnelle n’est attachée à aucune des théories diverses et contradictoires à partir desquelles les sociologues des différentes écoles ont voulu définir les « classes sociales » ». (cité par Coutrot, 2002 : 123-124). De facto ces dernières décennies la variable CS est devenue la variable de référence dans la construction d’informations statistiques. De nombreux sociologues ont développé au cours des années 1960 et 1970 des analyses en termes de classes à partir des statistiques publiques construites à partir de cette nomenclature. Les enquêtes statistiques ont rendu possible l’étude des rapports de classes (parmi beaucoup d’autres notamment au sein de l’INSEE on peut rappeler : Bourdieu, Passeron, 1964 ; Bourdieu, Darbel, Schnapper, 1966 ; Bourdieu, 1966 ; Chamboredon et Lemaire, 1970 ; Baudelot, Establet, 1974 ; Bourdieu, 1979). Toutes ces études statistiques de la réalité sociale isent à analyser des propriétés de classes sociales à partir de la nomenclature des CS. Elles fournissent un matériau empirique irremplaçable à une sociologie des classes sociales. Elles ont rendu possible l’investigation systématique des inégalités sociales que nous avons réalisée (Bihr et Pfefferkorn, 1995, 1999). Arrivé au terme de cette digression méthodologique, il nous faut encore insister ici, sur les avantages de disposer en France d’une telle nomenclature « officielle » unique, élaborée par un organisme public, l’INSEE, et utilisée tant par les organes de l’Etat, les sociologues et les autres chercheurs dans les sciences sociales que par les hommes politiques ou les organisations syndicales, la presse, voire le grand public. La nomenclature tire sa force du fait que la même classification est utilisée par tous les producteurs de statistiques sociales quels que soient les champs ou les domaines concernés et, à des nuances près, quels que soient les moments. Une telle nomenclature, malgré ses limites, dispose en effet à la fois d’une légitimité étatique, académique, « publique », voire internationale si elle est connue et qu’elle sert dans les comparaisons (Pfeuffer, Schultheis, 2002 : 37). C’est cette légitimité de la nomenclature des CS que certains auteurs, statisticiens, philosophes ou historiens (plus rarement sociologues) ont tenté de remettre en cause dans le cours des années 1990 tandis que se réaffirmait à nouveau la thèse de la disparition des classes sociales et de la « moyennisation » de la société. Il est en effet difficile de mener une telle recherche sur les inégalités sociales dans certains pays en raison parfois de l’hétérogénéité des nomenclatures utilisées, qui changent selon les champs ou les secteurs concernés ou en raison tout simplement de leur absence, comme par exemple en Allemagne. C’est ce que nous ont signalé aussi des collègues de l’université de Lausanne à propos de la Suisse, lors de la présentation en 1995 de nos travaux. La situation en Europe est aujourd’hui encore très variable, six autres pays de l’Union européenne en dehors de la France disposent d’une nomenclature unique (Belgique, Danemark, Espagne, Grèce, Pays-Bas, Suède), trois en utilisent plusieurs (Grande-Bretagne, Irlande, Autriche) et trois autres n’en ont aucune officiellement (Allemagne, Italie, Luxembourg) (Kieffer, 2002 : 8). Les comparaisons internationales présentent par conséquent des difficultés considérables (Duriez et alii, 1991 ; Broussolle, 1994). En effet, comme l’ont encore remarqué récemment les coordinateurs d’un numéro de la revue Sociétés contemporaines consacrée aux enjeux et usages de ces catégories en Europe, « les catégories socioprofessionnelles sont devenues en France, au fil des décennies, des catégories quasi naturelles de représentation de la structure de notre société (…) Par contre, dès que les chercheurs s’intéressent à la comparaison avec d’autres sociétés, ils découvrent à quel point ces catégories familières ne le sont pas ailleurs » (Kieffer et alii, 2002 ; 5). Afin de mieux maîtriser ces comparaisons il faut en effet au préalable comprendre les logiques de classification utilisées et leurs limites, clarifier les objectifs de la comparaison, retravailler les nomenclatures respectives et construire des regroupements pertinents (Oberti, 2002 : 71). Malgré l’européanisation de la recherche, les initiatives visant à la construction d’une nomenclature européenne commune se heurtent à de nombreuses difficultés tenant tant à histoire statistique et sociologique propre à chaque pays qu’à son histoire de l’institutionnalisation des relations salariales. L’Allemagne cherchait jusqu’à récemment à imposer des indicateurs de revenu et d’éducation permettant de caractériser une société d’individus fluides et flexibles circulant sur le marché et non des catégories socio-économiques où pointe l’idée de classes sociales. Il est cependant probable désormais que la future nomenclature européenne soit proche du class schema élaboré par Glodhorpe, Ericson et Portocarrero et adopté depuis peu par la Grande-Bretagne, la Suède et les Pays-bas. (Desrosières et Thévenot, 1988 ; Desrosières, 2000 ; Société contemporaines, 2002). Quelques remarques sur les tableaux : 1) Pour désigner de manière précise la nomenclature en usage de 1954 à 1982, par opposition à la nouvelle nomenclature, on parle d'abord de l'ancienne classification des catégories socioprofessionnelles (CSP), ou de plus en plus de la classification des CSP ; pour désigner la nomenclature en usage depuis le recensement de 1982, d'abord de la nouvelle nomenclature des CSP, ou de la classification des professions et catégories socioprofessionnelles (PCS). Cependant, notamment quand il n'y a pas de risque de confusion entre les deux nomenclatures, la plupart des auteurs parlent généralement de CSP en référence à l'ancienne comme à la nouvelle classification. 2) En principe, pour toutes les statistiques récentes, on utilise dans ce livre la nouvelle classification, mais, jusqu'au début des années 1990, certaines institutions ou certains auteurs continuaient à utiliser l'ancienne classification des CSP ; dans ces cas, notamment quand il n'y avait pas d'autres données disponibles, nous avons eu recours à cette dernière. 3) Des catégories à intitulés identiques ne regroupent pas forcément les mêmes individus, car les principes de construction ont changé en passant de l'ancienne à la nouvelle nomenclature, d'où des variations parfois importantes des effectifs. C'est le cas par exemple de la catégorie “employés”, qui voit ses effectifs de 1982 “augmenter” de ce fait de 19,9 à 26,6 % du total, ou celui de la catégorie “ouvriers” dont les effectifs diminuent en passant de 35.1 à 32.9 %. 4) Les chômeurs n'ayant jamais travaillé étaient arbitrairement classés, avant 1982, parmi les employés ; tant qu'ils étaient peu nombreux celà ne posait pas trop de problèmes. Enfin, lors du recensement de 1982, les appelés du contingent étaient encore classés parmi les inactifs. Les catégories socioprofessionnelles (CSP) constituent le mode de représentation de la société le plus fréquemment utilisé en France : la quasi-totalité des statistiques sociales utilisent ce code. La nomenclature actuelle (tableau A.2) distingue, à un premier niveau (le niveau agrégé), 6 groupes de CSP d'actifs ayant un emploi et 2 groupes de CSP regroupant les personnes “sans activité professionnelles (les “retraités” et les “autres sans activité professionnelle”) ; à un second niveau (non reproduit ci-dessus), 24 postes dont 19 pour les actifs (niveau de publication courante) ; à un troisième niveau, 42 postes dont 32 pour les actifs (niveau détaillé). Au niveau le plus fin on rencontre 489 postes dont 455 postes d'actifs ayant un emploi . Ces CSP sont utilisées pour classer les ménages, chaque ménage étant rattaché à une personne de référence (auparavant on disait chef de famille). C'est donc d'abord une notion statistique visant au classement univoque des personnes. Le souci de l'INSEE a été de constituer des catégories ayant une forte homogénéité sociale. Le regroupement vise à faire apparaître des corrélations significatives entre milieux sociaux et différentes caractéristiques économiques, sociologiques, démographiques, etc. Par ailleurs, son objectif est de proposer une classification standard apte à satisfaire des utilisateurs variés (administrations, organismes de recherche, entreprises de marketing, etc.) qui étudient diverses questions. La notion d'homogénéité sociale renvoie par conséquent à l'idée que les membres d'un groupe sont présumés avoir des caractéristiques communes (comportements, opinion, etc.), se considèrent comme appartenant à un groupe et sont considérés comme tels par les autres. La construction d'une telle nomenclature repose à la fois sur une méthode abstraite qui consiste à définir des catégories à partir de différents critères et sur une démarche plus empirique qui procède par assemblage de professions voisines. La profession exercée est le premier critère de classement des diverses nomenclatures qui se sont succédées depuis la fin du siècle dernier. Le deuxième critère est le statut, à savoir salarié ou patron. Ensuite ce peut être la qualification, la position hiérarchique, l'appartenance au secteur public ou privé, la taille de l'entreprise, voire le secteur d'activité. Ces critères sont combinés de façon variable, selon la CSP. Par exemple, pour les “agriculteurs exploitants”, c'est l'appartenance au monde agricole et le statut d'indépendant qui sont les critères décisifs ; pour les “cadres et professions intellectuelles supérieures”, c'est pour l'essentiel le niveau socio-culturel ; pour les “techniciens”, c'est la qualification et le statut de salarié, etc. Pour mieux comprendre l'aspect plus empirique de la construction de la nomenclature nous prendrons comme exemple, le poste n°64 (cf tableau A.2) : “Chauffeurs”. Nous nous situons ici au troisième niveau de la nomenclature. Au deuxième niveau les chauffeurs sont regroupés avec les postes 62, 63, et 65 pour former le poste 61 qui regroupe tous les “ouvriers qualifiés” (dans l'ancienne classification les chauffeurs étaient regroupés avec les OS); à leur tour, ils sont regroupés avec les “ouvriers non qualifiés” et les “ouvriers agricoles” pour former au premier niveau, le plus agrégé, le groupe des “ouvriers”. Mais, à l'inverse, au quatrième niveau, le groupe des “chauffeurs” se subdivise en 5 postes : conducteurs routiers et grands routiers, salariés ; conducteurs de véhicules routiers de transport en commun, salariés ; conducteurs de taxi, salariés ; conducteurs de voitures particulières, salariés ; conducteurs-livreurs, coursiers, salariés. C'est à ce niveau, le plus fin, que les statisticiens décident de regrouper un ensemble de professions autour d'un noyau qui rassemble des appellations très proches ou assimilées, en intégrant certains cas limites et en excluant d'autres. Par exemple le poste 6411 : “Conducteurs routiers et grands routiers, salariés” rassemble dans son noyau les camionneurs et les conducteurs assurant le transport de marchandises et assimile d'autres professions assurant le transport de marchandises, mais exclut toutefois, non seulement les professions assurant le transport de personnes, mais aussi les caristes, les chauffeurs livreurs et les chauffeurs de ramassage (de marchandises). Les nomenclatures des CSP semblent combiner les grandes oppositions qui découpent notre société : l'opposition patron / salarié, l'opposition monde agricole / monde urbain, et l'opposition professions à fort capital culturel / professions à faible capital culturel. Cependant leur premier et principal défaut, dans l'ancienne comme dans la nouvelle nomenclature, consiste à ne pas faire apparaître clairement la classe capitaliste, c'est-à-dire les détenteurs des moyens de production. A la limite, ces nomenclatures permettent le camouflage des rapports de classe, dans la mesure où la classe capitaliste ne peut être repérée. On retrouve au niveau d'une nomenclature statistique la discrétion que ce groupe cultive dans ses rapport sociaux. En deuxième lieu, la définition des grands groupes de CSP conduit à agréger des sous-ensembles très disparates, par exemple sur le plan des revenus, de la consommation ou du patrimoine. C'est pourquoi les statistiques selon les 6 groupes de CSP aboutissent à minimiser la réalité des inégalités du fait des moyennes qui s'effectuent au sein de chaque catégorie (voir annexe 2). Cet inconvénient majeur devrait s'effacer en passant à une nomenclature fine en 42 postes. Cependant, si certaines études publiées de l'INSEE se placent résolument à un niveau fin de la nomenclature et évitent ce type de défaut, d'autres, au contraire, abordant une question aussi sensible que les inégalités de patrimoine, s'obstinent, par exemple, à mêler les chefs d'entreprise aux artisans et aux commerçants et s'interdisent de ce fait de mesurer l'étendue des inégalités . En troisième lieu, même à un niveau plus fin, le code des CSP repose, comme tout système de classement, sur un arbitraire inévitable pour classer les professions. Qu'est-ce qui distingue, par exemple, un ouvrier hautement qualifié d'un technicien ? Un professeur d'enseignement général de collège (classé parmi les “instituteurs et assimilés”) de son collègue certifié (classé parmi les “professeurs et professions scientifiques”) ? Pourquoi classer un “agent de maîtrise” dans les “professions intermédiaires” (nomenclature des PCS) plutôt que parmi les “ouvriers” (nomenclature des CSP) ? De même, la distinction “ouvriers qualifiés” et “ouvriers non qualifiés” n'est pas évidente : s'agit-il de la qualification de la personne, de la qualification du poste ou d'une qualification salariale reposant davantage sur le niveau de salaire obtenu compte tenu de la grille des rémunérations d'une entreprise ? Pourquoi par exemple, les “chauffeurs” qui étaient classés parmi les OS dans l'ancienne classification sont-ils maintenant reconnus comme “ouvriers qualifiés”, alors qu'ils ne l'étaient pas auparavant ? De plus, l'imprécision des réponses aux enquêtes conduit parfois l'INSEE ou le service statistique concerné à classer une personne, tant bien que mal, dans une rubrique précise, malgré le flou des indications données. Comment déterminer par exemple, si telle personne est salariée ou à son compte, quand la réponse n'est pas claire. Cette difficulté conduit parfois à “gonfler” démesurément les catégories “moyennes”, notamment quand les statistiques sont récoltées par des services non spécialisés (c'est le cas pour un certain nombre de statistiques scolaires). Enfin, le code des CSP repose sur des appellations en usage dans la société pour désigner notamment le métier ou le statut. Ces appellations renvoient aux représentations ordinaires du monde social, mais aussi à la représentation syndicale, voire politique, qu'un groupe travaille activement à consolider pour exister socialement en tant que groupe reconnu. En ce sens, les appellations sont le produit de l'histoire et traduisent en partie des rapports de force entre différents groupes sociaux. L'exemple de la constitution du groupe social des cadres dans la France de l'après-guerre, qui a été bien décrit par Luc Boltanski , est intéressant à ce propos. Le travail des organes représentatifs (syndicats d'ingénieurs et mouvements des classes moyennes) a été décisif pour imposer la reconnaissance sociale de ce groupe et de son appellation collective. La codification des CSP adoptée en 1954, qui se traduit par un usage certes encore flou du terme cadre, avec la distinction entre “cadres supérieurs” et “cadres moyens”, prend acte de cet effort. Plus tard, la modification du code des CSP en 1982 a entériné les pratiques des entreprises en réservant l'appellation “cadres” aux cadres précédemment dits “supérieurs”, les “cadres moyens” devenant des “professions intermédiaires”. Cet exemple illustre les rapports étroits entre représentation statistique, comme forme de représentation savante, et représentation politique (ou syndicale) d'un groupe social. Cependant leur premier et principal défaut, dans l'ancienne comme dans la nouvelle nomenclature, consiste à ne pas faire apparaître clairement la classe capitaliste, c'est-à-dire les détenteurs des moyens de production. En deuxième lieu, la définition des grands groupes de CSP conduit à agréger des sous-ensembles très disparates, par exemple sur le plan des revenus, de la consommation ou du patrimoine. En troisième lieu, même à un niveau plus fin, le code des CSP repose, comme tout système de classement, sur un arbitraire inévitable pour classer les professions. De plus, l'imprécision des réponses aux enquêtes conduit parfois l'INSEE ou le service statistique concerné à classer une personne, tant bien que mal, dans une rubrique précise, malgré le flou des indications données. Enfin, le code des CSP repose sur des appellations en usage dans la société pour désigner le métier ou le statut. Ces appellations renvoient aux représentations ordinaires du monde social, mais aussi à la représentation syndicale, voire poli-tique, qu'un groupe travaille à consolider pour exister socialement en tant que groupe reconnu. La nomenclature française actuelle distingue, à un premier niveau (le niveau agrégé), 6 groupes de CSP d'actifs ayant un emploi et 2 groupes de CSP regroupant les personnes “sans activité professionnelles (les “retraités” et les “autres sans activité professionnelle”) ; à un second niveau, 24 postes dont 19 pour les actifs (niveau de publication courante) ; à un troisième niveau, 42 postes dont 32 pour les actifs (niveau détaillé). Au niveau le plus fin on rencontre 489 postes dont 455 postes d'actifs ayant un emploi . Ces CSP sont utilisées pour classer les ménages, chaque ménage est rattaché à une personne de référence. C'est donc d'abord une catégorie statistique visant au classement univoque des personnes.
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Michèle Forté

Les femmes face à la formation professionnelle continue : quels enjeux dans une Europe globalisée ?

Depuis quelques années l’accès des salariés à la formation professionnelle continue s’est largement développé en Europe. Ce thème occupe une 
place importante dans le débat sur les politiques publiques et apparaît comme un élément clé de la stratégie de l’emploi. Cette question a 
cependant un statut quelque peu ambigu aujourd’hui. D’un côté, la formation professionnelle continue apparaît comme un sujet fondamental 
dans une économie largement globalisée, et un élément majeur pour construire l’Europe de la connaissance. Elle serait à la fois un investissement 
rentable pour les entreprises, susceptible de procurer des gains de productivité importants, un outil majeur de développement professionnel et de 
sécurisation des parcours pour les salariés, un facteur déterminant pour la croissance économique et l’attractivité des territoires. D’un autre côté, 
un grand nombre de travaux montrent que les différents systèmes de formation professionnelle continue en Europe sont souvent complexes, 
d’une efficacité parfois discutable, et d’un accès très inégal selon les secteurs, la taille des entreprises, les catégories socioprofessionnelles. Et si 
globalement les femmes salariées accèdent autant que les hommes à la formation continue, cette moyenne masque des inégalités importantes qui 
tiennent aux caractéristiques de l’emploi féminin, à des discriminations produites par et dans l’entreprise, mais aussi à la division sexuée du travail 
dans la sphère privée.

Cette contribution vise précisément à contribuer à éclairer ces différents phénomènes en insistant en particulier sur la situation des femmes face à la 
formation professionnelle continue. Pour ce faire, nous dresserons d’abord un bilan global des disparités d’accès à la formation continue dans les 
entreprises en Europe. Nous nous intéresserons ensuite de manière plus spécifique à la situation en France, après avoir exposé rapidement 
l’architecture du système français de formation professionnelle continue. Nous conclurons enfin notre propos en mettant en évidence les enjeux 
majeurs auxquels renvoient ces inégalités d’accès à la formation continue.

Comparaisons européennes en matière d’accès à la formation professionnelle continue 

La comparaison des pratiques nationales en matière de formation professionnelle continue s’avère être un exercice difficile en raison de la 
diversité des formes de structuration des systèmes et de la variété de la répartition des activités économiques par secteur et par taille 
d’entreprises. Il existe cependant au moins deux caractéristiques communes à l’ensemble des pays. D’abord une architecture qui distingue la 
formation à l’initiative de l’employeur et celle à l’initiative de la personne. Par ailleurs, une affirmation de la dimension professionnelle de la 
formation continue au détriment de la dimension extraprofessionnelle, avec des pratiques de formation largement centrées sur l’adaptation des
salariés aux changements économiques, technologiques et organisationnels.

L’analyse des données disponibles dans différents pays de l’OCDE fait apparaître d’importantes inégalités d’accès à la formation. Globalement, 
l’accès à la formation augmente avec le niveau de formation initiale et la taille de l’entreprise et diminue avec le niveau de la catégorie 
socioprofessionnelle et l’âge. L’enquête communautaire sur la formation professionnelle dans les entreprises (CVTS) fait également apparaître des 
disparités entre pays avec une fracture entre ceux de l’Europe du Nord où les efforts de formation sont les plus élevés et ceux du Sud et certains 
pays de l’Europe de l’Est où ils sont beaucoup plus limités. 

Par ailleurs, l’enquête ne fait apparaître  que de légères disparités selon le genre dans la plupart des pays. Les taux de participation des femmes à 
la formation continue sont ainsi plus faibles que ceux des hommes dans les pays où les efforts de formation sont peu importants. Le phénomène 
inverse est observé dans les pays où les taux de participation sont les plus élevés, autrement dit les pays de l’Europe du Nord tels que la Suède, 
le Danemark et la Finlande.

Ces résultats sont à rapprocher de ceux des enquêtes européennes sur les conditions de travail qui montrent que les pays où l’investissement en 
formation est le plus important sont aussi ceux où la diffusion des organisations « apprenantes » est la plus élevée et les performances 
économiques les meilleures

La situation en France

	L’architecture du système

Le système français de formation professionnelle continue repose pour l’essentiel sur des dispositifs issus d’un accord national interprofessionnel 
signé en 1970 et d’une loi promulguée en 1971. Il a été modifié par un accord conclu en 2003 et une loi de 2004 qui apportent des innovations 
importantes sans marquer toutefois de ruptures fortes avec la situation antérieure.

Le début des années soixante dix a marqué un tournant dans l’histoire de la formation professionnelle continue avec l’affirmation d’un droit des 
salariés à la formation sur leur temps de travail et rémunéré comme tel. Il s’accompagne d’une obligation pour l’employeur de financer la 
formation professionnelle à travers une contribution en pourcentage de la masse salariale, qui ne se traduit cependant pas par une obligation de 
former. Le système français de formation professionnelle se caractérise par ailleurs par ailleurs une séparation forte entre la formation 
professionnelle initiale et continue, une distinction entre ce qui relève de l’initiative de l’employeur et de celle du salarié. Il se définit également par 
l’intervention d’acteurs multiples : les pouvoirs publics (Etat et Régions), les partenaires sociaux, les entreprises et les organismes de formation, 
une gestion paritaire, et un primat du jeu de l’offre et de la demande. Ce système a été complété depuis 2002 par des dispositifs innovants : la 
validation des acquis de l’expérience, qui est une forme de reconnaissance du caractère formateur du travail et de l’expérience, et le droit 
individuel à la formation qui ressort de l’initiative du salarié, en accord avec l’employeur.

	Les inégalités d’accès à la formation continue

La formation professionnelle a fait l’objet récemment d’une série d’évaluations et de rapports qui ont en commun de mettre en évidence les 
inégalités d’accès à la formation et l’inefficacité relative du système.

Tous secteurs confondus, la formation continue progresse de façon régulière depuis trente ans, et environ un tiers des salariés se forment chaque 
année. Mais cette proportion recouvre de fortes disparités selon la situation contractuelle du salarié, le niveau de diplôme et de qualification initial, 
l’âge, le secteur d’activité et le sexe. Il convient également de noter d’emblée que le taux d’accès à la formation des agents du secteur public 
atteint 45% contre 31% pour les salariés du secteur privé.

Le taux d’accès d’un salarié à temps complet est ainsi deux fois plus élevé que celui d’un salarié à temps partiel, celui d’un titulaire d’un contrat 
à durée indéterminé trois fois supérieur à celui du salarié en contrat à durée déterminé. En ce qui concerne le diplôme, les salariés sans diplôme ont 
un taux d’accès de 14% contre près de 45% pour les diplômés de l’enseignement supérieur. Du point de vue de la catégorie socioprofessionnelle, le 
taux d’accès atteint 50% chez les cadres alors qu’il ne dépasse pas 15% pour les ouvriers non qualifiés. Concernant l’âge, la formation est 
concentrée sur les salariés qui ont entre 25 et 40 ans, les plus de 50 ans y ayant nettement moins accès. Par ailleurs, la fréquence de formation 
d’un salarié augmente selon la taille de son entreprise. Ainsi, l’effort de formation est trois fois plus important dans les grandes entreprises que 
dans les petites. Enfin, le taux d’accès varie de manière importante selon le secteur, atteignant par exemple 4% dans les secteurs de l’assurance, 
des banques et des services financiers, alors que le minimum légal est à 1,6%, contre 1,7% dans l’industrie du bois ou la construction. Il est très 
élevé dans les secteurs où l’innovation constitue un élément majeur de la compétitivité, ainsi que dans les secteurs où la place de la négociation et 
le poids des syndicats de salariés sont importants, notamment dans le secteur de l’énergie.

Dans l’ensemble, on peut dire que « le système profite davantage aux mieux formés selon une logique cumulative », et que donc la formation va à 
la formation.

En ce qui concerne le sexe, le taux d’accès s’établit à 35,6% pour les hommes contre 36 % pour les femmes, mais derrière ces moyennes les 
inégalités sont nombreuses. Ainsi, les taux d’accès à la formation des femmes dans la catégorie des employés et des ouvriers sont très nettement 
inférieurs à ceux des hommes. A contrario, ceux des femmes cadres ou exerçant des professions intermédiaires sont proches de ceux des hommes 
de même catégorie, voire supérieurs, car elles exercent plus souvent leur activité professionnelle dans le public qui est plus généreux en formation.

Globalement les inégalités d’accès à la formation entre les femmes et les hommes sont principalement liées à la singularité de la structure de 
l’emploi féminin. Concentrées dans un petit nombre de secteurs et de professions, les femmes occupent également plus souvent que les hommes 
des emplois peu qualifiés, précaires et à temps partiel et travaillent massivement dans les petites et moyennes entreprises et les secteurs les moins 
formateurs. Entrent également en considération les contraintes familiales et très clairement le fait que la prise en charge des contraintes de la 
sphère privée incombe principalement aux femmes et limite pour certaines les possibilités de consacrer du temps à la formation. Se pose aussi la 
question d’une éventuelle discrimination au détriment des femmes par rapport à la formation, qui reste comme pour les salaires ou les carrières 
toujours difficile à prouver. Reste encore le problème des conséquences de la formation continue. Elle a dans l’ensemble peu d’effets sur la 
situation des salariés, mais les femmes semblent bénéficier encore moins que les hommes de changements de niveau de classifications et donc 
d’augmentations de salaire. Peuvent être enfin considérées une moindre valorisation pour les femmes des formations antérieures à l’embauche, 
une certaine réticence de leur part à s’engager dans des formations qui peut tenir pour certaines à leur faible niveau de leur formation initiale 
mais qui peut aussi être liée à une analyse « coûts/avantages » dans laquelle les femmes intègrent les dimensions de la sphère professionnelle mais 
aussi celle de la sphère privée.

Conclusion

La question des inégalités d’accès à la formation entre les hommes et les femmes et plus globalement des inégalités entre actifs semble répondre, 
comme le souligne un rapport récent du Sénat, à une logique de rentabilité. En effet, si l’on considère que la formation est un investissement, 
comme le fait la théorie néoclassique du capital humain et la plupart des employeurs, il est cohérent qu’elle soit dirigée vers les personnes les plus 
qualifiées et les plus les formées. Ce sont en effet ces catégories qui sont les plus susceptibles de la traduire en termes de productivité, encore que 
la mesure de ces gains soit difficile comme le montrent les études menées à ce sujet. Et cette logique pénalise d’autant plus les moins qualifiés et 
les moins formés au vu des faibles effets de la formation professionnelle en termes d’évolutions de carrières et de gain salarial. De plus, ce 
phénomène est renforcé par le fait que leur « appétence » pour la formation est faible en raison de résistances antérieures au système éducatif et 
de craintes face aux conséquences éventuelles d’un échec quand ils s’engagent dans un processus de formation continue. 

Cette logique n’est pas en soi un phénomène nouveau, mais elle a été accentuée dans la période récente. Elle semble peu compatible avec le 
développement d’une Europe de la connaissance et de sécurisation des parcours professionnels qui appelle au contraire un élargissement de 
l’accès à la formation continue, qui serait aussi une source de réduction des inégalités d’accès à la formation comme en témoignent les exemples 
des pays de l’Europe du Nord évoqués précédemment. Cette réorientation suppose une vision plus politique de la formation professionnelle 
continue qui intégrerait véritablement l’intérêt collectif. 
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Alain Bihr

LA NOVLANGUE NEOLIBERALE Ma communication traite d’un objet limité, le discours néolibéral, et il vise un objectif limité : établir en quel sens, dans quelle mesure et pour quelles raisons ce discours ressortit à la catégorie orwellienne de la novlangue. Il me faut cependant, pour commencer, évoquer, dans ses grandes lignes, le contexte plus général qui a vu émerger ce discours dans l’espace public mondial jusqu’au point d’y être aujourd’hui devenu prépondérant, au moins dans certains départements de cet espace. Car il règne aujourd’hui en maître notamment au sein de la sphère politique, où il fait consensus, dans une large mesure aussi au sein de la sphère médiatique qui en a fait sa vulgate, de même qu’il a contaminé bon nombre de cercles au sein du monde académique, au sein duquel il a d’ailleurs trouvé son origine, qui le développe en des paradigmes raffinés. Le contexte Ce contexte, c’est d’abord, sur le plan économique, la crise structurelle dans laquelle le mode capitaliste de production est entré, au niveau mondial, au cours des années 1970. Une crise qui, tant par son extension temporelle (elle dure depuis plus de trente ans maintenant) que par son expansion spatiale (elle s’est diffusée à tous les Etats de la planète, bien que différemment et inégalement), et sans préjuger de sa possible issue aujourd’hui incertaine, s’avère déjà comme la plus profonde que le capitalisme ait connue tout au long de son histoire. Cette crise implique une vaste réorganisation des rapports capitalistes de production au sein des Etats centraux, sur fond de persistance d’un fort taux de chômage, du développement continu de différentes formes de travail précaire, d’une lente mais inexorable diffusion de la pauvreté et de l’exclusion socio-économique ; tandis que, simultanément, elle tente de se résoudre à travers une ‘mondialisation’ de ces mêmes rapports de production, qui revient tout simplement à réorganiser la hiérarchie des formations nationales dont le monde capitaliste se compose. Ce contexte se caractérise ensuite, sur le plan politique, par la rupture de ce que, rétrospectivement, on a pu identifier comme le « compromis fordiste » : la configuration singulière des rapports de classe, dans le cadre de laquelle et moyennant laquelle la précédente crise structurelle du capitalisme, celle centrée sur les années 1930, a trouvé à se solder au sein des différents Etats centraux, en y créant les conditions institutionnelles d’un modèle de développement original du capitalisme, précisément identifié sous le terme de fordisme. La rupture de ce compromis a été rendue nécessaire par la crise dans laquelle ce modèle est entré dans les années 1970. Et elle a eu pour condition de possibilité politique une offensive de grande ampleur du capital contre le travail, visant à remettre en cause bon nombre des conquêtes antérieures du monde du travail (du mouvement ouvrier), notamment celles effectuées dans le cadre du précédent compromis. Cette offensive s’est notamment développée par l’intermédiaire de la mise en œuvre des politiques néolibérales suivies par l’ensemble des gouvernements des Etats centraux depuis le début des années 1980 et tout aussi bien préconisées par les organes du capital transnationalisé que sont le Fonds montétaire international (FMI), la Banque mondiale ou l’Organisation mondiale du commerce (OMC). La rupture de ce compromis, tout comme le relatif succès de ces politiques, n’auraient cependant pu se produire sans cette condition supplémentaire qu’est la profonde crise dans laquelle est simultanément entrée le mouvement ouvrier au sein des Etats centraux, incapable de concevoir et de mettre en œuvre des stratégies et des tactiques, des formes de mobilisation, d’organisation et de lutte qui soient adaptées aux nouvelles caractéristiques de la situation et, plus largement, à la hauteur des enjeux de cette nouvelle phase de la lutte des classes. Ce contexte se caractérise, enfin, sur un plan plus strictement idéologique, par la faillite de tous les modèles socialistes – qui constitue une dimension spécifique de la crise du mouvement ouvrier que je viens d’évoquer. Faillite du soi-disant « socialisme réel », dont la réalité a pu se mesurer à la rapidité et à la facilité avec lesquelles il a pu donner ou redonner naissance, en Chine comme en Russie, au capitalisme ; mais dont l’idéalité avait été antérieurement compromise depuis des lustres par l’ampleur et la nature des crimes de masse dont les régimes censés le réaliser s’étaient rendus coupables. Mais faillite aussi du « socialisme démocratique », de la social-démocratie, qui, au mieux, s’accroche encore quelquefois désespérément aux ruines institutionnelles du compromis fordiste et qui, au pire, le plus souvent, a vendu son âme au diable néolibéral dont elle n’est plus que l’avatar soft. Le discours néolibéral : idéologie et novlangue Il me fallait évoquer brièvement ce contexte. Car, comme il est de règle pour les discours dominants, le crédit public du discours néolibéral s’explique moins par ses vertus intrinsèques, par exemple de vérité ou de justice, que par sa portée idéologique. N’oublions jamais en effet que « les pensés de la classe dominante sont aussi, à toutes les époques, les pensées dominantes » . En l’occurrence, le discours néolibéral vise non seulement à justifier les politiques néolibérales en en masquant leur caractère de politiques de classe, cherchant à transformer et refonder l’exploitation et la domination capitalistes, mais encore à les renforcer, tant en servant de langage commun aux différents membres de la classe dominante et à leurs représentants qu’en brouillant l’intelligence de leurs enjeux par les membres des classes dominées. Ce n’est donc pas un simple discours d’accompagnement, une simple musique de fond ou d’ambiance des politiques néolibérales, c’est une partie intégrante de ces politiques, une dimension même de l’offensive de la classe dominante. C’est le langage actuel des maîtres du monde. La fonction idéologique du discours néolibéral en explique le contenu : les présupposés, la problématique, les propositions doctrinales, les concepts-clés auxquels il recourt. Par exemple son apologie de la liberté individuelle (de la liberté de l’individu égocentré et égoïste) et de la propriété privée, son sens si particulier de l’égalité, son exaltation cynique de l’insécurité sociale, son fétichisme du marché, sa haine de l’Etat et des services publics, etc. Les différents articles qui composent cet ouvrage auront l’occasion de le montrer amplement. Mais cette même fonction idéologique n’en explique pas moins certains aspects formes de ce discours, en l’occurrence les procédures rhétoriques par lesquelles il opère pour obtenir ses effets idéologiques . Et c’est ce qui m’a conduit à me référer à la notion de novlangue. Car je crois que cette notion est propre à caractériser le discours néolibéral sous ce rapport. Je n’apprendrai rien à personne en rappelant l’origine de cette notion. Elle est évidemment empruntée à Georges Orwell (1903-1950), écrivain, journaliste et militant politique anglais, surtout connu comme l’auteur de 1984. Dans ce roman de politique-fiction paru en 1948, Orwell imagine un univers politique proprement totalitaire qui, sous bien des rapports, préfigure d’ailleurs le nôtre. En particulier, dans cette puissance mondiale qu’est Oceania, empire en guerre constante contre ses deux rivaux Eurasia et Eastasia, le parti unique qui est au pouvoir cherche à imposer une langue nouvelle, nova lingua ou novlangue, destinée à rendre impossible tout doute, toute réflexion autonome, a fortiori toute critique et toute contestation de la part des citoyens, en les privant des conditions mêmes de possibilité de telles attitudes non seulement sur le plan intellectuel mais encore et plus fondamentalement sur un plan linguistique et psychologique. Orwell lui-même n’a pas théorisé cette notion de novlangue ; suivant en cela une tradition bien britannique, marquée par l’empirisme, il s’est contenté de la mettre en scène et en œuvre en laissant au lecteur critique le soin d’en dégager, si nécessaire, ses modes opératoires. Deux des principaux modes opératoires de la novlangue orwellienne se retrouvent notamment au sein du discours néolibéral. Il s’agit, d’une part, de l’inversion de sens, d’autre part, de l’oblitération de sens. Elles sont le plus souvent simultanément mis en œuvre dans la manière dont le discours néolibéral utilise et définit ses concepts-clés. Ce n’est donc que pour la commodité de l’analyse que je les distingue ici. L’inversion de sens Le procédé le plus emblématique de toute novlangue consiste dans l’inversion du sens ordinaire des termes utilisés : la substitution à leur sens propre du sens de leur contraire, de leur antonyme. Orwell lui-même en a imaginé quelques exemples demeurés célèbres dans son roman. Les trois principaux slogans utilisés par le parti unique au pouvoir en Océania reposent ainsi sur une pareille inversion de sens : « La guerre, c’est la paix », « La liberté, c’est l’esclavage », « L’ignorance, c’est la force ». Or l’usage que le discours néolibéral fait de ses principaux mots clés procède à une telle inversion, en finissant par renverser le sens des mots utilisés dans leur contraire. Montrons le sur deux exemples pris parmi bien d’autres possibles. Egalité. La revendication d’égalité est issue des révolutions démocratiques de l’Europe moderne et contemporaine. Elle a été rapidement, souvent dans le cours même de ces révolutions, retournée contre les limites que la bourgeoisie et, plus largement, l’ensemble des classes possédantes, ont cherché à imposer à ces bouleversements révolutionnaires. Cette revendication possède donc une portée subversive, potentiellement dangereuse pour l’ordre social capitaliste. Cette menace qui perdure de nos jours se trouve conjurée dans et par le discours néolibéral à travers une double procédure. D’une part, l’égalité est réduite à la seule égalité juridique et civique, l’égalité formelle des individus face au droit, à la loi et à l’Etat, la seule forme d’égalité qu’exigent et que tolèrent à la fois les rapports capitalistes de production. Quant à l’égalité réelle, l’égalité des conditions sociales, elle est rejetée comme synonyme d’uniformité et d’inefficacité, voire comme attentatoire en définitive à la liberté individuelle. D’autre part, pour tenter d’atténuer les effets potentiellement dévastateurs de la contradiction entre l’égalité formelle et l’inégalité réelle, le discours néolibéral se rabat sur la douteuse notion d’« égalité des chances », qui ignore ou feint d’ignorer l’inégalité des chances entre les individus dans la lutte pour l’accession aux meilleures places dans la hiérarchie sociale, qui résulte de leurs situations socioéconomiques et culturelles respectives dans la société. Au terme de cette double procédure, le mot égalité est devenu propre à désigner l’inégalité sociale et sa perpétuation à travers les luttes de places et de placements. Dans le discours néolibéral, « L’égalité, c’est l’inégalité ! » Marché. La pensée libérale fétichise le marché dès ses origines ; et le discours néolibéral reprend ce fétichisme à son compte, en le poussant jusqu’à ses plus extrêmes conséquences. Conformément à ce fétichisme, il dénomme et qualifie la société capitaliste de « société de marché ». Ce faisant, il occulte deux phénomènes majeurs. Le premier est tout simplement l’existence du capital comme rapport de production, fondé sur l’appropriation privative des moyens sociaux de production, autrement dit sur la monopolisation de ces moyens par une petite minorité de membres de l’humanité et l’expropriation du restant du l’humanité. Quant au second, c’est la centralisation croissante des capitaux, inhérente à leur accumulation, qui aboutit aujourd’hui à conférer une structure d’oligopole à une majorité, qui va grandissante, de branches de la division sociale du travail, et cela au niveau planétaire. Dans ces conditions, faire l’apologie du marché concurrentiel, c’est faire preuve de bêtise ou de cynisme. Dans les deux cas, cependant, sous ce rapport encore, pour le discours néolibéral, « Le marché, c’est le monopole ! » L’oblitération de sens Le second procédé rhétorique auquel a régulièrement recours le discours néolibéral est l’oblitération de sens. Procédé à la fois opposé et complémentaire du précédent, il consiste non pas à imposer l’usage d’un terme ou d’un sens sous couvert d’un terme ou d’un sens contraire, mais à rendre inaccessible, impraticable, un sens ou un terme par l’intermédiaire d’un autre qui lui fait obstacle ou écran. Autrement dit, il ne s’agit plus d’imposer de penser selon certains termes mais au contraire d’empêcher de penser selon certains termes, de bannir certains mots et, à travers eux, certains concepts et, partant, certaines analyses théoriques dont ces concepts sont les instruments. Là encore, deux exemples suffiront à illustrer la manière dont le discours néolibéral use du procédé. Charges sociales. Bête noire de petits mais aussi quelquefois des grands capitalistes, les « charges sociales » n’en sont pas moins insupportables pour les hommes politiques et les penseurs néolibéraux. Cette curieuse expression ne désigne pourtant pas autre chose que la part socialisée du salaire : la part du salaire qui n’est pas directement et immédiatement perçue par chaque travailleur salarié pris individuellement mais qui est centralisée en une sorte de fonds salarial social servant à verser des prestations venant soit compléter le salaire direct soit se substituer à lui lorsque, dans des circonstances particulières (la charge d’enfants, la maladie, l’accident de travail, l’invalidité, la retraite), ce dernier s’avère insuffisant ou même inexistant, de manière temporaire ou durable. Ne pas identifier ces « charges sociales » comme une partie du salaire, en parler comme d’une espèce de surcoût venant s’ajouter au coût salarial réduit au seul salaire direct, c’est rendre incompréhensible ce qu’est le salaire (le prix de la force de travail) et ce qui le mesure (la valeur de la force de travail, le coût social de sa reproduction). Mais c’est évidemment aussi se mettre en position de contester la légitimité de ce soi-disant surcoût, en proposant de pratiquer des coupes plus ou moins claires dans les éléments qui le composent. Autrement dit, c’est proposer purement et simplement de réduire la valeur de la force de travail, d’aggraver en conséquence l’exploitation des travailleurs, d’étendre et d’intensifier la pauvreté et la misère dans leurs rangs. Dette publique. Voici une autre bête noire des néolibéraux, toujours prompts à dénoncer l’appétit vorace du Moloch étatique, la mauvaise graisse qu’il fait, le régime au pain sec et à l’eau auquel il conviendrait de le mettre pour lui faire rendre son dû. Il est singulier qu’ils parlent si souvent de la dette publique et si rarement (presque jamais) de ce qui en est pourtant le complément et la condition, le crédit public. Car, pour que l’Etat puisse s’endetter, encore faut-il qu’ils trouvent des prêteurs prêts à lui fournir les recettes que ce même Etat ne trouve pas à se procurer par le biais des prélèvements obligatoires, notamment par l’impôt. Mais qui sont ces généraux créanciers ? Essentiellement des banques, des compagnies d’assurance, des fonds d’investissement, des fonds de pension – en un mot le capital financier. Si ce dernier prête si généralement ses fonds à l’Etat, c’est qu’il s’agit là pour lui d’un placement particulièrement sûr et honnêtement rémunérateur sur le long terme, en l’autorisant à prélever au titre des intérêts une partie des impôts, donc de la richesse sociale produite. Mais si ce capital dispose de pareils fonds, pourquoi l’Etat ne s’en empare-t-il directement, par l’intermédiaire de l’impôt ? Pourquoi doit-il emprunter ce qu’il pourrait prélever, en évitant du même coup d’avoir à s’endetter ? Question sacrilège, dont il s’agit justement d’interdire qu’elle ne soit posée… en évitant de s’interroger sur le mécanisme du crédit public, en mettant précisément l’accent sur la seule dette publique ! La langue du fétichisme économique Comme c’est souvent le cas, il existe un lien étroit entre le contenu du discours néolibéral, sa vision ou compréhension des rapports sociaux, et sa forme, notamment les procédures rhétoriques qu’il met en œuvre. Avançons une hypothèse à ce sujet. Le discours néolibéral procède de ce que Marx nommait le fétichisme des rapports capitalistes de production. Disons simplement que, pour Marx, ce fétichisme se réduit en définitive à réifier (transformer en choses) les rapports de production, partant les hommes que ces rapports médiatisent et qui en sont les acteurs, ainsi qu’à déifier (sacraliser) les choses en leur attribuant des qualités ou propriétés qu’elles ne doivent qu’à leur fonction de supports de ces rapports mais qui, du coup, paraissent leur appartenir en propres et leur confèrent une apparence surhumaine . Ainsi la marchandise semble-t-elle posséder par elle-même la mystérieuse propriété d’être valeur et de s’échanger contre ses semblables en des rapports qui échappent à la maîtrise, à la volonté et même à la conscience des hommes qui en sont pourtant les producteurs. L’argent, sous forme d’une simple pièce de métal, d’un vulgaire bout de papier ou d’une carte à puce électronique, semble posséder la non mystérieuse capacité de pouvoir s’approprier n’importe quel produit du travail humain et de pouvoir commander par conséquent l’activité des producteurs. Et, devenu capital, l’argent semble même doté du pouvoir surnaturel de se mettre en valeur par lui-même, d’engendrer de l’argent comme le poirier produit des poires (comme le disait ironiquement Marx), en un mot de s’auto-engendrer à l’image des dieux, en pliant tout (l’ensemble des conditions matérielles et sociales de la production) et tous (les producteurs) aux exigences de sa reproduction. Le concept de fétichisme permet à Marx d’expliquer plus qu’une simple illusion de la conscience des agents économiques, capitalistes aussi bien que travailleurs salariés. A travers lui, c’est de l’apparence même que revêt le mouvement économique de la société capitaliste dont il cherche à rendre compte : de la manière réelle dont se manifeste un mouvement dans lequel les hommes sont réifiés tandis que les choses qu’ils produisent accèdent au statut de puissances surhumaines, dans lequel les sujets deviennent des objets et les objets des sujets qui les dominent, un mouvement qui combine selon les propres termes de Marx « la personnification des choses et la réification des rapports sociaux, cette religion de la vie quotidienne » , « la subjectivation des choses, la chosification des sujets, l'inversion de la cause et de l'effet, le quiproquo religieux » .Ce monde à l’envers, qui est notre univers quotidien, voilà le théâtre d’ombres qui sert de cadre, de référent et d’objet au discours néolibéral : ce dernier rend très exactement compte de ce monde tel qu’il est. Ou, plus exactement, tel qu’il serait s’il n’était pas précisément pure apparence : s’il ne procédait pas du fétichisme. C’est bien en quoi réside d’ailleurs sa portée idéologique : elle consiste à conforter cette apparence, en la masquant en tant que telle, pour faire croire que la réalité s’épuise dans cette apparence, il en entretient le « quiproquo religieux » dans sa forme vulgaire et il le tente de le conforter dans et par ses constructions théologiques. Autrement dit, le discours néolibéral cherche à nous faire croire que ce monde à l’envers dans lequel les choses (marchandises, argent, moyens de production, titres de propriété, etc.) commandent aux hommes qui en sont pourtant les producteurs est non seulement le seul monde possible mais le meilleur des mondes. A partir de là, on peut aussi comprendre les deux opérations fondamentales qui sont à l’œuvre dans sa rhétorique, l’inversion de sens et l’oblitération de sens. Transformer les sujets en objets et les objets en sujets, faire passer les hommes pour des choses et les choses pour des puissances surhumaines, telle est en définitive l’alpha et l’oméga de l’inversion de sens auquel procède la plupart des concepts clés autour desquels s’articulent le discours néo-libéral. En ce sens, il constitue dans une certaine mesure la langue du fétichisme économique. Rendre simultanément impraticables les voies qui mènent à l’élaboration ou à l’emploi des notions critiques qui permettraient de dénoncer l’opération précédente, donc de renverser ce monde à l’envers, refouler ces notions critiques de l’usage courant, les effacer de la mémoire de ceux qui avaient pu les acquérir un moment, telle est la fonction complémentaire de l’oblitération de sens. Car il ne suffit pas de faire l’apologie du monde à l’envers ; encore faut-il masquer ou discréditer les leviers critiques qui permettraient de le remettre à l’endroit.
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Sandra Schaal

価値観の存続と近代性 - 戦前日本における女性製糸業労働者の場合 -  はじめに 1868年の明治維新に続いて日本社会の近代化を促進した日本政府は、女性(特に職業をもつ女性)に対する対立的な期待をもっていたと言える。これら の期待は、資本主義の発展と、近代的な民族国家が求める新しい多様な(経済的・社会的・道徳上の)要求に即応する女性の育成の必要から発生した。 1890年代後半に入ると、繊維業の女性労働者(女工)をはじめとする職業をもつ女性は、女性の職業分野の広がりによって非常に目立つ存在となり、「女 性の天職」に関する活発な議論を引き起こした。女工という存在の分析は特に、女性の地位や役割についての、支配階級の言説における大きな矛盾を 浮き彫りにする。彼女は、工場内における仕事を通じて国の経済的な発展に貢献すると同時に、天皇制国家の支配の時代に入ってから、妻・母としての 役割を通じて家父長制的な「家」とその価値を守る任務を背負わなければならなかった。 戦前日本の製糸業に携わった女性労働者は、日本の近代化を支えた産業の発達に重要な役割を担った労働者として、日本の近代化に大きく貢献した。 彼女たちのほとんどは、貧しい農村家庭出身の12歳から25歳までの若い女性の出稼ぎ型労働者であった。 本研究は、戦前日本の女性製糸業労働者たち自身の<声>の分析を通じて、彼女たちにとっての個人的で多元的な現実を、日本近代史並びに日本女 性史の中に位置付けつつ、彼女たちがこのような期待をどのように認識していたのかを明らかにすることを目指した。このため、我々は、戦前日本の製糸 工場で働いていた女工の歌(糸ひき歌)と、元女工たちを対象として行った聞き取り調査、つまり女工の実践的な生活世界についての主観的な経験の認 識と表象を伝える二つの口述による情報を網羅的に検討した 。 こうした分析は社会学的意義も歴史的意義もあると考えられる。第一に、その社会学的意義は、本分析が、主観的な経験の認識と表象の理解、すなわち 特定の経験に関する主観的な証言の理解を目指すことに由来する。というのは、主観的な経験の再構成に関する研究により、彼女たちが自らの女工とし ての経験をどのように認識していた(またはアポステリオリに認識している)のかを明らかにすることと、それらの認識や表象が明るみに出す、彼女たちの 価値体系と規範的基準を含む意味の世界を、よりいっそう明確に理解することが可能になるからである。第二に、その歴史的意義は、本分析が、個人史 と社会史を交差させることによって、社会的・歴史的過程における個々人のミクロな生の営みの創造性や自律性をうきぼりにすることが可能なオーラル・ ヒストリーの分野に踏み込むという点からなる。複雑で多面的な現実に近い過去を再構成することによって、オーラル・ヒストリーの研究方法は、女工たち の生活史についての新たな解釈の可能性を探求し、彼女たちの生活史についてのより包括的な「知識体系」を構成するための優れた手段となる。  家族の価値観の存続 元製糸女工を中心とする聞き取り調査の結果と糸ひき歌の分析から得られた結果の検討から、当時の社会と家族の伝統的な価値観は彼女たちに大きな 影響を及ぼしたということが明らかになった。 戦前日本の製糸業についての従来の研究の多くは、女工が製糸工場へ就職した主な理由として、貧しい農村家庭の生計を維持するという経済的な要因 を挙げている。しかしながら、本研究は、女工になる決定がしばしば家族の戦略の結果であったということを示した。こうした家族の戦略が、経済的な理由 にのみ基づいたというよりも、むしろ経済的な要因と文化的な要因との相互作用によるものであった。家族は、その当時の労働市場の制約(農村家庭に 生まれた若い女性向けの仕事の可能性)と歴史的な状況(農村家庭の困窮化、産業化)に応じて、そしてそれと同時に、社会的かつ文化的な要請・習慣 に応じて、戦略を立てた。  19世紀と20世紀前半のヨーロッパと同じように、こうした家族がとる最も典型的な戦略は、生計を立てることに困った家庭へ補助的収入をもたらすために、 または戸主が病気で仕事ができなくなったことで一家の稼ぎ手になるために、子供の労働に頼ることであった。そこで注目すべきなのは、自発的に製糸 工場へ行くことを決めた女性がいたにもかかわらず、そもそも彼女たちの多くには工場に働きに出るより他には選択の余地がなかったということである。 子供を働かせるという決定は、全ての場合でないとしても、何よりもまず戸主によって下されたものであった。戦前の日本においては、女性は本来の法の 主体ではなかった。明治新政府は、1869年に士農工商という江戸時代の身分制度を廃止し、通常三世代が同居する家族を新しい社会秩序の基礎とし、 その家族を「家」単位で把握した。1871年の戸籍法が家制度の土台を築いたが、その肉付けとなったのは1898年に実施された明治民法である。明治民 法が規定した「家」の秩序は、家族の長である戸主を中心にした権利と義務という法的な関係であった。この法律では、戸籍に載っているあらゆる家族員 は、戸主の絶対的権限下に置かれていた。戸主は、一戸籍内の財産権をすべて持っており、婚姻をはじめ家族の行為の社会的責任を一切担っていた。 相続権(転じて戸主になる権利)は女性にも認められたが、あくまでも男性相続者がいない場合に限られた。このため、例外を除いて、女性は法人格を奪 われて未成年家族と同様に扱われ、彼女たちの地位は経済的に低かったと言える。例えば、戸主は娘を工場あるいは置屋で自由に働かせることができ た。 また、女子の家族の収入源、父親・母親の在不在、兄弟姉妹の数、兄弟姉妹のうちの順位など以外には、養蚕と製糸業が盛んであった地方における女 子を工場に出す習慣ならびに、子守・女中奉公の伝統にも見られる女子の教育の完成という理由も、彼女たちが女工になるか否かに影響を及ぼした。 そこでは、こうした要請・習慣は、個人的な選択よりも家族の求めを優先した家父長制においては、特に強力なものであったと言える。さらに、以上の家 族の戦略は、娘を働かせる決定に大きく作用したが、その決定は常に、娘がある一定の年齢に達した時に行われた。製糸女工になった女子と労働市場 との関係は、女性一般のライフコースのパターンに従った。彼女たちは通常、10代で(尋常小学校を卒業した後に)働きはじめて結婚する直前に仕事を 辞めた。この点に関しては、タマラ・K・ハレーブンがFamilies, History, and Social Change: Life-Course and Cross-Cultural Perspectives(『家族、歴史 や社会の変遷:ライフコースと文化間のパースペクティブ』)において指摘したことは本分析の対象となった元製糸女工たちの場合にあてはまると言え る。すなわち、義務教育を終えることを必要とした法律と工場による児童の雇用を禁止する法律の制定 は工場労働者として働くというライフ・ステージ をある一定の年齢以上に限定させるために重要な役割を果たしたということである 。 一方、製糸工場で働くということについて女工たちが抱いていた認識の検討から、確かに彼女たちの中には若い頃に肉親や故郷と別れて工場へ働きに 出ることを寂しいと言って嫌がっていた者もいたのだ。これについては、本分析のためにインタビューした元女工は「いくら若くもね、もう少し自由が欲しい と思ったわね、そういうことは。」と言及した。しかし、それと同時に、その当時の農村においては、ほとんどの女子は尋常小学校を卒業すると、工場労働 者あるいは子守・女中として働いた。女学校へ進学できるのは裕福な家庭または村長の娘だけであったが、他の者は皆家を出て働くということを「当り前 のこと」として受け取っていたのである。というのは、多数の女工たちが、何よりまず自分たちの家庭を助けるために、そして国益のために、二重の<使 命>あるいは<務め>を果たさなければならないという強い責任感も持っていたからである。これは、彼女たちが、糸ひき歌と聞き取り調査の中で、自分 自身を、親に対する孝行心と善意に満ちている<いい娘>であり、国益のために一所懸命に働く愛国者として頻繁に描いていることからもわかる。つま り、彼女たちは、産業の近代化を急ぐ一方で儒教的道徳に基づいた社会観および家族観を重視した明治以降の政府の方針のもと、これらに呼応するよ うにして、自分自身の個人的な幸福(家族と一緒に生活すること)を犠牲にし、集団(家族・国)の利益のために献身して製糸工場へ働きに出た、というこ とになる。そのため、製糸家に対して反乱を起こすのは、彼女たちの家族にとって非常に重要であった労働賃金を失わせることになるのみではなく、彼女 たちの娘として、また愛国者としての義務を怠ることと同意であった。また、こうした<いい娘>や<愛国者>としての自己描写は、女工が工場生活に耐 えるための力を、こうしたポジティヴな自己イメージから得ていたと考えることができるだろう。 加えて、戦前日本の農村に生まれた女子は、苦労すること、さらに辛抱することが「良いこと」であるという考えのもとに育てられ、それ故実家(または国) のために工場で働きに行くことを当然だと思っていた。若い時から家の仕事で苦労することに慣れていただけに、それは、彼女たちにとって普通のことで あったのだ。当時の農村社会においては、家族と離別して辛い目に遭うことは、社会的に重要視されていた「義務」の一種であると見なされていた。女工 たちは、工場で仕事を一所懸命に覚えること、つまり「一人前」になるための一つの段階を超えようとすることを通じて、後の人生の難関に立ち向かうた めの資質のみではなく、彼女たちの家族や農村のコミュニティにおける社会的なステータスをもたらした「社会的な資質」も獲得することができた。  製糸女工としての経験と近代性 製糸工場で働くことは、女工たちにそれまで農村の実家で経験したことのなかったプレッシャーや精神的苦悩を味わわせた。彼女たちは工場の厳しい規 律に従って働き、不快な臭いのこもった作業場の中で、長時間にわたっての騒音や蒸気を耐え、上司の監督の下で毎日単調な作業を繰り返すこと、出 来上がった生糸の厳格な品質管理を余儀なくされた。このため、女工たちの大多数は、製糸女工の仕事を「難しい」、「辛い」または「えらい」としばしば形 容している。 とはいえ、本分析のために収集した糸ひき歌と元女工の聞き取り調査は、少なくとも戦間期以降に関して言えば 、製糸工場の出稼ぎ型賃労働が女工に ある程度の独立心や満足感を与えることもできたという事実も明らかにした。 まず、製糸工場で働くことは、困窮の極みに達していた農家出身の娘たちにとって、白米さえものぼることのあった三度の食事が提供されただけでなく、 実家にいるのに比べてより良い生活レベルを提供することができた。 そして、製糸工場での労賃は、彼女たち自身、あるいは家族にとって、自由に使える現金収入ともなった。本分析のためにインタビューした元女工のうち、 完全な経済的な自立を楽しみ、貴重な商品を購入することができた女工は例外的であったものの、それは家制度が強固であった当時の社会的状況を考 慮すれば、注目に値することである。語り手たちの過半数は、実家を経済的に支えなければならないという強い義務感を抱いていたため、工場で稼いだ 賃金の大半を家計に入れていた。それでも、この賃金が貧しい農村家庭の多くにとって無視できない現金収入となったため、彼女たちの多くは、故郷の 家族や村人からの尊敬を勝ち得ることに成功し、さらに最良の場合には、農村において出世することもできたのである。 一方、10代で働きだした大多数の女工にとって、製糸工場は成人期への移行を象徴していた。彼女たちが工場と寄宿舎の中で厳しい監視や規律を強い られたため、ここでの生活は必ずしも独立した大人になることを意味したわけではない。それでも、彼女たちには故郷から離れて生活することによって、 幾分かの独立心が発生し、家制度が支配する当時の農村では経験のできない生活の楽しみを得る機会を与えた。そしてこのことによって、両親の監視 から解放された女工たちが交際相手の男性を選んだり恋愛関係を結んだりする環境も変わったのである。その結果、彼女たちは親の人間関係に依存す ることなく恋愛の相手をより自由に選ぶことができるようになった。また、貧しい農村に生まれた女工たちの多くは、製糸工場に働きに来ることによって「 都会の雰囲気」と接し、これを通じて新たな世界を知り視野を広げる機会を得て、自分たちがこれまで送ってきた農村での粗末な生活をあらためて相対 化する視点をもつようになった。彼女たちは、工場で初めてラジオやレコードという新しい娯楽にふれ、流行歌を聞き、つまり当時都市部で流行っていた 文化に親しむことができた。彼女たちは自らの手で稼いだ賃金の一部でささやかな独立を勝ち取り、時代の制約を受けながらも、余暇には新しく出来た 仲間たちと共に、工場が提供した様々な授業や娯楽活動に積極的に参加し、さらには、自分の小遣いで衣類や小間物を買ったり、町芝居見物や映画鑑 賞を楽しんだりして、都会の消費生活を僅かながらにしろ享受した。 勿論、たいていの女工たちは、自分たちの家族の影響から全く解放されたわけではないし、家族の価値観と対立する個人主義的な価値観を優先するよ うになったわけでもないが、工場で働くことによって経済的な自立を勝ち取ることができ、消費生活を実現することができた者もいた。このように、従来の 研究が否定的に描き出してきた製糸工場の生活は、女工の一部にとっては、近代社会のきらびやかなかがやきに向かって開く窓を与えたと言えるだろう。  おわりに 戦前日本の製糸工場で働く経験は、辛い側面のみではなく、良い側面も含んでおり、貧しい農村に生まれた出稼ぎ型労働者の一部にとって、近代化との 出会いを意味していたということが女工たちの<声>から聞き取れる。女工たちの多くが、当時の社会的および文化的な環境から強い影響を受けながら、 何よりまず自身や家族の利益・幸福を守ろうとしたことに、自分たち自身の選択に正当な根拠を見出した。女工たちが、ただひたすら受け身的存在であっ たどころか、自己を高く評価する主体の態度を発揮することができただけでなく、家族の運命や経済的状況が危機に瀕したときには、自らの個人的な希 望やプライドを捨てることも覚悟していたということは、彼女たちの言説からも明確である。 1 製糸女工の「歌われる記憶」として捉えることができる、明治後期から大正時代にかけての時期を中心として歌われていた(あるいは歌われていたと考 えられる)45の糸ひき歌の内容を考察した。また、ライフ・ヒストリー・メソッドを用い、大正後期から昭和初期にかけての時期の製糸工場に勤めた元女工 たちを中心とする70名の聞き取り調査の結果も検討した。この点について詳しくは、SCHAAL Sandra, « Un autre point de vue sur l’‘histoire tragique des ouvrières’ : le monde des représentations des fileuses de soie dans le Japon de la première moitié du XXe siècle », Ebisu 33 : 67-98, 2004 ; シャ ール・サンドラ 、『「女工哀史」言説についてのもう一つの視点:戦前日本における女性製糸業労働者の生活世界』、2006(博士論文、京都大学大学院文 学研究科、571 p.)を参照。 2 日本最初の労働者の権利を守る法律である工場法は、1911年に公布され、1916年施行された。15人以上の工場に適用されたこの法律は、製糸業に 14時間労働を期限付きで認めながら、15歳未満の年少者および女子の就業時間を一日12時間に制限し、12歳未満の年少者および女子に対して毎月 少なくとも二回の休日を制定した。 3 HAREVEN Tamara K., Families, History, and Social Change: Life-Course and Cross-Cultural Perspectives, Boulder (Colo.), Westview Press, 2000, p.164 4 製糸女工の労働条件と生活状況は工場によって非常に異なっていたと言わざるを得ない。しかしながら、この点に関しては、第一次世界大戦以降、製 糸工場全般において、労働条件と生活状況の改善への傾向が見られたということも忘れてはならない。政府や地方の当局は、工場法などのような法令 の施行を通して工場労働者の生活状況の改善を進めていった一方で、大規模な工場をはじめとする、製糸工場の経営者たちは、「家族主義的な経営」 を目指し、女工たちの自由を制限していた工場制度を緩和しつつ、工場内の福利施設を設けるなどの努力を行った。この点について詳しくは、「製糸工場 に於ける寄宿舎の改善及労働時間の短縮と其の効果」、『労働時報』3 (8)、1926.8. ; 我妻栄編、『旧法令集』、東京、有斐閣、1968 ; SUGENO Kazuo, Japanese Labor Law, Seattle and Londres, University of Washington Press / University of Tokyo Press, 1992 ; HUNTER Janet, Women and the Labour Market in Japan’s Industrialising Economy: the Textile Industry before the Pacific War, London, Routledge-Curzon, 2003, chap. 7などを参 照。
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Sandra Schaal

Permanence des valeurs et modernité chez les fileuses de soie du Japon d’avant-guerre Introduction Les dirigeants du Japon de la première partie du vingtième siècle, engagés dans une vaste politique de modernisation du pays suite à la Restauration de Meiji (Meiji ishin 明治維新) de 1868, avaient, à l’égard du sexe faible – et de la travailleuse salariée –, des attentes contradictoires générées par le développement du capitalisme ainsi que par la nécessité de former les femmes aux nouvelles exigences économiques, sociales et morales d’un Etat  nation moderne. La travailleuse salariée, à commencer par l’ouvrière en usine textile, acquit à compter de la fin des années 1890 une visibilité sans précédent du fait de l’élargissement des possibilités de travail offertes aux femmes. Pour cette raison, elle suscita de nombreux débats quant à la ‘vocation de la femme’ (josei no tenshoku 女性の天職). L’étude de son cas met tout particulièrement à jour l’existence d’une grande contradiction dans le discours dominant sur la place et le rôle assignés aux femmes : si elle se devait de participer activement au développement économique du pays au travers de son travail, elle avait aussi, dans le contexte d’une idéologie domestique grandissante soulignant l’importance d’être « une bonne épouse et une bonne mère » (ryôsai kenbo 良妻賢母), pour obligation de protéger la famille traditionnelle et ses valeurs pour le bien futur de la nation. Les ouvrières de l’industrie des filatures de soie du Japon d’avant-guerre (seishi jokô 製糸女工) jouèrent un rôle déterminant dans le développement industriel qui fut à la base de la modernisation du pays. Nées dans des foyers ruraux démunis, ces femmes, souvent jeunes (12-25 ans en moyenne) et célibataires, quittaient leur village natal pour l’usine où elles étaient logées et où elles travaillaient pour une durée déterminée avant leur mariage. Le but de notre travail a consisté à mettre en lumière la manière dont ces ouvrières percevaient les exigences mentionnées plus haut, tout en nous efforçant de replacer la réalité individuelle et multiple de leur vécu dans le contexte général de la société de l’époque. Pour ce faire, nous avons choisi de faire appel aux sources orales : nous avons réuni quarante-cinq chansons de fileuses (ito hiki uta 糸ひき歌) et les récits de vie de soixante-dix personnes, pour l’essentiel d’anciennes fileuses . Dans ce sens, notre étude se place dans une double dimension et présente un double intérêt : sociologique et historique. Sociologique d’abord, dans la mesure où elle constitue un travail centré sur une analyse empirique de représentations qui vise, au travers de la reconstitution d’expériences subjectives, à comprendre à la fois le sens que ces ouvrières donnaient autrefois et donnent aujourd’hui a posteriori à leur expérience, à mettre en évidence les systèmes de valeurs et les repères normatifs ayant orienté leurs pratiques et leurs choix. Historique ensuite, car elle empiète également sur le domaine de l’histoire orale qui, en croisant l’histoire d’un individu avec celle de la société dans laquelle il évolue, met en relief l’originalité de son vécu dans le processus socio-historique. En restituant la multiplicité originelle des points de vue individuels et en reconstituant la réalité dans toute sa complexité, celle-ci rend possible une reconstruction plus réaliste de la trajectoire de ces femmes, une exploration des possibilités d’interprétation nouvelles de l’histoire de leur vie et ainsi une constitution d’un ensemble de connaissances plus compréhensif sur elles. Permanence des valeurs familiales chez les fileuses de soie L’étude des témoignages oraux d’anciennes travailleuses de ce secteur d’activité ainsi que de leurs chansons de travail atteste avant tout d’une permanence des valeurs traditionnelles transmises au sein de la famille et de la société de l’époque. La raison généralement invoquée dans les travaux académiques pour expliquer ce qui motivait de jeunes filles à devenir fileuse est d’ordre économique : issues de foyers ruraux démunis, celles-ci étaient poussées par la nécessité d’apporter à leur famille un soutien financier. Néanmoins, notre étude montre que cette décision était fréquemment le fruit de stratégies familiales complexes, établies en réponse à des opportunités ou à des contraintes économiques (la composition de la famille et sa situation financière, ou encore les possibilités offertes par le marché du travail), mais aussi à des valeurs internes à la famille prenant leur source dans sa culture et ses traditions. Tout comme c’était le cas en Europe au 19ème siècle et au début du 20ème siècle, la stratégie de beaucoup de familles japonaises pauvres consistait avant tout à compter sur leurs enfants pour s’assurer un revenu complémentaire, voire pour assumer entièrement leur devenir économique lorsque le chef de famille en était incapable. Peu de fileuses, semble-t-il, décidaient de prendre le chemin de la filature de leur propre chef. Dans la majeure partie des cas, cette décision revenait au chef de famille (koshu 戸主). En effet, dans le Japon de ce temps-là, les femmes n’étaient pas des sujets de droit. Après la Restauration de Meiji de 1868, le nouveau gouvernement abolit en 1869 le système des quatre classes et fit de la famille (ie 家) le pilier du nouvel ordre social (Loi sur les registres familiaux, Koseki hô 戸籍法, de 1871). Le Code civil de 1898 (Meiji minpô 明治民法) stipula ensuite que toute personne inscrite dans le registre familial (koseki 戸籍) était placée sous l’autorité absolue du chef de famille, transmise selon le principe de la primogéniture masculine, et nia toute personnalité juridique aux femmes, sauf exception. Le koshu pouvait ainsi en toute légalité obliger sa fille à travailler à l’usine (il était d’ailleurs celui qui contractait le contrat d’embauche en y apposant son sceau), voire même la vendre à une maison de thé pratiquant la prostitution. Mais, si se reposer ainsi sur ses enfants était courant et s’avérait souvent crucial pour l’économie familiale, ceci n’était pas pour autant une pratique uniforme. En effet, la décision d’envoyer sa fille à la filature pouvait par exemple également être fonction de facteurs tels que l’âge de la fille en question, l’absence ou l’incapacité à travailler d’un de ses parents, la taille et la composition de la fratrie ainsi que son rang dans cette fratrie. L’existence de traditions anciennes ou de coutumes locales pouvait aussi s’avérer déterminante dans la prise d’une telle décision : ainsi, s’il était commun de placer son enfant comme garde d’enfant (komori 子守) ou comme bonne à tout faire (jochû 女中) dans une famille plus aisée pour parfaire son éducation, dans les régions où la sériciculture et la filature de soie étaient traditionnellement pratiquées, on envoyait presque systématiquement les filles travailler à la filature, l’expérience de fileuse étant entrevue comme une forme d’apprentissage de la vie, voire même comme une préparation au mariage (yome iri mae no hitotsu no shugyô 嫁入り前の一つの修業). En outre, la participation de ces filles à la vie active salariée était presque invariablement liée à des moments précis de leur existence : elles commençaient à travailler à l’usine lorsqu’elles avaient une dizaine d’années (en général, vers douze ou treize ans, sitôt sorties de l’école primaire) et elles quittaient leur emploi juste avant le mariage. Comme le souligne Tamara K. HAREVEN, l’adoption d’une législation rendant obligatoire la scolarisation de tous les Japonais jusqu’à douze ans et d’une autre interdisant le travail en usine des enfants de moins de douze ans , posèrent des limites officielles à leur entrée dans le monde du travail salarié et contribuèrent ainsi à fixer une étape de leur cycle de vie . Beaucoup d’ouvrières parlent du moment où elles durent quitter leur famille et leur campagne natale pour l’usine comme d’un moment difficile et douloureux. Une ancienne fileuse nous confia à ce propos que, rétrospectivement parlant, toute jeune qu’elle fût, elle aurait souhaité être « un peu plus libre » dans ses choix de vie. Toutefois, les témoignages d’anciennes fileuses nous apprennent aussi que, dans les campagnes japonaises de ce temps-là, seules les filles des maires ou de bonne famille poursuivaient leurs études au-delà du primaire ; le fait que toutes les autres partent pour la filature ou bien entrent dans la domesticité était unanimement intégré. Elles avaient un sens aigu de leurs responsabilités, que ce soit dans le but d’assurer la survie et le bien-être de la famille ou dans celui de contribuer, par le biais de leur travail, à la construction d’un Etat nation puissant et moderne. L’image de la « bonne fille » dévouée et pleine de bonne volonté à l’égard de ses parents, tout comme d’ailleurs celle de la « patriote » travaillant assidûment pour son pays, reviennent de manière récurrente dans leurs chansons de travail et dans leurs témoignages. Si ces images sont avant tout le reflet de leur culture familiale, elles montrent également combien certaines de ces travailleuses étaient réceptives au discours officiel tenu par les dirigeants du pays dès l’ère Meiji (1868-1912). Ce discours, qui s’articulait autour de la famille patriarcale entrevue comme l’élément central de l’Etat-famille (kazoku kokka 家族国家) devant lier l’empereur – la source de la légitimité de l’Etat et le « père » de la nation – et ses sujets, exigeait de la part de tous les Japonais de sacrifier leur intérêt et bonheur personnels à l’empereur (l’Etat) en fusionnant les deux vertus cardinales du confucianisme, autrement dit la loyauté envers le souverain et la piété filiale. Rien de bien étonnant alors à ce que l’idée de recourir à la protestation ouvrière fût, semble-t-il, presque totalement étrangère aux femmes dont nous collecté les témoignages. Car, si cette forme de contestation était susceptible de nuire à l’autonomie de la famille, elle remettait aussi symboliquement en cause les fondements de la société patriarcale : en s’opposant de la sorte à un employeur, une travailleuse faisait montre d’une attitude qui n’était pas sans être assimilée à un affrontement à la figure du père que ce dernier incarnait. De plus, les filles des campagnes étaient élevées selon des principes valorisant la persévérance dans l’effort (shinbô suru koto辛抱すること) ou encore la capacité à se dépasser dans les moments difficiles (kurô o suru koto 苦労をすること). Elles étaient tenues de travailler dur, et ce dès leur plus jeune âge. Dans ces conditions, contribuer activement à l’économie collective familiale (ou à celle du pays) en travaillant à l’usine allait de soi. C’était même et avant tout pour elles un devoir moral, qui pouvait en retour être un fort vecteur de reconnaissance sociale leur permettant d’affermir leur « capital social » au sein de la famille et de la communauté villageoise. Ceci était d’autant plus vrai que, dans la société paysanne d’alors, connaître des difficultés et des souffrances était entrevu comme une expérience formatrice et nécessaire pour « devenir une personne à part entière » (ichinin mae ni naru 一人前になる) capable de surmonter les obstacles de la vie. L’usine comme fenêtre ouverte sur la modernité Au sein des filatures de soie, les ouvrières étaient soumises à des pressions et à des formes de stress nouvelles : assujetties à une stricte discipline dans les ateliers, elles évoluaient durant de longues heures dans une atmosphère saturée d’humidité due à la vapeur d’eau se dégageant des bassines où bouillaient les cocons, tout en supportant le bruit infernal des machines et la forte odeur de décomposition des cadavres de larves ; elles répétaient inlassablement les mêmes gestes sous l’œil sévère des contremaîtres et devaient quotidiennement donner des échantillons de fil de soie qu’elles avaient produit pour de drastiques contrôles de qualité. Pour cette raison, elles décrivent souvent le travail de fileuse comme une activité difficile (muzukashii 難しい), pénible (tsurai 辛い), voire même terrible (erai えらい). Ceci étant, l’étude conjointe des chansons de fileuses et des témoignages oraux d’anciens travailleurs de la soie a révélé que l’expérience de travailleuse en usine pouvait aussi, du moins à compter de l’entre-deux-guerres , être source de satisfactions et faire naître en elles un certain sentiment d’indépendance. D’abord, cette expérience permettait souvent aux filles issues des familles les plus démunies de jouir à l’usine d’un niveau de vie qui, bien que bas, était meilleur que chez elles. Celles-ci pouvaient par exemple y manger à leur faim et y goûter à du riz blanc, un luxe que les pauvres ne pouvaient se payer dans le Japon de ce temps-là. Ensuite, leur activité salariée était source de revenus dont elles ou encore leur famille pouvaient librement disposer. Et même si seule une minorité d’entre elles parvinrent à acquérir une totale indépendance financière par le biais de leur travail, c’est un fait qui mérite d’être noté dans le contexte de la société patriarcale de l’époque. En effet, conscientes de leurs responsabilités en tant que soutien de famille, beaucoup d’ouvrières remettaient leur salaire à leurs parents et n’avaient à leur disposition que quelques yens d’argent de poche qu’elles faisaient déduire de leur paie chaque mois. Ce salaire représentant pour bon nombre de foyers une somme importante, certaines réussirent à gagner le respect de leurs proches, à faire l’admiration de leur entourage voire même, dans certains cas, à jouer un rôle important au sein de leur communauté. Par ailleurs, vivre à l’usine leur donnait l’occasion d’échapper temporairement à la surveillance parentale – le mariage, décidé par leur famille, les ramenant souvent dans leur « pays » d’origine. Malgré la forte supervision et la sévère discipline auxquelles elles étaient soumises dans les ateliers de travail et dans les dortoirs, elles y bénéficiaient parfois d’une liberté plus grande que dans leur foyer natal. Ainsi, alors que l’école et les réseaux de connaissances tissés par leur famille dans le village et ses environs avaient jusqu’alors été leurs seules sources de socialisation, à la filature, elles pouvaient nouer des amitiés et des relations amoureuses affranchies du contrôle de leurs parents et mener une existence différente de celle à laquelle elles étaient accoutumées. Le contact avec la vie urbaine leur révélait l’existence d’un monde nouveau, élargissait leurs horizons et transformait parfois le regard qu’elles portaient sur leur milieu d’origine, rural et beaucoup plus fruste. Beaucoup découvraient ainsi à la filature la radio, les disques et les chansons populaires (ryûkôka 流行歌), se familiarisant ainsi avec la culture de masse véhiculée avant tout dans les milieux urbains. Elles profitaient des jours chômés ou des quelques heures de libres dont elles disposaient après le travail pour prendre part aux activités proposées par la filature, tels que divers cours enseignés gratuitement ou des activités sportives et théâtrales, ou alors pour se rendre en ville, s’y divertir en compagnie de leurs nouveaux camarades et dépenser un tout petit peu de leur argent en revues à la mode, en vêtements ou en séances de cinéma. Bien sûr, l’accroissement de leur autonomie ne les délivra pas entièrement de l’influence de leur famille. Leur sens aigu du devoir filial leur interdit en général de faire montre de valeurs individualistes s’opposant radicalement aux intérêts collectifs du clan. Ainsi, leur statut de travailleuse salariée ne leur donna que rarement la possibilité d’avoir véritablement leur mot à dire dans les décisions familiales. Ceci n’empêcha toutefois pas certaines ouvrières d’accéder à une relative indépendance financière ou, tout au moins, de goûter un peu aux joies de la consommation. Dans ce sens, on peut dire que, pour certaines d’entre elles, le quotidien dans les filatures de soie, que les travaux académiques existants avaient jusque-là quasiment exclusivement décrit de manière négative, leur ouvrait une fenêtre sur les « lumières » de la société moderne. Conclusion L’étude des « voix » des ouvrières de l’industrie des filatures de soie du Japon d’avant-guerre nous apprend que le travail à la filature de soie n’engendrait pas que des difficultés et des souffrances mais pouvait aussi offrir à ces femmes une petite ouverture sur le monde moderne. Leur discours révèle aussi qu’elles étaient loin d’être uniquement des figures passives. Elles avaient conscience de l’importance de leur contribution sur l’économie familiale et en tiraient une grande fierté. Néanmoins, fortement influencées par leur environnement social et culturel, elles cherchaient avant tout, dans les limites du contexte socioéconomique de l’époque, à protéger au mieux leurs intérêts et leur bonheur ainsi que ceux de leurs proches, n’hésitant pas à sacrifier leurs aspirations personnelles et à faire taire leur amour-propre lorsque le devenir de leur famille était menacé.
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Françoise Olivier-Utard


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